思考の格闘技
仕事日誌をここに併設します。日々の仕事雑感を記します。
一部をtwitterに移行させます。http://twitter.com/#!/ryuimatsu
| (2011年2月2日) 講談社、「ハイエクとケインズ」第7回、書き上げる。疲れた。ハイエク40年代の仕事を、資本理論の現実化の限界と、市場論の知識システム論への拡張から述べる。格闘技の弟子の丸亀さんが神楽坂にワインバー「marugame」を開店したので、さっそく行ってみる。料理は相当にうまい。コースのみ4000円なり。 |
| (2011年2月2日) 鉄学収録。 一本目は新井満さん。「千の風になって」の話。これは2001年に、詠み人知らずの英語の歌詞を新井さんが訳詞・作曲したものだが、1995年に「1000の風」という写真詩集が出版されていて、その著者である「南風椎」さんから「パクリ」と「千の風」に所有権を設定したことをブログで糾弾されている、曰く付きの作品だ。 もっとも私は「パクリ」というのは、「うた」に所有権を当てはめるようになってから出てきた問題で、この件は当てはまらないと思う。沖縄の「19の春」には、田端義夫が録音したバージョンがあるが現地ではよく歌われているし、加計呂間島の「加義丸の唄」、与論島の「与論小唄」、沖縄本島にも別バージョンがある。唄は場所を変えると変形されるのが、もともとのあり方なのだ。 まあ、南風さんは80年代からの知り合いなのに、そのことに触れていないのは、知人としてカチンとくるのは分かるけど。 二本目は、高萩市の市長・草間吉夫さん。この方、日本で児童養護施設入所の最長記録の持ち主であるらしい。 私生児として生まれ、生後三日で入所。以来、高校までそこで集団生活、大学は東北福祉大、それから松下政経塾を経て市長になられたそうだ。苦労には、泣き虫の伊藤聡子さんがずっと目を潤ませていた。凄いです、この方の人生。 |
| (2011年1月30日) 現代経済思想研究会(第8回)に誘われて小一時間コメントするよう大東大の佐藤先生に言われたので応える。東洋大学・白山キャンパス・2号館16階スカイホール。中野剛志編著『成長なき時代の「国家」を構想する――経済政策のオルタナティヴ・ヴィジョン』ナカニシヤ出版を論評。 6時過ぎまでやり、ちょっと会場で飲んで巣鴨に移動。真面目な話を長時間して疲れた。 |
| (2011年1月25日) 書評賞。丸谷才一『挨拶は一仕事』を読むと、毎日書評賞の挨拶が出ていた。どうやら飲み会の乾盃のようである。しっかりA4に三枚書いて行く。 ところが会場に着いてびっくり。東京プリンスの大広間には500名は入っているか?その最前列で座らされる。受賞者には加山雄三もいる。とんでもない素面の席である。そういうこともあろうかと、「素面バージョン」で挨拶。 しかし、挨拶かと思いきや、「選評をどうぞ」と紹介されてしまう。内容は、以下の通り。 ********** 松原隆一郎です。池澤夏樹、中村桂子両先生とともに書評賞の選考委員をさせていただきましたので、選評をご説明申し上げます。 現在は、専門がこれだけ細分化し、本もこれだけ多く出版され、しかも素人でもインターネットでこれらの本への書評を公開できる時代です。それだけに、書評をプロとして書くのは困難な時代とも言えます。そうした時には、とりわけ専門家は難しい言葉を用いて煙にまくのが普通のやり方です。スキーのジャンプで100mも飛ぶとか、水泳の高飛び込みは、素人は怖がって最初から近づいてこない。勘違いして、自分にもできるとも思わない。これは難しい本を難しい言葉で論じるやり方に相当しますね。 もしくは、内容を要約して、褒めて、それでも欠点はある、と付け加え、最後に大した欠点ではないから長所が勝っていると締めくくる、研究者は、新聞でもそういった紋切り型の書き方をしがちですが、これは芸がない。 自分の生活の周辺にからめた書評子が主人公になるいわば「わたくし書評」や、「美しい」「楽しい」といった快感を表明する、特にビジュアル本を扱うオススメ書評も目につきます。そうした書評に需要があるのも分かります。 しかし、多様な本を、すべての分野に通じる総合的な教養を背景とした本格書評は、今の時代にも変わらず求められています。 「かるべただし」さんは、「丸山真男 リベラリストの肖像」「光の領国 和辻哲郎」で定評のある日本政治思想史の専門家であります。丸山も和辻も、ともに熱狂的なファンや論敵がいて、多くの評伝が書かれております。自分の主張を打ち出したいだけで、和辻・丸山を持ち上げたり叩いたりする評伝も多々ある。そうしたなかで、丸山・和辻を読み込み、しかしかぶれることなく適度な距離を取り、時代状況を客観的に理解し、最後に評者・苅部さんの顔を少しだけ覗かせるという、いわば教養人による一級の仕事をしてこられました。 翻って受賞作『鏡のなかの薄明』を読み返すと、これもまた誰もが手に取りうる本について、固い政治思想の本から小説までを取り上げ、易しい言葉で光を当てる文章を配置しておられる。政治思想にかんし、外国人の思想を日本政治思想の専門家はどう評するのか。固い論評するとすれば、その文章で小説を論評することはできるのか。様々な角度から意地悪な要望が出てきますが、それらにも、悠々と応えています。 苅部さんの書評は、専門家としての知見を誰にも理解できるような言葉にし、しかし専門家としての読み込みの深さを見せるような、達人というか華のある芸を見せておられる。 ただし大学での同僚として証言しておきますと、『鏡のなかの薄明』が易しい言葉で書かれていることからの連想で、苅部さんが学生、とくに院生に優しい言葉をかける教員と思われるかもしれないが、これはとんでもありません。学生に成り代わり、証言しなければならない。私の目撃した限りでは、苅部さんは、博士論文の審査では、大小20カ所も、大砲やらマシンガンやらで絨毯爆撃というかハチノスにしてしまうような情け容赦ない怖い審査員で、同じ審査員としても、被審査者が立ち直れるが、身の上を案じてしまうほどであります。そういう厳しい苅部さんの眼鏡にかなった本が、受賞作には取り上げられているのです。 選評はすでに池澤先生が毎日新聞書評欄で発表しておられます。「数点を束ねて論じるのは確たる視点を持った専門家にしかできない」「(小説につき)短い評の中に登場人物を呼び出し、彼らの関係を描き、おぼろげにして最も魅力ある側面を示す」といった具合に文学者ならではの評価を与えておられますので、私は個人的な感想を述べさせていただきたい。 苅部さんの筆致に特徴的なのは、右と左といった分かりやすい構図に、別次元の見方をすっと差し入れる繊細な視線だと思います。政治思想史家イグナティエフがボスニアの紛争地域に出向いた報告と、宗教や民族を異にする人々が声を発する状況を考察したウォルツァーの思索から、「普遍的と思われたリベラル・デモクラシーが、外部からの荒々しい侵入に苦悶する」と要約している。さらに半沢高麿は、ギリシア以来、「非政治」が価値を主張するのに対し「政治」が監督するのが西欧政治史であると論じ、非政治分野の「友情」こそが「人間の共同性の理念」を支えていたのだが、それが衰退したのだと結んでいます。 一方、韓国・ソウル市で、植民地時代に独立運動家が囚われ命をなくした刑務所が、独立門のすぐ脇に建てられていたことから、現地の人々の誇りをことさらに踏みにじったと観察している。そしていま、日本発行の案内書には、グルメばかりで刑務所は記されていない。こうした気づきがなければ、韓流ブームだけでは日韓の「友情」は薄いものとならざるをえないと思われます。 このような、書物の森に分け入ることと現実に戻ることの間、もしくは往復の中で思索するという姿勢が苅部さんの本には一貫しています。その思索は、小説にも及びます。そうした本格書評集が受賞されたことは、この書評賞の意義を高めるものと考えます。おめでとう。 以上です。 |
| (2011年1月14日) NHK、ビズスポ。 “ネットTV”の衝撃、英会話激安新学習法、宮城県へトヨタ工場移転について。村井嘉浩知事、志村一隆氏、グーグル日本法人社長辻野晃一郎氏、作家室井佑月さんと。麻生久仁子さんはもうダメなのかな?しかし、室井さんはペラペラ話しかけてくれて、気の置けない人である。寒いのに肩まで脱いで、「サービスだから」とのこと。 【コメンテーター】東京大学教授…松原隆一郎, |
| (2011年1月13日) 読売から二日で「タイガーマスク運動」について書け、との依頼。日本が寄付小国であること(寄付なき個人主義・無縁社会)、梶原一騎は格差に敏感だったが、一億中流を経て格差が広がって復活したことを指摘する。 直に反響あり、「面白かった」とJwaveから出演依頼もらう。 |
| (2010年12月29日) 鉄学収録。 1本目は「食の道理」。冷凍枝豆排斥論をぶつ。 2本目は「女性の幸福」。板東真理子さん。品のよい女性ではあるな。私は多少品のない女性が好みなのではあるが。 |
| (2010年12月27日) 講談社、「ハイエクとケインズ」第6回、書き上げる。今年も終わり、ほっとする。ケインズの思考法を、『確率論』「若き日の信条」から探る。 |
| (2010年12月22日) 鉄学収録。 1本目は、「移行期的混乱」。平川克美さんを招く。人口が減っていることがすべての混乱の原因だという。イマニュエル・トッドの人口論を日本に応用した説である。 2本目は、おすもうさん。高橋秀実さんは不思議な方だった。おかげで、八百長論なぞ下らん、という素晴らしい話ができた。 |
