(10月2日)

 院生ゼミでジンメルの『社会分化論』などという「渋い」ものを読む。もともとは院生のリクエストだが、私自身、「信用」と「社交」の概念に関心がありちょうど読み返そうとしていた矢先だった。「信用」に関心がある、というのは、『大航海』の今年4月号で金融が特集された折りの竹田茂夫氏の論文「信用と信頼」にひかれたから。現在の株価は変化を予測させる特定の新たな情報が入ってこない限りこれからも続く、という「コンベンション」こそが、将来どう動くか分からない株式に大金を投じる根拠だというのが竹田氏の主張である。コンベンションは個々人の合理的な行動の均衡などではないが、「確実性」があたかも存在するかのような錯覚を社会にもたらす。それゆえに、元はと言えば個人に対するミクロな信用を反映する資産が、マクロな信用に支えられる貨幣と交換されるという。そこでジンメルの「信用」とケインズの「信頼」を繋ごうというのである。
 『分化論』そのものはこの議論には関係がなかったのは残念だったが、しかしそれにもかかわらず自分の言いたいこととの合致点が別にいくつも見つかったのは収穫ではあった。ジンメルは現代を予見していた、という人もいるそうだが、そうした人によれば売春やジェンダー、都市の議論はすでにジンメルが開拓していて最近のモードの先駆者として素晴らしいということになるらしい。けれども当方はそんな学界流行にはまったく関心がない。
 私が興味を引かれたのは、「二義性の原理」、「形式」とエッセイの関係、「社会圏の交差と大衆の低俗化」などの論点である。私自身、対立するがいずれもそれなりの意義を持つ価値の拮抗関係から議論を立てるということを『格闘技としての同時代論争』以来、試みている。今『生活起点』で連載しているのも「専門家と非専門家」といった具合に対立概念で議論をしている。ジンメルは主張が入り組んでいてすっきりしないといわれるが、それはジンメルが二重性を見逃さないからであり、一元的な極論に毒された読者がそれを理解できないからだ。
 彼のいう「形式社会学」とは、個別社会科学が具体的な素材としてデータを扱うのに対してその成果そのものをより上位のレベルで整理しなおすものである。これは個別科学に対する「相関社会科学」ということだ。また、各論としてのエッセイを全体として統合するのが『社会分化論』のような一般論としての「形式社会学」だとみることもできる。ジンメルは後に社会学からは距離を置くようになった、といわれるが、それは形式論として社会学ではなく「生の哲学」を持ち込んだ、ということだろう。こちらの次元でも文学的エッセイが書かれている。彼がエッセイをまずは書いてはそれから一般論としての整理の枠組みが作られる、というやり方を言っているのならば、私も短いものを書き散らしてから今は総合期に移行しているところなので、まったく共感するところだ。
 社会圏の交差というのは、人が属する圏が複数あれば、その人を中心として圏が交わるということ。しかし分化し続ける社会においてはすべての機能に関する共通点はおいそれと見いだせるものではない。そこで共通項は集団が大きくなり分化が進むほどわずかとなり、質的にも低級になる、という。「圏」というのがフォーラムのことだとすると、自由にさまざまなフォーラムに出入りしうるというのはノージックやリベラリズムの集団・組織観である。「圏」を専門学界と考えると、専門分化が進んだ学問世界のことになろう。専門家ばかりが集まると共通する言葉や関心事をもてないから、せいぜい野球やゴシップくらいしか喋ることがないというのはよく見る光景だ。ジンメルが言いたいのは、専門主義者の学界の交差するところでの会話は低俗化するだけだ、ということではないのか。だからこそ低俗化への抵抗として、本来の「社交」
が必要となるのである。それが「相関社会科学」であるはずだ。 
 というわけでゼミもなかなか勉強になる。それで気分良くなり学生を連れて梯子を重ね、阿佐ヶ谷にたどりついてさらにそのうち四人と朝四時まで飲んだのである。

追記)どうでもよいことだが、消費論の本をいくつか通読していて、飽戸弘著『売れ筋の法則』(ちくま新書)に、こういう記述があった。「有名なフランスの社会学者G.ジンメルのモデルに、流行にかんする『個性化対同調』というモデルがある。・・・」この本は、タイトルのこだわりのなさのわりには消費心理学史の流れについてはなかなか興味深い解釈が示されていて参考になるのだが、しかし「有名」なのに「フランス」とは・・

