(8月某日)

 家族旅行で家内の父方の実家のある佐渡に来ている。とりあえずの目的は、九三年以来、久しぶりに相川町二見の「金子茂」さん宅に泊まることである。金子さんは義父の叔父に当たる方だが、東京で出会った佐渡出身の人にも知る人がいるほどの、ちょっとした著名人である。というのも、茂叔父は、なにごとにつけつましくするのをモットーとしており、坂道の下りにさしかかると自動車のエンジンを切ってしまうのである。戦時中からの癖だとかで、それゆえスピードは時速20キロほどになる。歩く人より遅い変な車というので、佐渡の有名人なのである。

 私と家内はこの茂叔父に気に入られている。というのも、叔父はなかなか風流人でもあって、昭和二十七年から二見の遊郭の一軒を買い取り、いろりや五右衛門風呂などをこさえる生活をしている。裏庭にはかぼちゃやナスが植わっており、さながらつげ義春の「李さん」一家なのだ。そこに、骨董趣味が加わる。けれどもなにしろつましい人であるから、海岸に打ち上げられたものやら(朝鮮からか?)、取り壊した家からとか、金山の周辺の道ばたからとか、いろいろ拾ってくるのである。家の中には江戸時代の便器やら鳥の剥製やら屏風やら皿やら数十年にわたる収集物がゴロゴロしているのであるが、なにしろ見て面白がる人というのはあまりいない。

 遊郭は風情が町並みに残っている。盛時には、金山労働者が余命三年とかの労働から解放されたり、帆船が凪で港につくと船員がどっと繰り出して、何日も散財していったという。叔父宅はその中の海産物問屋を買い取ったもので、表から裏に抜けると、かつては岸壁になっていたらしい。一階の中央にいろりがあり、うしろはつくりつけの箱階段、二階に上がるといろりの上は吹き抜けになっていて、上空に神棚があり、二階から下を望む作りとなっているのである。

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 他の隣家もこうした作りらしいが、中に入るとシャンデリアが飾ってあるなど、古いものは珍重されていない。かつては東京から悪徳骨董屋がやってきて、ごっそりと船箪笥など買い占めていったらしい。叔父の趣味を分かる人は近所にも親戚にもなかなかいないのだ。そこで骨董に趣味がある家内や、町並みに関心のある私が面白がると、いろいろ奥から集めたものを出してきて、喜んでくれたものだ。

 ところが今回、来てみて驚いたことが二点ある。

 第一には、茂叔父が見せてくれた「二見新地地区 まちなみ現況調査委託 報告書」である。調査は相川土木事務所所長が依頼し、「新潟県建築士会 佐渡支部」が実施している。それによると、二見は平成六年に新潟県都市整備局が行った「にいがた建築まちなみ100選」に選出されており、その現存建築16軒のうち3軒に今回の調査が入った。いずれも建築時より120年が経過しており、「海運関係の商家であり、全面道路より裏の海岸まで広い通路があり交易品を船に積み込む、又積み降ろしの為に非常に便利に便利になっている」。叔父宅はその一軒として精密に図面に写し取られたのである。

 すでに31軒が取り壊されており、「社会的財産を珍重保存」することが将来的な目標となるとのこと。叔父のヘンな趣味は、ここへきて社会的にも認知されつつあるようなのだ。

 調査の活字部分を書き出す。

「2階の道路側和室8畳2間は『平入りはね出し造り』となっており、冠婚葬祭、正月、盆に使われた。縁側の目的は、2階を広く(広く見せる)ためで一階は雨風を防ぐ等の役割だと思われる。当主の話によると、購入当時は、海側には船の着岸が出来るように岸壁があった。」

「表玄関(写真) 国道に面した表玄関は『平入りはね出し造り』の部分にあり正面より奥行きの長い建物は、戸袋以外はほとんど窓」

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「居間(写真) 堅牢で機能的な箱階段は、シックイ壁をバックに美しい。今も確かな職人の冴えた技が光る階段。」

「居間 4mの天井高、大黒柱と化粧梁、黒ずんだ木材とシックイ壁、年代が美しさを増す価値ある空間である。」

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「2階8帖 出書院のついた床の間、向かって右側は道路側で『はね出し部分』。建具を戸袋に引き込めば8帖間と8帖間が全面開放、なのに2mの天井高は、当時としても低いのではないだろうか。

出書院脇のアーチ型の戸襖、廊下側むに開けると真ん中から折れる片開き戸」。

 第二は、ガラクタに見えたものに発見があった話。新潟日報の昨年八月七日付けによると、「佐渡相川で旧式の鉱山石臼発見。金銀山 定説より早く操業か」。リード文によると「慶長六(一六○一)年とされる佐渡相川金銀山の発見以前に使われていた型の石臼が佐渡相川町でこのほど発見された。六日、現地を訪れて石臼を調査した帝京大の萩原三雄所長代行は、『相川金銀山は戦国期の一五○○年代後半から操業していたと考えられる』と推測。従来の定説が覆される可能性が出てきた。」

 本文。「この鉱山石臼は、同町二見の金子茂さん(87)方で見つかった。石臼は一五○○年代後半に中部地方を中心に使われた『湯之奥型回転臼』と『黒川型回転臼』。二つとも直径四十センチ前後、厚さ十五センチ前後の上臼部分で、金子さんが三十年ほど前に旧鉱山町の同町相川地区から拾ってきた。

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 萩原所長代行によると、『湯之奥型』と『黒川型』も十六世紀後半に古手の鉱山で使用された旧式の鉱山石臼。佐渡で多く見つかっている慶長期以降の『定形型回転臼』よりも鉱石を砕く能力が低く、慶長以前の型に間違いなく、慶長以後に使用されたとは考えにくいという。

 ・・・地元の佐渡金山遺跡整備調査室の佐藤俊策調査員も、『相川金銀山とその鉱山町は江戸初期の佐渡奉行、大久保長安によって開かれたと考えられていた。しかし今回の発見で大久保長安が来る依然からすでに同金銀山は操業され、鉱山町が形成されていたと考えられる』と話している」。

 茂叔父がどこからか拾ってきた石臼のせいで、佐渡金銀山の歴史がさかのぼって解明されようとしているのである。そういえばあの石臼は、前回来たときも雨ざらしになっていて、叔父は自慢していたものだった。ケッタイな趣味に大発見というオチがついて、叔父はご満悦の表情なのであった。

 もっとも、時速20キロの車で連れ回されて、ガラクタを収納してある道端の掘っ建て小屋の「別荘」を見せられたり、「見てけ」というから庭に入ったら金持ちの知人の家だったり、蚊が泊まった家中にうようよいたり、つきあうのも大変なのではあるが。