(4月某日)

 土曜日。3部は10人ほどの出である。高松さんの指導。久しぶりに指導される側に回ったので、気持ちよくアグレッシブにスパーできた。普段はどうしても受け身になってしまう。私考えるに、ビジネスマンともなればウィービングやダッキングなど上体を振ってパンチをよけるのはなかなか難しいのではなかろうか。個人の能力差もあるが、なにより年輩者は反応が遅い。そこで私はスタイルとして、前後へのステップで距離を測り、出入りを激しくして相手の間合いを崩し、一方防御は基本的に腕を顔に巻いてブロックするという形がいいのではないかと考えている。距離感は歳に関係なく身につくし、腕ブロックは上腕をウェイトで鍛えれば誰に可能だからだ。年老いたJ.フォアマンも、この手をつかっていましたね。この日のスパーはかなり調子よかった。

 それとこの日の稽古で、初めて相手のパンチに合わせての膝蹴りがジャストミートした。飯村健一先生にいやというほど食らっている「テンカオ」ですね。逆にやれると気持ちいいものです。これもブロック技術が上達したせいかと思う。

 

(4月8日)

 大道塾の主催する北斗旗ルール以外の大会、交流戦『THE WARS 5』が後楽園ホールで開かれた。初期のWARSはグローブ・マッチに主眼を置いてきたが、最近では寝技への対応が主題となっている。前回は修闘のランキング上位プロの九平選手および中尾受太郎選手に大道塾の森直樹選手と山崎進選手が修闘ルールで勝つという好結果だっただけに、今回も成果が期待された。現在、全国でさまざまな形式の寝技系の格闘技が発展しているが、それらに大道塾勢が挑戦する形である。2001年の世界大会に向けての寝技の修得が課題だ。

 とくに注目されたのが、セミの小川英樹−田中健一戦と、メインの山崎進−美濃輪育久戦だった。小川は大道塾の軽量級で前人未踏の5連覇、中量級でも続いてチャンピオンとなった軽いクラスのエースである。立ち技には天才を思わせるものがある。田中選手は初代の修闘ライト級チャンピオンで、北斗旗ルールにも挑戦した経験がある。しかし今回は、より修闘ルールに近い「WARSルール」。しかも裸である。いったいどうなるやら。美濃輪選手はプロ格闘団体「パンクラス」の若手である。しかもルールは世界でも最近は禁止の方向にあるパンクラス特有のバーリ・トゥード・ルールの「パンクラチオン・ルール」。頭突き・肘有りという過酷なものだ。山崎は柔道出身で総合系の練習をつんでから大道塾に入門してきた人材である。結末は、予想がつかない。

 僕は同僚の東大教授にして元・大阪地裁裁判長であるO教授、そしてセゾン総合研究所で僕の連載の担当であるH嬢とともに観戦。ところが初戦から暗雲がたれこめた。大道塾の川口選手が打撃ですら良いところなくパレストラ北海道の山下選手に攻め込まれ、その揚げ句あっさり十字を取られて一本負け。立っても袖口をつかまれてパンチを封じられるなど、我々が優位とするはずのジャケットでのルールで完封されたのはどういうことか。このルールでの研究は寝技系の他流派の方が進んでいるということだろうか。

 アマチュアでパンクラス公式ルールに似たルールを採用している(掌底での打撃あり)真武館主宰の「全国格闘技選手権」軽量級チャンプの赤崎選手対、我らがビジネスマンクラスの指導員でもある昨年の北斗旗軽量級チャンプ高松猛選手の闘いは一進一退でドロー。寝技もひけをとらなかった。道着ありのこのルールには我々もかなり適応できることがよく分かった。

