(11月某日)散打アジア選手権inハノイ(1)

 仕事をなんとか片づけて、10/31よりベトナム・ハノイへ。公式の要件は現地の消費社会化状況の研究。「ついでに」中国武術アジア大会散打部門に参加する。私は今回はドクター資格だが、要はトレーナー。監督は東京散打倶楽部の木本泰司氏、選手は大道塾の藤松泰通君。

 中国拳法(「武術」)は2008年にオリンピックが北京に誘致されれば公式競技になる可能性が極めて高い競技である。海外では太極拳や刀などの型(套路)とフルコンタクトの散打競技がほぼ同人数の選手によって競われている。日本では中国拳法というとNHKで放映されるのが型ばかりなのでそれのみを指すように思われるかも知れないが、型が盛んなのはアジアがほとんどで、ポイント制だけあって欧米人ではまず勝てず、キックが普及していることもあって、キック+レスリングとの了解のもとで予想外に散打が普及しているのである。日本ではその全体を武術太極拳連盟が管轄しているが、散打の選手は育成されていない。それで木本泰司氏の東京散手倶楽部が散打班として加盟し、実際の選手としては友好団体である大道塾から参加しているのである。

 ところが日本で予選を行おうにも、散打の台がない。国際審判員もいない。仕方なく、北京の強豪選手のところに大道塾選手 を派遣し、試合をさせて予選に代えることとなった。春先には長谷部(成田)、大川(中部本部)の二名がためしの合宿に、八月末には大川と藤松が予選に出かけたのである。ところが予選の結果は散々であった。中国側は何を思ったのか、最近北京のテレビで40%の視聴率を稼いでいる「散打王」なる番組のチャンピオンを当ててきたのである。藤松の相手はK1の安虎よりも強いといわれる19歳。幼時より一年中合宿していて、年に一度しか帰郷せず、グローブ歴も十年という強豪選手である。対する藤松はグローブ歴一月。なんとかなるはずもなく、一ラウンドにパンチで三回ダウンし、完全にKOされてしまった。一時間も立ち上がることさえできなかったという。それでも大川は二度目の挑戦ということで横蹴りを前に体重をかけて膝でカットしたのが功を奏し、一度投げられたポイントだけで関係者の評価は上々だったようだ(ただし大川は怪我により本試合には不参加)。

 藤松は稽古内容が認められて公式試合出場が許可されたが、帰国後一月、加藤清尚師範代のもとで朝から晩までみっちりグローブ特訓に励んだ。そこで尻の筋肉が硬いことが分かり、トレーナーとしてついていく私が一日に二度ほぐしてやるという特命を加藤さんから与えられ、マッサージの講習を二時間ほど受け、ハノイ入りとなったのである。

 ホテル入りすると全日から来ていた木本・藤松が出迎え。じきに開会式だという。「調子はどうだ」と聞くと、藤松は「いいっすけど・・・試合がいつ誰とあるかわかりません」といつものぶっきらぼうな様子で答える。エントリーしている85キロ級では中国・イラン・スリランカが参加、準決勝以上が行われるという。「で、くじ引きで楽勝でしたわ。北出さんが引いたんです」と謎の笑みを浮かべる木本監督。どうやら準決勝でイランと中国、藤松とスリランカが当たることとなったらしい。もちろんイランと中国の試合が事実上の決勝戦である。北出さんというのは、予選の後に突然木本さんの元に手紙を寄越し、散打の試合をしたいということで東京散手倶楽部所属となった選手である。今回は予選をしていないので試合には参加できず、トレーナーとしてやってきている。

 ところがスリランカ選手は計量にやってこなかったという。「おめでとう。決勝進出、銀メダル」。と藤松に何度も握手を求める木本監督。木本さんにしても今回勝てないと指導力が疑われる瀬戸際だっただけにやたらと喜んでいる。方や藤松は浮かない表情。そもそもいつ準決勝があるか分からない。散打は夜に試合があるが、試合当日の朝になるまで誰が試合するのか不明だという。まったく中国とベトナムが管轄するだけのことはあるルーズさだ。計量に来なかったからと言って、本当にスリランカが不出場かどうか分からない。そのうえ藤松は今日イラン選手団と一緒の場所で稽古をしたため、彼らのシャドーを見てしまったのだ。「まじ、やばいっすよ」というのがその感想であった。

