『正しく生きるとはどういうことか』池田清彦/新潮社/松原隆一郎・評
「自由と平等」が我々の社会の基本原理だと認めない人はいないだろう。では、次のような主張はどうか。「他人に迷惑をかけなければ、人は何をしてもよい」。社会の役に立つ人間になれとかボランティアをせよとか援助交際がいかんという国家の教育は、「個人が自立して、善く生きたり、正しく生きたりするためには最大の害毒」である。精神病者に対し刑法の適用を除外するような「差別」は許されない。
著者のこうした主張は、反社会的と聞こえるかもしれない。しかしそれは、「自由と平等」についての無理解による。我々は基本原理を認めた以上、個人として「善く」生き、社会で「正しく」暮らすための本書のプログラムに同意せざるを得ないのだ。著者は我々の抱える乱麻のごとき無理解を、知性の快刀で断ち切ってみせてくれている。
とくに評者には、この基本原理(リバタリアニズム)よりも、付帯条件の解説が興味深かった。科学や社会の進歩ゆえ自明でなくなった部分に著者オリジナルの解釈が施されているからだ。自由であるのは法を理解する成人に限られるから、子供は義務教育で平等に法を学ばねばならず、大人は売春もボランティアも自由に行ってよい。精神病者については、認定基準を与える科学が実は曖昧でしかないのだから法を適用すべし、等々。なかでも、生命は個人の意志で得られたのでないから臓器売買の自由はないというのは卓見だ。
ただし、国家を法を適用する機関としてのみ認め、官僚の裁量を廃しできれば世界国家で統一しようというのは可能だろうか。法を合意するには公正さの感覚のおおよその同質性が必要だろうし、それゆえ文化のまとまりに応じて法の相違と国民国家が生まれたのではないか。警察が裁量を働かさないならば、オウム真理教事件のような確信犯の人殺しを未然に防ぐこともできないだろう。
(読売新聞)