(10月某日)無人ジム興亡記(1)

 このところ新設した掲示板の管理を一日に一回はやっているので、ついこちらは更新できなかった。

 といっても稽古はほとんど毎日やっていた。これは春に試合に出てからの習慣で、現役の選手だと勝手に自覚して以来のことだ。こうしたペースにたどりつくには何年もかかった。最終的にこうなったのは、子供ができて、しかも家内も勤めを続けていて、それでも自宅を出てから帰るまで最長二時間なら大丈夫ということが分かったからである。それで、土曜のビジネスマンクラスとたまの水曜の荻窪支部以外には、高円寺で柔道、下井草でウェイトをやっている。

 けれどもやっているのが打撃競技だけに、試合となるとどうしてもサンドバッグを叩く必要がある。私の場合、あまりミットは好きではなく、サンドバッグがあれば距離感もつかめる。けれども以前は自宅の庭で通販で買ったのを叩いていたものの、これはうるさく、周囲に大迷惑あった。それで引っ越してからはやめた。だが、サンドバッグは一種の中毒を起こす。叩かないとパンチの距離が分からなくなり、蹴っても足に力が入らなくなり、叩きたくてならなくなって、禁断症状がでるのである。
 
 そんなことで困っていた二年ほど前のある日、近所の飲み屋で「高円寺北に謎のキックのジムがある」と聞きつけた。さっそく行ってみたところ、えらい路地の奥に、奇妙な建物がある。どれくらい奇妙かというと、全体がトタン出てきていて、青く塗ってある。子供が書いたような字で、看板には「キック・マーシャルアーツ玉生ジム」とペンキ書きされている。入り口は土間のようになっていて、ガタピシの引き戸。暗い内部からは灯りがもれていて、覗くと裸電球である。リングのようなものが見えはするが、妙に狭い。そのうえ傾いているようだ。というか、中央がへこんでいる。引き戸を開けると、「オーイ」と呼ぶ声がリングの奥のスペースから聞こえた。見ると、暗闇の中の電気あんま椅子に人が座っている。それがこのジムの会長なのであった。

 私は、この会長よりも丹下段平に似た人を知らない。まず、前歯が何本かない。目をしょぼしょぼさせ、茨城だか栃木だかの訛りでしゃべる。私には、半分聞き取れない。あまり視線は合わせない。でも熱心に話して下さる。以前には寺が経営するジムのお守りをしていたこともあるという。さらに暇を見つけては、日曜大工でジムの内装を作り替えている。リングは、会長が「発泡スチロール」で作ったのだ。トタンで小屋を覆ったのも会長だ。建築基準法にどのように合致しているかは不明だ。ただ、涙橋の下にあったとされるおんぼろの「丹下ジム」にもっとも近いのがこのジムであったのは間違いないだろう。

 私はこの奇妙な空間が気に入った。ジム、といっても、ほとんど会員がいない。私はサンドバッグを叩くのが希望なので、出向いては勝手に奥の間までいくつかの電球に灯りをつけ、ここに据え付けてあるヘビーのバッグを叩くのである。これは本当に良いバッグだった。中央にマジックで顔が描いてあり、結構でかい音がして、建物の全体がガタピシいうが、この奥の部分の梁は丈夫にできているようで、平気である。ときどき上に住んでいるらしき人が下りてきて、私が練習している横を通り抜け縁側の奥の部屋で会長と飯を食ったりしている。挨拶をしても、ほとんどの方が当方の存在には関心をお持ちにならないようで、気づかない風だった。ぼーっと下りてきて、ぼーっと去っていくのである。私としても、それはそれで居心地の良い関係なのであった。

 あるとき私は「73キロあります」と会長に言った。次に行ったら、壁にそこそこの大きさの板にペンキで「ヘビー級、松原隆一郎」と書いて掛けてあった。同じ様な板は二十枚もあったが、ほとんどの人とは面識もない。私は昼の早い時間に行ったりするのでなおさらだ。私にとってはほぼ無人のジムなのである。一応、毎回出欠に印をつけはするのだが、私が週に一度行くのに対し、他の人は四・五人が週に二・三度来てはいるらしい。どうやら板の名前の主も大半はジムを離れているようだ。たまに顔を合わせる人もありはしたが、選手らしき方は会長とスパーをやったり別メニューなので、私は黙々とサンドバッグを殴る。彼らの稽古については「こうすればよいのに」と思うこともなくはなかったが、プロであるのだし、さしでがましいと思えたので、技術的な話はしなかった。会長は月謝を入れる私に悪いとでも思うのか、いつも稽古が終わると缶ジュースと「土産に」と言って封を切って一・二個つまんだ残りの団子などを下さる。良い人なのであった。

