デヴィット・ハーヴェイ『新自由主義』(作品社)

 新自由主義とマルクス主義は奇妙な関係にある。1970年代までの西側世界は国が財政金融や福祉で市場に介入する組織化された資本主義であったが、マルクスの『資本論』が分析し破綻を予言したのは国家の介入なき純粋な資本主義だった。当然、その主張は対象を見誤っており、的はずれであった。逆に社会主義経済の方が80年代末に破綻すると、70年代末から英米に登場していた新自由主義は90年代以降、旧社会主義国だけでなく組織化された資本主義をも解体し、市場原理主義を推進する。皮肉にもマルクス主義退潮後に『資本論』の世界が広がりつつあるのだ。

 マルクス主義の影響下にある本書が光るのはまさにそうした文脈で、ハーヴェイの解釈のポイントは、新自由主義をタテマエと実践でまったく異なる思想と見る点にある。新自由主義は、タテマエでは国の規制を解体し、大企業を先行させれば富が市場によって滴るがごとく行き渡る(トリクル・ダウン)と主張する。それでいて、実践的には国が強権を発動し、資産を集中して新たな階級社会の形成を図っている、というのである。

 具体的にはアメリカの支配下にあるIMFや世界銀行は、債務不履行に陥ったアルゼンチンやメキシコに(日本で言う)構造改革を押しつけ、緊縮財政のもとデフレ圧力を加えつつ資本市場の開放を迫って、ハゲタカ・ファンドを通じ剰余としての富を奪った(「略奪による蓄積」)。

 現に、強権とは無縁であるはずの新自由主義政権はチリのピノチェトが1973年に起こした軍事クーデターによって史上初めて誕生し、恐怖政治という点では日本でも郵政民営化に反対した自民党議員が造反のレッテルを貼られが土下座させられた事件が記憶に新しい。

 低成長時代だからこそ構造改革は必要というのが新自由主義側の宣伝だが、世界の成長率は逆に新自由主義が登場した70年代以降、着実に下がっている。

 格闘技にたとえれば、私には新自由主義は素人と玄人が制約無く闘う荒野に見え、平等主義は闘いそのものの否定に映る。武道家としては、帯(力量)別に競い合う「国により仕切られた競争」を支持しておきたい。(AERA)