(9月25日)

  信頼する気鋭の編集者であるメディアワークス社の穂原俊二さんから贈られた新作『EXPO70伝説』を読む。内容はタイトルの通りで、今となっては「懐かしい」未来像となってしまったEXPO70とは何であったのかを、詳細なデータと写真で再現し、当時熱狂した少年たち(架空の人物も含む)の眼で論じたものだ。
 この本が興味深いのは、70年というのが我々のテクノロジーについての想像力を一変させる屈曲点になっていることをうまく掬い上げているからだ。公害ひとつをとっても分かるように、ひとことでいえばそれは、人間は技術を外部から操作したり管理したりできないという当たり前の「現実」を思い知ったということだ。この時点でテクノロジーは、少年マンガにおけるようなピカピカの未来を表象するものではなくなったのだ。たとえば岡田斗司夫はそのことを、ロケットの色に託して「銀色の未来」から「白色の未来」への転換と述べる。ロケットの色が実は白であるのが現実だ、と知ってなんとなく気が抜けた様子がそこには描かれている。同様に、当時の多くの写真は国家の祭典であるにはどこか間が抜けている様をうまく伝えている。
 『風の谷のナウシカ』や『ブレードランナー』のように、ここから廃墟として未来が語られるようになっていくのだが、けれども、だからといってテクノロジーは暗黒でのみあるかのごとき表現もまた、現実的ではない。私にとってはテクノロジーの廃墟は現在の東京の景観、たとえば電線がそうだ。『ブレードランナー』の一種の美すらそこには見られないたぐいの日常的で清潔な廃墟である。しかし景観は単純な言い方だが欧米ではもっとましなものとして保全されているのである。これはテクノロジーの敗北ではなく、それを管理・操作する我々の退廃の結果でしかない。
 ある研究会で、日産のインフィニティーやオリンパスの「ゼロ」などのデザインで知られる工業デザイナーの山中俊治氏の話を聞く機会があったが、氏によるとかつては機能美を引き出すのが工業デザインだったが、現在ではデザインは機能からは自由になってしまった由。典型的なのがiMacで、透明な内部はスカスカになっている。その分使用する人間の住空間にはトゲトゲしくないデザインになっているのだ。
 テクノロジーのデザインを、未来をバラ色にするとか廃墟にするとかいった二者択一の相で理解するのではなく、また機能にのみ対応させるのでもなく、景観を含む環境や人間の生活の次元をも配慮して構造するという作業が我々には課せられているのだろう。

 

(9月某日)

 また別の研究会。失業者が300万人を越えたことを受け我が国の雇用をどうにかしようということで、財界のトップと関係研究者がこのところ会合をもっている。その場でなぜか私も末席を汚している。議論の受け皿には、再就職や独立、起業の支援や人材情報の提供を行ない、目下注目されているA社が当たっている。この社が最終報告書をまとめるのである。今回はある研究所から、世界の雇用情勢についてのデータの報告があり、なかなか勉強になった。またこの研究会では、雇用企業経営者からは「解雇をやりやすくしてくれればもっと企業は生き延びやすくなる。雇用も回復するはずだ」といった本音の意見が聞ける。私はこの見解には疑問をもつが、そういう生の声を聞けるのこと自体は有り難い。

 研究会で報告されたデータには、興味深いものが多々あった。まず、アメリカの雇用改善は、直接的には情報産業における起業によるものではないという。情報産業は少人数でこなすのだから、むしろその周辺の「サービス産業」が雇用を吸収したのだ。人材派遣、コンピュータの対事業所サービス、エンジニアリング、健康・福祉といったサービスなどであり、中小企業が主である。日本でもこの分野は、まだまだ吸収力がありそうだ。アメリカは起業も多いが倒産も多く、それでなぜ不安が蔓延しないかというと、労働市場が柔軟であるかららしい。企業が雇用を安定させるか、市場が柔軟かのいずれかならば人々は安心するが、今の日本のようにいずれもだめだと不安が広がるということなのだろう。ちなみに、起業熱の高いアメリカばかりが参照されるが、それ以外の先進国では、既存企業の雇用吸収力がはるかに大きい。我が国はこちらに目を向ける必要があろう。ただし、独仏など既存の雇用を保護する制度の手厚い国々は不調で、それの薄いアングロ・サクソンが好調となっていて、総じて雇用は保護よりも創出が目指されている。既存企業が雇用創出する場合もありうるということなのだろう。さらに、とりわけヨーロッパでは、パートタイマーが急増しているという。とくに経済好調のオランダが顕著で、22%が38%にといった具合である。フルタイマーになりたいと考える人はOECD全体でも2割を切ったという。これは社会人になってからでも大学院に入り直すといったふうな柔軟で複線的なライフスタイルが定着したことによるようだ。