 去年だか、ある時期に連続して数人の顔を見ることがあった。会長が「これは、今度プロデビューするんだ」とうれしそうにおっしゃる。で、一月ほどだかするとまたジムは静まり返る。会長に「どうしたんですか」と聞くと、「ああ、ありゃ負けてやめた」という返事。どうやら入会して二月ほどでプロデビューして、負けてやめたということらしい。このジム、どうやら数年間、試合して勝ったことがないらしいのであった。

 そんな中で、ある時期に茶髪の女性がサンドバッグを叩くのを見たことがある。これは凄い。なにしろローだけ三分で20ラウンドほども蹴り続けるのである。えらいスタミナだ。また会長が、「女子プロレスラーだったんだけど今度キックやるんだ」と顔をくしゃくしゃにして目を細める。会長とスパーをすると、会長は右ストレートばかりをバカスカ打ち込むのだが、2ラウンド目になるとなぜか泡を吹くようにして倒れるので、その直前になるとこの女性が反撃する。たしかになかなか根性がある。会長はうれしいのだろう、ある日突然彼女のデビュー戦を決めたかと思うとカラー・コピーで大判のポスターを作り、近所の電柱に張りまくったのであった。

 彼女が来なくなったのも、間もなくのことであった。会長は「バイトで火傷したらしい」と言う。だがある日、私は『紙のプロレス』誌を見て驚いた。彼女が長文のインタビューを受けていたのだ。それによると、「会長がすぐに試合を組むので選手は皆困っていた」「私はポスターがこっぱすがしかったので剥がして歩いた」「試合ではバックハンドを一発決めればそれでいいと思っていたから未練はない」とのこと。ちなみに掲載された写真の上半身はえらい入れ墨。一部は私も気づいてはいたが、これほど大がかりなものとは知らなんだ。今はパンク・ロッカーなので共演者募集、という。ちなみにちょっと前に勤め先のキャバクラで「すかした女を締めてやった」とかで、執行猶予が付いたとも言うのだった。

 それでも良いこともある。時折見る長身の選手がいて、彼は狂ったようにサンドバッグを打つ。そうすると誰の声も聞こえなくなる。一心不乱とはこういうことを言うのだろう。ブルース・リーに憧れているとかで、なるほど髪型が同じだ。その彼がちょっと前からときおりみかける桜井君という選手とともにどこだかの市場のリングでプロの試合に出て、KO勝ちしたというのだ。桜井君もこの試合は初めて勝った。ジム数年ぶりの勝利である。もちろん、会長がジムにそのときの写真を何枚も貼られたのは言うまでもない。

 そんなジムで、私は春の大会前はずいぶん稽古した。現役の自覚ができたので、その後も稽古は続けた。ところが六月の最初だったか、ジムに行くと、張り紙がべたべたと貼ってある。「管理者」と大書のあと、所有権を移った、何人も立ち寄るべからず、という意味のことが書いてある。どうやら競売にでもかかったらしい。高圧線の真下だから税金も安いとか聞いてはいたが、どうやら別のややこしい事情ができたのか。会長にも電話したが、連絡がつかなくなってしまった。で、次に行くときれいさっぱり、あの僕の好きだった奇妙な建物がなくなっていた。まったくの更地になったのである。こうして、名門玉生ジムは、永遠にその勇姿をこの世から消し去ったのである。

 夏のある日、桜井君から連絡があった。直接の話題は試合が10月にあるが、私の持っているサプリメントの「オーバードライブ」を分けてほしい、とのこと。彼の下宿は拙宅から近いので、出向いて数分、深夜の公園で四方山話しをした。ジムがなくなって、会長は、これがまた奇妙であるのだが、なかなか美人で福島弁の奥さんとともに大久保に越したらしい。

