『「悪魔祓い」の戦後史』稲垣武/文芸春秋/書評/松原隆一郎

 

 自社連立政権が出現して村山社会党委員長が首相となり、従来の社会党の主張を真っ向から否定するかのように自衛隊は合憲・日米安保は必要という見解を示したことから、過去に行った政治的主張にどのような責任が伴うのかが問題になっている。水面下での自社馴れ合いはどうあれ国会で社会党が述べた対決の「言葉」は残っているのだから、この後始末の仕方に納得いくルールが示されない限り、今後議会での論争が無意味になってしまうだろう。

 とはいっても政治家の場合、最終的には選挙で国民から発言に審判が下されはする。ところが、その国民の判断力に影響を与えながら責任が曖昧な人々がいる。論壇での発言者たちだ。日本人は昨年のPKO騒ぎのように次の話題が出るとすぐさま関心を移してしまう癖があるので、これまで論壇人は過去の失言などさほど気にかける必要がなかった。

 ところが、ここに恐るべき本が現れた。二段組三五〇ページを越える本書で稲垣氏は、いわゆる進歩的文化人たちが終戦直後から約二十年間、「シベリア抑留」から「大学紛争」までどのような時論を展開したか、引用をふんだんに交えつつ言論の責任追求を行っている。

 時代の制約があったとはいえ、えらい言質をとられたものだ。たとえば、(五六年のハンガリー動乱に際しソ連の肩を持って)「ハンガリアはあまり着実に進歩している国ではない。元来は百姓国ですからね」(大内兵衛)。今ならば差別表現と糾弾されるだろう。(在日朝鮮人に「北」天国説を吹き込み帰還を決意させたという五九年の北朝鮮訪問記において)「日本が東洋一の工業国を自負していられるのは、せいぜい今年か来年のうちだけである」(寺尾五郎)。この著者は北を再訪した際、帰還者に見つかってつるしあげられたという。(文革を批判する者は)「歴史に対する無知をさらけ出している・・歴史の女神すら嗤いだすであろう」(菊地昌典)。『ワイルド・スワン』のユン・チァンに論評していただきたいところだ。

 稲垣氏はこうした発言を強靭な論理と該博な知識で逐一裁断し、進歩的文化人の性格についていくつかの総括を行なう。共産主義国の発表する統計数字を鵜呑みにする、絶対平和主義の論理によって西側の軍事介入には反対するが東側のそれには沈黙するか「民族解放戦争」論で擁護する、(共産主義国は平和主義に徹しているといった具合に)ぎりぎりまで嘘をつき、事実が明々白々となるとそんなことは前から判っていたというふりをする、などだ。

 こう並べると、かつてなら「反共宣伝」と一蹴されかねない本書は、ソ連の崩壊に乗じて後知恵で論敵を復讐裁判の法廷に引きずり出したもの、と思われるかもしれない。だが、稲垣氏が論争の再現を通じて記そうとしているのは、むしろ客観的な戦後史そのものであり、そこから語り継ぐべき経験だ、というべきだろう。事実が確定した後世には歴史は整然と推移したかのごとく語られるが、ある時点での歴史はいまだ正否が明らかでない事実(と想定されるもの)にもとづく論争によって動いている。

 たとえば、講和条約の締結に当たって全面講和を主張した人々は、中国市場が巨大化するであろうという予測を根拠として、アメリカよりも中国との関係をテコに日本の独立をめざした。当時の中国への幻想の大きさを指摘してこそ、全面講和論という空想じみた主張が力を得ていたことが分かる。

 そして、結論。「現実から逃避し、夢想に酔い痴れる点で、進歩的文化人らは太平洋戦争開戦時の軍首脳と同類」なのだ。終戦によって、右の全体主義は左の全体主義に取って代わられただけだった。この全体主義の呪縛から離脱しようとするのが、稲垣氏のいう「悪魔祓い」なのである。

(文春文庫)