| (2010年12月13日) 『ゴン格』インタビュー。勝つとは何か、勝負論。あまりにプロ格闘技がすっきりしない状況なので。 しかし「力道山vs木村」は、やはり問題の多い勝負ではある。 |
| (2010年12月12日) 毎日の書評賞選考委員会。池澤夏樹主査、中村桂子委員と私で。 三作品が残り、評価は見事に分かれた。しかし意見を交わすと落ち着くところは一点に。 |
| (2010年12月7日) 御厨先生と、週刊朝日で「政党の通信簿」対談。 現在の民主党は「小沢の誤算」にのたうち回っている。法をクリアして情報公開すれば、倫理や信頼などどうでもよい、という立場が検察審査会という素人集団のせいで行き詰まっている。しかし政治は素人である国民のものなのだから、そもそも民主主義観が間違っている。大衆はだからダメなんだ、と言いたいところだろうが。 |
| (2010年12月6日) 『日本経済論−国際競争力という幻想』NHK出版新書、校了。もともとが朝日の論壇時評だった130枚を、渋谷のホテルで二度缶詰、ゲラで二回大幅修正で380枚に。眠れぬ夜もあったが、やれやれ。 |
| (2010年12月2日) 講談社、「ハイエクとケインズ」第五回、書き上げる。今回は、ハイエクのケインズ「貨幣論」批判から見えるもの。激突である。ケインズとハイエクの本質がここにある。なぜみんなこれを取り上げないのか、不思議だなあ。 |
| (2010年12月1日) 鉄学収録。 1本目は奄美大島の紹介。田町っちゃんの登場だ。コミュニティと森林を褒め称える。あー、また行きたくなったよ。 2本目は今年の総決算。3人で喋るという形が、なかなか面白くなってきた。 |
| (2010年11月11日) 『ゴン格』インタビュー。 |
| (2010年11月10日) 鉄学収録。 1本目は「地下水道」。下水に腰まで使って撮る特殊写真家の登場だ。 2本目は「全国の元気商店街」。商店街は専門店街でなきゃやっていけない、というのが私の意見なのだが。その上で人対人のサービスができれば一番良いに違いない。 |
| (2010年11月9日) 毎日新聞に広瀬和生『この落語家を聴け!』集英社文庫、書評。 立川流とSWAが落語復興の二本柱だ、つまらない伝統落語が多いというのは、消費者の立場から爽快。伝統派がどう巻き返すのか、見物でもある。 |
| (2010年11月4日) 「赤門柔道」部長の言。 東大柔道部で開発された寝技の亀取り、「柴山縦」を、秋本が駆使して世界選手権で金メダルを取った件。 |
| (2010年11月3日) 鉄学収録。 一本目は「防衛産業」。武田さん、思わず涙するシーン。私は、専守防衛とは実践で使わぬが刀は研ぐ武道のようなもの、患者の来ない小児科医のようなものと説明する。しんし国防が中小企業の力を競うものという視点は面白かった。 二本目は「生物多様性」。蜘蛛の身体能力は進化の産物であり、その深甚な遺伝を多様なる物として人類は受け継いできた。その知恵に驚く。 |
| (2010年11月2日) NHKブックス、次回作(1月に刊行)を脱稿。一月、長時間眠ることができなくなったが、やっとほっとする。朝日論壇時評を軸にしたが、その130枚ほどが370枚まで膨らんだ。 |
| (2010年10月26日) 鉄学収録。 一本目は、「日本人、韓国人、中国人」。国民性を比較する。学生さんを二人呼ぶ。二人とも可愛い学生であった。武田さんが目を細めていた。 二本目は、「嫁がなぜ鬼嫁になるのか」。行動心理学の話。よく喋る元NHKアナウンサーの先生だった。武田さんが、ゲストを外して三人で喋る、という手法を使い始める。面白し。 |
| (2010年10月18日) 講談社、「ケインズとハイエク」第四回。「貨幣論」と「価格と生産」の主内容を要約。次回は、激突である・・ |
| (2010年10月8日) ゴン格インタビュー。相撲は神事と言われるが、土俵入りはプロ興行としては須藤元気のダンスみたいなものではあるまいか。MMAには、そうした定型の華やかさが欠けている。 |
| (2010年10月7日) 『中日新聞』「時のおもり」、イルカ騒動はサンデル正義論ならどう言うかを考察。捕鯨批判は功利主義である。 |
| (2010年10月7日) 「現代思想」インタビュー、相撲とは何か。超久方ぶりに池上氏と会う。 |
| (2010年9月30日) 講談社メルマガ脱稿。ハイエクとケインズ、「貨幣論」「資本理論」をめぐる激突の解説、前半。 |
| (2010年9月29日) 週刊鉄学、収録。一本目、筆跡学。筆跡の同定ではなく、筆跡から性格を診断するのだそう。筆跡は手先の問題ではなく、脳の性格の問題というのには、感心した。篤実そうなゲスト。 二本目は太地町「イルカを食べちゃダメですか」、関口さん。木訥に怒りを示してもらう。 |
| (2010年9月15日) 週刊鉄学、収録。野田聖子・三原順子。三原は早々に子宮頸がんの無料ワクチン実施を実現、成果あり。野田に「自民党の保守とは何か」と尋ねたところ、「家族とコミュニティーの党だから、その再生をかけて子どもを生みます」とのこと。結構納得した。 二本目は和田秀樹、「怒りの正体」。まあ、和田氏にしたら博論の一部を口述したようなものだろうが、それ以外の話題が面白かった。「テレビの大罪」、ということか。大学教員にはできないことだが、なかなかの芸ではある。
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| (2010年9月8日) 「ゴング格闘技」、インタビュー。天下を制圧することの諸行無常について、K−1を素材に語る。柔道のヘーシンクは、柔道というマイナースポーツが巨大化する過程で上手く立ち回ったのだと思う。なぜプロレスラーになりながら、ああまでもてはやされるのか?講道館の指針でいえば、妙ではある。 |
| (2010年9月7日) 三五館『卑弥呼の正体』、毎日書評。凄い本であることは間違いない。万巻の漢籍を読んだら、倭の国は遼東半島にあったというのだから。しかし、社会科学者としては、どうしても実物的な証拠との誤差が気になる。ぜひ、そちらを継いでくれる人に出てきて欲しい。 社主の星山さんに、やっと応えることができた。 |
| (2010年9月7日) 毎日新聞に、民主党代表選について書く。 私の関心は、もっぱら小沢一郎がどんな人物であるのか、ついに明らかになるのか否か、ということである。 豪腕、というが、議席とかカネで縛る以外に何が豪腕なのか、よく分からない大物が、ついにベールを脱ぐのである。それ以外の論点、「カネと政治」等でごまかさないで欲しい。 |
| (2010年9月5日) 自分の誕生日だというのに、家内の店に借り出される。「よーり よーり しまの のの」奄美大島の芭蕉布展覧会である。 コーディネーターの田町まさよさんとは、奄美で知り合った。最高のツアコンである。二人で、奄美の魅力について、語る。というか、だべる。 http://ひねもすのたり.com/blog/index.php 何人かは、奄美に行きたいと感じていただけたらしい。誕生日もお客さんに祝って貰って、嬉しい。 |
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| (2010年9月2日) 『中日新聞』「時のおもり」。編集部から珍しく、テーマの指定あり。お題は「生物多様性」。 自分はこの主題がなぜ重要かも分からぬ門外漢である。しかし多様性は生物においても必要であるらしい。しかしそれは、論理では言えても直感的にはよくわからない。なぜ、蚊やゴキブリが絶滅してはいけないのか。専門家に、教えていただきたい。 |
| (2010年9月1日) 『週刊鉄学』収録。「不良長寿のすすめ」。 順天堂の先生による、NK細胞の紹介。知らなかったが、人には子どもの頃から一日で5000個も癌細胞が出来るそうな。それでも癌にならないのは、NK細胞が食べてくれるそうな。老いて癌が発病するのは、そのNK細胞の弱りなそうな。ではNK細胞がなぜ弱るかと言えば、ストレスが大きな原因なそうな。それで、煙草をやめたりするとストレスで肺癌になるそうな。 この筋書は、リアリティーがある。梨本氏の例を見なくとも、煙草をやめて肺癌になる理由を、禁煙論者は示すべきだと思う。 |
| (2010年8月31日) 講談社新書メルマガ「ハイエクとケインズ」二回目、二回目。二人の履歴を書く。一般に知られていること以上の事実を自分が知っているわけではないので、そういった意味での学術的な検証をしようというわけではない。だから、専門家には関心を持っていただける内容ではないと思うが、それでも二人の歴史を重ねただけでも自分としては面白かった。 |
