| 『エンドレス・ワルツ』稲葉真弓・著/書評/松原隆一郎/河出書房新社・一三〇〇円「天才的なボクサーの腕が正確に、しかも素早く空気を切り裂くように、よい音もまたひとつところにはとどまらない。とどまる音は、不潔なんだ」と夜明けの公園で出会った男は、女の部屋を訪ねた夜、言った。「音を限りなく遠くに走らせること、音をその場で凍らせること」を目指しリズムもメロディーもほとんどないアルト・サックスのソロ演奏を好んだジャズ・プレーヤーの阿部薫である。
セリーヌの小説「なしくずしの死」を題とした演奏は、即興音楽の極北に至った、と評される。練習の激烈さにサックスのすべての部品が一瞬にして飛び散ったとか、演奏でピアノの弦を切り挨拶もなかったとライブハウスの主人がなじったところ、お詫びに一曲、と今度はペダルをへし折って帰ったという噂の主だ。 二十九才だった78年、薬物服用量の過ちで死亡した。死んで噂は伝説になった。 女は鈴木いづみ、作家、女優。阿部没後七年、縊死した。彼女のモノローグで、伝説の皮膜をはぐかのように、二人の愛情が描かれる。阿部の演奏のごとく、的確で凄絶な表現。「彼の願望には、未来も過去もない。ただこの瞬間に対峙する自分があるだけだ」。 同世代の演奏家には今、当時の熱気も毒もなく余生にあるかのような者もある。二人が生きることのできた70年代は、未来とも過去とも断絶した癲癇気質の時代だったように思える。 (月刊宝石) |