 

(10月10日)

 用あって西山賢一氏の『複雑系としての経済』(NHKブックス)を読んだが、その記述でちょっと驚く部分があった。私の書いたものへの言及があるということなのだが、それが複雑系について批判的に論じた文章などではなく、環境問題を実証的に扱ったものだったからだ(「西太平洋地域の経済発展と地球環境問題」『環境経済論(下)』(共著)慶応大学出版会、1994)。これはもともとは金融財政研究所というところの環境問題研究会になぜか私が呼ばれ(呼んで下さったのは都市工の市川先生)、そこで協力を仰ぎながら書いた論文だった。慶應の鳥居先生にもそこでお会いし、先生ご自身は直後に学長になられたのだが、論文の内容についてはその縁で五年間、一時間ずつ慶應で講義させていただいた。西山氏は複雑系のモデルを用いて環境問題に取り組もうとしておられる方だから、拙文に関心をお持ちいただいたのだろう。こういったコメントである。

  地球環境のもっている再生能と受容能の範囲内で経済を営んでいけば、持続する 経済を実現することができる。そのためのライフスタイルが 「モノとエネルギーはつつましやかに、情報とサービスは豊かに」である。そしてこのライフスタイルが経済をマイナス成長にさせたり、経済全体を貧しいものにさせるのではなく、むしろこれまでとは違った璧かさをもたらすものであることを、新しい経済学が描きだす役割を担っている。
 そのための手がかりがすでに得られだしでいる。たとえば松原隆一郎さんは、西太平洋地域の経洛発展を調べて、アジアと太平洋地域の諸国が重化学工業の比率を下げながら、しかも経済発展している様子をとらえている (松原、一九九四)。資源の消費を減らしながら豊かになる通が検察されているのである。また見田宗介さんは、情報化し消費化する社会そのものが、資源の大量採取とごみの大量廃棄を克服する可能性を秘めている、と論じている (見田、一九九六)。

 ところで、現在の私はむしろ西山氏が環境を分析しようとする当のモデルそのものや消費社会の様式に関心がある。つまり複雑系を含む経済学の見直しである。環境から入って経済モデルへ、というふうに順序が西山氏と逆になっているのだ。ちなみに私は複雑系の経済学というものについては、それが社会学や歴史学を取り入れようとした故・村上泰亮先生風のものでなければ流行に乗っただけのかなりいかがわしいものだ、と書いたことがある(『自由の条件』)。だが西山氏はまさに村上先生同様にそうした広い視野で経済学の見直しに取り組んでおられて、共感を覚える。また、欲望と技術の変化を内生化することで経済学の革新を図る、というプログラムも私のものと同じだ。
したがってこの本についても大いに共感しつつ読んだ。もちろん私とは強調点が異なるのだが、それは後に消費論を書くところで述べることにしたい。
 認知科学における「表象主義」(脳内の処理が認知の核だという見方)から現象主義である「活動理論」(脳に外在する記号システムにも頼りながら認知が遂行されるという分散認知論)への移行といった議論はとにかく刺激的だ。

 

 

(10月23日)