| (2010年9月30日) 編集者から、朝日新聞に私が『中央公論』で書いた(実は喋った)「消えた老人」にかんする文章の評が出ている、と言われたので、見てみた。東浩紀によれば、「確かに、かつて人々が国から自由でありたいと願ったのは、国とは別によりどころがあったからだろう。しかし、いまその前提こそ壊れているとしたら?」なのだそうだ。私が福祉 は国家よりも家族や企業、地域などが担うべきだとしているが、いまやそれが崩壊しており、福祉実現の「壁」になってさえいるというのだ。 しかしいったいどう読めば、私が「民間の共同体は壊れていない」という意味のことを言ったことになるのだろう? 私が述べたのは、大略、次のようなことだ。 ・かつて、福祉が国家よりも家族や企業、地域などが担っていた。 この主張にかんする反論ならば傾聴するが、言ってもいないことは論評しようがない。 私は、「既存の共同体が壊れていないからそれに福祉を期待すべき」と言ったのではない。「既存の共同体が壊れたのだから、新たな共同体が生まれるのに期待したい」と述べたのである。東は朝日の論壇時評では私の後任者ではあるが、しっかりしてね、と言っておきたい。 ****** これはシンポジウムで発言しただけで書いていないことだが、私は下北沢の再開発に反対している。これも「中公」と同じ趣旨である。 民間の力で街の活気が自然発生して一種の公共圏を形成するというのは、稀なことだ。震災前の神戸にも、そうした民間のつながりがあった。神戸はハコモノだけが復興したが、活気はない。それは人のつながりが復興できなかったからだ。国や都が、下北でもそうした人のつながりを切断することには、私は反対である。震災の危険が下北沢にかんしてあるならば、それを考慮しつつ修復すべきであって、それに乗じて国道を通せば、下北の賑わいは消滅するだろう。 ****** 先日の「週刊鉄学」で、自民党の野田聖子に会ったら、「体外受精したのは保守政治家として家族を持ちたいから」と言っていた。海外での体外受精には高額を要する、家族を持たねばならないというプレッシャーを女性に与えた、といった批判が湧いているらしいが、それはそうとしても、私はただ一点、擬似的にでも共同体を作りたいという意志については共感した。体外受精で子を持つというのは、既存の家族形態ではない。それでも野田は、共同体について新たな試みをすることに賭けたい、それが自民再生の道なのだ、と言っている。やり方の強引さ周囲の共感を得にくいかもしれないが、私は理解を示したいと思う。これも同じ理由からである。
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| (2010年8月28日) 文春に、『BUZZ』の書評。クチコミといってもこれまでのようなものではなく、ITといってもグーグルやネット広告の話ではない。ツィッターが広告に与える影響の問題である。これは担当者のセンス次第で低費用で広告が可能になったということだが、独断専行が爆弾にもなる。行く末を見守るしかないが、なに、私は自分ではこうした一方向的な文章を書く以上には情報発信に関心はないのだが。 |
| (2010年8月20日) 『中央公論』から、「消えた老人」についてインタビューを受ける。「消えた」ことそのものは、大した問題ではない。むしろこれを機に、納税者番号等で国民を縛り、子ども手当や農家への戸別補償を実施したりする方が問題ではないか。 |
| (2010年8月13日) 毎日、書評。サンデル『正義の話をしよう』。サンデルの言うコミュニタリアンとは、この授業に見られる「対話」のあり方のことなのだろう。しかし、質疑は結局は左右リベラル、アリストテレス、功利主義のどれかに落ちて三すくみになる。この方程式をつねに用いている気がする。 |
| (2010年8月11日) ゴング格闘技、インタビュー。FEGの中国資本との提携について。 これをグローバリゼーションとのかかわりから論じるというのは、あまり意味がない。谷川氏は、サッカーのような巨大資本とのかかわりしか見えていないようだが、サッカーは一方で、地元密着の百年構想を持っている。そうした構想なしに資本に踊らされるのは、愚であると思う。 |
| (2010年8月11日) 鉄学、収録。 一本目は姜尚中氏。「母」「悩む力」をめぐって。姜先生とは同じ大学だが、キャンパスが違うので普段お会いすることはない。しかしこのところの活躍、どうも「悩んで突き抜けた」結果であるらしい。「母」は、戦後在日への鎮魂歌である。同じ在日でも、大阪では父、熊本では母が焦点になる、という発言は面白い。 二本目は、武田さんの凝っている、白川静もの。「幸」の字は、手かせの形であるという。ということは、浜○幸○=ハマコーは、手かせを付けられるということか?また、武田文字学といえば、「人は人と支え合って・・・」というのが有名だが、どうやらこの説は白川学に見せられてから取り下げたらしい。これも、面白い。 |
| (2010年8月4日) 講談社のメルマガに、連載開始。「ケインズとハイエク」、まずは20枚。年内続ける。 両者が、いかに新古典派を抜け出そうとしたかを中心に述べる。IS=LM図式は、ヒックスの言う通り、新古典派そのものであるから、ケインズ解釈とはいえない。 |
| (2010年7月29日) 朝日の近藤康太郎記者が「松原さん、ミュージシャン自伝10人組み手をお願いしますよ〜」と言うので、つい乗せられ、マイルス自伝、クラプトン自伝、ディラン自伝、ザッパ自伝、サン・ラー伝等、3000ページも読む羽目に。前日の浅田本も1000ページだったというのに。 しかし、我ながら面白くかけたとは思う。 まあ、何ですね。ミュージシャンは、昔つきあった女の名前を活字に残したい、ヤク中からいかに抜け出したかを記したいから自伝を書くのだろうか、と思われるほど。マイルスがビリー・ホリデイとも交情したとは知らなかかった。知ってどうなるもんでもないか。 ちなみに、ディランのDVD『ノー・ディレクション・ホーム』は、自伝を画像化したような内容だ。 夜、NHK「ビズスポ」。麻木久仁子、和民の渡部美樹氏とともに、財務大臣に予算について聞いたりする。 |
| (2010年7月28日) 鉄学収録、一本目は「はやぶさ」。無事帰還して燃え尽きたはやぶさにつき、勉強する。終始、データを送ってプログラムを書き換えるシステムというのが、当たり前なのだろうが面白い。 二本目は浅田次郎氏と、『終わらない夏』をめぐって。終戦後の8月18日未明、当時日本領の最北端の島に、突如ソ連軍が攻撃を仕掛けてきた。日本は連合軍に降伏しているし、日ソは 中立条約があったにもかかわらず、である。また不思議なことに応戦した日本軍は勝利してしまう。しかし降伏後ではあるので軍備を解き、軍人はシベリア送りに。右翼はこれこそが北海道をソ連から守った闘いだとしているが、本当だと思う。 この件を、浅田さんは通訳、徴用、ソ連兵といった多角的な視点から濃密な物語にしている。 |
| (2010年7月27日) 三浦展氏の主催するカルチャー・スタディーズにて、講演。「日本経済の行方と民主党政権」といった内容で二時間話す。 帰りにお茶の水でラーメンを食べるが、葱を水にさらしていないのでムカムカして、カレーを食べ直す。 |
| (2010年7月16日) 『文学界』に、島田雅彦『悪貨』書評。島田氏には、一度だけ会ったことがある。といっても先方は気づいておられないだろうが。何しろ、私も気づいていなかったのだから。 10年以上前、渋谷で知人が狭いバーをやっていて、そこにホストのような良い男と同席した。喋る内に、「手首の関節はどう極めるのか?」と尋ねるので、やってみた。その方が帰った後、店の主人が「えー、手首極めておいて知らなかったの?作家の島田さんですよ」とのこと。 今回、私は、偽札とコミューンによって革命をめざす話に書評を求められたのであるから、ただの書評というより、経済思想として読み解く要望と受け取る。「文学界」に相応しいかどうか、分からないが。 |
| (2010年7月16日) 授業終わり。今期の「社会経済学」は、本にまとめるようなつもりで毎回、A4に何枚も資料を配った。終わってやれやれである。 朝日カルチャーセンターへ移動。アダム・スミスについて、3冊を毎回とりあげる三回講座。帰りはもちろん、川香苑なり。 |
| (2010年7月14日) 鉄学。一本目は多摩川の再生の話。この川は、源流から普通に流れているのではなく、七割方下水というのに驚く。最近綺麗になったのは、下水が浄化されたということらしい。鮎が遡上したというだけでなく、釣って食べてが本当の再生だというのには、賛成。 もう一本は、「日本人はいつかに裸が恥ずかしくなったか」。維新期には、混浴は普通に見られたことらしく、公衆浴場でも混浴が存在した。この頃の日本人は、握手は恥ずかしいが風呂から裸のママ帰路についたり、裸で外人に挨拶をしたりするのは恥ずかしくなかったという。明治維新後、外人の目を意識させる政策によって、羞恥心は植え付けられたのである。 |
| (2010年7月11日) 読売、選挙についてコメント。 政権交代は自民に対するお灸で起きたが、国民は自民的な実務政治を求めていることは確かで、民主的な理想論には関心がない。それが自民の欠点を快勝するのでなく自党の主張に突っ走ったため再び批判評が自民とみんなに流れたのが今回の結果だと思う。 国民は、財政破綻を防ぐために消費税増税するのにはやぶさかではないが、一方でそれが子ども手当や農家へのばらまきに使われるのには拒否的だ。政治主導と言いながら、タレントで選挙に勝ちさえすれば外国人参政権や中国シフト、県外移設など争点になっていない問題を持ち出す小沢主導が嫌われたと見ている。 |
| (2010年7月5日) ゴング格闘技、インタビュー。相撲の野球賭博の話。みんな驚いているが、やくざが芸能界を回しているのは常識だし、話の本質は相撲界とやくざといかに距離を保つかのはず。それがたんなる仲間内の花札をやっただけの白鵬に謝罪させたりして、まったく惚けている。 朝青龍事件にしても、内舘牧子や玉木正之は伝統を守れない横綱という自分勝手な話に持って行ったが、これもやくざからを切り離しつつ近代化することが可能かという問題にすぎない。なぜか問題をそらそうとする人が多すぎる。 |
