『「悪魔祓い」の現在史』稲垣武著・書評/松原隆一郎

 九五年のこと、オウム真理教事件にかんする報道が過熱状態にあった頃、あるテレビ局が假谷さん拉致事件を扱ったことがある。オウム真理教団がクルーザーだったか小型船を密かに曳航し、人物大の何かを海洋放棄した疑いがある、というのである。その番組はそこで終わってしまったが、続報される気配はなかった。気になって仕方ないのは筆者だけだろうか。神戸での小学生連続殺害事件における「中年の男」の場合と同様に、誤報と認めたならば当事者である報道機関ごとにそれなりの報告をしてほしいものだ。
 マスコミには正確性だけでなく速報性も求められているのだし、国民の関心の的となる大事件の場合は容疑者が検挙されるまで、情報を求めて社会不安が渦巻くのが普通だから、誤報を完全になくすのは困難を極める。であれば誤報をそれなりに訂正するのも事実の報道に携わるマスコミの使命だろうが、そうした原則は滅多に守られない。稲垣武氏の一連の仕事が貴重なのは、論壇を含むマスコミの報道のほとんどが大本営発表よろしく反対意見を無視する形でなされる現状で、いくつもの報道や見解を照らしながらその歪みを知らせてくれるからだ。
 その方法は、前作『「悪魔祓い」の戦後史』(文春文庫)で確立された。この本はアカデミックな呼び方でいけば戦後思想史に属するのだろうが、一種の「トンデモ本」紹介でもあって、爆笑しながら読めてしまうところが痛快だった。北朝鮮が韓国に向けてトンネルを掘ったという報道に接して、小田実氏が「南侵」の準備だと考えるのは「きちがいじみた猜疑心と想像力が必要」と述べたことは、筆者は稲垣氏の指摘で初めて知った。稲垣氏によれば、小田氏の件では、すでに二年前の七五年にトンネルを北から南に掘った形跡があることが『週刊朝日』記者によって報告されているのに。広く目配りして情報を総合し、しかも両論併記に止まらず、論点ごとにいずれかの陣営に与することも恐れず、真実のありかを探ってゆくのが稲垣氏の方法なのである。
 本書は、その方法を用いて新聞・テレビで現在進行形で報道されていることを比較検討し、月刊誌『正論』に連載された「マスコミ照魔鏡」をまとめたものである。ここでも稲垣氏の筆致はめざましい切れ味を示している。というのも、新聞を数誌併読した人なら分かるように、この二三年、自説以外の報道に現れた事実はあえて無視する傾向が強まっており、引用・比較すべき例が続出したからだ。
 たとえば朝日新聞は、「南京大虐殺など最初からなかった」と声高にいいつのる人間や組織が増えている、と九七年元旦の社説で述べる。朝日読者には、そうした主張が跋扈していると思い込む人も多いだろう。けれども稲垣氏もいうように、南京大虐殺についての見直し論議はもっぱら中国側の主張する三〇万人虐殺説に対する反論の形で行われているのである。ちなみに、死者が数万人かゼロかについては反朝日の立場をとる陣営でも秦郁彦氏と渡部昇一氏の間で激しい論争が起きている。
 論争相手の主張について自説に有利なように極端に粉飾するというのは、論争そのものに重きを置かず、自陣の読者に阿ろうとする態度の現れだろう。それによって、「人権」や「人命」、「市民」「民主主義」「弱者」といった言葉が、厳密にいえばいくつもの立場において用いられるべきところを特定の意味に誘導して使われる。故・山本七平氏はそうして一人歩きし始める言葉を「空体語」と呼んだが、稲垣氏のいう「悪魔祓い」とは、「空体語」が暗に前提するイデオロギーや価値観を、それが出てきた文脈に照らして暴くことなのである。
 なお本書は「空体語」を解体する書である以上、それを量産しつつある朝日新聞や筑紫哲也氏の言動が多く槍玉に上げられているが、時に朝日を支持し(一八八ページ)、産経を批判する(二一九ページ)こともあって、フェアである。筆者としては稲垣氏とは立場を異にする話題もあるが、論争は氏のような公正な論者としか交わせないということが最近では身に染みているだけに、爽快に読了できた。

(週刊文春)