 しかしプロ・シューターの鶴屋選手対大道塾の土居龍晴戦は悲惨であった。前回この対戦は、道着ありでドロー、その再戦である。しかしなぜか今回は裸。明らかに鶴屋有利である。というか鶴屋の専門ルールである。そして投げ−袈裟固め−Vクロス・アームロックで「折るぞ」の声とともに鶴屋の一本勝ち。折れはしなかったみたいだが、土居の腕の筋は完全に伸びてしまったようだ。負けたことだけでなく、怪我には後味が悪い。しかし、もし道着ありならばあの技では下になった者もつかむことができるから簡単には取られない。だが裸だと逆に攻める側が断然有利になる。つかむところがないうえにグローブでロックが抜けにくくなるからだ。なぜ準備もなく相手のルールで再戦となったのか、理解に苦しむところだ。元々我々は社会体育としてスーパー・セーフ面を着用しているのだから、交流戦は本来、面を取っただけの道着ありでやるのが筋だろう。一流選手はそれくらいは対応できるだろうからだ。しかし裸かつ寝技の時間を長くとるというのは、我々が本来の目指す「実戦」からはかなり離れている。この試合形式がどれほど北斗旗世界大会につながるかというのは疑問だ。

 山崎−美濃輪戦は、さらに陰惨なものとなった。美濃輪がタックルや抱え投げで終始上になったままとなった。しかもマウントにもならないが、このルールでは膠着しても立たせないのである。これは我々の想定する実戦とはさらに離れている。そのうえ上になった美濃輪選手がみずから放った頭突きで額を切り、大出血。そこで上下から互いに肘を打ち合うという壮絶なものとなった。試合そのものは迫力があったし、美濃輪選手のタックルの威力やスタミナには心底感心したが、それでも流血を放置したのは社会体育としてはどうだろうか。山崎選手も、最後まで気持ちが折れなかったのは凄い。しかしこの形式の試合はあまり見たくないというのが本心ではある。やるとしたら仕事をやめて稽古に打ち込むしかないだろうし、そもそも大道塾の打撃中心の練習をしている場合ではないかもしれぬ。それほど普段の稽古からはかけ離れたルールだった。バーリ・トゥードの中で我々なりに安全で実践的なルールを提唱すべき時期だけに、考え込まされた試合だった。しかしそうだとすると、パンクラスとの交流戦は難しくなるのだろうか。僕としても、これまでパンクラスの尾崎社長とお会いするたびに丁寧に「交流戦はいかがですか」と言われて満更でもない気持ちになっていただけに、いささか気が重くなった。ただ、プロとしてアマチュア団体の試合に出場して下さった美濃輪選手には、感謝したい。

 収穫は、小川が立ち技の打撃で格段の差をみせつけたことだった。スピードが違う。天才の中央デビューは無事終わったのだが、しかしそれもなぜか田中選手が寝技に固執せず打撃に終始したからであった。本当の試練は次回以降に来るのかもしれない。

 池袋の宴会場には、パレストラ勢とアナウンサーをして下さったコメディアンにして元大道塾寮生のコンタ・キンテさんが来てくれた。高松選手は、一時はコンタさんの芸能界での動向が気になって仕方ない様子だったし、空手家としてもなかなか成績が上がらなかったが、ようやく王座を手にし、この日は後楽園のリングにそのライバルのアナウンスで上れた。感無量だったのではなかろうか。こうして複雑な心境のまま深夜までO先生、H嬢と杯を交わし続けたのであった。

 

(4月某日)

 雨の中、もうすぐ3歳の息子を連れて、西荻窪のライブハウス『BINSPARK』へ。のなか悟空と「人間国宝」のライブを聞きに行った。フリージャズ・ドラマーののなかとは85年からのつき合いだから、かれこれ十五年近い知り合いである。「日本一うるさいドラマー」とのふれこみであるが、このたびついに念願のメールス・ジャズ祭(ドイツ)出演が決まった。世界で5本の指に入る名ジャズ祭である。一会場で7000人からは入るという。これで、私が88年に開いたコンサートの出演者のうちから、アルトの早坂紗知のグループ、ベースの不破大輔は「フェダイン」および「渋さ知らズ」で二年連続、そしてやっとのなかにも依頼がやってきたことになる。

