『武道』松原隆一郎
アトランタ・オリンピックでは柔道勢の活躍が期待されたが、終盤になって恵本・中村(兼)・野村の各選手が優勝したものの、それまでは男子重量級が三日連続してメダルを逸し、本家としての面目を危うく失うところだった。関係者は戦前から優勝の可能性の低い者としてとくに中村(佳)・小川・吉田の三選手を挙げていたというから、こうした結果は怪我の具合や稽古量、外国選手の強さといったごく客観的な要因によって予想できたといえるのだろう。
しかし、そうした要因だけでは語りえない何かがテレビ画面を越えて伝わってきたと感じた視聴者もいたのではないか。私には、とくに中村(佳)・吉田両選手が朽ち木倒しおよび小外掛けによって似た態勢で足を刈り倒された光景が印象に残った。技を掛けられる直前、両選手はともに、魂が抜けたかのように棒立ちになったのである。もちろん外国人選手と両選手とでは、体力はともかく技量においてはいまだに相当な開きがあるように思えた。けれども、たとえ下手であっても、外国人選手にはあのように心ここにあらずといった雰囲気の者は見当たらなかった。
印象論で語って申し訳ないのだが、 対照的に、田村亮子選手に勝った北朝鮮の女性選手は、いかにも国家の威信を背負っていたし、古賀選手に負けた韓国人選手のあられもないほどの悔しがり方からは、反日の気魄が伝わってきた。今回活躍したフランス人選手たちには、個人としてのプライドがうかがえた。
では、日本人選手は何をよりどころに闘っているのか。それは彼らなりの「武道観」とでもいうものではないだろうか。選手たちはそれを、「自分の柔道」と呼んでいる。そしてその「武道観」こそが、国際舞台において窮地に追いやられて見えるのである。テレビ解説者の言葉が、よくその内容を表している。たとえば彼は、外国人選手同士の試合を見ながら、「これは倒したのであって投げたのではありませんね」と苦々しげに語った。これは、「きれいに投げてこその柔道だ」との了解を前提している。そうした柔道は自分たちが実践すれば十分だろうに、外国人にまで期待するのである。
また彼は、吉田・中村両選手が敗戦したとき、「油断しました」といった意味の発言をした。しかし、私がかつて日本風の柔道の練習をしない外国人選手になぜかと聞いた折りの返事は、それでは日本選手には勝てないからだ、というものだった。外国人選手は、日本人選手と対戦する際にはいかにして油断をつくか、日本人選手たち武道観からいえば邪道であることをするのかをまずもってテーマにしているのである。
先の解説者の言葉がいかにも奇妙に聞こえるのは、このところ我々が柔道とは異なるマイナー格闘技の世界で、別の武道観を知りつつあるからだ。直接打撃制の空手はすでに三十年の歴史をもつが、いまだに大会ごとに相手の油断をつく新たな技が開発されている。一世を風靡した「カカト落とし」は、すでに研究しつくされて決め技ではなくなった。
また、近年になってブラジルから日本に紹介されるようになったノー・ルール(かみつきや目を突く以外は何をしてもよい)の試合では、かつて日本から伝えられたという柔術の選手たちが柔道では捨てられた実践的な技術を多彩に発展させている。そうした試合の観客からすれば、柔道の試合で寝技ですぐにうつ伏せ(「亀」)になったり、引き手争いに終始するのは、実践的でも武道的でもない。そうした実践武道では、まず自分の確固とした技術があるのではなく、敵の異種の技を防ぐことから始めて技術が体系づけられている。 道着のカラー化問題では、選手の一方が白・一方青を着ることにに落ち着きつつある。これでは日本人選手が青の道着を着ることになる。もし武道観から白にこだわるならば、日本人は白、他はご自由に、と主張すべきだったが、日本側は、闘う双方の選手に白を押しつけようとして戦略的に失敗することになった。これも、みずからの武道観を他国に投影しようとした例である。国際試合では、異質な武道観が存在することを認めつつ、それに打ち勝つような日本独特の武道観を再建する必要があるのではないか。