(2月某日)

 昨夏からずーっとやってきた経済思想の本がやっと一山越えた。この欄を書いてる暇がなかったので放置しておいてしまったが、よく考えたらこれじゃまるで勉強してないと自分で申告してる見たいなものだ。それもなんだか変なので、再開。

 荒井一博『文化の経済学』(文春文庫)を読む。この著者にはゲーム論によって日本的雇用には良い面があることを論証した著書がある。「自立した個人が自由きままにすれば世の中うまくいく」といった新古典派的な規制緩和論に対する強烈な反論で、制度や公共心こそが秩序をもたらすことを説くというスタンスである。

 私も同様の立場で、日本的雇用には家庭を顧みないところや不祥事隠しなど社会のルールに反して持続不可能なところがあるが、一方では所得の安定を期待させて消費も維持させる良い面があると見る。崩壊は仕方ないにしても、それならば雇用不安という代償を払わねばならなくなるということだ。

 荒井のような立場がありうることは想像していた。ところがいまひとつよく分からないのが、ゲーム論に則りつつ、むしろ新古典派の文脈で日本的慣行批判を行う論調が一方にあることだ。たとえば以下は、私自身が書いた書評なのだが・・・

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『安心社会から信頼社会へ』山岸俊男/中公新書

 社会においては信頼が重要な役割を果たしている。人がタクシーに乗るのは運転手を信頼しているからだし、お金を持つのはそれで商品が買えると信じているからだ。我が国については、集団主義社会なのだから信頼や共感に満ちているはずだ、というのが「常識」だろう。そして我々は官僚や企業、教育から医療まで、諸方面で信頼の揺らぎを感じている。

 ところが著者は無数の社会心理実験の成果を軸にそうした常識や悲嘆を粉砕し、大胆に「信頼」意識の転換を図っている。「アメリカ人は日本人よりもずっと、他者一般に対する信頼感が強い」。そして「(アメリカ人のように)人を一般に信頼しうると考える人たちは、人を信用しようとしない人よりも他人の信頼可能性について敏感であり、しかも実際に他人の行動を正確に判断できている」。一方、「(日本人のように)集団内で誰が誰に好意をもっているか正確に把握している人ほど、孤独感が強い」。これらの意外なデータから著者は、日本が「信頼崩壊」の危機にあるというのは誤解だという。

 「常識」は、信頼と安心を区別していない。相手の行動によって自分が攻撃される「社会的不確実性」そのものを、規制により集団を閉鎖し関係を固定することで絶とうとするのが「安心」だが、一方、不確実性はそのままに、社会への「一般的信頼」と他人の人間性への感受性によって得られるのが「信頼」である。安心できるに越したことはないが、規制を維持するには(お役所仕事の無駄のごとく)金銭換算してかなりの費用をもたらす。日本はそうした費用がかさんで「安心社会」が崩壊し、成熟した「信頼社会」に解き放たれつつある、というのが著者の見立てだ。

 アメリカは不信を顕わにした銃社会でもあり、雇用にしても職務の資格制度では「安心」を併用しているのではないかなど疑問も湧く。が、実験結果が多様な解釈を生む棘ある問題作であることは間違いない。

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 これ、要するに日本的雇用は「安心」だからダメで、そんなものはぶっ壊してアメリカ型社会を信頼しようよ、という個人主義のススメなのである。実験は手堅い。それなのに進言はひどく荒っぽいというか実験には関係ないところでやってるのでなんか変だなあと思っていたら、荒井著ではこの本が名指しで批判されていて、合点がいった。

 山岸は終身雇用制があれば自動的に協調が成立するようにいうのだが、「これは誤り」だ、というのが荒井のポイント。逆に公共心=信頼が前提されてこそ協調が成立するというのである。直観的にも荒井の方が正しいのは、私が書評の末尾に疑問を書き添えたことからも明らかではある。どうして組織なら自動的に協調できるのに社会には信頼がないと協調できないのかが山岸では説明されていないからだ。なーるほど、そうだったのか。

 もちろん荒井も「安心」ある日本型組織であれば手放しで誉めるわけではない。協調が悪く働くその堕落形態もありうるからで、それが派閥などの「インフォーマル・グループ」だという。公的な組織を私的な利害で動かそうとするやつである。山岸はこれこそを批判すべきであった。ところが日本型組織はまるごと堕落形態だと考え、そこにも良い部分があることを、(わざと?)見過ごしている。ミソもクソもいっしょくたにして「日本はダメ」とやったわけだ。

 荒井は青木昌彦に始まる比較制度分析も一刀両断にしている。比較制度分析がよってたつ「他人を模倣する」タイプの進化ゲームでは、個々人はあくまで私利を追求し、悪いことをも模倣している。模倣をもって協調とみなすということなのだろう。これでは堕落を批判する視点がもてない、というわけだ。

 ゲーム論業界にも結構内部対立があるのだ。そもそもイデオロギー的な前提が違うからだろう。別の文脈でいえば、政治哲学分野でも同じスコットランド啓蒙を戦後日本社会への批判的見地を支持するものとして読み解く立場もあれば、田中秀夫のように戦後市民社会の精神として受け継ごうとする立場もある。後者の論脈では、何であっても西欧の古典はみな市民社会を支持する書物ということになっちゃうのではあるが。