相関社会科学演習・(松原隆一郎助教授)
相関社会科学コースM1 井上 彰
かつて政治哲学者のアイザィア・バーリンの,「20世紀に政治哲学は死んだ」という,半ば皮肉が込められたスローガンが風靡したことは周知の事実である(2)が,そのスローガンを覆す政治哲学が誕生したのは,バーリンがそう宣告してからそれほど時間を待たなかった.それらがロールズの政治哲学を皮切りとした,ノージック,ドウォーキンその他の自由主義の思想であることを否定する者はいないだろう.今日の政治哲学の趨勢をみても,彼らの自由主義思想との格闘を通じて,実り豊かな発展的議論がなされているといってよいだろう.本稿は,こうした自由主義の思想の中でも,様々な分野から圧倒的な注目を浴びてきたロールズ,ノージックではなく,ドウォーキンの思想について考察する.「なぜドウォーキンなのか」という問いについては,本稿の題が示しているように,その現代社会論的意義を明らかにすることで,その解答としたい.それが本稿の論証目的である.
ドウォーキンの法哲学の射程は,「法哲学」という名称では収まりきれないのではないかと思われるくらい広範に渡る.むしろ,社会哲学として議論したほうが,彼の思想により肉薄できると考えられる.彼の思想のこの側面は,後に触れる現代社会論的意義を見出す上でも重要である.このような彼の思想を簡単に素描すれば次のようになる.
ドウォーキンは,他の自由主義思想と同様に,権利の存在を重視する.しかし,その権利の中身は,ノージックのような個別性に基づくもの,すなわち,権原を機軸とした独断的なものではなく,そうした権原に加え,「配慮を受ける権利」も権利として論じられる.これがいわゆる,「平等な尊重と配慮を受ける権利」というドウォーキン思想の基本的シェーマである(3).なぜ,ノージックの思想のように,「平等な尊重」だけでは不十分だと考えるのかについてだが,これはドウォーキン思想のよき理解者である一方で,鋭い批判者でもあるハートと共有している見解,すなわち,必ずしも「平等な尊重」が「意味のある生」に直結しないという見解からして明らかである(4).こうしてみると,ロールズの「公正としての正義」との親近性を見出すことができるかもしれないが,同時に重要な相違点も指摘しておかねばならない.これはドウォーキン自身が述べていることだが,正義の第一原理(自由の平等性原理)が第二原理(最も恵まれてない人が利益になる不平等のみ認可するという原理)に優先するという考え方は,「平等な尊重」を順位上,「配慮を受ける権利」より優先的におかれている点で,それらをともに自由主義に不可欠な権利として同等に位置づけているドウォーキンの思想と異なる(5).これもまたハートと共有している意見であるが,ロールズのこの議論は,論証として成功しているというよりも,われわれの直感に訴えるという意味で説得的なものにとどまるのではないか,という見方をドウォーキンはとっている(6).ロールズにとって,自由の平等性原理は,アプリオリに決まっているものではないか,とするハートの批判に,ドウォーキンはおそらく反論しないだろう.
ではドウォーキンの積極的主張である,「平等な尊重と配慮を受ける権利」の意味についてみていくことにしよう.周知のように,ドウォーキンはロールズと同様,功利主義を批判するが,しかし,全面的な功利主義の廃棄を求めているわけではない.彼は功利主義を洗練化することにより,彼のシェーマである積極的権利と矛盾しないことを主張する.彼は,功利主義の過ちは,功利計算の二重算定にあったと主張する.つまり,彼は,個人の財や利益の割り当てに属する個人的選好と,他者へのそれらの割り当てに属する外的選好を区別すべきであると考えるのである(7).たとえば,同性愛者に対する嫌悪感に基づいて,それを排他しようとする試みは,外的選好の典型的な例であり,結局そうした事例はマイノリティーの抑圧につながるのが常である.ドウォーキンが,アファーマティヴ・アクションに基づく逆差別を正当化する論拠はそこにある.@による統治がなされる文明社会において,すべての人間に「平等な尊重と配慮を受ける権利」があることから,外的選好の排除とともに,逆差別の積極的是認がうたわれるのである.このように,ドウォーキンの思想は,旧来型の狭い法哲学という範疇を越えた,幅広いパースペクティヴをもっているといえよう.
