(11月某日)(京都・神戸新聞他、新春特集「21世紀を展望する」)

実は下記の佐伯氏招聘ゼミの翌日には、共同通信社が来年元旦から3〜5日にかけて配信する新春特集「21世紀を展望する(仮題)」のため、山崎正和先生と私で3時間にわたるガチンコ対談を行った。 
 山崎先生とは現在、サントリー文化財団が米独との共同で出版している英字クオリティー・ペイパー「CIC」の編集で同席させていただいているが、もとはといえば朝日新聞で97〜8年度に私が「ウォッチ論潮」、先生が翌日夕刊の「論壇時評」を担当し、そのため毎月朝日の会議室でお会いして論壇状況について議論したという縁である。同じ時期に同じ論壇誌を読み、それぞれが『大分裂の時代』(中央公論社)『自由の条件』(四谷ラウンド)に時評をまとめた経緯があるだけに、どのような時代認識の差があるかは当事者にとって、大いに関心があった。
 山崎先生は今年度の文化勲章の受章が決まった直後とあってお忙しそうであったが、そんなことよりも問題は先生のペースにはまらないことである。お話が独自のペースですすむとなんぴとも介入できなくなるというのは定説であり、過去の対談者は死屍累々であったというから、当方としてはどんどん突っ込んでいくことにした。結果、相当にスリリングな対話になったと思う。編集者は「テーマが次々に消化されていったのでまったく口をはさむ必要がありませんでした」と言っていたし、先生も「もう喋ることがなくなったてしまった」と仰っていたから。
 さて対談の内容はというと
1.国家と戦争
2.市場の世界化
3.情報とテクノロジー
4.21世紀への課題
 が編集部から与えられていた。
 山崎先生の議論では、市場は非市場(国家)と分裂し、さらに市場も国家も内部で分裂し、また知識も分裂するという話になっている。その議論じたいは私も賛成であった。ただ、その分裂が何故に起きたのかとなると少しニュアンスが違う。ことに山崎先生の場合、時を現在の流れの中でしか体感しないというふうに現代をとらえるのに対し、私はレンタルビデオのように過去がいつでも振り返れるようになって世代が消失したと考える点が異なる。この時間意識の差から、コミュニケーションの有り様についての理解が違ってきているようにも感じた。とはいえ、内容は共同通信配信の各地方紙に掲載されるので、確認いただければ幸いである(京都・神戸新聞他)。

 

 

(11月10日)

 少々前になるが、大学院ゼミでいつも本ばかり読むのではなく景気づけをやろうということになり、10月末に佐伯啓思先生にゼミ講演をお願いした。佐伯さんは当日関西にお帰りということだったので、東京駅近くに場所を探したがなかなかうまくいかず、結局、宮本光晴先生に専修大学の一室をお借り願い、しかもゼミにまでご参加頂くことになった。豪華ゲストお二人を迎えて失礼なきよう、3名のゼミ生に手分けしてご著書を読み質問をレジュメにまとめてくるよう指示したところ、なかなかの力作レジュメが集まった。しかも多数の飛び入りがあって、会は大いに盛り上がった。
 佐伯さんの講演はゼミ生らの要望に応えて日本の市民社会概念についてだった。従来の市民社会概念は丸山真男らによるもので、要するに市民の個人的な自由こそが進歩を生む、しかし国家とは市民にとって外在的なものになっている(丸山解釈としてはちょっと図式的すぎるか?松原注)。これは市民社会観というよりは丸山らの西欧観だったが、佐伯氏によればそもそもそれが誤りである。西欧には個人主義があるのは当然だが、同時に愛郷心や愛国心も横溢している、つまり「私」とともに「公」も強いのであって、上の図式でとらえられるような簡単なものではないからだ。個人主義というのはキリスト教の伝統に由来するものでなかでもカルヴァン派によれば個人は司祭の媒介なく神と向き合う存在である。ところがひとたび社会に出ればそこは神なき共同体ということで、人は契約で社会を作るしかない。こちらはギリシア的発想だ。そして契約には自発的な義務が伴うことになる。市場における自由や政治における権利やといったものは所詮こうしたキリスト・ギリシアのエートスの上にのっかっているにすぎないのである。そのことは西欧では常に意識されてきた。市場主義や民主主義を無条件に認めれば禄なことにはならないと考えられているのである。
 ところが日本の市民社会概念はこうした図式の上澄みの部分だけを取ったもので、市場主義や民主主義だけを良しとしている。それは社会が安定しているときには結構なことではある。しかしいったん社会が不安定になった際、市場主義や民主主義は混乱に拍車をかけてしまう。その場合、西欧的なエートス(ギリシア・キリスト)なきところでこうした自由や権利にタガをはめることこそが重要になる(以上、『「市民」とは何か』PHPに依拠)。