| (2010年6月30日) 週刊鉄学。一本目は、文明史から見る龍馬。東海大の先生がドストエフスキーやクリミア戦争との比較から明治維新を相対化して下さる。 二本目は「鞄心理学」。身体だけを自我の器とみなさず、鞄も外部にある自我の器とみなすという話。中山和彦先生の話をいろいろ楽しむが私は自我が「固い」ので固い鞄を持っているのだそうな。国家体制も器なのだから、幕藩体制という器がうまく機能しなくなり自傷行為に走ったのが幕末だったと言ってみたら、中山先生が「それは私がオチで言おうと思っていました」。スミマセン、先生。 |
| (2010年6月22日) 月間中央公論にて、ドラッカー・ブームについて論評、というか、5冊の本を挙げる。『もしドラ』『柳井正』『マネジメント』な『断絶』『ネクストソサエティー』。『もしドラ』は、ドラッカーに手のでない層を開拓した貢献はあるな。 |
| (2010年6月16日) 週刊文春にて、書評。大田弘子「改革逆走」。文章に味気ないことこの上ない。こういう潤いのない精神でないと、市場の利益追求ばかりを言い募ることはできないのだろうなあ。 ただし、大田の「改革」は政府支出の拡大に歯止めをかけようとするものだということは、よく分かった。社会保障改革とは、要は若い者のカネを高齢者福祉や年金に回すのを止めようということなのだろう。これには共感した。 |
| (2010年6月16日) 中日。民主党は、長期と短期の政策を混同しているのではないか。米軍を県外に出すというのは長期的理想、しかし東アジアの現状では沖縄から抑止力からも移動させがたいところだ。子ども手当も、所得制限なしというのは長期的理想ではないか。 |
| (2010年6月16日) 鉄学。サッカーでは、表現技術の話に終始。これもこの番組ならではか。私としては、フィールドの端まで駆けてゴールポスト真横からマイコンの蹴った球がカーブを描いて入った理由を知りたかったのだが。 「奪われる森林」。特定の国が経済成長にまかせて日本の森、とくに水源を買っている、という際どい話。これをオンエアできて、よかった。 |
| (2010年6月15日) 週刊朝日にて、御厨先生と恒例の「国会通知簿」。 |
| (2010年6月13日) 七大戦終了後、京大・丹羽先生、名大・二村先生、増田さんと『ゴング格闘技』座談会。 自分は、九大・奥田師範と名大・高浜師範が両軍でぶつぶつ指示を飛ばしているのが面白かった。 |
| (2010年5月25日) 二日前に依頼が来て、NHK、Bizスポ。鳩山会見があったため、30分遅れで始まる。11時半から12時半という深夜枠。 iPad絡みで出版業界の今後を占うという内容。野田さん、角川歴彦さん、高橋源一郎さん、麻木久仁子さんとワイガヤ。 自分としては、持っているiPod touchを大きくして本が読めるだけじゃないのか、という気がして、あまり魅力を感じなかった。画面でページが「はらりとめくれる」感じだけが違いなのかも。電話が加味されれば魅力が増すかもしれないが、その場合は現状ではソフトバンクにロックされているので、docomoから変えなければならないし。携帯がパソコン化しつつある日本で、どれだけ携帯の客を奪えるか、ということか。うーん。 もっとも、電子書籍が普及すれば、場所を食わないので、本棚には本当に好きな美装本だけを並べるということになるのかも。それが唯一の利点に思える。 もしコピー&ペーストでレジュメを作るのが簡単なら、私は即飛びつくのだが、可能なのか? とはいえ、iPadが出版社を崩し、アマゾンが書店を壊し、グーグルが新聞をなし崩しにするなら、要は外資に日本の産業がやられるということではないのか。消費者がそれを支持するのは、怖い気がした。 高橋さんとは久しぶりにお会いしたが、最近も話題作を出したばかりというのに、いつに変わらず自然体だな、この方。打合せからすでに「ワイガヤ」状態となり、そのまま本番へ。ちっともペースが変わらない。朝日の書評委員会でも、固い話に欠伸が出そうな所に高橋さんが話し始めると皆目を醒ましたものだが、さすが。語り方に色気があるのは、結婚回数から自明か。
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| (2010年5月25日) 鉄学。 一本目はjaxaから、航空宇宙医師の松本暁子先生。山崎直子さんの「宇宙での」主治医だった方。貴重な経験を伺う。 二本目は講談社新書『マイケル・ジャクソン』を書かれた西寺郷太さんを迎えて、「マイケル・ジャクソンの真実」。武田さんが入れ込んでおり、伊藤聡子さんは高校時代からの大ファンということで、大変な熱気となる。 私はといえばマイケルはこれまであまり関心がなかった。というのも、黒人音楽史を技術面で塗り替えるといったクリエイターの印象がなかったから。ロバート・ジョンソン、マイルス、コルトレーン、ジェイムズ・ブラウン、ジミ・ヘンといった人たちのような、聞いたことのない音世界を築いた人とは思えなかったからだ。しかし今回、西寺さんの本を読み、Youtubeを見直して、考えが変わった。自分は80年代にテレビ始め映像をほとんど見なかったが、ちょうどその頃、マイケルは音と映像をダンスによって合体させ、新しい世界をエンタテイメントとして作り出したらしいのだ。 だから、オノジナリティーというよりも、既存の様々なオリジナルなアイデアを組み合わせ洗練させ、誰にも楽しめる映像を作り出した音楽職人ということになりはしないか。 70年代まではアバンギャルドの時代、80年代からはエンタテイメントの時代、ということなのかもしれない。 武田さんが「セクシーな踊り方をする」と言っていたが、ジェイムズ・ブラウンの影響は間違いなく大きいと感じる。JBは粗いのだが、マイケルは実に洗練されている。 http://www.youtube.com/watch?v=f2gEAvOW2nc&feature=related http://www.youtube.com/watch?v=rD-4CDVcjCc&feature=related 武田さんはチャップリンではないかと述べていたが・・
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| (2010年5月25日) 大学院のゼミで、コーエンの『あなたが平等主義者なら、どうしてそんなにお金持ちなのですか』を読む。 マルクス主義者としての生い立ち、ロールズとの対決、キリスト教道徳への接近という過程をたどった人である。分配をロールズのように国家にやってもらうのを良しとせず、モラルでやるべきだというのには共感する。 この本は、「与はいかにしてマルクス主義者でなくなりし乎」といった内容だが、しかしそうした境地に立った人をいまだに「分析的マルクス主義者」と呼ぶのは不適当ではないか。出発点が一生つきまとうってのも何というか・・ |
| (2010年5月21日) 毎日新聞書評、ケン・オーレッタ『グーグル秘録』(文藝春秋社)。 グーグルは便利ではあるが、困った存在でもある。検索ツールを無料開放したことをもって他社の製品を著作権違反を承知でバラ撒いて良いとみなしたのか、「グーグル・ニュース」「グーグル書籍検索」「ユーチューブ」はいずれも「タダ」である。それでいてちゃっかり広告料だけはせしめているのだから、タダで仕入れをして売りさばいている泥棒だ。 本書は「ユーザーのため」と言えば鼠小僧を気取れると考えるそんな社風がどこから生まれたのか、詳細なインタビューによって描いている。自分には遺伝病の可能性が高いと妊娠中の妻も含む公衆の前でペラペラ喋るのがエンジニアでもある創始者だというが、どこか普通ではない。 |
| (2010年5月18日) 研究所のJMRにて、講演会。消費社会の現在を論じる。 |
| (2010年5月13日) 中日新聞、『時のおもり』。奄美大島の南端にある加計呂麻島は、世界に三つしかないという酢が自然発酵するほどの自然を誇る。しかしその森と海の島で、森林の47%を伐採するというチップ工場が稼働しようとしている。 木材はタダも同然というのに、無理矢理に伐採しても、この手つかずの自然が破壊されるだけだろう。最近、森林を買いあさる外資があるといわれており、多くは木材ではなく取水して海外に売ろうとしていると言われている。森林の土地売買には、規制をかけるべきだと思う。 |
| (2010年5月12日) 鉄学。 莫邦富さんを迎えて、上海万博を開催する中国の諸都市について。中国では現在、日本には企業の工場進出よりも、商品の売り込みを求めているのだそうな。それだけ消費力がついたということか。それも沿岸都市ではなく、内陸地である。ということは、沿岸部の労賃が上がり、工場は内陸に移動したため、消費も内陸に拡大しているということだ。万博の音楽「パクリ」疑惑にすぐ反応するなど、中国は大いに流動している。 森田豊先生を招き、「つき指はひっぱると良い」は迷信で間違い、といった最新医学知識による迷信暴き。「風邪は汗をかいて治す」も間違いだそうだが、「インフルエンザでは悪寒がするのだから、温めて良いのでは?」と尋ねると、「それはその通りです」との答え。正確にお話になる先生だ。 「舛添氏が胸を張って威張っていた『インフルエンザへの水際作戦』は無意味だったのでは?」との質問は、時間内にはできず、楽屋にて。「そうそう、その通り」と先生。これも取り上げればよかったかな?