ドウォーキンの法哲学の現代社会論的意義について言及するためには,もう少し,彼の思想について検討する必要があるだろう.ドウォーキンは,こうした積極的権利論がより説得力をもつように,自らの思想を,法実証主義の主張する実定法思想ではない,「完全なる法」の思想として構想する(8).実定法とは,簡単にいえば明文化された法ということであるが,法実証主義は,それのみを法とし,裁判官はそれに基づいた判決を下すことが,今日の法治システム社会に根ざしたあり方であると考える.したがって,ハードケースに際しては,裁判官はとりあえずの裁量によって裁決を下し,その後,事後的な立法がなされるというモデルが,法実証主義のモデルとして採用される.だが,ドウォーキンは,それが近代以降の裁判システムを反映したものではなく,そのようなシステムでは,ナチにおけるような不当な法のもとでの裁判官の恣意的決断を,全くもって阻止することができないとして厳しく批判する.彼は,こうした欠陥をもつ実定法思想にかわり,裁判官はどんなケースでも,その法システムの制度史に根付いた規範的な法原理に準拠した判決を行うとする,「完全なる法」思想を展開するのである.これは,実定法のように,法と道徳を峻別するかたちで,政治倫理による拘束(規範性)を排除しようとする議論とは対照的に,それをむしろ背景的道徳として反映する,特定的な権利関係の解釈学的プロセスをモデル化したものとなっている(9).こうなると,硬直化しがちな実定法による法概念と比して,法原理がさまざまな背景的道徳にまつわる葛藤を通じて,ダイナミックに変容していく社会,すなわち,現代の自由社会の自生的秩序が法原理のシステムとして描かれる.「平等な尊重と配慮の権利」は,このようなダイナミズムのなかで洗練化され,より善くより公正な方向に前進していくとドウォーキンは主張する(10).この点から,彼の論じる積極的権利が形式的性格をもつものであり,その中身は,各自が有する諸制度の政治的道徳に価値をおくかたちで,様々な論争を通じて発展していく解釈学的循環を意味するものであることが理解できる.
ドウォーキンの法哲学が現代社会論的意義をもつとする論拠は,上記と密接に関連している.彼が今日においてもなお優勢である法哲学のあり方に反旗を翻し,「平等な尊重と配慮の権利」を形式的な一般的権利として位置づけつつも,それを確実な基礎をもった未来永劫不変の内容をもつ公理とすることを拒否した点に,積極的な意義を与えることができないだろうか.ハイエクが,法実証主義を批判する文脈は,上に記したような不変の客観的規準を正義が有していなければならないとし,だから近代の法はそのような正義規準とは相容れないとする実定法思想の硬直した考え方だった(11)が,ドウォーキンの法哲学は,諸制度の政治倫理とそれにまつわる様々な葛藤を法原理が反映するものとして叙述していることから,こうした客観的規準とは無縁であるし,一方で形式的性格を有する積極的権利の普遍性をうたうことから,制度主義の陥りやすい罠である相対主義とは一線を画したものとなっている.これはおそらく,彼が哲学的解釈学に自らの思想的態度をおいていることの帰結だろう.
現代の自由社会における社会システム間の差異が顕著になっている以上,旧来的な法哲学の客観的規準をみたす権利論的アプローチではない,その社会における自己組織的なダイナミズムを含意する権利論的アプローチが望まれているのは必然的なことである.ドウォーキンの法哲学がそれに応えられているかといえば,不備な点が少なくなく,数多くの批判にさらされており,確かに問題点も多い(12).しかし,ドウォーキンの法哲学が,現代の自由社会のあり方を模索していく手がかりになることは疑う余地がない.制度的な差異をふまえつつ,悪しき相対主義に陥ることない自由社会の哲学の地平を進展させる契機が,ドウォーキンの思想にあるといっても言い過ぎではないだろう.
註
(1)本稿は,ドウォーキンの『法の帝国』を執筆する以前の見解に関するものであり,『法の帝国』の議論をふまえての検討ではない.
(2)I.バーリン/生松敬三訳『歴史の必然性』みすず書房,1966年,99頁参照.
(3)詳しくは,R.ドウォーキン/木下毅,小林公,野坂泰司共訳『権利論』木鐸社,第5章以降を参照.
(4)H.L.A.ハート/小林公,森村進訳『権利・功利・自由』木鐸社,190-198頁参照.
(6)ドウォーキン,前掲書,第5章,および,ハート,前掲書,第7章参照.
(9)詳しくは,井上達夫「法の存在と規範性−R.ドウォーキンの法理論に関する一註釈」上原行雄・長尾龍一編『自由と規範−法哲学の現代的展開−』東京大学出版会,1985年,を参照されたい.