(6月某日)

  久しぶりに「皆殺しブックレビュー」三人組(私と福田和也、佐藤亜紀)で飲んだ。とりあえずテーマは佐藤さんを励ますこと。彼女のHPにあるように、新潮社とトラブった由。それも新潮社前でガソリンかぶって死んでやる、というのだから穏やかではない。そもそも我々の鼎談が中止になったのは彼女がパリの図書館に籠もってメッテルニヒの伝記の資料あさりをしてくることがきっかけだった。その本の出版がいきなり放棄されたというのだから、人ごとではない。

 平野啓一郎氏の盗作問題などは、私にとってはゴシップだから縁遠い。そういえば池田晶子さんがサンデー毎日のエッセイでなぜか「皆殺し」に触れ、トラブルって相手が謝ったと書いている。名指しの割には事実関係の怪しげな文章で、何のことやらよく分からん。これもゴシップの類いとしかいえない。

 ただ、佐藤さんについては福田評では「未完の大器」、私はメッテルニヒ伝は大佛次郎の「パリ燃ゆ」に相当するような作品になるのかと期待していただけに、なんとか活字化されるよう希望している。

 ところで福田氏といえば、『作家の値うち』が話題である。この件、先日読売書評委員会OB会でも持ちきりだった。ただ、その場の諸氏の反応も、また各紙の評価も私にはまったく釈然としない。みんな、なんでこうも私と感じ方が違うのか、と唖然とするほどだ。

 皆さん、点数をつけるのがあざといとか、点数自体はすでに渡部直巳氏や中上健次氏らがやったので二番煎じだとか言う。そんなこと、一体論じる必要があるのか。私にとってあの試みが重いのは、とりあえずは「現存(流通)するすべての作品」の評価をしてしまったからである。こうした評価は、自分の趣味判断の全体像を満天下にさらけ出す。あれをやられた以上、今後すべての批評家・書評家は、自分に批評する資格があることを示すために、同じ試みをやらねばならなくなる。「値うち」は一般には純文学への叱咤激励が目的とされているが、私には批評家の資格を問う作品と思えたのだ。書評欄にも、只誉めるだけでどういう資格あって書いているのか怪しい人が多い。自戒させられる作品だと感じた次第だ。

 内容についてあえて述べるなら、林真理子さんにかんし、かつては自分を戯画化するほど懐が深かったが、今は自慢しているだけ、という。私と同じ判断である。中沢けい氏、江国香織氏、川上弘美氏を買っている点なども興味深い。今度よく読んでみよう。塩野七生氏、夢枕獏氏をはずしたのは理由がよくわからない。二人とも福田評は低くないはずだが。それと、文章の評価と点数がずれているような気がするものもある。となると、点数自体はやはり付け足しになるんじゃないか。

 ところで「趣味判断」について、私は最近二つの興味深い文章を読んだ。ひとつはD.ヒュームの「趣味の基準について」。過去、現代思想に訳がある。カントの判断力論に影響したとされる文章だ。福田氏がシャフツベリーら当時のヨーロッパの趣味論の系譜を意識していることは間違いない。

 もう一つは、意外なことだがD.リースマンの『孤独な群衆』(みすず書房)。リースマンによると、他人指向は、組織化された資本主義を支える社会的人格である。対照的に内部指向は競争的市場に相当する社会的性格で、ウェーバーの言うプロテスタンティズムの倫理ないしは新古典派的な自己決定倫理を体現しており、立身出世という価値観が確立されている。ところが他人指向ではそうした価値観が不確定になるので、他人の発言に敏感になり、他人との間で価値観を共有しようとする、という。そのためには「趣味の交換」が重要になる、というのだ。社交は他人社会において人が自律するための条件となるんじゃないか、というわけ。これは閉鎖的情報空間において評価の見せびらかしをすることが流行となっている昨今の状況を言い当てていると思う。 

 

(6月某日)