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| (2010年5月8日) ゴンカク。中村和裕選手の空道参戦について。あと、青木選手の敗戦をめぐって、ケージかリングか論争に感想を。 私は、青木選手がなぜストライクフォースで高いミドルを蹴らないのか、不思議だった。だから、ケージうんぬんよりもそちらに関心がある。といっても、何も青木選手に説教しているわけではない(当たり前だ)。私のレベルではそれが謎だったので、正解を知りたいだけなのである。 そもそも、ケージなんて、とても日本の地上波では放映できないのではないか?しかもメレンデスの戦法は、プロモーターから低い評価で受け入れられないだろうし。だから、議論しても仕方なく思えてしまうのである。 |
| (2010年5月3日) 朝日新聞阪神支局襲撃事件を機に、言論や報道の自由を考える場として始まった「5・3集会」にパネリストとして呼んでいただいたので、参加した(朝日新聞労働組合主催、兵庫県尼崎市のアルカイックホール)。テーマは「政権交代、変革が問うもの〜何を伝え、どうあるべきか」。 http://www.asahi.com/national/update/0503/OSK201005030052.html 一部は学生のシンポジウムだったが、慶大生二人に関学生一人(男性二人、女性一人)がなかなか活発な学生さんたちで、面白かった。彼らは起業や政治に関心がありそう(女性は礼儀作法王者らしいhttp://tv-champion2.jugem.jp/?eid=4433)で、今時の外見のなかなかイケメンに可愛い子であった。「新聞は読まなくなった」と前置きしながらも、ネットでは各紙を比較読みなどしているようで、要は「紙」という媒体から離れてしまったということにすぎず、ジャーナリズムには興味津々といった風だった。 後半は佐野眞一氏と民主党で子ども手当担当の小宮山洋子氏と私とでシンポ。私が「子ども手当はバラマキ」と言ったことをめぐり小宮山さんから反論が出たが、私の趣旨は、第一に景気対策としてはカネをばらまくのは定額給付金と同様に意味がな い、第二に財政赤字が危険なまでにふくれあがっている現在、所得制限なしの手当はバラマキとしかいいようがなく、緊急性の高い「子どもの貧困」にピンポイントで対応すべき、というものである。 概して民主党は、この半年、長期かけて実現すべき理想論ばかりを打ち出そうとし、自民党が置き土産としていった緊急の問題には無関心であるように見える。北朝鮮や中国が軍事威嚇する昨今、沖縄から米軍を追い出すという理想論より、 普天間基地の離着陸が周囲にとって危険であり、少女暴行のような事態が起きる日米関係をただすことの方が重要である。 私は民主党に任せた以上は長い目で見るべきだと思うが、短期的な解決すべき問題と理想論は混同すべきではなく、その混同が支持率の低迷を引き起こしているのだと思う。 ********** 東京に帰宅して、朝方まで毎日に書評。菅原光『西周の政治哲学』(ぺりかん書房)。西の功利主義論を持ち上げ、軍事論で値引きしてきた戦後の位置づけを覆す力作。私は博論として審査にも関わったが、 途中で軍事論が加わり一気に厚みが増した。また功利主義も「三宝説」だけでなくミルの西訳『利学』に注目するなど、渋い。 |
| (2010年4月29日) BSフジ、「PRIME TIME」。全日本選手権を武道館で見てから、お台場に移動する。 共演は、エコノミストの水野和夫氏と、慶応大学の小幡績氏。小幡氏には拙著『金融危機はなぜ起きたか』を書評していただいたことがある。私も小幡氏の『すべての経済はバブルに通じる』(光文社新書)を読んだ。これは、ひと言も書かれていないが、ケインズ『一般理論』17章を08年のバブル崩壊過程に当てはめた力作である。 バブルとは、どんな資産も流動性(売却可能性)が高いと認識されるようになるため、貨幣以外の資産も貨幣と同様と感じられる状態である。だから、日銀券やMなんとかだけを「貨幣」と見なし、金融緩和せよと日銀に迫るグループは、何が貨幣なのかも分かっていないことになる。まあ、自分の頭でモノを考えたことのない連中だからな。RBCやDSGEをお勉強したことを大変な既得権益だと言いたくて仕方ないのである。 そうした感想を小幡氏に伝えたところ、本番前に盛り上がる。 ただし、番組中はとくに小幡氏とは対立したかに見えたかもしれない。司会者から経済指標の「仕分け」をせよと言われ、「代わりに何か入れたいか」と問われたので、私は「幸福にかんする指標なら良いのかも知れない」と答えたのだが、それに対し小幡氏が「そんなもの、放っといてほしい」と返したからだ。私も面倒なのでそのままにしておいたが、言いたかったのは、公共事業が国民の要望を受けていないということだ。「事業仕分け」を進める以上、何が国民の幸せにとって必要なのか、基準が問われているはずだろう。消極的な形にせよ、それを念頭に置いて私は発言したのであって、別に国民幸福指数とかいったものを使いたいというわけではない。 番組のテーマは「日本経済にとって幸福とは何か」で、水野氏の発言も含め、楽しいやりとりが出来た。 |
| (2010年4月28日) 鉄学。「ナイトハイク」。深夜の闇の中、山中等を歩く趣味の持ち主、中野純氏がゲスト。この方と中里さんというカメラマンの『夜旅』という写真集を神保町の歯医者の待合室で読み、綺麗な写真に興味を持っていたので楽しい会話となった。 まっくらな山中で、深夜三時頃に向こうから闇の中を二人連れがぺちゃくちゃ喋りながらやってきた、という話にゾッとする。実は鹿だった、というのだが、おもわず「噺家?」と口走ってしまう。ああ、俺もいよいよダジャレ親父だなぁ、と嘆息。 「自然栽培」。ナチュラル・ハーモニーの河名秀郎さんがゲスト。 自然栽培は、化学肥料や農薬だけを敵と見立てるのではない、というのに目からウロコ。有機肥料であっても、極端なサプリメント摂取と同様に野菜をひ弱にする。なるほど野山の柿は肥料なしに実を毎年実らせる。 麹菌も企業が独占的に作っているので日本酒の味がどれも似てきた、というのは実感する。しかしそれだと、加計呂麻の自然発酵酢がいかに凄いか、ということになるではないか。 |
| (2010年4月16日) NHK「Bizスポ」に出演。他のゲストはセブン・イレブンの鈴木敏文会長、四国・高松市丸亀町で再生事業をてがける方に、藤沢久美さん。 一つのコーナーで発言が一回なので、無駄話が出来ない。鉄学はゆるくていいのになぁ。というわけで、真剣に。 ・ユニクロの良さはセブン・イレブン的なニーズ把握を衣料で行っていることにあると思うが、ヨーカドーのPBでそれができているのか? というもの。 丸亀町の話は、シャッター通りはたんに不況というだけでなく、地権者が店を閉めた後に賃貸しない点が重要だと知る。八百屋など近隣に一軒はないと住めないコミュニティになってしまう。商店街は公的な場所だと改めて知った。 堀潤というアナウンサーは、今風のホスト髪だが、人柄は体育会系。三回も握手を求められた。勉強もしているし、感心した。 |
| (2010年4月14日) 鉄学収録。佐々淳行氏の「危機管理から見た記者会見のコツ」。記者会見は、「守りの広報」。NGワードには定番がある。「知らない」は、後に知っているとバレると追求されるから、「言えない」と言わねばならない等、目から鱗。 政治は記者会見の言葉で権力と国民をつなぐが、小沢一郎は、法と選挙が政治と国民をつなぐと理解している。彼の記者会見では、そうした政治観が明らかになった。この姿勢が露見したことが、彼の政治生命を奪うことになるのではないか。 二本目は、「日本の近代産業遺産を観光に生かす」。http://www.meti.go.jp/press/20071130005/20071130005.html 紡績工場跡、八幡製鉄所跡等、近代日本の歴史遺産は経済に大きく偏っている。赤レンガ倉庫のように一部が活用されているが、これを本格的に観光資源にしようという案が経産省で出てきたらしい。 ジャンルを66に分け、それぞれストーリーを作っている。なかなかに秀逸。 とくに鹿児島(薩摩)では、欧米の圧力をアヘン戦争で感じ取り、1850年代から鉄工所を自力で立ち上げていたという(集成館)。最近、東大で高度教育が近代化には必要だったという博論が出たが、それに相当する事例ではある。 経産省は、こういった仕事は良いな。 |
