(8月31日)

 小浜逸郎氏の『「弱者」とは何か』は興味深い本だ。正面からの書評は別のところにアップしておいたが、そこに書いたのには尽きない面白さがある。論旨としては、要するに戦後の民主主義がそのプラスの成果を上げた現在、「弱者」とひとくくりにして意味ある集団というのは減っているし、むしろレッテル張りは個別の事情に沿った苦しみの相を見えなくする、ということだろう。たしかに、「シルバーシート」などとやられると、「老人」は元気な人でも反射的に席を譲ることになり、かえって感情の交流が不自然なものになったり、譲るという行為についても細やかに考えることができなくなってしまう。あれは気配りのできない人へのパターナリズムから設けられたのだろうが、さすがに日本人も公共輸送機関で席を譲るという学習を終えたはずだ。そろそろ解除すべきなのだろう。だがそれにもかかわらず、今も残る社会的差別というのがないわけではない。しかし、それを「弱者」と一括したり、その集団を聖なるものとみなしたりしたのでは、逆効果となってしまうというのである。「カミングアウト」という戦略がどことなく鬱陶しいのはそのせいだ。そこでこの本では、「生活の共有の中での感覚の慣れ」が推奨される。

 さて、小浜氏の主張の焦点は、あくまで「個の実存」にある。これが面白いのは、この本の記述そのものが小浜氏の生活実感を頼りに書かれているということだ。社会科学では一般に、議論する主体は客観的に議論の対象や主張をとらえることができるとされている。しかしそれこそが怪しいのは、T.クーンが述べたように、研究者とかいう人々の属する集団(「学派」という名の利益集団)ごとに「客観性」が異なることからも明らかだ。となれば議論する主体が「価値自由」であるには、自分自身の実感がどのようなものであるかを表現するしかない。ウェーバーもそうしたことを述べたが、そこでは自分の依って立つ価値意識を鮮明に表現することで客観性が保たれるという。しかし自分の価値判断がこれこれであると自覚できるというのは本当だろうか。むしろ無意識のうちにどんな価値判断を取っているのかを読者に判定してもらうという方が素直ではないか。小浜氏の場合は、それについては自覚的に、生活上の直感を文章に滲ませようとしている。る。相手に「分かられる」というのは、その直感について、共鳴されないにせよ、理解はされるということなのだろう。こうした立場は、氏が出発点とし、やがて違和も明らかにするに至った吉本隆明氏の系譜に属するのかもしれない。ところが不思議なことに、私の本を読んで下さった方から、最近私自身も同様の指摘を受けた。つまり、私の書いたものは、明示しなくとも、私がどんな生活上の信条を有しているかが暗に示されるように書かれているというのである。この指摘には、驚いた。そうした風に書きたいというのが自分のたどりついた文章作法だったからだ。伝わる人には伝わるものだ。しかしそれ以上に驚いたのは、それが吉本流だと指摘されたこと。うーん、そうなのか。

 ところで、こう言うと、公的な文章に私的な生活を描くというのは公私混同だという批判が出てきそうである。実際、アカデミズムはそうみなすだろう(自分たちは客観的だというタテマエを振り回すことで存在する人たちだから)。しかし、私的な感情や生活であれ、公共のルールを守って表現するならばそれは「公」的なのである。柳美里さんは私人の障害について私小説で傷つけるようにして書いたとされる件で敗訴した。それは私的な事柄を小説に書くに当たり、彼女が主張するほど表現が公的なルールにもとづいていない、という反発が争点だったと考えられる(私自身の判断は留保するが。原文を見ていないから)。また、江藤淳氏の自裁について、国という公的なことを主張した人がなぜに自殺などという私的な行動を取るのか、とか私的な行動こそが公的なのだ(なんのこと?)とかいう論評があったが、私からすれば的はずれだ。私人としての江頭淳夫氏が、何故にかは知らないが、ともあれ「江藤淳」という公共の場において設定された役割を演じきれなくなったからこそ自裁したのである。その通りのことが遺書にも書いてあったではないか。こんな混乱した議論が出るのも、公と私を分離した存在とみなしているからなのだろう。セクハラのように公を私的に濫用する人もいるし、私小説のように私を公的に表現することもあるはずなのだが。 

