| (9月某日)
8月中にもかかわらず、ゼミ。次回相関研究会には我がゼミ生の要望で政治思想史学者の渡辺幹雄さんをお迎えすることにしているが、その場に備えて渡辺さんの『ロールズ正義論の行方・増補新装版』(春秋社)および『リチャード・ローティ−ポストモダンの魔術師』(春秋社)を検討した。ロールズ本の方が渡辺さんの会心の業績に当たるそうで、そちらを主に読む。
この本はごく本格的専門的なロールズ論で、ロールズの前期(『正義の理論』1971)と後期(『政治的リベラリズム』1993)の間の内容的な転換をどのようなものとして解釈すべきかについて、独創的な自説を展開している。
ロールズの『正義の理論』は、正義とは何かを巡り、合理性(個人の利益の合理的追求)と道理性(正義)の両立可能性をカントの社会契約論によって探るものであった。いわゆる「無知のヴェール」のもとで、当事者たちは合理的に行動する、すなわちマキシミン原理に従って正義の基本法を選択するので、その結果としてかの正義の二原理が導かれるというのである。この論理は社会契約論であり、それは従来の正義論の柱である功利主義を批判するために立てられている。
ところがこの主張は、実に様々な批判を受けることとなった。中でも著名なのは、リバタリアン(ノージック)によるもの、新古典派厚生経済学(アロー、ハーサニ)によるもの、そしてコミュニタリアン(サンデルら)によるものだろう。本書では、まずハーサニによってマキシミン原理が論破されたとみる。仕方なく合理性に代えて「安定性」すなわち秩序の実現可能性を挿入し、それと道理性の両立を図ったもののうまくいかず、そして転向を余儀なくされたというのである。
「転向」の意義については、所説あるらしい。川本隆史氏の『ロールズ』など、戦線を縮小したにすぎないというやけにロールズびいきの書き方である。川本氏はもともとロールズを、論理の演繹だけで押すのでなく実際の社会心理として受け入れ可能かチェックする「反照的均衡」の論理を駆使した人として持ち上げてきた。それゆえか、転換は理論的というより実践的な社会生活の必要に応えるために生じた、としている。ロールズはそもそも危機を迎えてさえいなかったとする立場である。
一方、通説はクカサス=ペティットの評価あたりにあるようで、ロールズはハーサニの批判を受けて以降、いったん道理性を強調するカント主義に接近したが、さらにコミュニタリアンからの批判を受け入れる形でカント主義をも脱した。つまり、ヘーゲルに接近、突き抜けてW.ジェームスやJ.デューイのプラグマティズムへもたどり着き、道理性にもうひとつの柱を添えて二本で立とうとするカント流の社会契約論を諦めることとした。その結果がリベラリズムにかんする「重なり合うコンセンサス」論だった、という評価である。
同様の言い方を、もっと皮肉っぽくしたのがローティの説で、自由・平等・博愛なんていうのはそもそも歴史的偶然にすぎないのに、これを普遍的原理(それぞれを平等な自由、機会均等、格差原理という正義の二原理)で基礎づける「基礎づけ主義」を取ったのが間違いだった、それを放棄したロールズはいまや優秀なポスト・モダン・リベラリストで、同慶に耐えない、と論じている。
渡辺さんの意見はローティにほぼ近いのだが、ただカントの社会契約論は捨てたものの、道徳的人格論にかんして一層深まった、と見る点が独創的である。
私としては、転換についての渡辺説にまったく納得できた。執拗な論証に、思想史家というのはえらいものだなあと感心さえした。ただ、つい傍観者的にいってしまうと、奇妙な読後感を持ったのは事実である。
この本によると、ロールズの仕事の二本の論点のひとつ、社会契約は破綻し、ふたつめの功利主義批判もロールズはむしろやっつけるより自分で洗練してしまったという。これではロールズその人の政治思想に対する貢献は存在しなかったことになるのではないか。川本氏はロールズの「オッカケ」のような全面肯定的な書き方をしているのでとてもこんな結論は出さないだろう。ロールズに貢献がなかったというのなら、「カントの現代的意義」を論じさえすればよかったことになりはしないか。
では社会契約論は何のために論じたかというと、川本氏が社会契約で現代日本の荒れる少年問題も解決だ、と言うのとは対照的に、社会的に注目され学界で出世できたから意義があった、と渡辺さんは仰る。けれども思想と社会の接点がそんなところにしかなくて良いものだろうか。
もっというと、サンデルによる批判以来、ロールズも正義を歴史的文脈を意識しつつ語らざるをえなくなった。けれどもそれは、結局はカントに戻るというよりも、カントを越えて彼が克服しようとしたヒュームの経験論にまで遡らざるをえなかったということになるのではないだろうか。
実は私が一番関心をもつのは、この辺りなのだ。ロールズにしても、新古典派的な正義論を越えるためにいろいろ論陣を張っているのだが、そもそも新古典派批判はケインズがそうであったように、またハイエクが強く惹かれていったように、イギリス経験論の流れに立ち戻らざるをえないと思えるからだ。 |