| (2010年4月13日) 『週刊ダイヤモンド』書評、岸博幸『ネット帝国主義と日本の敗北』幻冬舎。 ネットにおけるアマゾンやグーグルの一人勝ち状態を、国益の観点から分析、警鐘を鳴らす書。 ネットは四層の「レイヤー(層)」構造を持つという視点から現状を整理すると、検索サイトのグーグル、ネット書店のアマゾン、最近ではツィッター等)「プラットフォーム・レイヤー」、音楽や新聞等の「コンテンツ・レイヤー」および通信事業者の「インフラ・レイヤー」そして端末から成っている。 プラットフォームにあるグーグルやアマゾンが、広告収入を新聞等コンテンツレイヤーから略奪、インフラは低価格競争させ、端末までキンドルで取り込もうとしている。まさに、「搾取」。こうした状況は、ジャーナリズムとコンテンツ文化を崩壊させると説く。 欧米ではすでにマードック等の巻き返しが始まっているが、朝日新聞等、出遅れている。キンドルで新聞が読まれるようになると、利益の70%をアマゾンに横取りされるそうな。朝日他の新聞社は、キンドルに相当する端末を自社で開発しなければならなくなるだろう。 |
| (2010年4月10日) 五味のUFC挑戦をめぐって、ゴング格闘技に喋る。 ケンフロも、GSP同様にジャブで距離を取り、パンチでつっこんできた五味にタックルをかましていた。こうした戦い方が現在のUFC最前線なのだとすれば手堅いが、日本では谷川的な見方では「見過ぎておもしろくない」と評されるだろう。 しかし逆に言えば、日本でドリームに出るようなぱんで打ち合う戦い方をすれば、UFCでは勝てなくなる。岡見のように、日本でメジャーにならずにアメリカデビューしないと、UFCでは定着できないのだ。 日本でK−1に出ると、ムエタイで勝てなくなるのと同じではないかと思う。 |
| (2010年4月5日) 中日新聞、『時のおもり』。朝日の時評が終わった件を題材に、「論壇時評」なるものの今日的意義について。 論壇時評は、月刊誌時評としては、役割を終えたのかもしれない。しかし、論壇は新書、新聞にまでメディアを広げている。「活字論壇時評」は、今後とも重要であり続けるだろうと思う。 |
| (2010年4月2日) 毎日新聞に、書評。J.スティグリッツ『フリー・フォール』(徳間書店)。 スティグリッツは「情報の非対称性」を論じて現代経済学の中心人物となった。彼からすれば、米国金融危機は、貸し手と借り手に情報の非対称性があったことが金融危機の一因である。そうしたときに自由化を行えばバブルになるのは、当然である。そこから、バブルと崩壊が予言された。 もっともだと思うし、書評では高く評価した。ただ、彼の議論は、市場を均衡においてとらえる新古典派の内部で市場の失敗を扱う境界に位置するのだとは思う。だから、バブルという不均衡現象については、そうした「均衡条件の不成立」という形でしか論じられない。しかし、バブルが均衡・不均衡とは別次元の問題だとしたら? これが次の話になるのではないか。 |
| (2010年3月31日) 週刊鉄学。 田口ランディ氏がゲスト。武田さんが好きらしい。私も前日の深夜に入手。読了。 私なら1/10の枚数で書くことを十倍かけてじっとり書くというのは、資質の違いなんだろう。また、私ならざっくりと結論もまとめるだろうな。しかしあれこれ迷って書くのがこの著者の得意なんだろう 。武田さんは「松原さん、もっと易しく書きなよ」と仰るんだから、こうした文体の方が理解しやすい層もあるということだろう。 父親はDV、お兄さんは餓死でお母さんは脳出血から4ヶ月の植物状態、と身辺についても詳細に書かれる。私は対照的に、家族についてはほとんど書く気になれない。田口氏なら、10冊は書ける題材かもしれないが。 離島につき、カメラマンの加藤庸二氏。南大東島がフィリピンから移動してきたとか、加計呂麻島の文化は深いとか、楽しい話の数々。国内にも未知の文化はまだまだあるらしい。 |
| (2010年3月25日) 朝日「論壇時評」最終回。 テーマは分散していたが、@自分としてのまとめ、A『科学』の幸福論、B民主党論等を組み合わせようと思案。 結果として、苦労したが、自民党の輸出中心の「重商主義」を本来は批判すべき民主党がそうできていない、なぜならA.スミスが分かっていないからだ、という論旨が出来上がる。これは我ながら、驚きの連想だ。というのもスミスは貴金属の蓄積、いまでいう「成長」を批判したのだし、それには国富論で国内循環を唱えただけでなく、『道徳感情論』で「共感」を打ち出してもいたからだ。「科学」の幸福論は、カネでは幸せは得られない、と謳っていて、驚くべきシンクロニシティ。 これにて、2年間の時評は終わり。自分にご苦労様、ということで、さっそく飲みに出る。美人の藤生記者とも深酒(家族も同伴)。 |
| (2010年3月17日) 週刊鉄学。寺脇氏を呼び、ゆとり教育再論。よみかきそろばんが基礎教育とすれば、ゆとり教育とは人生の生きる意味を見出すために、地元社会との対話力を養う教育である。私は、その運用がうまく行かなかったことは事実としても、理念は間違っていないと思う。分数ができない生徒には、分数の勉強をさせれば良いのだし、できる子には商店街での聞き取りや地引き網を引かせるといった多様な教育を行うということだ。大学でも教養課程がしぼみ、ゆとりがなくなって、社会でやっていけない学生が増えている。 もう一本は香山リカさんと鬱病について。2003年以降の好況期でも自殺者は減っていない。これは、景気と鬱には関係がなく、むしろ労務環境が成果給主義等でしめつけられたせいと読める。しかし最近は擬似鬱も出てきているそうで、見分けが難しい。真の鬱病患者には行きにくい時代であるようだ。一 方で、なんでも「勝ち負け」だけで論じる人が受けているが、勝ち負けはしゃれでしかない。真に受けるのは下品である。表現の減退は、下品であると思う。香山さんには戦っていただきたい。 |
| (2010年3月12日) PITINNにて、のなか悟空主催の「D−1選手権」。ドラムのみ、10分間対戦して勝ちを決めるというトーナメント戦だ。 第一回と同じく、私と副島先生、支配人の鈴木さんの三人が審判。私は前回同様、「格闘技として」を基準に判定する。音楽的な技術は、お二人に任せて。 http://homepage2.nifty.com/nonakagoku/d2/ 敗者復活枠では、三人ずつなのでよほど音の隙間をつくか、音量がでかくないと目立てない。大角が的確なドラミングで目を引く。勝者枠では、前回は一回戦負けだったが私は旗を上げたMASATOが、独自の集中力と華、もしくは色気を持っている。一回戦、三回戦、決勝と自分は旗を上げた。二回戦は池澤龍作が先にMASATOに叩かせて直後に「後の先」で印象を薄めるという剣道のような作戦をとったので、自分の基準で池澤に上げたが、MZASATOの演奏そのものはこの回が最高だったかもしれぬ。相手にかかわらず叩く様はふっきれている。一時間、全力でソロを叩けるスタミナも凄い。 結局、そのままMASATOが優勝。 最後に小山彰太がふらふら現れて、マイクを持つ。10数分はしゃべったか。「ドラムは勝ち負けとかじゃないんだよね〜俺は叩きたいからたたくんだよな〜」みたいな調子。こんな勝ち負けはドラムの本質ではないが、しゃれでここに出てくるようなドラマーは好きだ、と言いたいらしい。 10人ほどで一斉に叩く。途中から小山さんが指揮をし始める。太鼓だけなのに、なぜかメロディーが聞こえてくるかに感じる。不思議だ。どーんと終わる。 しかし、まだ聴き足りない。私がマイクを持ち、「お客さん!もう聞き飽きましたか?私はもっと聴きたい。審査員権限で、指名させていただきます。私は、植村昌弘!」と呼び上げる。副島先生は前回優勝の竜巻太郎、鈴木さんはのなか。竜巻と植村がもの凄い絡みを見せる。竜巻はまた腕を上げた様子。のなかも入って、轟音。そこに何故か小山さんがまたもふらふらと入ってくる。本当に叩くのが好きなんだな。 堂々、四時間のドラムの饗宴。満腹した。 |
| (2010年3月9日) 夢枕獏さんと、「 第21回 新読書生活(活字文化推進会議、読売新聞社)」で公開対談。テーマは「旅と活字」。 五冊、推薦書を挙げる。私は 1.19の春を探して/川井龍介 太宰の「津軽」冒頭に、「どうして旅に出るの?」「苦しいからさ」とある。そんなことを言いながら、自殺未遂を繰り返した。しかし復帰するとすぐに素敵なタイトルの小説を書いた。山本キッドも復帰戦では三連敗しているのに、なぜそんなことができるのか?といった漫談をした。 |