 

 

(8月26日)

 関西のとある財団の合宿勉強会に参加した。東西から著名な先生方が集まる。通しのテーマは「国家」で、もう何度か会合を開いている。今回は三つのセッションがあった。第一は、昭和の超国家主義の分析についての発表。従来著名なのは丸山真男によるもので、明治時代に成立した国民国家が連続的に肥大して、昭和になり爆発したという想定。しかしこれには批判があり、久野収にしても橋川文三にしても、大正末期に国家思想についての大きな変質があり、そこから昭和の国家主義が出てきたという断絶説をとっている。その線でいえば、昭和超国家主義は、明治末生まれの青年たちが我が国の近代化の途上で起きた初期大衆社会化状況に直面して抱いた「煩悶」が、土俗的な宗教に触れて爆発したことになる、というのが発表の趣旨だった。北一輝にせよ、大川周明にせよ、その思想が実際の超国家主義の担い手である青年将校や下層庶民青年に伝わる際に仲立ちとなったのが日蓮宗だということだ。これ自体はよく言われることだが、なぜ日蓮宗から全体主義が出たのかという点で議論は沸騰した。禅宗が自力本願であるのに対し、浄土宗や日蓮宗は他力である。前者は人間はしょせん助からないと考えるが、後者は現世を変えようとするヒーローが菩薩として出現するという説が出されて、なるほどと思った。彼が菩薩である証拠は迫害されることだから、そのままカリスマになってしまうというのである。

 ところで私が関心を持ったのは、「煩悶」青年たちが皆、大学の専門教育に対して知識の切り売りだとかこれは人生が救われる知ではないとか嘆いているということだ。これはまるでオウムの信者ではないか。そこでどうガス抜きするかが今もまた問題となる。一つには、これも昭和初期と同じだが、「エロ・グロ・ナンセンス」に走るという手がある。現在、ドラッグや暴力・ダンスが流行っているというのもその表れかもしれない。私としてはそんなものよりもガチンコの武道を奨励したいのだが。こちらは礼法があって、人を殴るという非日常を味わいながらも社会復帰できるところがミソである。ドラッグでは帰ってこれんじゃないか。さて二つ目は正面突破を図るもので、専門的な知識を人生上の煩悶に応えるようなものとするというものである。振り返るとそれを社会科学で大まじめにやろうとしたのが戦後日本のウェーバー研究だった。学問をすることで近代人としての人格の錬磨を図ろうとしたのである。だが当たり前のことだが、学者にそんな立派な奴などいたためしがない。妄想だろうということで、七○年代以降はこの立場は廃れ、社会科学は社会操作の道具か、社会批判を旨とするものとなってしまった。しかしそれでも、社会科学者が操作や批判なぞ偉そうなことをするに足りる奴かどうかという疑問は去るわけではない。社会科学を教養とみなすべきだというのが標準的な対応だろうが、私としては、むしろ社会科学者が公的な言葉で暗に自分を語るという形で、「自分論」をさしはさむべきなのではないか、という気がする。裏声で語る人間論、というところか。

