| (11月某日)(京都・神戸新聞他、新春特集「21世紀を展望する」) 実は下記の佐伯氏招聘ゼミの翌日には、共同通信社が来年元旦から3〜5日にかけて配信する新春特集「21世紀を展望する(仮題)」のため、山崎正和先生と私で3時間にわたるガチンコ対談を行った。 |
| (11月10日) 少々前になるが、大学院ゼミでいつも本ばかり読むのではなく景気づけをやろうということになり、10月末に佐伯啓思先生にゼミ講演をお願いした。佐伯さんは当日関西にお帰りということだったので、東京駅近くに場所を探したがなかなかうまくいかず、結局、宮本光晴先生に専修大学の一室をお借り願い、しかもゼミにまでご参加頂くことになった。豪華ゲストお二人を迎えて失礼なきよう、3名のゼミ生に手分けしてご著書を読み質問をレジュメにまとめてくるよう指示したところ、なかなかの力作レジュメが集まった。しかも多数の飛び入りがあって、会は大いに盛り上がった。 こうした講演にかんしてゼミ生らの質問は多岐に渡ったが、およそ次のようなものに集約されるというのが私の感想である。 佐伯さんは簡潔に、次のように返答された。国家は市民の多元性を抑圧するのではなく逆に守るものだということ(b)、東欧革命は超民主主義たるソ連社会主義に対する自由主義の叛乱だったのであって、市民革命とはいえないこと(a)、自分が何であるか分からないからこそ商業主義のマスコミ情報を自分の考えと取り違えたりするのであり、だからこそ「自分」で考えるのが重要であること(c)、80年代以降の経済は市場の外部に立つ制度などというものはメディアも含めてなくなった(市場化されてしまった)点に特質があること(d)などを答えられた。 さて私としては、個人−家族−コミュニティ−国家−世界、ないしグローバライズした市場・・と続く中で、それぞれのレベルの相対的自律が重要と考えている。そこまでは佐伯さんと同じなのだが、しかし佐伯さんがそのなかで国家を強調するのには違和感がのこりはした。というのも、我が国では地域の景観を国の一律の法律で均質化するというふうに、国家が多元的な伝統を破壊したからだ。こういうべきなのではないか。現在猛威を振るっているのはグローバライズした市場である。こうした局面に限ってはそれに対抗するものとして国家に注目するのだ、と。また、国家と市民の矛盾というのは、むしろ国家が平等性を保証しようとし市場が異質性をもたらそうとするところから派生している。つまり平等と差異という根本的な対立をどう調停するのかという問題に還元されるのである。その調停は国家というよりもそれも含めた個人から世界に至るそれぞれの領域の力関係のバランスによるのであり、それはたとえば景観について国がどこまで規制しどこから地域で保全するのかといった分担においてはかられることになる。私が考える公共性というのは、この分担についての過去の論争の文脈を理解するということで、その先で新たに自分で考えを発展させるということだ。 ともあれ議論は大いに白熱した。ゼミ生たちは各自論文を佐伯さんに渡していたが、たくましい限りであった。これもひとえに私の指導のたまもの?いやいや指導を「控えた」結果なのだろうな。というわけで気分良く神保町に繰り出したのであった。 |