 桜井君は、会長が依然として、ジムもないのに試合だけは次の次まで決めてしまうので、以前雑誌の企画に応募し技を見てもらって以来チャモアペットのいる谷山ジムに押し掛け出稽古しているのだという。それでも会長は裏切れないので、玉生所属はやめない、とのことだった。彼は本当に人間の良い、すがすがしい青年なのであった。ただ、あまりキック界の細かいことは知らないらしい。タイ人ではチャモアペットしか知らない。それでも大変尊敬しているのでビデオを入手、すりきれるまで見た、という。彼は会長から技術を教わったわけでもないので、フォームなどはただこのビデオを見て工夫したのであった。私が「チャモアペットは日本のどこだかのジムにいると聞いた」と言うと、是非知りたいと懇願する。それでインターネットで調べて伝言しておいたら、訪ねていったらしく、フルコン誌の企画にも採用され、後にその記事が出た。で、久しぶりなので彼とある場所で一緒に稽古することにし、ミットを持ち合った。なにしろ私は一人でサンドバッグを叩いていたので、実はシ゜ムメイトとのミットの持ち合いなどもほとんど初めてなのであった。

 そうすると桜井君は「先生(なぜか私をこう呼ぶ)、今度の試合、来てね」とチケットをくれる。どうやらギャラはこのチケットでもらったらしい。ではセコンドが会長しかいないならやりましょう、と私は答えた。その試合は、後楽園ホールで開かれるのであった。10月6日、夕刻に試合開始とのことであった。 

 

(10月某日)無人ジム興亡記(2)

 「どこのジムでも、相手が玉生っていう楽勝って考えるの、常識なんすよ」と言っていた桜井君。「だから、ちょっとは骨があるのもいるって思わせたいんすけどね」。いよいよ試合当日となった。

 第一試合は5時すぎから始まる。桜井君は第七試合、6時半くらいからだろうか?3時半、チケットを見せて後楽園ホールの控え室に入った。会長、第一試合に出る福島しげる選手とともに、桜井君がかるく柔軟をしていた。会長は長袖の普段着に重ねて「MAキック玉生ジム」と背中に縫い込んだベストを着込んでいる。桜井君はうれしそうに「会長、今日は先生がもう一人のセコンドになってくれるって」と言う。会長はゴソゴソとカバンをかき混ぜ、「ほれ」と同じベストを取り出した。これで玉生軍団の誕生だ。

 桜井君は「体が重いっすー」と言う。確かに声もどんよりとして、調子が悪そうだ。これまでの戦績が1勝4敗、会長が目をしょぼしょぼさせながら、横から「今日絶対負けんなっつーの」などとプレッシャーをかけている。私は早速ストレッチの相手をすることにした。まず太股のPNF。それから帯を桜井君の腰に巻いて股関節。肩抜き。最後に、帯を持たせて反対にねじる運動をさせた。どれも加藤清尚さんから教わったもの(勝手に使ってスミマセン)。すると、「先生、なんか俺、体がかるくなったあー」と顔に笑みが戻った。

 一度息を上げておこうと、外に出て、ミットを蹴らせる。呼吸が激しくなり汗が吹き出てきたところで、目慣らし。相手はサウスポーだとかで、私も左に構える。桜井君もサウスポーだ。この試合に向けて、彼はフォームで闘う練習を繰り返してきた。頭を振ってパンチをよけたりするのでなく、腕を伸ばし、肩でガードする。右の前蹴りを多用して突き放す。左にサイドステップしつつ左ストレートを打つ。打ったら左に回る。これらはどれも攻撃がそのまま防御になるキック特有の動きだ。こちらから大振りでパンチを出して、回る反復。とにかく身に付いたことしかできないから、できることをやってもらって繰り返す。

 控え室に帰ると、福島選手の試合が始まる十分前となった。急遽こちらもセコンドにつくことに。最後にミットを持ってくれというので、こちらもパンチを強く打ってグローブの感触を確認させる。入場口で待つと、音楽が鳴る。入場、試合開始。

 動きはかなり固い。ローをもらって手でガードしようとしている。組み合ったらつんのめる。それでも前へ前へ出た。「んなろーっ、蹴れー」と怒鳴る会長。2分3ラウンド、試合終了。29−30,30−30,30−30でドロー。福島選手はほーっとため息をついた。彼にしても春先に入門して早や二戦。後楽園で試合させられるのだからため息も出るだろう。

 控え室に帰り、桜井君を連れて試合場につながる階段脇に出る。そこに寝かせてタイオイルをぬる。ワセリンと混ぜて、掌に広げ、腹、背中、腕、足とぬりたくる。ローのきくツボにはとくにべたべたに塗った。顎、眉にはワセリンをてんこもりに。「前髪にも」と当人がいうので、白くなるまで塗ってやった。

