『評判記』松原隆一郎(読売新聞2001.4.14)

 一万部の売り上げがあれば事件になる昨今の哲学書市場にあって、中島義道氏はまさしくベストセラー作家である。今回の『働くことがイヤな人のための本』(日本経済新聞社)では、ビジネス書市場をも席巻している。

 中島氏といえば、哲学とは死や意識や美について自分の頭で考え詰める営みであって文献の詮索ではない、という哲学「研究者」批判で知られる。そこで某大学の哲学教授に評価を尋ねてみたら、「文献を読むのだって自分の頭を使う哲学センスがなきゃダメなんだよ!!」と渋面が返ってきた。私は以前、ひょんなことから中島氏率いるカルチャーセンターのクラスの飲み会を覗いたことがあるが、訥々と哲学を語る中島氏を熱く見つめる中高年の参加者は、「お人柄がステキ」と評していた。氏は、プロには煙たがられ、素人とはすれ違っているのではないか。

 読後には、不思議な共感が残る。仕事人生に疑問を抱く二十代から五十代までの四人に対し理不尽な仕事とも格闘すべしと説く構成以外、その論法は出世作『哲学の教科書』(講談社)とさほど変わらない。それでも大学院を中退して以来布団から出ない親泣かせの引きこもり青年だったとか、塾講師として社会へのリハビリを重ねたとかいった告白にはグッときた。

 電車の中で本書を一心に読む少女を見かけたことがある。やはり哲学者としての思索よりも、語りかける氏の声にこそ魅力があるのだろう。本書は、仕事では二着以下に終わるしかない大半の市井の人々こそが、死に直面すれば成功者に一発逆転してこの世への執着を捨てうると述べる。市井の人こそ仕事を経て哲学に至ると励ますのである。とはいえベストセラー執筆に心血注ぐ中島氏をみるにつけ、「仕事」が哲学の下位にあるとは信じられないのだが。