『ウォッチ論潮99.3.30/論壇崩壊?』松原隆一郎

 

 筆者の担当する『ウォッチ論潮』は今回が最終回である。そこで二年にわたり毎月論壇誌を通読してきた体験を総括しておきたい。

 「論壇は崩壊した」、としばしば言われる。たしかに稲垣武氏の『「悪魔祓い」の戦後史』(文春文庫)や都築勉氏の『戦後日本の知識人』(世織書房)などを見ると、戦後から一九七十年代頃までは、知識人はいちいちの社会問題につき論壇で論陣を張ることを責務とみなし、それが読書人の間で話題とされていたことが分かる。今月でいえば、『諸君』!の座談会「『諸君!』は何と闘ってきたか」が、一方からの回顧ではあるがその熱気をよく伝えている。

 対照的に昨今では、論壇に発して広く話題を呼ぶような論考が激減したというのは事実であろう。なぜだろうか。

東浩紀氏は、文芸批評の世界で、九0年代に「アカデミズムとジャーナリズムへの激しい二極化」が起きたと総括している(「棲み分ける批評」『Voice』4月号)。 

 アカデミックな批評には高い知的緊張があるが、社会に及ぼす効果を無視している。ジャーナリスティックな批評にはメディア戦略があるが、知的緊張がない。そして両者が分離し「棲み分け」ている現状は批評の「形骸化」であり「健全さの喪失」だいうのである。

 東氏の主張は、論壇にも当てはまる。たとえば吉川元忠氏の『マネー敗戦』(文春新書)が反米的な人々の間で話題になっている。日本の経済危機は、低金利政策を採りつつ米国債を買い支えた日本政府の対米追随路線の誤りに起因するという分析である。

 たしかに吉川氏の指摘するように、日米の金利はプラザ合意以降、不思議なほど一定の差を保ってきた。しかしそこから「敗戦」を結論するのは飛躍だろう。両国の金利差は政府間に談合があったことの状況証拠にしかならないからだ。むしろ吉川氏はこの傍証をもって、談合が実在したのか否かの検証を国際政治・経済学者につきつけたのだと評したい。とすればこれだけ刺激的な論考を得ても論壇が沸騰しなかったのは、アカデミズムが無視を決め込んだせいだということになる。

 東氏はアカデミズムとジャーナリズムに分裂ないし棲み分けをもたらした社会的・文化的環境を、「徹底化されたポストモダン」と呼ぶ。それは趣味ごとに閉鎖的なグループを作り相互にコミュニケートしなくなる「オタク化」なる社会現象とともに進行したという。

 なるほど書店に溢れる専門雑誌を眺めると、話題が減ったわけではないことが分かる。何百万枚のCDを売り上げるバンドが現れる一方で、その存在を知りもしない人もまた増えている。論壇でも同様に、話題は生まれながら、波及範囲が限られているのである。

 東氏はオタク化に抗すべくアカデミズムの「思考」とジャーナリズムの「日本語」を相乗りさせるような「新しい文体」の創出を提唱している。けれども「オタク化」そのものに、アカデミズムにおける専門志向がジャーナリズムに感染したという面がある。「新しい文体」は、関心を専門領域に限らず領域間で交流させるような総合性・相関性も兼ね備えねばならない。

 そうした文体で書かれるべきものを、「新たな教養」と名づけてみよう。その復興のための条件を、山崎正和氏が構想している(「『教養の危機』を越えて」『THIS IS 読売』3月号)。

 教養といえば、岩波文庫や『世界の名著』に示されたような、身につき、しかも総合的な知識である。大正から昭和初期にかけて人々に確実な知の世界として親しまれ、人生をも陶冶する役割を果たした。だがそれは、一部が「科学」と称してアカデミズムに定着すると、残りの部分はジャーナリズムの中で収入の裏づけを確保できず、市場化や情報化にさらされて、理性よりも感情に訴え、脈絡よりも断片を重視せざるを得なくなった。その結果、世界の全体を一気にとらえ、親しみあるものとして提示するような教養は消失してしまったという。

 だがかつての教養の没落には、別の面もあったことを指摘しておきたい。教養書の売れ行きの失速を尻目に市場で評価を得たものに『別冊宝島』(宝島社)シリーズがあるが、その内容は情緒的・断片的とはいえない。「わかりたいあなたのための」と冠されたように、それは旧来の教養がアカデミズムの中で窒息したのはリアリティを欠いたせいだとみなし、社会人の常識でも理解できるような知識の表現を企図していた。

 しかしそうした知識欲は、アカデミズムとジャーナリズムの接点で「オタク化」を帰結した。リアルではあっても仲間内・世代内でしか通じない知識をもたらしたのである。それゆえに財団や公的助成の力も借りて「顔の見える関係をつくって、職業的知識人が互いに認知しあい、評価と育成のできる場」を構築しようという山崎氏の構想も、正当ではあるがこれだけででオタク化に抗しきれるか懸念される。

 ひとつには、争点の分裂がある。筆者は、(青年誌も含めて)論壇誌には今も興味深い論文は掲載されていると思う。しかし関心が分裂したせいで、論争が存在することも広くは知られていない。論壇時評や書評といった「品定め」だけでなく、何が焦眉の課題なのかを示しそれぞれの主張のポイントを争点を軸に再構成することも必要であろう。振り返ると筆者は本欄の重心をそこに置いてきた。

 さらに、論争において「作法」が失われているということがある。最近の論壇では、発言の場の公共性に敬意を払うならば起こりえなさそうな醜悪な言い合いがしばしば勃発している。そうした論争が、ケンカもしくはショーとしていたずらに消費されているのである。思想上の党派が「オタク」的に集結し相互に抗争しているのだともいえる。

 相手との信頼をふまえ論争することを通じて「公論」を生み出す文化の成熟が、いま求められているのだと思われる。