『知の収穫(時代のライブラリー)』呉智英著/メディアファクトリー

 

 書評は優れた本を斯界の物知りに推薦してもらうためにある、というのがタテマエ的な理解なのだろう。そこで、暗に宣伝を要求して、本を送り付けてくる義理ある知人がいる。それが駄本だとたまらない。当方だって、つまらぬヨイショ文は書きたくないのだ。で、その知人には分からぬように、イヤミを書く。義理のない人の本なら、思うさま貶す。

 しかし、貶す本があってこそ褒める本も輝く。そんなメリハリある書評は読んで楽しい。かつては「風」の百目鬼恭三郎が博識と切れ味で、読ませる書評を綴った。現在衣鉢を継ぐのが、呉智英先生だ。職業学者でもないのに支那の古典に通じ、辞書を語り、純文学を嫌う。つまらぬ本も引き受け、コテンコテンに貶すのも似ている。さる大経済学者とその弟子筋の二作品を並べ、師匠の「文章の修辞の陳腐さ」は「時代が停止したような紋切方」で、弟子の「文章の密度にムラがない」と評している。両者を知るだけに大笑いした。マル=エン美装本が古本屋で一冊三百円というのを見、つい同情し、六冊購入したというのは本への愛情溢れる逸話だ。

 他人の本を切って捨てるのには誠実な読み込みが要求される。だが帯と目次と後書きしか読まずに文章をでっちあげる不良評者もいる。そんな奴が本業でいくら正義漢ぶったところで、正体は割れている。

(月刊宝石)