 のなかと出会ったのは、富士山頂にドラムを持ち上げて日の出とともに演奏しようという酔狂につきあってからである。初めての登頂だったが、後にパワーリフティングで関東チャンプとなる友人の有松健が走って登り、あまつさえ米軍兵と腕相撲をしたのには驚いた。当時何の運動もしていなかった自分としてはただ歩くだけで精一杯であった。ただし、山頂でともに飲酒した有松はその晩に酸欠になり翌朝は虫の息だった。

 のちにのなかはチベットのポタラ宮やアフリカで山頂演奏を決行した。そこで格闘カメラマンの長尾迪氏と出会っているのだから縁は異なものだ。そういえば88年のコンサート「真夏の夜の夢」は「追悼ブルーザー・ブロディ」と銘打ったものであったが、その会場で二月のちに現在は小説家でもある芥川賞作家の柳美里さんが劇団の旗揚げ公演をしたと、当人から聞いた。こちらも縁は異なものである。そののなかには、大道塾の大宮支部に入会してもらった。毎度珍妙な格好で稽古に励んだと聞いている。北斗旗無差別大会では、開会太鼓を叩いてもらった。そもそも私が空手を始める気になったのも、彼らの演奏を聴いてからである。30にして楽器を始めたところでこいつらにかなうはずがないから、別のことを自分の体を使ってやりたくなったのだ。聞くだけじゃヤだからね。だから私の組み手は、フリージャズなのである。

 演奏は、久しぶりに聞いた。ちょっとおとなし目かな?息子が一曲目で寝入ってしまったくらいだから。テナーの近藤直司はあいかわらず良い。ガトー・バルビエリかと思っていたが、ファラオ・サンダースも入ってきたかな。そういえば近藤はもうひとつの顔の精神科医としては「ひきこもり」研究の第一人者として、普段は山梨に赴任しているらしい。そして彼に取材し「ひきこもり」について一冊の本を書こうとしているのが朝日新聞の『ウォッチ論潮』の私の担当だったS記者だから、やはりここでも縁は異なものである。

 

(4月某日)

 人生の垢が染みついたようなオヤジの顔を描かせれば右に出る者がない。畳の目を手書きで書き込む漫画家・東陽片岡氏の新作『されどワタシの人生』(青林工芸舎)を読む。貧乏臭い話と汚い話、世間から見れば敗残者のような登場人物たち。これが日本の経済や社会の向上に何か役立つとは思えないのだが、なぜか心がなごむ。たとえば、ダンボールに棲むオヤジたち。昔話にふけり、七色の変化球を投げるプロ野球選手だったとかホラを吹くのだが、キックの日本チャンピオンだったというオヤジのウソに、実は本物のランカーだったという若者がカミング・アウトしてしまう。そしてオヤジらを率いてキックの青空練習を始めるのである。これ、まんま我々のビジネスマンクラスではないのか?笑える一作だ。

 あと、「バー一畳」。バブル後遺症で富久町にできた土地にババアが一畳間のバーを開いている。客は一人しか入らない。「お客さん、ツウだねえ」「これでやってけるんですか」なんて会話が続く。外を見ると長蛇の列が出来ている、というオハナシである。これ、好きだな。

 片岡の描く空間は、どことなくバンコクのムエタイのジムを連想させる。ビンボ臭くて何もなく、すっきりと自分があるだけだ。

 

(4月某日)

 2月末から右肩の疼痛が抜けないので、以前『Tarzan』誌ストレッチング特集に載った阿佐ヶ谷駅前の「M治療院」へ行く。先生は、オリンピックの公認スポーツ・マッサージ・ドクター。基本が漢方だとかで、基本的には欧米的なトレーニング思想には批判的であられるらしい。漢方には「身土不二」という考え方がある。その人の住む土地でとれた旬のたべものが体には一番良いという思想である。理屈で言えば、腸内細菌などはその土地の環境に即して生きているのだから、納豆やヨーグルトなどその土地の菌をもつ食事が良いことになる。菌同士の相性が良いからだ。したがって外国産の食物は合わないことになる。これは、家屋について北海道の住宅メーカー「木の城たいせつ」社がいっていることと同じである。

