| 『中谷功200時間語り下ろし』大塚英樹編・著/講談社/松原隆一郎 現在の日本経済は、個人消費のあり様によって景気が左右される、その意味で消費資本主義の段階にある。モノを作ることが、それだけでは豊かさに繋がりえなくなった時代だということだ。モノは作っただけでは商品とはならない。流通を経て、消費者の評価を得たモノだけが商品となる。流通サービスと商品欲望が、商品を商品たらしめる必須の付加価値となっているのである。 そこで気にかかるのが、「よい品をどんどん安く」を基本原理としてメーカーを渡り合ってきたダイエーの主、中谷功である。 本書の書名にいう二〇〇時間とは、中谷功と著者が十年間に語り合った一〇〇時間、そして今回のためのインタビューの一〇〇時間のことだという。「一、仕事ほど面白いことはない」「二、好奇心に勝るものなし」「三、わが人生は未完なり」の計三冊がそれぞれ独立にも読めるように工夫されている。 中谷の言葉は、一問一答形式でなく、太字で標語ふうに記される。これを埋めるようにして、中谷の生い立ちやエピソードなどが著者の手でつけくわえられていく。ただし、批判的な感想はみられない。名遂げた経済人へのインタビュー本の限界だろう。だが、これほどの長尺だけに、読者は勝手な評価を加えることができる。 中谷の仕事観は、消費資本主義の前線を照らし出すものとなっている。その流通産業論は、組織作りを語るのに、スーパーであれホテルであれ、「システム」を基本概念として強調している。「システムとは、”系”であり、新幹線と同じで、一方通行であってはならない。東京−博多−東京と回帰しなければならない」。この「システム」は、報告・連絡・相談(ほう・れん・そう)によって情報が回帰する。つまり、基本の単純な原理・原則だけを決め、従業員はそれを頭にたたき込んでテキパキと働く。少しでもズレが生じたら、上司に報告・連絡・相談するのである。 また、「システム」を構成するために、「科学的な方法」が提唱される。システムを仮説し、それを実地に検証し、仮説を改善していくのである。そうした作られた「システム」は、一方で中谷の理念である「よい品をどんどん安く」との整合性をチェックされる。これを理解するのがダイエーの優等生だ。 エピソードがある。福岡ドームに隣接するシーホークホテル&リゾートは次男の正が管理しているが、そのホテルのカフェテラスに客待ちの列ができ、しかも客席の三分の一が空席になっているのに誰も客を案内しないままになっている。これを見かけた中谷は、激怒する。「フォー・ザ・カスタマーズ」の原則が忘れられているからだ。 中谷の「システム」論が卓見なのは、それがモノとしての商品を作る工場労働の「システム」と同様に理解されているからだ。サービスもまた明確に商品ととらえられ、それについても「ローコスト・オペレーション」が適用されるのである。消費産業のリーダーとして、製造業への対抗心と、それの繁栄から学ぶ気持ちとがここには伺える。マドンナのコンサートの華麗な段取りに「システム」の神髄を見る中谷の発想は、アメリカのサービス産業を手本にしているのである。 しかし、そうだとすると、疑問が生じる。あくまで低価格にこだわる中谷式システムでは、サービスにかんして少品種大量生産しか行いえないのではないか。アメリカのレストランやホテルは良くも悪くも均質的だが、そうしたサービスを日本に持ち込む、ということだろう。しかし、日本の製造業の「システム」は、アメリカから移植されるや、高度に教育された現場労働者の柔軟な対応によって、商品の差異化を行う独創的な多品種少量生産様式にと作り替えられた。サービス産業は、中谷式の低価格追求型だけにつきるものだろうか。今後は、価格据え置きで差別化の競争を行うものとの二極分化が起きるのかもしれない。 また、本書では中谷式の「システム」の内実は明かされていないが、それが熟したものであれば、福岡のホテルでも応用可能であったはずだ。それが出来なかったのは、実弟の力が批判したように、異常なほどの多業種展開のうちに中谷の「システム」が理想から離れて「財務無視・消費者軽視」に走ったせいかもしれない。「システム」が中谷個人なしに定着しないならば、それは自律的なシステムとはいえない。 これらの問題は、むしろ中谷の生来の個性に由来しているといえそうだ。中谷は、なぜこれほどに低価格にこだわるのか。また、異常なほどの事業展開を行うのだろうか。 同じ所得で牛肉を倍食べたい、ビールを倍飲みたいという消費者の欲望に訴えるというダイエーの理念は、アメリカ流のチープな豊かさではある。ただ、その理念が中谷について離れないのは、彼の戦争体験ゆえである。戦時中、中谷は出征したフィリピンで、すきやきを食う夢で目をさまし、一命を取り留めたのだという。そこから、「良い牛肉を安く売りたい」という理念が妄執のごとく出る。 一方、事業を展開しないでおれない中谷の活動力は、天性のものだ。本書によれば、中谷は理事をする流通科学大学の学生へと管理職への二本のニューズレターを毎週書いているらしい。思いつきにすぎないことだとしても、二本を書き続けるというのは大変なことだ。しかも、学生に字が読みにくいといわれ、いまさらながらにワープロを習得する。これが中小企業の社長なら、秘書に清書させるのが社長だ、と反っくり返っておしまいだろう。また、長期勤続社員の褒賞会では、マイクを手に、有り難さについ泣きくずれたりもする。こうした活動力は、中谷のカリスマ性を一層高めることになる。だが、周囲の者、とくに家族は、いつまでたっても枯れない主人に振り回され放しになる。弟の力と絶交した際には、中谷は駄々っ子のように、婦人同士がつきあうのも許さなかった。 巻末のエピソードには、中谷らしさが光っている。八〇年代の初期、関西の財界セミナーで国防論争があったのだという。当時の中心・住友金属の日向方斎は、ソ連のアフガン侵略を機に日本の軍事独立、軍備強化そして徴兵制を唱えた。これに真っ向から立ち向かったのが中谷であった。中谷によれば、それは第二次大戦を起こしたのと同じ製造業の発想である。戦争は土地と一体化している資源のぶんどり合戦から起きる。だが、資源を流通によって円滑に配分しうるならば、戦争は回避できるではないか。これは、現在ローゼンクランスの論じる戦争観に通じる見解である(『中央公論』九六年十月号)。 中谷は、「システム」論によって低価格=消費者主権を確立しようとする革新家であり、旺盛な好奇心の衰えぬ活動家なのである。しかし、中谷のそうした人間像は、かつて製造業中心の高度成長期に見られた経済人をアメリカ型の消費資本主義において反復するものでしかないともいえる。現在の日本人が求めるべきなのが戦後生まれに即した日本型の消費社会であり、高齢者らしい成熟した生活文化なのだとすれば、それは中谷の人物像から離れて行くことになろう。 |