 桜井君はどんどん緊張していく。彼も28歳、劣悪な練習状況でプロを続けるについてはそろそろ思うところもあるだろう。何の仕事をしているかは知らないが、胸に期するものがあって当然だ。

 大会役員にグローブをつけてもらい、階段を登って、いよいよ花道に。「先生、もういちど目慣らし」というので、軽く動く。首を何度も取りにいくのを振り切らせる。「よっしゃ良い出来、万全だ」、と私が言うと、「うん、盛り上がってきたわ」と桜井君。前の試合が終わった。「両選手入場」のアナウンス。「せいやー」と雄叫びを上げる私。「えっしゃー」と桜井君も続ける。私が先導しての入場だ。

 「リングですぐステップして」、と促す。名前がコールさせた。左構えで弓を引くポーズから、前足で「ドン」とリングを踏む桜井君。チャモアペットのワイクーの名場面だ。気合いが入っている。

 第一ラウンド、いきなり桜井君の前蹴りから左ストレートが当たった。連発すると、次々に左が当たる。「そこっ、アッパーだ、このーっ」と会長。確かに続く右が出ない。正面に立って左を連射している。「く」の字に頭を下げる相手。ところがその相手が苦し紛れに振り回した右フックが軽く顔をかすめた。そこで左手をつきだしてガードしたが、回り込まないで同じ位置にいるので相手がつっこんできた。もみあううちに、何発かもらう。ゴング。

 「ワセリン、ワセリン」と会長。見ると、右眉が切れている。「どう?」と汗まみれの顔で聞くので、「最高の出足、息上がってないだろう、右当たってるから優勢だよ」と私が言うと、「そう、優勢かあーっ、息ぜんぜん切れてへんぞ」と突然桜井君が大声を上げた。「よっしゃー」と声を上げて椅子から立つ。「次、回れよ」、と私。

 第二ラウンド。猛然と左ストレートで襲いかかる。けれども前の回に当たったので、相手もガードしている。もつれて首相撲の体勢に。ここでむしゃぶりつくように膝を出したら、一発腹に入った。これがクリーンヒット。相手はふたたび「く」の字になった。ミドルも入る。「アッパーだーっ、このー」と会長。

 ゴングで帰ってきた。「ポイント取ったぞ、次は決めろ、倒せるぞ」と私が言うと、「勝ってるか、勝ってるんやなっ」と桜井君。目がらんらんとしてきた。「最後、スタミナ全部使い尽くせ」、と送り出す。

 第三ラウンド。相手もパンチを出すが腰砕け。前蹴りで突き放し、もつれて膝蹴り。当たる前に相手がころがる。立ってもつれて、ころがる。桜井君も必死の形相。追う足がもたもたし始めたところで、ゴングが鳴った。両手を上げて「やったーっ」と叫び、桜井君を迎える。採点者にはどう映っただろうか。

 「三者30−29,勝者、桜井哲也!」とコールされた。全身で笑みを浮かべるようにして、桜井君はリング中央に出ていく。トロフィーをもらうと、カメラマンがポーズを要請。男の晴れ舞台だ。お得意の構えで撮影される。

 リングから下りると、汗でびしょびしょになった手で、私の手を取りに来た。「ストレッチ、きいたよー。パンチが不思議なくらい伸びた」と言う。「泣きたいくらいうれしいわあ」と最敬礼してくれた。「まあ、ご苦労様」。見ると脇には、いつの間にか会長の奥さんも来ていた。

 「チャモアペットがおとといも来いっていうから行ったんだけど、今日が試合って言っても平気平気って・・・。きつい練習したから体が重くなっちゃって。彼、僕がまさか阿佐ヶ谷に住んでるなんか知らないから。近いと思ってるんで。」と言いながらも、半泣きだ。

 メインまで見ずに総武線で帰路につく。ジムはなくなり、再建の予定もない。候補地をさがしていると会長は言うが、土地が見つかっても資金のあてがあるわけでもなかろう。いまはなきジムの残り火は、試合としてのみ残るのである。「今度は12月だかんね」、と会長はうれしそうだった。選手たちの流浪の出稽古生活は、これからも続くのである。 

 

(10月某日)

