| (9月某日)篠原事件についての感想 この欄の読者(!)の方から、オリンピック柔道の篠原の判定について感想を書けとのメールをいただいた。で、さっそく書こう。
この事件、ポイントは二つあると思う。一つは、内股すかしの判定そのもの。二つは、抗議のあり方である。
日本側は正確な判定なら篠原の勝ちが当然で、あくまで審判のレベルが低いのだと主張している。たしかにこの大会、ひどい審判が多い。私がまず驚いたのは女子・楢崎の決勝の一本負け。背負いに入られたものの逆に逃れ、その勢いで自分で背中から落ちたら一本にされてしまった。この判定から見る限り、今の国際柔道では一本の基準は「畳に背中が着くこと」であるらしい。レスリング出身の審判にはついそう思えるのかもしれない。
それは酷いと私も思いはするのだが、審判の判定基準を適正化するというのは、審判への技術セミナーや国際審判規定会議の話題である。それにしても、日本側の指導がいつまでも無条件に通るとはいえない。現在、世界には様々な格闘技があり、それぞれが矛盾さえしかねない判定基準をもっている。柔道が国際化すれば別の格闘技から選手が入ってくるわけで、判定にかんする常識も混在する。何が一本の基準になるのかについて講道館が絶対的な権威をもって決めることができるというのは妄想だ。それは判定基準を決める場で議論したり影響力を与えたりして時々に決まることでしかない。今の審判規定は日本側が暗黙に思っている通りのものなのだろうか。そうでないなら日頃、影響力を与えるような外交をちゃんとしているのだろうか。
それと、個々の試合の現場で判定をどうするのかというのは別問題である。
楢崎の試合については、私には審判規定そのものが変わったのかな、と思えた。で、篠原については、難しい。内股すかしで一本を取るには、相手は腹這い、自分はうつぶせになる。ところが篠原は自分も横に落ちた。ドイエは完全に裏返ったのだが、篠原も崩れた分だけ割り引かなければいけないのかもしれない。楢崎のときの判定なら、ドイエは背中をついたのだから文句なしに篠原の一本勝ちなのだが。ということは、これを篠原の一本というには、「背中をついた方が負け」という基準を採用したことになってしまうのではないか。審判の見る角度もあるし。
この辺り、日本柔道の考えている暗黙の常識では測れない事態がいくらでも出ている、ということなのだろう。野村が金をとったにしても、一回戦では完全に裏返った。すくい投げを食ったので、自分から一回転して腹這いになったのだ。当人も言うように、審判によってはあれを一本と判定する人もいるだろう。
柔道は投げ中心の道を辿ることに決めた時点で、判定でもめるしかなくなったのだと思う。KOルールに慣れている打撃系の人間から見れば、頭から落とした方が威力があるとさえいえる。それだけ曖昧な世界で、しかも思惑の交錯する世界大会で、自分の意思がいつまでも通ると考えるのは甘えではなかろうか。
となると、判定内容よりも抗議の仕方で決定的なミスがあったと見るしかない。審判規定では、主審がどちらかに勝ちを申告し、副審ともども場外に出たら試合は決着する。それをひっくり返すには、勝ちの申告か、少なくとも場外に出る前に抗議するしかない。篠原にそれを求めるのは酷である。となると、監督かコーチが試合中だろうが血相を変えて抗議するしかない。それをしなかったのはなぜだろうか。試合後でも不満を言えば自分たちの権威が通ると思っていたのではないか。恥ずかしかったかもしれないが、監督は信念をもち、泣き叫んででも抗議すべきだった。
そもそも監督・コーチは、試合前に、こういうケースにはどう対処するのか、決めていたのだろうか。通訳が必要なら、事前に準備しておかねばならない。抗議じたいが容認されてはいるのだし、審判も人間だからミスジャッジもある。抗議しなかったら負けは負けだ。ちなみに北斗旗では試合後20秒以内にセコンドが抗議すれば審議に入ることになっていて、盛んに抗議がなされている。
篠原の優勢勝ち、山下監督の一本負け、総合で負け。というのが私の結論だ。
異質な価値観が混じる世界で自分の意志を通そうとすれば、ルールを活用するしかない。日本柔道はいつまでも本家意識がぬけず、何も言わなくても他人は分かってくれると思いこんでいると思う。監督も闘っているはずなのだ。 |