『日本の論争 既得権益の功罪』草野厚/東洋経済

 政治とは論争が起きている問題についての決断のことであり、さらに民主主義においては決断するのは国民だから、論争を論じるのは今日の政治学の中心的な課題であるはずだ。それゆえ日本のODAにかんする評価や長良川河口堰の是非、規制緩和論や日本の官僚機構のあり方にかんする論争そのものを扱おうとする本書は、一見ジャーナリスティクでありながらその実極めて正統的な政治学の書というべきだろう。とくに日本のODAをアメリカが官民強調で勝ち取ろうとしているとか、また審議会は法案の隠れ蓑だということをその構成員から推し量るなどの推論は、証拠が労苦を惜しまず集められており、説得的だ。
 議論の手続きは二点から成っている。まず、対立する主張の内容がどのようなものか、という点。長良川河口堰については論争の経緯と対立する見解の双方がバランス良く紹介される。次に、その内容がメディアや情報公開制度によって国民に正確に伝わっているか否か、という点。そこでNHKの河口堰報道が反対派の見解を強調しすぎることが事実にもとづき指摘され、批判される。他の論争も同様の手続きが取られ、大変勉強になった。
 国民への情報公開の徹底や消費者にとっての選択肢の多様化をくり返し主張するのだから、論争に対する著者自身のスタンスは、政治について世論が、経済について消費者が最終的な意志決定権をもつとみなすところにある。そこで著者は、国民が税制など私的な情報以外の開示には無関心であり、また内外価格差に消費者の怒りが爆発しないことを嘆くことになる。しかし、選択の自由をいうのなら、参政権および消費者主権を行使せよという啓蒙は、生活者のそれを抑圧することになるのではないか。生活者は、政治家任せと政治参加、また生産者であることと消費者であることの比重を選択しているのだからだ。
評者としては、キウイフルーツが広まったことが輸入自由化の成果だといわれても、同時に紅玉が八百屋から消え去っただけに、世界から多様性が失われたように感じられて悲しい。

(共同通信)