 私はかなりのマッサージ・フリークだが、先生の治療はきいた。一発で直すのが基本であるという。針を打って電気を通すと、指では直接に指圧できなかった筋肉が痙攣して気持ちいい。そのあと、お灸とアイシングをしたりした。最近、芯まできかせるようなマッサージがなかっただけに、助かる。同時に治療を受けていたのはぎっくり腰を患った若い女性で、今週末に公演会を控えたダンサーだという。「一発で直るって聞きました」とやってきたが、「ハイ直りました」と言われて、怪訝そうな顔をして帰っていった。結果ははどうなったのだろうか。

 

(4月某日)

 『バンコク・自分探しのリング−ムエタイを選んだ5人の若者−』吉川秀樹著/めこん刊、の書評を書く。掲載は読売新聞(4/25)。ここに登場するアタル(廣田中)選手は、ホアヒンおよびバンコクのジムに所属していたそうだが、何を隠そう、実は私もおそらく同じそのジムでトレーニングしたことがある(といっても、本書にあるようにアタル選手にとってはそんな物見遊山の飛び入りは迷惑至極だろうが。ごめんなさい)。

 バンコクのカオサンの近くの路地裏にあるジッティー・ジムは500円だか払って稽古させてもらった。一応お客さんだから、スパーの際には途中でオジサンが氷で体を冷やしてくれ、終わるとマッサージも施してくれる。小さなタイ人と首相撲をしたが、外掛けで倒したら気分を損ねたようで、そのあとはふりまわされて立っている暇もないほどこかされた。

 ホアヒンは唯一のジムと聞いたから、ここも同じではないかと思う。数年前、大学の夏休み、ある研究所から派遣されて、「東南アジアのパソコン通信の普及について」調査した折のことである。バーの奥にリングがあって、週に一二度試合が行われている。見学のような顔をしながらリング下で選手の動きに合わせて体を動かしていると、会長が上がってこい、とおっしゃる。実は僕、ズボンの下にはムエタイ・パンツをすでに着用していて、呼ばれるのを期待していたのだ。ここでは40歳くらいのニュージーランド人が黙々と稽古していた。聞くと、元プロで今は電気工事関係の仕事についていて、ホアヒンに出張中であるという。趣味でトレーニングしているわけだ。なまった体も一月で元に戻ったとか。彼とは顔面寸止めでスパーをし、白熱した。終わってジュースを飲みながら談笑していると、何年も前からの友人のように思えた。家内はあきれていたが。出会ったばかりの外国人とどつき合ったかと思えば笑っているのだから、ヘンといえばヘンかもね。

 

(4月某日)

 ビジネスマン・クラスの三部で稽古する。漫画家のM君、東大法学部卒・自治省のT君らが二部から続けて出てくれた。投げの打ち込みと乱取りを何本かやったあと、僕の仕切に移った。えんえんとスパーをする。いつも6:30までのクラスでやっているので、8:30までと勘違いしてしまい、8時から30分スパーしたのだが、それに気づいたときに元極真だったのか極真ルールのえらく強い自動車教習所教官のU氏がやってきた。仕方なく、9時までの残り30分もスパーを続けることにした。1.5分を20本はやったのではないか。それにしても、極真ルールの強い猛者と自治省官僚が対等に打ち合っているのには感心した。ビジネスマンには、格闘家としての余計な先入観がない人に、かえって上達が早い場合がある。M・O両君はともにハイが自在に蹴れるので、両者の対戦は蹴り合いで見栄えがいい。