河合塾から印税振り込みの知らせがあったので、何かと思ったら、阪大法学部の入試に『自由の条件』から使われた文章(「電子メディア民主主義の可能性」)を問題集に転載するとの由。しかし河合塾から知らされるまで、そもそも私は阪大入試で使われたことを知らなかった。同じ国立大学所属だから知らせなくてよいということだろうか。もちろん印税など要求するはずもないしまあ名誉なことではあるのだろうが、せめて使用したことくらい通知してくれてもよさそうなものだ。

 今年にかんしては、他に同書からは「自己決定論」の文章が獨協大学で用いられたが、こちらは丁寧に挨拶状と草加煎餅を頂戴し恐縮した。私立大学や予備校の方が国立よりも礼儀正しいということなのだろうか。   

 

(6月某日)

 小野善康氏と対談した『SIGHT』が出版された。表紙は桑田佳佑。

 小野氏のケインズ解釈を私は高く評価していて、消費資本主義論でも大きく依拠させていただいた。要するに市場が長期においても不均衡になるには貨幣そのものへの保有願望がプラスでなければならず、その分だけ消費に支出されないから売れ残りが出るという説である。これを認めないと市場は均衡するから非自発的失業は存在しないことになる。近代経済学は恐ろしいことに、この十年からの不況をたんなる調整過程としかみなさないのだ。会社が倒産して首括って死ぬ人がいようがそんなものは「調整過程」にすぎないというのである。

 ではなんでそんな暴論を説くのか。ここに小野氏からいただいた傑作な文書がある。小野説を論評した福田慎一氏の『経済研究』1996.1号論文である。なにが凄いって、ここまで無防備に新古典派が自説をあからさまに展開した文書は滅多にないからだ。

 福田氏によると、小野説とは@流動性選考の非飽和性、A財市場におけるスラッギッシュなフロー調整から成る。それに対してこう言うのだ。

「しかしながら、今日のスタンダードなマクロ経済学の観点からは、これら2つの前提条件が認められるかどうかは大きな問題である。実際、これら2つの条件を認めることは、ミクロ的な基礎を重視する最近のマクロ経済学の流れのなかでは一種のルール違反であり、大きな違和感を感じてしまう。」

 小野説は、いくらマクロやミクロの経済学が否認したとて我々の眼前にはっきりと存在する非自発的失業をなんとか理論に組み込むための努力を煮詰めた結果として提出されたものである。我々は大阪のミナミ辺りでは昨年来無数のホームレスを目の当たりにした。高度成長期以来、接したことのないような光景である。その実感を大切にするのが学者のつとめというものだろう。しかし福田氏には、そんなことはマクロ経済学の教科書に書いてないからないものはないのだというのである。もしくは目の前に非自発的失業が存在していると考えることじたいが「ルール違反」だというのである。こういうのを「思考停止」という。

 こうなると、どんなに事実により反証されても教典に書いてあることは覆されないとする宗教と同じである。ついに新古典派も宗教になったのか。新古典派はポパーの名前を騙って科学だと言い張ってきたんじゃなかったっけ。これじゃ有名人をひっぱってきてホンモノらしく見せている法の華となにもかわらんな。ポパーが泣くぞ。

 先日の新聞によると、「ニュートリノに重力があることが判明し、量子物理学の教科書が根本から覆った」との由。やったのが東大の研究者だから同慶の至りだが、それだけでなく反証可能性という基準が有意味だったということで、すがすがしい気がした。

 ただし私自身は小野説には若干の異論がある。その点は議論したのだが、『SIFGHT』では活字化されていなかった。私は不況期には不安から貨幣を保有するとみなしているのであり、そこが違う。この件に関心をお持ちの方は、『大航海』次号の原稿を参照されたい。

 

(6月27日)平等論の隆盛

このところかつて平等を謳われた日本社会に所得格差が生じていることが指摘されている。高度成長期には北欧・中欧並みに(結果の)平等性が広がっていた日本社会において、80年代からは逆に格差が生じ始め、いまや英・仏・独と同等になっているということらしい。これには職業や教育、資産にかんしても格差が世代間で継承されるということも含まれている。つまり金持ちの子は金持ちになる可能性が高い社会になりつつある、ということだ。過去の日本でいえば、戦前に近い階層構造となっているのである。