 間宮陽介氏の『同時代論』を書評のため読む。書評そのものは日本経済研究センターの会報に出る。一般読者用に書いたものとしてはそちらをご覧頂くとして、その先にあることを書こう。
 この本は最近の間宮さんの立場が出ていてその点が面白い。先だっては西部邁先生が『正論』で立川談志氏相手に間宮さんとしか思えない弟子(敢えて実名は避けていた)が自分を攻撃していると言っていた。疑心暗鬼じゃないかしらと思っていたが、この本では具体名こそ挙げないがむしろ佐伯啓思氏の『市民とは誰か』を批判するくだりが目に付いた(市民とは私民のことだというのは間違いだ、といった指摘)。西部氏の悪口には見えない。もっとも、総じていうと縁遠い人々、江藤淳・加藤典洋・松本健一各氏についてはナショナリストだとして、また中谷巌氏については市場主義者だとして名指しで激しく論難しているが、それ以外の誰かを陰に籠もって名を挙げず批判しているといった印象はある。規制緩和についてコミュニタリアンの理屈で反論している奴がいるというのは一体誰のことか。佐伯氏を指すのだとすれば、この批判は金子勝氏も論座で宮崎哲弥氏相手にやっていたが、ホンマかいな、という感じ。もしそうなら、佐伯氏についてもコミュニタリアンについても誤読ではないか。家族=国家という言い方をする人たちといえば産経グループかもしれんが、彼らがコミュニタリアニズムなど持ち出した記憶はない。それよりも、規制緩和を反撃するコミュニタリアンといえば、宮崎氏が知られているくらいではないか(宮崎氏も対談で金子さんの発言に対して口をつぐんでいてヘンだね)。といっても、宮崎氏はコミュニタリアンとはいえナショナルなものには否定的なのだが。
 批判の理由そのものは、大いに共感した。間宮さんの主張であるところの、人間というのはディレンマを持つ生き物だというのはジンメルのいう「二義性の原理」だから、同感。そこから、規制緩和的なリバタリアニズムも、ナショナリスティックなコミュニタリアニズムも二者択一の極論だから排するというのは私と同じ立場である。言論や生活の公共性が重要だと結論も同じ。ただ、違和感があるとすれば、まずくどいようだがコミュニタリアンの主張というのが、家族やコミュニティ、国家の集団主義にすぎないというのは理解として曲解ではないかという点。それに、ナショナリズムの台頭にしても時代全体の風潮というよりは、リバタリアンと同様に一部でしかわき上がれないことが戦前とは異なる。
 また、学界には公共性が維持されていると述べるが、学界も論壇も公共性が崩壊しているという点では似たり寄ったりだというのが私の判断。そもそも間宮さんの支持する丸山真男が学界はタコツボだと言ったんじゃなかったか。それに、これは西部氏との微妙な差異なのだろうが、間宮さんの言う「生活者=公共性の人」が西部氏の言う「庶民」と違うのだとすれば、「歴史の知恵」に従うか否かという点にある。間宮さんはそれを学界の知恵やらポパーの「第三世界」とかと表現しようとしている。私としては、家族やコミュニティ、国家といった自然共同体と、学界始め論壇やパソコンのフォーラムに至る人工共同体に分散している過去の議論(アーカイブ)の中にあるはずの論脈こそが公共性だと思う。それはバラバラに分断されたり、学界相互のように無視したり論壇のように敢えてウソついて攻撃し合ったりしているために崩壊していると思うのだが。間宮さんは学界人なんだな、というのが読後感ではある。漫画を電車の中で読むのは私的な楽しみだから公共性に反するなんていってるしね。その点、専門書は「真理」につながるから公共的なんだと。間宮さん、やはり岩波文化人なんだな(漫画については西部氏も似たことを言っているから、師弟の伝統ということかも知れないが)。

 

(10月30日)

 知人からの電話でスルジェデヴィ・平尾夫人が亡くなったことを知る。ご夫妻は練馬の平和台に住んでいるが、ネパールの西部の観光地、ポカラの安宿スルジェハウスの創始者として著名である。だがそれよりも、講談社ノンフィクション賞の第一回受賞作『ヒマラヤの花嫁』(中公文庫)の著者と主人公の夫婦、と言った方が良いかもしれない。平尾さんには他にも講談社文庫になった『ヒマラヤ・スルジェ館物語』がある。
 私は八十年代の半ばにスルジェハウスに泊まったことがあり、スルジェが癌の療養のため来日してからは練馬のお宅にしばしば出入りして、家内と知り合った。一時は毎土曜、平尾宅で行われるネパール語、中国語の講座を食事付きで受講していた。一緒にポカラ・ツアーを組んで、我々は現地で式を模した終夜の宴会を開いたりした。
 最近は何年も足が遠のいたが、元気だと風の便りには聞いていたので、脳内出血で急死されたというのには驚いた。さっそく行ってみたが、死化粧が美しく、安らかな顔だった。この九月に渡ネしたばかりで、サリーなど身の回りの品をすべて親戚に上げてきたのだという。苦しむことなく、回りに迷惑もかけず、スルジェらしい亡くなり方だった。11月2日に荼毘に付され、遺骨はカリガンダキから川に撒かれる予定。11月半ばにはお別れ会が催される。合掌。