 開会式前、イラン選手と雑談。どいつも自信満々である。85キロの相手は耳が完全に潰れている。レスリング出身なのだろう。昨年の世界大会では三位だったという。めちゃくちゃ顔が怖い。眉毛が横一文字繋がっていて、これも怖い。中国もこのクラスは絶対に落とさないつもりだという。連中で激闘をして、できれば怪我でもしてくれれば・・・とセコイことをつい願う。藤松、お前偉いなあ、とつぶやく。こないだまで僕とスパーしていたのに、こんな怪物たちと殴り合おうなんて。

 私も翌日、ホテルのフィットネスルームで偶然、イランの80キロ、85キロ超級の二人の選手のシャドーを見かけた。どっしぇー、二人とも筋肉の固まりなのに、完全開脚でべたっと前に上体がつき、新体操みたいにY字で立ったりもするではないか。190センチ以上あるデカイ方は後ろ回しで空中で足を止めたりもしている。パンチを出し始めるとこれが変幻自在。とすると85キロの選手も・・・私まて青くなった。

 開会式は豪華。オリンピック同様に入場式。日本から飛行機一機チャーターしてきたという50人からのおじちゃんおばちゃんの太極拳の演武など。凄かったのが、片手二本指で倒立の演武をした怪人。中国人らしいが、追いかけていって握手したら、右手中指と人差し指の第二関節が横に潰れて三センチほどの幅に腫れ上がっていた。隙間を空けずに指を並べることができないのである。

 それと、煉瓦を頭突き割りした人。二十くらい地面に並べて気合いもろとも次々に拾い上げて頭にたたき付けて割るのだが、6つ目くらいから一発では割れなくなり、何度かぶつけて割る。そのうちそれでも割れなくなって仕方なく割れないまま放り出す。15個目くらいになると観客も「もういいよー」といった雰囲気になってきた。そこに師匠らしき背広の人が激怒の表情で割れなかった煉瓦を拾い上げて演武者にたたき付ける。これで全部割れたのだが・・・退場する顔を見ると、血がぶおーっと吹き出している。まさに血塗れ。中国人は怖い。

 さらにどこの拳法かは知らないが、走り回りながら体中を高速でぱちぱち叩く演武。「これ、パチパチパンチやないの」、と私が言うと、周囲の日本人には大受け。手の回転は島木譲二より速いぞ。

 終了後、藤松の豪華な部屋で尻を三十分弱、マッサージしてやる。寝かしてから、同行したY支部長、木本さんと夜の消費社会見学に外出。路上のビヤホイ(ビヤホール)にて、ウドン(フォー)となま暖かいビール。そこに旧知の台湾の張監督が合流。ハノイの夜はオートバイの群れのライトに照らされ、怪しく更けたのであった。

 

 

(11月某日)散打アジア選手権inハノイ(2)

 11/1より試合開始。48キロからの軽いクラスからということで、初日は様子見に行く。ベトナム選手が出てくると大変な盛り上がり。しかもこれが強い。中国と同等の強さで、横蹴り・投げともに早い。膝関節を前蹴りで牽制しつつ、左にヘッドスリップしながら飛び込んで右フック、同時に左手で相手の右足後ろを取ってすかさず回して投げ、といったコンビネーションを巧みに使いこなす。イラン・チームは応援団もいないのに、しかも他国同士の試合なのに勝手に「イラーン、イラーン」と大声で合唱。体育館全体が異様な雰囲気になってきた。

 65キロ、張先生の台湾選手が中国相手に1ラウンド目を取り、これも盛り上がりの理由となった。この試合、二分のはずなのだがやたらと試合時間が長い。五分はやったのではないか。なにやら中国人がポイントを取るまで引き延ばしているのではないかという声も上がり、張先生も怒りの表情。2ラウンド目から中国選手のグローブをつけての一本背負いなどが決まり、逆転負け。この辺りの運営も、なんか怪しげだ。