| (2010年3月5日) ゴング格闘技。柔道のルール改定について。 柔道はそもそも、明治時代には柔術のMMAルールであった。そこからルールとして高専柔道やブラジリアン柔術が派生した。それらを講道館を中心とする戦後の柔道界は遠ざけたが、実はルール内部にもMMA化が起きる。オリンピック競技となったことで、サンボやレスリングなど伝統的な組み技が入ってきた。そこでルールで縛ってこれも禁止しようというのが今回の改正である。 MMA性、つまりは武道性を柔道から取り払うのが、「Judo化から柔道を守る」ということの本質なのである。これで良いのか?講道館。 ************* この改訂は、11日に一転して「講道館を全日本選手権の主催からはずす」、と言う方向に修正された。いったい、何があったのか。川口孝夫氏のブログには決定事項のように書かれていたが。私はそれ以前に中日新聞に批判の記事を書いたが、そうした声が各地で上がっていたからかもしれない。 |
| (2010年3月4日) 暦日会。 講演をテープに収録して、配布する団体だそうである。「日本経済の再生」について、喋る。 物々交換モデルとしての「デフレだからモノを買わない」論を批判、貨幣経済では不安から流動性の罠に陥る、といういつもの話をする。 これは貨幣経済に特有の現象である。民主党の経済政策批判も行う。民主党は、左翼意識から格差を批判、官僚批判を行っており、その結果としてカネをばらまけばすむという自民党「定額給付金」と同類の馬鹿な策を取っている。 |
| (2010年3月3日) 鉄学。黒川伊保子さんの『日本語はなぜ美しいか』。 今週は博論審査とかやっているせいで、学術的な判断になると、この本はきつい。発音の音韻ごと、「あ」にも「い」にも意味がある、というのである。それならそれぞれの音韻につき各国の人がどんな感情を抱くか統計でも示してあればよいのだが、そういう実証はなされていない。国別の比較もない。 しかし、学術的な理屈とは別に経験的な知恵というものはあるものだ。人は、経験的な知恵で生きている。「さ」「か」行には、清新な風情があるというのだが、否定はできない。 というのも、中沢新一『精霊の王』につられて見てみると、柳田国男が『石神問答』で、「シャクジ」という音を聖なる発音とみなしているらしいのだ。sacred ,sacramentといった具合に、「さ」「く」には聖なるいみがあるということらしい。 というわけで、ただ「なるほど」と話を聞く。まあ、自動車はC(カローラ、シーマ、セリカ・・)がヒットするというのは、否定てきないし。 |
| (2010年3月2日) 中日新聞、「時のおもり」。柔道について。 講道館が、新国際ルールに合わせて、講道館ルールも改定するらしい。それはないんではないか。 道衣の色であそこまで頑張ったのだし、講道館ではいまでも白でないとダメ。それなのに、肩車や双手刈りがなくなる改訂とは、嘉納師範が草葉の陰で泣いている。 |
| (2010年2月26日) BSフジで、2時間番組。スポーツの国際化、品格等。玉木正之氏、河野太郎氏と。玉木さんは、相撲の所作には歴史的意味があるのだからそれをたどって教えるべきだと仰る。それはその通りだが、文化も変化というか、進化している。今時の若者の言葉遣いがおかしいのは事実で、「〜でよかったでしょうか」みたいなコンビニ言葉は修正すべきと思うが、しかし万葉の古典文法までたどって振り返っても仕方がない。現代の相撲文化がどうあれば品の良いものになるのかを検討すべきだと思う。 品格とかいう話になると、とたんに武道やスポーツが文化系の観客のものになってしまう。私は「やる側」なので、汗のにおいのしない武道談義にはあまり意味を感じないのだ。 玉木さんは、「朝青龍は手刀を切れていない」と仰っていた。私も詳しくないが、側聞するところでは手刀は神事とは関係なく、戦中に名寄岩がふざけるようにしてやっただけとのこと。所作の品格論は、もしやるならば一知半解でなく、学者を交えて検証するしかないだろう。 |
| (2010年2月23日) 岩村暢子『普通の家族が一番怖い』(新潮文庫)、解説。 岩村さんとは幾度かお会いしている。結局、彼女の議論が怖がられるのは、意識している「そうありたい自分」と、実際に行っていることとが矛盾していることを、調査によって明かにするからだろう。被調査者だけでなく、定量調査の業者も客観性がない、とか批判している。まあ、「健康に気を配り野菜多め」とアンケートに答える主婦が、実はお菓子ばかり子どもに与えていると暴かれるのは、アンケートの回答を事実として扱う調査会社にとって目障りに違いない。 私利私欲からの批判にめげず、奮闘を願う。 |
| (2010年2月23日) 毎日書評。京大佐伯ゼミの藤本龍児君の博論、『アメリカの公共宗教』。 宗教がアメリカで根強いということは知っていた。ニューエイジ以降、宗教が私事化していることも。しかし公共宗教というベラー以来のとらえ方で整理が進むという見方には関心した。宗教、聖書的伝統といえば、つい救済や愛といった教義に注目してしまう。しかし藤本によれば、公共宗教は、宗派間の競争を前提に、秩序や法の方を重視するのだという。納得した。 |
| (2010年2月19日) 朝日、論壇時評。今回は、不況で若者が「生き方」を変えることを強いられる状況について書こうと思った。勝間(その中で勝者になる)vs香山(競争の枠から降りる)を枕にして。 しかしうまくはまらず、『at』で内田樹氏が喋っているのが、フォーディズムに対する消費社会論的な解釈であることを発見して、オチに使わせてもらう。結局は、マーケティングに踊らされず、趣味の共同体を持て、ということに。これは、空道ビジネスマンクラス(『武道を生きる』)を正当化する意見である。めでたし、めでたし。 |
| (2010年2月17日) 『週刊鉄学』。一本は『奇跡のリンゴ』の木村さん。私はリンゴに無理矢理に注入したような蜜が嫌いである。紅玉だけをこよなく愛しているのだ。木村さんのリンゴを収録中にいただいたが、絶句してしまった。まあ、自然な味がするのだ。何時間放置しても茶色くならないのも、不思議。お辞儀が馬鹿丁寧で、笑顔にインパクトのある方だ。 第一次産業で著名になると「エラく」なる人が多いが、そんなレベルは遙かに超えた、まさに超人である。八年間も失敗を重ね、木や虫に語りかけるまで精神的な窮地に追い込まれた人だからだろう。修行とは凄いものである。出稼ぎで公園に寝泊まりしたり、ピンサロの呼び込みをしてヤクザに殴られて歯をなくしたり。現代のディオゲネスというか。 もうひとかたは、「あゆみクリニック」のあゆみ先生。元TBSディレクターで大学に入学しなおしたという女医さんである。男性の更年期について伺う。あゆみ先生が「更年期はトータルに診なければ分からないので縦割りの病院では診断できない」と仰るのを聞いて、見いてた木村さんが、「農業と同じだなぁ」と。土も生物も化学も商売も、すべて分かっていないとならないのだ。 |
| (2010年2月6日) 『サライ』に書評。景観というか、街の風情を懐かしむ話二つ。私は、古い景観、「美しい」と規範になる景観を好きとみなされているらしい。しかし私の言う景観とは、人が生きる環境であり、否応なく振り返りたくなるようなものだ。上原善広『日本の路地を旅する』(文藝春秋)と、三浦展編著『奇跡の住宅 阿佐谷団地』王国社とでは、懐かしむ対象が下層と上層で正反対。しかしともにそこに生まれた人にとっては、懐かしくてならないものなのだ。 しかし私の景観論に対して「規範として美しい景観があると思っている」みたいな幼稚なコメントをする自称哲学者みたいな人がまだ散見されるのは、摩訶不思議ではある。価値相対主義をいいたいらしいのだが、そんな論文を権威のかたまりみたいな『思想』とかに載せるのは、どういう了見か。同人誌やらトイレットペーパーにでも印刷すれば十分であるだろうに。そもそもそうした人が大学の先生をしていて、どうやって入試を行うのだろうか。自分の価値観については、絶対的と信じているんだろう。 |
| (2010年2月4日) 週刊毎日から、小沢問題でインタビューを受ける。 検察が法を超えて権力を奮うのは、今に始まったことではない。しかしそれでは「法の支配」に反する超越的権力が存在することになってしまう。ライブドア事件にしても、似た経営をしていた企業が30はあったのに、目立ったホリエモンだけがパクられた。 しかしそれにも仕方ない面があり、金融庁にせよ、市場を監督するには人員がアメリカで必要とされる1/5ほどしかいない。「小さな政府」主義のせいだ。こんな国は世界中に存在しない。仕方なく、違法スレスレの捜査で特定の一人だけが捜索を受けることとなる。民主党も官僚をムダ扱いするのだから、その意味では「小さな政府」路線である。 一方、小沢一郎は、力をカネで示すわりには、政治として何をしようとしているのか明かでない点に問題がある。「政治団体がなぜ土地を持つのか」も説明する必要があるだろうが、それ以上に、そもそも何を政治で実現しようとしているのか不明であるのが問題だ。それでいて、チルドレンに均質的なヤジを飛ばさせたりして、政治の劣化を招いている。 民主党はといえば、理念ばかりを立てて調整という名の政治ができていない。小沢が一喝しないと話がまとまらない党である。それゆえに民主党は小沢なくしては成り立たない。 ということは、小沢vs検察という戦いは、現在の政治状況を正確に映し出しているということだ。情けないことではあるが。 |