 人に出会いあり、格闘家と出会うこともあり・・・・。

(1)10/9の大道塾関東予選で記録係をしていると、塾長夫人から呼び止められた。「和合さんが来られるからインタビューしたら」と仰る。和合さんとは柔道の中量級で日本の最高水準にあった選手。中村兼三選手がライバルで、全日本のタイトルを争った。その彼が、東塾長のご子息の早実高校時代の柔道部コーチ(監督は高木道場の若先生だから奇遇ではある)だったという縁で、今は大道塾に関心を持たれ、盛岡の支部に入会されているという。たまたま塾長を訪ねて上京されたのである。

 私は次の「大道無門」誌の企画で、「格闘空手に使える組技」特集をやろうと思っていたので、和合さんへのインタビューを希望していたのだが、この偶然で実現した。試合後塾長運転の車で道場へ同行。車中インタビューの後に、ついでに実技もお願いした。

 話題は、「手技としての背負い」。和合さんによると、背負いは手技である点に注意しなければいけない。しっかり手をきかせるとちゃんと相手は飛ぶのだという。そして自分は立っていられるから、「キメ」ができるはずだ。で、その背負いをやっていただいたのだが・・・。相手は、成田の長谷部選手。

 腰を引いた相手の下に和合さんは音もなく飛び込んで、腰の下に潜り込み持ち上げるのである。これは私が以前、前田式背負いと呼んだやつかもしれない。それを撮影しようと、何度もシャッターを押したのだが、どうにも撮れない。飛び込む動作が速すぎて、コマ送りみたいなのだ。こないだ寝業師・大泉君が「オリンピック級の投げはホントに凄いよ、人がおもちゃみたいに飛ぶよ」と言っていたが、本当だった。次号大道無門、お楽しみに。

(2)早速その背負いを、今日、下手なりに高円寺の高木道場でやってみた。すると、なんと、相手の股間にスッと潜り込めるではないか。要は出てくる相手を少し押してから一気にぶら下がり、反転してしゃがむのだ。中学時代から何年やっても分からなかった背負いの入りの動作が、やっとできた。

 本日は何人かと稽古して入りがうまくいってご機嫌だった。その相手のうち、木川田さんという方は、かつてボクシングをやっていたという人で、なかなか巨漢である。つい二週間ほど前に入門され、まだ白帯。今日も軽くお相手したのだが、なんか変。ボクサーにしてはごついし、名前もどこかで聞いた気がする。乱取り自体は軽くお相手して寝技で押さえ込んだりしただけだが、なんか気になるので、帰宅後、インターネットで検索してみた。そうしたところ・・・

 木川田潤 空飛ぶボクサー。IWAプロレス所属

 とあった。ムーンサルト・プレスなんかこなすらしい。まったく、東京というのは不思議な人と出会う街ではある。

 

(10月某日)柔道秋期中野区大会個人戦

 このところ掲示板の管理ばかりしていて、されど稽古はしているので、こちらには手が回らなかった。

 10/15、柔道、秋の中野区大会。今回は個人戦だ。私にとって柔道は格闘空手の一環で、組み合ったときに首相撲に偏りすぎるのを補正したいという狙いで稽古している。とにかく、パンチや膝で来る相手を投げたいのだ。だから、試合といっても普段と異なる稽古はやらなかった。いつもの稽古をこなし、そのままで臨んだ。

 といっても稽古を始めると、柔道はそのものとして面白いものだと気づかされる。しょせん、中学・高校でやっていたのは子供の柔道だったということか。煽りや作り、崩し、厳しい組み手など、稽古させていただいている高木道場では知らなかったことばかりに面食らう。それに少し慣れ始めた現状で、柔道家が相手だとどの程度通用するのか。それを確認するために大会に出させていただいた。

 とはいえ、やはり試合は緊張するなあ。春の北斗旗予選に比べれば、全然節制もしていないし、ずいぶん気楽にやってるはずなのだが、背負いを試したいとか、トーナメントだから最初から全力を出すべきかとか、考えていたらそこそこ気になってきた。といっても、三日前くらいからだが。

 十時に起きて、食事。ちょっと遅かったかな。一時試合開始なので、仕事をして、十一時半に家を出る。中野体育館につくと、小中学生の学年別のトーナメントが佳境に入っていた。ストレッチしながら、観戦。打ち込みして、一時から初段の部、スタート。