 11/2朝には試合があるかもしくはないことが分かるかと、夜には藤松にマッサージして備える。ところが朝になって予定表を見るとまた試合は70キロまで。どうやら最終日の4日に全階級の決勝を行うために参加人数の多いクラスから順に消化しているらしい。だが連戦で欠場する者もいる。当方も一体いつ試合があるか分からず、フラストレーションが募る。ひょっとして中国選手は日程を全部把握しているのかもしれない。私の選手にしてやれる役所はなんとかして予定を聞き出すことだろう。藤松は北出さんと昼間からトレーニングに打ち込んでいることだし。

 スリランカ・チームを見つけて、いろいろ探りを入れてみる。85キロの選手は来ているのかと聞くと「いない」という。「一番重いのはこいつだ」という選手は私と同じ位の大きさ。「ハローハロー」と握手して力をチェックするが、筋肉もさほど発達しておらずとても85キロには見えない。当人は80キロに出る、とにこやかに答えてくれたのだが。

 仕方なく、大会役員で型競技では正面で判定の監督を務めておられる石原先生のところに押し掛ける。事情を話し、明日試合があるのか、いきなり決勝なのか、なんとか調べて欲しいむね、お願いする。幸い、午後になって調べをつけて下さった。スリランカの85キロは、計量に遅れてきたが、途上国も多いアジア大会ではよくあることで、ペナルティーを課した上で参加を許可しているとのこと。分かりました、やるならやるで気持ちが固まる。さっそくホテルに引き返して藤松に伝える。藤松もほっとしたようにニコリと笑う。

 3日、8時からの試合に6時から会場入り。7時に息を一度上げておく予定。北出さんが時計を見ながら、「はい、軽く走って」「ストレッチして」「寝て呼吸を整えて」「次はミット」と次々に指令を出してくれる。藤松もすっかり頼っていて、こちらはすることがない。二人で打撃に対するタックルの稽古を始めた。パンチにタックルを合わせ、回して投げる。相撲の要領だ。「それでも最初は打撃を一度かましておかないと、組技しかできないと思われて打撃を合わせてくるだろうな」と私が言うと、藤松は「最初に一発ストレートを入れます」との答え。どんどん顔が緊張してきた。最後のマッサージを施してやる。

 稽古場を会場の試合している台の横に移す。ここで見物。85キロ、中国−イラン戦が始まる。イラン選手はアグレッシブに行くが、つかまって投げられる。打撃も中国が上だ。散打としては標準的な中国の闘い片である。横蹴りで間合いをとり、自分からつめて投げ。イラン選手は試合前の自信満々の表情が、一気に焦りに曇ってきた。そのまま二ラウンドを中国が連取。さあ、藤松の試合だ。セコンドは監督の木本氏と北出さん。私は観客席の前列に陣取った。 

 

 

(11月某日)散打アジア選手権inハノイ(3)

 散打は中国拳法だから、「礼」は両手を前に差しだし、右拳を左掌に押しつけ、両足をさっと揃える格好をする。どの国の選手も皆格好がついているのだが朱のベッドギアに胴当て、スネ当てにグローブをつけた藤松は、空手でもないキックでもないぎこちない礼をする。体を左右に揺さぶり、気合いが入ってしまっているのだ。いざ、試合開始。

 いきなり1−2で飛び込む。別れたところにスリランカ選手の1−フックが来た。これにタックル、押し倒す。ポイントだ。場内割れんばかりの拍手。日本選手団からは「ニッポン、チャチャチャ」の声まで上がっている。また相手は1−フック、これに胴タックルから場外に押しだし。惜しくも同体で藤松も台から落ちるが、試合の主導権を握った。いけるぞ。

 相手がボディから顔面にフックを振るう。ガードしながら体をしずめ、いきなりハイ。これがヒットして相手は足にひっかかった体勢で前のめりに倒れる。きいてはいないがポイントだ。相手は横蹴り。スネ受けしたまま胴を抱く。このまま小包でも運ぶかのように前に押して、相撲のように腰を落として場外に押し出す。最大のポイントだ。相手のロー、フックに合わせてまたもタックル。そのまま回して投げる。練習通りの展開だ。一方的にポイントを取っている。テンションは高いがこれは飛ばしすぎかもしれん。「投げるなー、休めー」と叫んでみるが、歓声が大きくて、とても当人には届きそうにない。

 相手が突っ込んできたので、ジャブのように左ハイ。これが相手の頭にひっかかり、押し倒される。ポイントを取られたのか、取ったのか?