 で、組み手だが、この日は防御からの肘打ちに発見があった。グローブをはめていないと、アンディ・フグのようなグローブで顔を覆うタイプのガーディングは無効になる。素手だとガードの合間から拳がすり抜けて入ってしまうからだ。そこで肘まで上げて頭を覆うのだが、こうするとパンチが打てなくなってしまう。それで困っていたのだが、ためしに頭を覆う左肘を防御の姿勢からそのままうちつけてやると、これが結構入る。相手がパンチを打ってくる距離だから、間合いもちょうどいい。ムエタイで腕の防御を高くしているのも、この肘打ちへの連携があるからではないかと思った。

 9時の稽古終了後、いつもの「養老の滝」にいくと、7時頃から飲んでいる二部ビジネスマンたちがまだ居た。そこでI氏がうれしそうに聞く。「噂の真相1999年4月号」に出ていた、「林真理子が過去に松原隆一郎と見合いし一夜の関係説が」というのは本当か、と。これ、田中康夫も同じことを以前の同誌に書いていた。私が批判したことに対する反論のつもりらしい(情けない)。情報通だとでも言いたいのだろうが、ネタ元をちゃんとクレジットしてほしいものだ。この話、実は僕自身と林さんのエッセイ『思い出し笑い』が発信源なのだ。要するにこれは、当事者発表を繋げただけなのである。僕の分は、林さんの文春文庫版『美食倶楽部』の解説として出版され、今も重版されている。私の文章でこの十年間、つねに書店に配備され公表されてきたものといえばこれだけなのだ(自慢している場合ではない。俺も情けないな)。横で話を聞いていたO氏、深く頷きながら、「先輩は組み手の幅が広いからね」。違うって!真偽のほどは原文をご覧あれ。

 

(4月某日)

 近所の某所でサンドバッグ。以前間借りしていた頃は自宅の庭で通販で買ったバッグを蹴っていたのだが、ひっこしてからはそうもいかなくなった。近所でほぼ無人ののジムをみつけたので通っている。ここはまるでタイ、もしくは「明日のジョー」の泪橋のジムだ。コンクリにペンキで塗装が施されている。約1.5時間、遠い間合いから同じフォームで1−2,右−左フック、左右のミドルが出せるように反復練習。サンドバッグを相手にしているだけでも、日々新しい発見がある。この日は、左右いずれのパンチを出してもフォームが一定するような右足の構えを試した。

 K−1はトーワ杯の頃からすべて見にいっていたのだが、昨年ころからつきものでも落ちたかのように行かなくなった。どうせ後ろの席だとオーロラ・ビジョンを見ているだけだから、テレビで十分である(村浜選手らの軽いクラスの日本一決定戦は現場で見る価値があるが)。以前はいつも最前のエリアだったから、ゴツゴツいう骨の当たる音まで聞こえたものだ。第一回は隣りが相撲の寺尾関。もちろん知り合いではなく、偶然である。「今のは何で倒れましたか」などと話しかけられ、談笑しながら観戦した。いつだったかは小柄な女性が隣りにいて、帰りに漫画家のグラップラー・板垣恵介の仕切で焼き肉屋へ一緒に行くことになり、自己紹介しあったら、板垣氏の先輩の「めぞん一刻」高橋るみ子さんだった。同行した編集者が興奮しながら、「俺ら、入社した頃研修で、おまえら一生に一回でいいから高橋さんから原稿がもらえるような編集者になれといわれたもんですよ」、といったのがおもしろかった。

 さて、この日のK−1。なんといっても、フィリォ−ホーストが凄かった。いきなり右パンチをつきだしてつっこみ、フィリォのKO勝ち。ホーストはすれ違いざまの右カウンターを狙ったのだろうが、相撲のつっぱりのようなパンチで轟沈した。突然前へ出て相手の構えを崩すというのは実に極真らしい発想だ。キック同士だとリズムがあってしまうが、ホーストはこんな変なくずされ方は経験がないのではなかろうか。年輩者にも役立ちそうな「崩し」だと思う。