 私は一回戦は不戦勝。二回戦の相手が決まる試合を見る。右対左の対戦で、右の方がやりやすいなあと思っていると、右選手が有効を取る。よかったよかったと支度をしていると、終了直前に左選手が倒れ込みながらの小外掛けというレスリング選手がやるような技で技あり。結局、この選手とやることになってしまった。試合、開始。

 一回戦からはずいぶん力のある選手に見えたのだが、組み合うと拍子抜けするほど軽い。喧嘩四つの割には組み手は厳しくない。あまりとりあえずは足払いをツバメ返しにしようと思っていたが、まずやってみたら逆に返され、こちらが腰砕けになった。この相手、なかなかくせ者だ。もう一度こちらから足払い。予定通りすかされたので、その勢いで背負いに。がばっと入ったのだが、引き手が弱くて、有効に。そのまま寝技にいったが場外。

 焦ったのか、相手が、どんどん前に出てくる。顔を見ると二十歳代の前半か。少年である。がばっと取りに来るので背負いに。そのうちの一回は完全に背中に乗ったのだが、やはり引き手が弱い。そのまま試合終了。

 妻子が来ていたのでそこに戻ると、やけに息が切れる。帯をはずすと、気持ち悪くなってきた。喧嘩四つということもあり、またトーナメントなのでリーグ戦のように全体を見渡してスタミナの配分をするということができないで、力を入れすぎたか。胃に物が残っているのか、吐き気までしてきた。やはり組技は疲れる。

 どっと出る汗をふくと、じきに三回戦。疲労からは回復していない。とりあえず二分まで互角にいき、それからの勝負という作戦。と、相手を見ると、私の掌にしきりに自分の掌を当ててくる。これだと組まなくていいやとつきあっていると、いきなり「両者、指導!!」。そうか、手四つは反則なんだ。仕方なく両手で襟をつかみ、釣り手を取る。この相手、すぐに背負いにくる。けれども掛け逃げのような背負いなので、まったく懐にも入ってこない。そのままバックを取りに来る。どうやら寝技に入りたいが引き込みととられないためにかける背負いのようだ。疲れないよう、うつぶせになって適当に時間を潰す。

 二分が過ぎた。こちらからいかなきゃいかんのだが、息が上がってきた。相手は依然として掛け逃げふうに背負いを連発。ほとんど背負われる心配もないのだが、こちらが技をかける暇もない。あー、と思っていたら今度はドン、と突き飛ばされた。場外だ。

 試合はそのまま終わってしまった。何もできなかったのには拍子抜け。旗判定、相手に上がる。そりゃそうだろう、寝技でこそこちらも攻めたが、がばっとひっくり返したときも場外だったし。どうやら試合そのものの作りのうまさで負けたようだ。まあ、自分の反省としてはスタミナ負けということか。二回戦で力を入れすぎた。

 三回戦の相手は結局、準優勝だった。優勝した選手は、二回戦で百キロ以上もある相手を一本背負いで宙で一回転させた。それからも重量級ばかり相手にして、すべて一本勝ち。この選手は強い。

 我が高木道場からは、三・四段の部で高田先生がサンボ全日本チャンプの寺田淳選手と当たり、一回は膝をつかせたものの、腕を両手でかかえて捨て身をする技でこかされ、押さえ込み負け。三位となった。優勝はやはり、寺田選手。

 女子部も試合があったのだが、優勝は「寺田 典子」選手、ありゃ、格通の村上典子さんじゃないか。久しぶりの再会である。彼女、以前、市原さんや長田さんの記事を書いていた方で、思い入れの強い文体で結構ファンもいた。現編集長の朝岡さんが新入部員の時代に、「あー、あー」いってるのをからかって「あー君」と呼んでいた。それにしても彼女、毎日講道館に出稽古しているそうで、体格やら人相やらが変わっている。体なんて四角い。寺田氏と結婚したせいなのだろう。はっきり言って、怪物化してる。

 また、三・四段の部にエントリーしながら来なかった人に、「葉山 充」の名が。五年ほど前だったか、北斗旗にエントリーしたものの柔道の上司から待ったがかかり、会場で挨拶してときにいろいろとお話させていただいた方である。本当に自信がありそうだった。この日、三・四段の人たちは相当びびっているような感じだった。なにしろ柔道で全日本ベスト8、小川と死闘を繰り広げた人なのだから。 

 私の背負いについては、使える目処こそ立ったものの、事前の作り、引き手、腰を立てることなど、いろいろ課題は多い。それが分かったのが収穫だった。