『格闘写真集FIGHTS』長尾 /双葉社/4700円+税/
哲学者・鷲田清一氏の近著に、『悲鳴をあげる身体』(PHP新書)がある。耳にピアスを空け、拒食症にとらわれ、援助交際に耽るといった少女たちがごく普通の家庭から現れたことを考えても、身体が拒絶する感覚に異変が起きていると分かる。鷲田氏はこうした現象が、身体に対する制御が不能に陥ったところで生じたと見ている。ナイフを振りかざし、親父狩りに向かう少年たちの暴力にしても、身体への制御がきかなくなった状態ととらえることができるだろう。
かつて身体に対する制御の知恵は、こと少年たちに関しては、武道が教えてきた。しかし平和な社会において暴力は忌避され、そもそも存在すべきでないものとされた。しかし暴力そのものは現に存在するのだから、要は目を背けただけのことである。そして武道もまた、ただの古臭い体操として見捨てられている。
そうした傾向を助長したには、既存の武道の側にも責任の一端はある。武道の中に、暴力性が希薄になったからだ。武道とは口ばかりで、多くは暴力を前にして役に立たないのではないか、という疑問には根強いものがある。武道の側も直接に暴力と対峙することは忌避しているようなのだ。「こう殴って来たらこう返せ」などという教え方があるが、マチバのケンカで「こう殴る」と事前に分かっていることなどない。まして、相手がボクサーなら、どうするのだろう。暴力を欠いた武道は、空疎な説教でしかない。
既存の武道では珍しく試合が整備されている柔道ですら、真の武道というには実践性に疑わしい部分がある。立ち技で頭をつけあったり、寝技でうつ伏せの「亀」になるのは、殴る蹴るの格好の標的だからだ。だから、七〇年代に「ケンカ空手」を標榜した極真会館とそれをモデルとしたマンガ『空手バカ一代』が自分のうちなる暴力をもてあました少年たちを熱狂させたのは、当然のことだろう。
だが時は流れ、整備されたルールのもと、殴る蹴るを実践する試合をオープン・トーナメント形式で行う極真空手にも行き詰まりが見えている。こうしたルールとしては洗練の極みに達しているし、競技人口も武道界では有数を誇るのだが、いかんせん顔は殴らない、つかむのも投げるのも寝技も禁止となれば、暴力に本当に対応できるのかとなると、疑いが残ってしまう。それゆえに、異種格闘技戦への期待が高まっていたのである。
「ビッグバン」は、九〇年代に入って突如起きた。ひとつはグローブを着用しての流派間の交流である。これは「K−1グランプリ」となって、テレビでも大した視聴率を稼ぐほどの存在となった。もうひとつが、すべての格闘技を最小の禁止のもとで交流させる「総合格闘技」である。こちらは、道場破りのためのルールとしてブラジルで七〇年間も培われてきた「バーリ・トゥード」がアメリカに渡り、大相撲や空手、カンフー、ボクシングから柔術さらには名もない武道までが入り乱れてトーナメントを競った「アルティメット大会」によって、一気に世界に広まっている。
我が国でも、「総合格闘技」への模索は八〇年代から行われてはいた。空手からは投げ・寝技を認める打撃系総合の大道塾、プロレスからは、真剣勝負という画期的(非プロレス的)路線を歩み始めたパンクラス、さらに、創始者こそプロレスラーではあったが、アルティメット以降、それにあたう限り近い形に目標を据えるようになった修闘(シューティング)が代表的である。これらを中心として、以前の武道界を知る者には信じられないような組み合わせの交流と技術革新が起きているのが、「なんでもあり」ルールの「総合格闘技」なのである。
長尾迪氏は、格闘技専門誌『格闘技通信』を主舞台とし、総合格闘技をとり続けているカメラマンである。アルティメット大会には初期から毎度渡航しており、一流の総合格闘家で彼の手にかからなかった被写体はなかったといっていい。この写真集は、九〇年代の総合格闘技からえりすぐりのシーンが集めたものなのである。そしてこれがなんとも魅力的なのだ。急速な技術開発が現在進行中であり、しかし原始的な暴力性を失ってもない総合格闘技の現場において、暴力を技術で、さらには精神で制しようと苦悶する人々の姿が活写されているからだ。何が起きるか分からない場に歩みでて、その場を制するのが武道であるならば、ここには『悲鳴をあげる身体』に向き合おうとする武道の精神が息づいている。
これら長尾氏の写真が独自の生命力をもっているのは、彼が格闘技だけを頼みとするカメラマンではないからだろう。私が初めて接した彼の作品は、「嘆きの壁」に額をつけ沈思するユダヤのラビを主題としていた。その静謐にして情熱的でもある写真は、深く私の記憶に焼き付いている。ブラジル人柔術家、ヒクソン・グレイシーの姿は、なんとあのラビたちに似ていることか。この写真集は、独自のテーマを追求する写真家と格闘家たちとの対決の産物でもあるのだろう。