 第二セッションの「安全保障論」は、ディフェンス(国防)からセキュリティー(安全)へという概念および実態の変遷について説明があった。現在ては、いわゆる軍事だけでなく、食料安保・経済安保もまた国防とのからみで論じられている。しかし私としては、第一セッションの中心課題であったように、当の社会における価値システムのセキュリティーが軍事に関係をもつという点に関心がある。アダム・スミスは分業で人生が断片化するから公事にかかわるべきだといって、軍事を正当化したし、ホッブスは宗教戦争によって価値対立から社会が破綻するのを防ぐために価値中立な国家権力の立ち上げを図った。立場は違うが、思想史においても価値システムとセキュリティーは関係ありとみなされてきたわけだ。コソボ爆撃では、NATOはとても国防を主張できないだろう。どの国も被害を被ってはいないのに、主権国家に内政干渉しようとしたからだ。これは、爆撃した側が「人権」という価値システムのセキュリティーを図ろうとした行動だと理解できる。「価値システム」と戦争、ということになると、正戦論か非正戦論かという問題が出てくるわけで、いままで戦争イコール不正と断定してきた我が国戦後の考えでは持たないことになる。やはり戦争論が再考されるべき時期ということなのだろう。

 

(8月21日)アマルティア・セン『不平等の再検討』(岩波書店)を読む。

 正式な感想文は読売の書評に書くことにしているが、正直言って、少々がっかりした。ノーベル経済学賞が些末な議論をする人やデリバティブ理論を開発した実学者に配られるようになった昨今、それへの抵抗のようにインド人開発経済学者であり経済哲学の泰斗とされるセンが受賞したので、このところセン本は結構出版されている。中でも本書は最近の彼の主張の目玉である「ケイパビリティ(潜在能力)」について深く解説しているとされる。この概念を持ち出すことでセンは、所得向上を優先する開発政策を刷新したというのだ。

 センは、貧困を効用(満足度)の低さで測る主流派経済学よりも、それを批判して所得に相当する指標の低さで測ることを唱えた(その方が選択の「自由」そのものを評価しうるとセンはいう)ロールズやドウォーキンがましだという。しかし彼らリベラル派政治哲学者たちも、貧困を「基本財」の欠如(ロールズ)ととらえるか、もしくは「資源」の欠如とみなすか(ドウォーキン)で、まだ認識不足だという。それらをを越えるのが、「潜在能力」アプローチだというのである。基本財や資源を与えられたからといって、それを利用する能力が失せていれば有効に活用できない。機会は均等なだけではダメで、各自がそれぞれに持つ潜在能力を開花させるようになっていなければならない。そういう状態でないことこそが貧困なのだというのだ。貧しすぎる余り、現状からなんとしてでも抜け出す気力すらない状態とでもいう状態なのだろう。

 けれども、ではどんな政策を採ればいいのかというと、所得を与えるのでも物財をあたえるのでもないとセンはいうのだから、結局のところは貧困から自力で脱することができる能力を与えること、つまりは識字教育というのに尽きることになるのではないか。実際、センの方針に従ってインドに施された政策は識字教育だったという。途上国の貧困を論じるのにストレートにそれ自体に向かわず、いちいち経済学批判をやらかす必要があるというのも、いかにも学界人ではある。もちろん、それでもインドの分析をもてあそんできた主流派経済学者連中を批判した価値はあるのだが。

 また、このアプローチは先進国にも通用するというのだが、まさか識字教育のことではあるまい。40歳まで生きる可能性がバングラデシュより低いとされるニューヨークのハーレムならばともかく、そうした見るからに悲惨な社会現象がなく、だらだらとした生きながらえうる日本のような国にはこのアプローチは示唆するところがあまり大きいとは思えない。日本における「弱者」の問題は、むしろ小浜逸郎『「弱者」とは誰か』(PHP新書)が的確につかんでいるという気がする。

 センの言う潜在能力の開花は、我が国でも「自己実現」といった風に言い換えられている。しかしそれはたかだか目先の消費でブランド品を持ち、他人の持ち物と差異化して満足する程度のケチなことでしかない。とても潜在能力が花開いた、などとはいえない代物だ。潜在能力アプローチ自体は重要であると思うが、その先に何があるのかが問われるのだろう。私としては、リテラシーを平等に与えるだけでなく、その先でコミュニケーションに「公共性」を回復することが必要だと考えている。