 私自身は、雇用の流動化とベンチャーの起業で雇用を回復するというこのところ言われている案には疑問を持つ。というのもこの見方では、失業とは人材のミスマッチにすぎないということになるからだ。だが消費が減り貯蓄は如実に増えているわけで、有効需要の減退は明らかだろう。貯蓄が増えたのは将来を不安視しているからであり、それは職の安定に疑問をもっているせいだから、ここで解雇など性急に行えば、一層消費が減退して累積的なデフレに突入するはずだ。人々が安心しうるだけの雇用調整制度が整うまでの解雇は、逆に失業を増やす原因になろう。また、その人材を活用する制度については、これまでの日本の企業組織の長所は、人の「なんだかよく分からない」能力を集団の中で引き出すところにあったのだから、それを失っては元もこもなくなると思う。もしそうした長所がなくなりつつあるのだとすれば、社会が代わりに行うようなシステムを政策として作らねばならない。ちなみに、消費についても、「何だかよく分からない」欲求についてその正体を分析するような定性的な調査が日本企業の得意だったのだから、労働者がどのような能力を持っているのか、求人する企業側はどんな才能を求めているのかを解析するようなシステムを作ることも可能ではないかと思う。もしそれができれば、我々は企業組織に閉じこもってコミュニティも家庭も省みないといった現状のライフスタイルを脱しうるかもしれない。我が国でもフルタイムが忌避されるようになるのかどうかは分からないが、それはそれで結構なことだと思う。っていうと自分の生活態度を正当化していることになるのかいな? 

 

(9月某日)

 ある研究会で、建設省の課長さんから「電線地中化問題」の講義を受ける。この研究会では私が前回の講師だった。同じテーマということで特別に今回も出席させていただいたのである。この会のメンバーは電線地中化には強い関心を持っておられ、電線を見るだけでいらつくという私に共感する人が多くて驚いている。私は地中化問題についてはほとんど文章も講演も見聞きしたことがなかったのでこの講義は楽しみにしていたのだが、内容は今年に始まった「新電線類地中化計画」の説明に終始した。これは私が前回一時間喋ったうち、最初の十分で片づけた部分であり、知らない事は何もなかった。案の定、質疑応答になると深い情報を求める声が上がったが、あまりこの問題を研究しておられないようで、お答えはなかった。

 建設省の主張は、要するに地中化事業はもともとが電力会社の環境汚染を取り除くためにやっていることであるから、税は入れたくない、というものである。しかし東京電力はというと、かつて円高差益分を電気料金の値下げか地中化かいずれに使うかを検討していると公表したところ、そんなムダには使うな、一円でも値下げしろとの電話がジャンジャン鳴ったとか。とすればとりあえずは公共事業として先鞭をつけるしかないと思うのだが、課長さんは「それでは九州の税金が東京に使われて不平等になる」と言う。しかし、フロアから出た発言によると、最近ホームステイしている外人に富士山を見せようと自動車で連れ回したが、電線がじゃまにならない景観がどこにも見つからず、がっかりしたとのこと。富士山の景観は公共財だから、本来が税で地中化すべきであろう。電力会社がやったことだから自分の不始末は自分で責任を取れというのかもしれないが、電線を架空したのは、高度成長期には電力の「安定供給」という別の公共性にのっとってのことであった。民間のというより、公共問題の不始末でもあったのである。それに、「計画」は、そもそもかかわっているのが官庁など国の機関であるから、せいぜい国道→県道までしか地中化できず、我々の一番気になる生活道路は放置されることになってしまう。要するに、歩道など人のいない環七は地中化するが、一番通行の多い駅につながる路地などはいつまでも電線に覆われる、ということだ。これは、地中化計画には都市計画との連携がないということでもある。ただお役所仕事として太い道から順番に埋めていくだけであって、都市計画上で重要な箇所を重点的にやるといった発想が欠けているのだ。公共事業の見直しで、ダムなどが建設中止になっているが、それが無駄遣いといわれて景気対策もままならないというのなら、是非地中化からやって欲しいものだと思う。

 ちなみに、私のこの件についての見解は、『発言者』4〜6月号「景観と日本社会」に述べておいた。