 試合はそのまま第一ラウンドが終わる。失ったポイントもないが、藤松は肩で息をしている。そりゃそうだろう、10回は相撲をとったようなもんだ。4審判がみな赤札を上げる。正面の主審も赤。第一ラウンド、先取だ。しかしこりゃ疲れる試合だなあ。横蹴りがあると突き放せるから、中国選手はこんなに沢山相撲を取らないのだが。

 第二ラウンドになるも、まったく同じ展開。相手がパンチを振るい、藤松がタックルを繰り返す。一体、何回投げたのだろうか。次第に相手もパンチをふるわなくなり、両者「よいしょ」とタックルでぶつかり合う。ベトナム人の観客からは「スモー」と声援と笑いが起きた。しかし藤松はそれどころではない。もう蹴りにもパンチにもギア・チェンジできなくなってるのだろう。コーナーを振り返っている。動きがスローモーになってきた。

 助かったのが、相手もスタミナを失っていたことである。第二ラウンドも差をつけているだろうが、それでもなにかの加減で落としたら、次のラウンド勝負になってしまう。これだからラウンド先取り制は怖い。だが相手も相撲地獄から逃れることができないで、頭からつっこんでしまう。ともにフラフラで、ラウンド終了。

 審判は、全員が赤を上げた。勝ちだ!木本監督、北出コーチが藤松の背を押し出す。台に上って勝ち名乗りを受ける。日本選手団からも大きな声援が沸く。銀メダルが確定だ。

 横を見ると、さっきの試合で勝ち残った中国選手(Li Dong Min)がにやにや笑っている。張先生、両手を差し上げて、「あきれた」といったポーズ。こんなに疲れる試合をする選手は見たことない、とでも言うのだろう。そりゃそうだ、ポイント差があれば横蹴りでスタミナ温存するはずなのに、頭から突っ込んでは投げるという作業を繰り返したのだから。

 三日目の試合はこれですべて終了。試合場に降りて、藤松と握手。そのまま背中を押して「ダウンしてこい、明日に疲れのこるぞ」と促す。ところが「えー」とか「うー」とか生返事してくる。「左足、故障したみたいです」と北出コーチ。「でも、明日の試合があるからとりあえずダウンだけしとかないと」と私は主張するのだが、当の藤松がとぼとぼと台に一周しただけで止まってしまった。「ハイがひっかかったときにバキッと音がしました」という。相当に痛そうだ。しかしそれ、第一ラウンドのことじゃないか。そのあと、10回は相撲をとったのである。

 一晩冷やすことにした。東京の加藤師範代に電話して、足を体より高く上げて氷で冷やすように言われたのである。山田さんには、「おまえ、空手家だろう。やるにきまってるだろ!」と檄を飛ばされた。藤松本人はやるつもりでいる。しかしそれとは別に、コーチ団として決断してやるしかない。

 結局、翌朝になって試合出場は中止することにした。中国選手だってケガしていて決勝を棄権する可能性がないでもないから、出ないことは当面はふせておく。しかしまともに歩くこともできない状態、左足の甲は小山のように腫れ上がっている。これが一日のトーナメントならまだ出ることは可能かもしれないが、寝てしまったからも無理だ。我が散打チームのアジア大会は、初めての銀メダル獲得と藤松の負傷で終わったのであった。

 

 

(11月某日)散打アジア選手権inハノイ(4)

