(5月某日)

 このところずっとこの項を更新していなかったところ、学生から「さぼってますね」と言われた。そう言われてやっと書こうと言う気になる。「空手家日記」は読者が多く、書くたびに誰かから感想を聞くのでつい熱心に更新してしまう。内容を充実させるために試合にまで出る始末。つくづく自分は尻を押してくれる編集者の必要なタイプなのだなあと感じる。

 さて学生とそういった話をするのはもちろん大学院ゼミ後の飲み会の席である。今回のゼミは、フェミニスト(当人はそうじゃないと言い張っている)のIさんが発表者で「売買春」がテーマであった。資料は

@橋爪大三郎、「売春のどこが悪い」、江原由美子編、『フェミニズムの主張』、勁草書房、1992年。
A永田えり子、「<性の商品化>は道徳的か」、江原由美子編、『性の商品化』、勁草書房、1995年。
B橋爪大三郎、「性モラルの空洞化は、戦後の企業システムが原因である!」、別冊宝島224号、『売春するニッポン』、1995年。
C橋爪大三郎、「公共性とは何か」、永田えり子、「公私の分離は必要か」、ともに『社会学評論』Vol.50、No.4、2000年。
D松原隆一郎、「日本の消費社会は女子高生化している」、『格闘技としての同時代論争』、

E田崎英明編、『売る身体/買う身体』、第2、3、4、5章。

これらを通読した。正直言って面白さは玉石混淆というところか。まず全体の展望からいうと、なにしろ売春を社会問題と見なして問題にしようというのはマルキスト、フェミニストが多く、その議論はというとたとえば日本の家族制度と売春業とがどういう関係にあるかを論じているのだが、あるものは当たり前のように対立するとし、別のものはまた当たり前のように相互に補完的だとしている。しかも観念論で議論が展開されていて(天皇制を中心とする家制度と資本主義が売春を生んだ、といったたぐい)、どうして対立なのか補完なのかが論理的ないし実証的に説明されていない。現実との有意な接点がないといった感じで、これらは退屈だった。

 売春は家族モラルに反するというのは、普通に言えば「お父さんが女遊びしてくるのは許せない」といった意味だろうが、ならば本気で恋人を家庭外に作るのは許せるのだろうか。売春ならば家庭を破壊するには至らないが、恋人ができれば家庭は破壊される(離婚の危機)可能性がある。これは妻の行動についても同じで、それゆえか売春は家族制度を補完するという主張にも理はある。追求しても仕方ない話だとはいえ、その程度の議論もせずに思いこみで論文が綴られているのは読んでいて苦痛だ。

 それに対して目を引いたのが橋爪大三郎氏と永田えり子氏の論文。これは参加学生もほぼ一致する意見のようであった。橋爪氏の場合、法的にいう限り売春は取り締まるべきものではなく、売春防止法は撤廃すべきだ、なぜなら法はそもそも自由を権利として守る制度であるため、売春にかんしてもその自由を守ることになってしまう、という。しかし家庭のモラルというのも存在し、こちらは売春を否定するだろう。農村社会であった頃の日本ではこの対立は明確だったが、今では家庭と売春がなだらかに繋がっているため、売春についてはインモラルだという意識だけが残っている、という趣旨である。さらに実践的にも所説が述べられていて、子供の目につくところには一切ポルノ的な図像も置くべきではない、大人に限り個人の自由として限られた(分離された)場所で売買春すればよい、とする。さらには、売春を否定するような家庭モラルの再興が求められるのだ、ともいう。この論考が八一年に書かれたということは、日刊ゲンダイの売春(風俗)情報をアカデミズムに持ち込むんだことも含めて、度胸のいる仕事だったろうと思う。

 永田論文は、こうした売春肯定論を批判する、という目的で書かれてはいるのだが、実はその内容はかなり橋爪氏に近いものだ。売春はモラルでしか裁けない、それは公然と行うと見る人が不快だからダメなのだ、というのである。しかしそれならば非公然(分離して)ならばOKということになりはしないか。結局は橋爪氏に近いというのはそうした理由からだ。

 驚いたことに、売春にかんする私の理解は橋爪氏のものとほぼ同じである。違いは強調点だけというべきか。売春がなぜ起きるのかについて、多くの人が試みているように心理学などの説明を試みるのは面白いが、結論が出るものでもなかろう。とりあえずは「必要悪」としか言いようがないと思う。身障者の方で、生涯妻を娶らない人が売春サービスを受けることを楽しみにしているとして、私は否定する気にはなれない。

 ただ、日本では大人と子供の区別をしていない点は強調しておきたい。大人は法的には悪徳を自己決定(個人の自由)としてやるのは認めざるをえないが、子供にかんしてはそんな自由は認め得ないので徹底的にポルノ的・売春的な情報から遠ざけるべきである。公共の場ではそうした情報はすべて規制すべきだ。それができず、大人は子供扱いで規制をし、子供は大人扱いで過激なポルノ情報にさらされるというのは酷い社会だと思う。

 法とモラルを分けるというH.A.ハート的な立場が橋爪氏には明確だ、というのは学生A。コミュニタリアンの立場にある学生Bは橋爪氏がモラルの再興を唱えるのには驚いた、とが言う。そりゃそうだ、いまどきこれくらいモラル、モラルと連発される現代理論は滅多になく、日頃援軍の少ないコミュニタリアンは拍子抜けしただろう。そういえばなるほど宮台などはハート以前の自己決定論である。彼は経済についても竹中平蔵・中谷巌的な規制緩和・自然淘汰説を挙げていて、これをもって冷戦後のイデオロギー消滅世代の理論だなどという(東浩紀氏)評価もあるようだが、それは新古典派が冷戦後の理論だというに等しい錯誤である。新古典派はアメリカニズムであり、社会主義なのだから。せめてハート以降でなくちゃなあ、というのが一致した結論となった。

 ある学生が、先生(私)はモラルにかんして、宮台とブルセラ論争した奥井氏のモラル再興論に否定的だがそれはなぜか、と尋ねた。私の答えはこうだ。私が宮台を批判したのは、彼が子供(女子高生)の援助交際をも「ロール・プレイングに長けている」とか言って煽ったからである。私は悪徳を働くことについての自己決定は大人にしか認めない。けれどもではモラルを再興するといっても、売春はイカン、だけでは親父の説教にしかならないだろう。たとえていうと、活字離れした子供に本を読め、といくら説教したところで子供は言うこと聞かないのと同じである。説教に現実性がないのだ。それよりも、TVゲームで「信長の野望」に熱狂した世代が、その興味ゆえに歴史書を読んだりしている現実に注目したい。平野啓一郎の芥川賞作品にしても、小説家の先達は難しい中世思想だとか表現に驚いていたが、それは活字分野では突然変異に見えるだけで、ゲーム世界ではありふれたものだとされている。したがって、モラル再興には賛成するにしても、説得の仕方に現実的な戦略が必要なのだ、と考える。

 それにしても、学生たちはやはりインテリだ。売春を拒否するモラルが必要だということになって、すんなりと皆納得する。けれども私の格闘技関係の知人である若者たちには、格闘技と出会う前は暴走族だったとかヤクザをつかまえては殴っていたとかいうとんでもない連中がいて、ああいう体一本でぶつかりあってる精力の固まりのような(私にとっては愛すべき)奴らに「売春を否定する家庭のモラル」なんていってとても納得してもらえるとは思えない。こないだもある飲み会では、風俗ネタで盛り上がっていた。インテリのプロとしては、そうした人々をも説得するだけの論理と表現技術が求められるところだろう。