 こうした講演にかんしてゼミ生らの質問は多岐に渡ったが、およそ次のようなものに集約されるというのが私の感想である。
a.市民は社会秩序に対して国民とは異なる貢献をなしうるのではないか(例・東欧革命)。そこでナショナリズム、民主主義、市民社会などの間に存在しうる矛盾を明確にする必要があるのではないか。
b.国家は市民の多元的自由を抑圧するのではないか。
c.「私化」が危険だというが、むしろ「私が確かなものではない」からこそ反原発運動でも家族の重要性が唱えられたりしてきた。
d.消費社会論には、消費者が身体感覚すら消費しつつあるのはメディア環境という非市場的制度によるという議論があるが、これをどう見るか。

 佐伯さんは簡潔に、次のように返答された。国家は市民の多元性を抑圧するのではなく逆に守るものだということ(b)、東欧革命は超民主主義たるソ連社会主義に対する自由主義の叛乱だったのであって、市民革命とはいえないこと(a)、自分が何であるか分からないからこそ商業主義のマスコミ情報を自分の考えと取り違えたりするのであり、だからこそ「自分」で考えるのが重要であること(c)、80年代以降の経済は市場の外部に立つ制度などというものはメディアも含めてなくなった(市場化されてしまった)点に特質があること(d)などを答えられた。

 さて私としては、個人−家族−コミュニティ−国家−世界、ないしグローバライズした市場・・と続く中で、それぞれのレベルの相対的自律が重要と考えている。そこまでは佐伯さんと同じなのだが、しかし佐伯さんがそのなかで国家を強調するのには違和感がのこりはした。というのも、我が国では地域の景観を国の一律の法律で均質化するというふうに、国家が多元的な伝統を破壊したからだ。こういうべきなのではないか。現在猛威を振るっているのはグローバライズした市場である。こうした局面に限ってはそれに対抗するものとして国家に注目するのだ、と。また、国家と市民の矛盾というのは、むしろ国家が平等性を保証しようとし市場が異質性をもたらそうとするところから派生している。つまり平等と差異という根本的な対立をどう調停するのかという問題に還元されるのである。その調停は国家というよりもそれも含めた個人から世界に至るそれぞれの領域の力関係のバランスによるのであり、それはたとえば景観について国がどこまで規制しどこから地域で保全するのかといった分担においてはかられることになる。私が考える公共性というのは、この分担についての過去の論争の文脈を理解するということで、その先で新たに自分で考えを発展させるということだ。
 ただし、佐伯さんにかんして「コミュニタリアンでありナショナリストである」といった理解はまったくの的はずれだということは院生たちも強調していた。佐伯氏は共和主義者なのであり、そもそもコミュニタリアニズムについて言及することすら稀である。共和主義とコミュニタリアニズムが矛盾する局面がありうることも示唆している。こうしたデマは私もよく流されるのだが、反論するというのもヘンなので困ったものだ。佐伯さんも述べるように、現在の論壇というのはしょせん売れれば勝ち的なものになりはてている。その意味ではメディアは市場の支配下にあって公共性など微塵もないというのは同感だ(現在では「公共性」を商業右翼が唱えたりしているのだからややこしいのだが)。

 ともあれ議論は大いに白熱した。ゼミ生たちは各自論文を佐伯さんに渡していたが、たくましい限りであった。これもひとえに私の指導のたまもの?いやいや指導を「控えた」結果なのだろうな。というわけで気分良く神保町に繰り出したのであった。