 最終日。昼間にレントゲンを撮ったところ、藤松の左足甲の人差し指と中指の中程が完全に折れて、離れていた。

 全階級の決勝が行われる。凄かったのが80キロ級、イランのHosen Ojaghiと中国のNa Shungerileの試合。このクラスは二人のみエントリーだが、これは世界大会、オリンピックの決勝でも同一カードになりうるだけの面子である。ここでオジャイ選手、パンチも蹴りも中国を圧倒。足を取られたところで逆に相手の上に倒れ込んでポイントを取るなど、ただ者でない反射神経を見せつけて二ラウンド先取。完勝だ。

 台上で飛び上がり、喜びを爆発させる。台にキスし、走り回る。礼をするとコーチのところに飛び込んできて、全員と抱き合う。「イラーン、イラーン」の大合唱。とんでもないテンションである。横で見ていた私のところにも走って来て抱きつく。まったく岩のような体だ。

 10試合が終わり、すべてで表彰式。藤松のクラスでは金と銀だけが呼ばれる。ジャパンのトレーナーで表彰台に上がり、中国国歌に乗せて国旗掲揚。日の丸を仰ぎ見る。

 中国選手とは試合できなかったが、やったとすればどうしただろうか。私としては、とりあえずあの横蹴りを何とかするしかなかったと思う。今回は大会では、中国が前後には鋭く動くがベトナム選手に横にステップされると横蹴りでは追いつけなくなるシーンが何度か見られた。ということは、とりあえず左回り、そこからパンチを入れつつタックルして相撲で勝負、ということではないか。来年以降、これを進言してみようと思う。

 夜、ホテルでフェアウェル・パーティー。日本選手の女性たちの半数がアオザイを着ている。なかなかかわいい。けれどもビールが一杯飲んだらなくなってしまったので、なんとなく手持ちぶさた。そこに村岡会長が現れた。「いやー、二十カ国もの会長に散打初勝利おめでとうと言われたよー」と上機嫌だ。どうやら張先生が2008年には日本が中国・ベトナムのライバルだとふかしておられるので、各国に要注意とチェックされているらしい。

 「先生、写真送ってくれますか」と北出コーチがやってきた。この方、大阪在住で目のくりくりしたいかにも好青年なのだが、よくきくととんでもない経歴の持ち主である。若い頃はばりばりいわせていたらしいが、高校で極真に入門、一年で黒帯取得。全日本体力別にも出場。そのまま大阪帝拳でボクシングデビューして2KO。しかし仕事場で落ちてきた鉄骨を頭に受けて頭蓋骨骨折、格闘技を断念する。それでも情熱冷めやらず、中国拳法の型の部に転身、全日本で二位になる。今回の選手団とは合宿で旧知の仲だったという。帝拳ではコーチを学び、テコンドーも修得。それでもフルコンタクト競技には未練が残る。昨年だかに突然渡タイ、ムエタイのジムで稽古しつつ試合に出て連勝。帰国後、K1のモンスターチャレンジというのに出場。トーナメントで7戦闘い、ほとんどKO勝ちで準優勝する。そののちに散打の世界大会に出ようと、木本さんのところに手紙を寄越したというのである。

 「来月結婚するもんで。祝辞を頂戴したいのですが・・」と仰る。私としてはもちろんイヤなはずもない。二つ返事で引き受けた。彼、今は仕事を持つ身で普段はほとんど稽古できていないという。休みの日にはアパートで自分の体系を子供達に教えているらしい。一部を私も教えてもらったが、どうやらテコンドーの移動にあたる複雑なコンビネーションに極真のロー、ボクシングのパンチを入れたようなもののようだ。ファイト・スタイルとしては、相手のパンチやローに合わせて後ろ蹴り、後ろ回し蹴り。くるくる回りながら、じつはパンチで倒すというタイプである。ローに同時にローを合わせるのがテコンドー式だとかで、このあたりは興味深い。

 「では来年、ラトビアの世界大会で。」と皆と別れる。私と山田さんは翌朝、一足先に帰国するのだ。ところでラトビアって一体どこにあるのだろう?来年から私は「アジアの消費社会研究」を本格化させることになる。それにしてもアジア中フィールド調査することになるのだろうか。これはこれで面白いとは経験ではあるのだが。