『エコロジー−起源とその展開−』アンナ・ブラムウェル著/河出書房新社

 

 最近東京では、身体に「安全な」食品だけを使ったレストランが見られるようになった。それもかつてのように精進料理だけ、というのではなくて、肉もありワインもあり、と豪華なメニューが楽しめる。しかし興ざめなのは、その食事代が、心臓に悪いほど高いことだ。そんなところに毎日通えるのは、一部の人だけではないか。

 日本でエコロジー運動というと、理論的にはフェミニズムや、平等主義などの立場、実践的には自然食品運動や反核運動などが連想される。こうした、左翼活動をその延長線上でソフト化したようなイメージというのは、ほぼ定着しているのではなかろうか。ところが、そこにはさきのレストランのように、相当にややこしい問題がつきまとっている。エコロジーについて、より厳密に、ハードに考えればどうなるのだろうか。

 たとえば、環境破壊を、それをもたらす資本主義もろとも克服したとされたはずのソ連や東独など(旧)社会主義圏からは、アラル海の干ばつやチェルノブイリ原発事故、湖沼汚染など資本主義国に類を見ないほどの激しい公害が報告されている。また、下水に流しても河川を汚染せず、「地球にやさしい」と銘打たれたヤシ油製の食器洗剤の一部が、日本にはマレーシアのサラワクで原住民の住環境を破壊して作られたとされるヤシの木のプランテーションから輸入されているといわれる。

 エコロジーは、商品経済そのものを否定せざるをえないものではないのか。市場は認めるにせよ貿易は拒否して自給自足を目指すものではないか。土地所有制度についても集団所有をめざさざるをえないのではないか。

こうしてみると、単色に見えるエコロジストの主張にも、様々な矛盾が含まれているように思える。本書を読むと、そうした矛盾は、欧米のエコロジー運動の長い歴史につねにつきまとってきたものであり、我々はそのほんの一部しか見えていないのだとわかる。イギリスの現代史家である著者は、大部の本書において、西欧のエコロジー運動を1880年にまでさかのぼり、論者によって異なる無数の主張を詳細に分析し、大河のごときエコロジーの思想史を描き出している。

 著者がここでいささか批判的なまなざしをもってとらえるエコロジーは、とりわけ政治運動としてのそれである。政治的エコロジー(エコロジズム)は、ドイツとイギリス、北米で盛んになり、現在ではドイツの「緑の人々」を中心とする欧州各国(イギリス、オーストリア、フィンランドなど)の緑の党として、党派別の全国支持率で7〜11%を得るまでに勢力を拡大してきている。ところがその基盤をなす思想の起源をたどると、マルクシズム、アナーキズムのみならず保守主義、はてはナチズムまでが見え隠れするという。 エコロジズムは、断片によってではなく全体的なまとまりをもって構成される有機的な世界観と、人間を自然法則に従わせ生態系を破壊しない地位に止まらせるような社会変革の実践とから成り立つ。この概念は「エコロギー(生態学)」を造語した十九世紀ドイツの生物学者ヘッケルに由来するが、それは彼が全体論にもとづく生物学を提唱して、後に動物行動学者ローレンツやイギリスの「土壌協会」、文学者D.H.ローレンス、生の哲学を唱えたドリーシュらに多大の影響を与えたことだけでなく、ハンブルグに「ドイツ一元者同盟」なる急進的な政治同盟を設立し、社会的伝統の破壊を唱えるなどしたことによるという。諸説ありうる科学としてのエコロジーの起源を追わず、政治的エコロジズムの由来をたどってヘッケルを見いだしたところが、本書の特徴だといえる。 エコロジズムが現在の隆盛をみるようになったのはオイル・ショックのあった1970年頃を境としてのことだが、そのためにはもう一本の柱として、生物学に加えてエネルギーの経済学が要請された。ここでは人口の都市集中を批判し「大地に帰れ運動」を指揮したゲッデスや、放射性崩壊の研究でノーベル化学賞を得、そのエネルギー理論にもとづいて新古典派経済学の資産理論を批判し銀行システムの改革を主張したソディらがラスキン、モリスとともあげられているが、もちろん後には(現在の日本でならばエントロピーの経済学者と呼ばれるだろう)ボールディングやシューマッハー、ジョージスク=レーゲンらがこれに続く。

 エコロジズムの出自をいっそう複雑にしているのは、ナチス・ドイツがエコロジズムにかかわりをもったことによる。第三帝国は、ヨーロッパで最初に自然保護を唱えた国だった。農業大臣ダレは、人工肥料反対運動の「バイオダイナミック農業」を実践している。これは今日にいう有機農法に近いものだという。 この本の大半は、以上の粗筋をエコロジーをめぐる百科事典的な知識の海にほうり込むかのような形で書かれ、最後になってやっと著者の悲観的な感想が現れる。その言葉は、エコロジストにはいささか耳の痛いものかもしれない。たとえば、現在の地球上の五十億もの人口を養うことができるのは、自然な農法によってではなく、機械を用いた大量生産技術によってである。社会主義にのっとって大衆を農場に移転する運動は、どこであれ結局はポル・ポトの虐殺に似たものしか生まなかった。エコロジストは、批判をつきつけるのに熱中しただけで、有効な代替政策を立てられなかった・・・。

 楽天的なエコロジズムに対して著者が冷ややかな態度を隠さないのは、七十年代の初め、イギリス西部の農地に転居し、そこで農耕作業で生計を立てることの辛酸と孤独や苦悩を味わった体験からきているようだ。エコロジー運動は「原始主義への回帰」であり「死への願望」である、という評価はそこから出てくるのだろうが、といって環境問題などは無視できない。重要なのは、エコロジストの立てた問題を、原始主義でないやり方で解いていくことではないか。本書はその手引きになる。