 確かにそれは、事実として認められるところであろう。所得分配の不平等を示すジニ係数(完全な平等で0、不平等が大きいと1に近づく)は、80年に0.349だったのが、95年には0.441に上昇している。プロ野球選手のように年俸5億円を稼ぐ者がいる一方、生活保護を受ける世帯は95年の60万から99年には100万に届きそうになっているといえば分かりやすいだろうか。

 こうした議論は「所得格差」(橘木俊詔)や「職業的地位の再生産」(佐藤俊樹)の面から検討されてきたが、存外根の深い問題だと気づいた。苅谷剛彦氏の「『中流崩壊』に手を貸す教育改革」(『中央公論』七月号)に接したからである。教育面でも格差は広がっているが、それはどうやら経済・社会にかんしての格差の動向と足並みを揃えてのことらしいのだ。

 苅谷氏は、本年一月の「二十一世紀日本の構想」懇談会(河合隼雄座長)の報告書について、「自ら学び、自ら考える」個人、「主体的・自律的」に行動できる個人作りを目指す「新しい学力観」を謳っているものの、それは要するに「強い個人」による自己決定と自己責任の社会とそれを担う人間を作るための教育を目指すのだと総括する。従来の平等志向の日本社会が個の自立を妨げてきたのであって、「結果の平等」に「機会の平等」を置き換えねばならないとする主張だというのある。

 けれども苅谷氏によると、懇談会の報告書が子供に求める学習意欲そのものが、すでに階層によって差を持たされているという。現実には階層差により等しくは強くなりようのない個人に、報告書のように競争を強いるならば、「一部の『勝ち組』の意欲は高められても、不利益の累積とその顕在化から諦めの気分が広が」るはずだ、というのである。とすると、完全に「結果の平等」と切り離された「機会の平等」など机上の空論だということだろう。こうした教育論は、個人間の競争を奨励する市場楽観論と同じ「強い個人」を理想としているのである。

 そういえば、身体化された既存の技術や知識を「リセット」することを盛んに唱える人がいる。これは新しい職場で再スタートすることを可能にするというわけだ。ところが苅谷氏もいうように、それが可能なのは一部の「強い個人」だけであり、そうした規範を全員に強いることは一見すると失敗しても再出発できるというのでリベラルにも思えるが、実のところそうした規範の元ではさらに格差が広がり、若年層は絶望感に覆われているというのである。

 ここで明らかになるのは、市場均衡論は「強い個人」(合理的個人といいかえてもよい)や「リセット」しうる人格、機会の平等、自己決定論などとセットになっているということである。これは市場不均衡論、格差の存在、平等性基準への制度的な補完論などのセットと対立する。というのも、後者では非自発的失業が存在すると考えるから、当然格差も生じうるのである。

 先日ゼミで検討したウォルツァー(『正義の領分』)も、リベラリズムは解決策が単純すぎ、階層社会の現実をうまく解決する力に欠けると主張していた。独占は不正であり、優越財はどのようなものも平等に(機会を均等にさせるように)再配分しなければならないというのがリベラリズムであるが、その再配分基準は時と所を選ばない「単一的平等」であってむしろ事態を悪化させているのだ、とされる。

 一方ウォルツァーは、「すべての社会的財は自律的に配分されるべし、特定財の転用の範囲を狭めねばならない」として、様々な財が独占的に保持されているが、どのような特定の財も 転用可能ではない「複合的平等」の社会を構想する。金持ちが存在すること自体は不平等ではないが、金を使って学力や社会的地位、教育、神の恵み、国家権力をも得ることのできる社会は不平等だ、というわけである。

 平等性の基準とは何か。この辺り、今後重要な論点となりそうだ。