| (2010年2月3日) 『週間鉄学』。「いま『幕末教育論』を語ろう!」で、ゲストは歴史小説家の菊池道人氏。 江戸期には幕府は儒学を中心として教育を奨励したが、E.トッド風に言えば識字率の高まりは近代化の始まりであり、体制や自我への疑いはそこに始まる。つまり幕府は教育奨励により反幕府の芽も植え付けていたわけで、開明的な体制だったとはいえる。 菊池さんは江戸期にモラルが高くそれが若き志士たちを育てたと仰る。私は、モラルは子どもに教えるには身体を動かすこととセットにしなければならないと考える。何年か前、「人を殺してなぜいけないか」と論じるがプチブームになったが、それが堂々巡りに終わったのは、頭だけ使っても、モラルの芽は出てこないからだと思う。その点、斬り合いの心得とともにモラルをたたき込む武士体制はよくできていたのだろう。 とすれば、体罰を正当化できるのかといった話になりそうだが、モラルなき教師によるたんなる体罰は子どもが見破るだろう。 もう一本、「110兆円市場 水ビジネスの今」。ゲストは吉村和就氏。 水は日本では石油に並ぶ資源とはとてもみなされていないが、実は世界では水が資源問題の中心なのだそうだ。地域で降雨と蒸発を繰り返すはずが、循環域が広域に広がってしまい、中国では砂漠化、降雨は極地に移動したりしているらしい。化石水を汲み上げてトウモロコシにやるといった農業も問題であるようだ。 牛丼いっぱいで材料に1000リットルの水が使われるとか、中川昭一氏は生前、「水大臣になりたかった」と漏らした由、面白かった。日本が外交下手なのは、安保のせいだけではない。海に囲まれ水問題が深刻でないせいでもある。大河川は、しばしば水争いを生むからだ。フセインの権力は、国民に水を確保したことにあったという。 |
| (2010年1月30日) NHK朝、NHK経済ワイドvision e http://www.nhk.or.jp/visione/ 二度目の出演。 契約社員を全員、正社員化した広島電鉄と春闘について。電鉄会社は「正確性」「安全性」をサービスの核とするところから、チームワークが第一であろう。その点、ディーラーや営業等個人能力を反映させるべき業態とは異なる。成果給や競争的な研修を取り入れたJR西日本で事故が起きたことからすれば、現場に異なる雇用形態が共存することに無理があったのだろう。賃金の下がった一部正社員の不満を解くような説得が、効いたのだろう。今後、とくに競争的な職場では、能力査定の明確化と説得が必要性を高めるのではないか。 造船会社が建設業で活躍している例として、気仙沼の高橋工業。造船で鉄を自在に曲げる技術で仙台メディアテーク等前衛的建築を手がけた。明るくて溌剌とした社長さんだ。聞くと気仙沼高校で、柔道部。大道塾の東先生の後輩とのこと。 |
| (2010年1月29日) 中日新聞。流動性の罠にもとづく消費不振について、松田久一氏の説をひきながら、「勝間」型 vs「香山」型という目立ちたがり消費vs脱消費の二つの属性がバブル後世代にあるのだと解釈してみた。しかし小津「宗方姉妹」の姉のいう、「新しいものって、古くならないもの」という考え方がありうると思う。長く「使う」ための消費である。「持つ」(勝間型)から「持たない」(香山型)を経て、「使う」(宗方型)へという流れがありうるのではないか。 |
| (2010年1月23日) 日本マーケティング協会にて、「消費資本主義の地殻変動」と題し各社部長級マーケッター50人ほどの前で講演。消費者行動は戦後日本で量的にとらえがたいものだったが、ここ10年ほど構造改革以降は、経済学的な量で記述できるものになっている。つまり、価格に反応しやすくなっている。デフレへの対応が、「流動性の罠」とシンプル志向となり根付いたということである。 シンプル志向・節約志向については、次の松田久一氏が「バブル後世代論」として展開しておられた。こちらは質的な分析だったが、ちょうど裏表の発表になってよかったと思う。 |
| (2010年1月20日) 朝日論壇時評、早いものであと三回。で、時勢もあり、やるべき仕事としてデフレ論。緻密な論理構成ができたと思う。同じことばかり行っている連中は、この先どうするのだろう?司会業のM氏など、いつ風向きを見て方針を変えるのか、けだし見物である。 |
| (2010年1月15日) 早いもので、『Rocks』次の号の原稿を書く。テーマは「考える旅」。去年の夏に阿佐谷のバー「青二才」にて職員啓発講演で喋ったものを活字にする。牛と床屋で同席した話、牛に追われて畑に落ちた話、一万円を十万円と交換してもらった話、中国でボラれたが先方が適正価格を知らず7000円ですんだ話等。バカ話が世界をめぐる! |
| (2010年1月4日) ゴン格連載。青木選手が腕を折り、相手を侮辱した大晦日の試合の件について。 この試合は折ったことも侮辱したこともエンターテイメントとしてのプロの試合の枠を超えているので、否定せざるをえない。しかし折れるのは試合としてはどうしようもない。現にアマの七大戦でも毎年のように折れているし、柔道の全日本大会等でも吉田が今野に折られたりした。よくある光景ではある。しかしお茶の間に届く試合で侮辱するというのは異様ではあった。 解せないのは、テレビでカットできたシーンをわざわざ放映したことと、青木選手が「笹原さんに刺せと言われたからやった」と発言していること。青木選手だけでなく、笹原・TBS(もしくは谷川)の合作があの映像ということだ。実行したのは青木選手だが、彼だけに責任を押しつけるのは、どうかと思う。 |
| (2009年12月24日) 朝日新聞論壇時評、今年最終回。今月はまとまった話題がない。ということで、民主党のマニフェスト主義が基地問題、景気対策に及ぼす影響に触れる。 自民政権のもと、日米はほとんどまともな演習を行わず、作戦をすり合わせていないため、とても北朝鮮のミサイルの迎撃などできないとのこと。米軍にとってそちらの方が基地よりもよっぽど問題なのだそうだ。 また、基地の位置がこれだけもめた背景に、沖縄内部で土建的利権を述べる人と、住環境の保全を述べる人の対立があるらしい。こちらも、米軍には関係ない話だ。 |
| (2009年12月23日) 『週間鉄学』、来年年初の収録。武田さんが勝海舟役に挑まれるというので、『幕末史』の半藤一利さんをお招きする。 それにしても、この本は面白い。蛤御門の変でどんなに京都が震撼したのかが分からなければ長州をめぐるその後の攘夷論やそれへの牽制の意味は分からないが、なにしろ家屋28000が消失したというのだ。この間、テロが一年間吹き荒れたといわれるが、それも要人の首をさらすといったものが横行。毎日首を見たら、おののくな、それは。 収録では、「薩摩や長州が密貿易で貿易実務の嗅覚が鋭いのは分かるが、なぜ土佐の龍馬にそれが備わっていたのか」と私が疑問を投げかけたところ、武田さんが坂本家=近江商人・両替屋説を展開。半藤さんもそれは面白い、と反応されて盛り上がった。 なるほど、それがないと、船中八策の最後の策で為替レートの適正化に触れられるはずがない。 終了後、阿佐谷に移動、焼酎の名店「かわ清」で忘年会。女将手作りの発酵食品を堪能。八ヶ月ものの豆腐ようは絶品だった。来年も、よろしく。 |
| (2009年12月18日) 教育再生会議に、「民主党の経済政策について」。臨機応変でないのはマニフェストが国民との契約と考えられているから、現金給付にこだわるのは脱官僚だから。しかし現金を渡しても貯金されれば不況が深刻化するばかりである。 |
| (2009年12月17日) 毎日に御厨貴『政治の終わり、政治の始まり』書評。 著者得意の、講壇ではなく講談風の宰相論。人間の力が政治を動かしたのが幕末維新だったのに、昨今では制度論ばかりになっている。人物から政治を語るのは、稀有な作業だと思う。 |
| (2009年12月10日) 外務省から、来日中のスウェーデンの国会議員、ケント・ヘルシュタット氏に面談することを求められたので、一時間ほどお会いする。 民主党政権になって、日本は国際社会で浮かび上がれるのか、さかんに聞かれる。北朝鮮には、スウェーデンはいくつもパイプを持っているので、如何、といった話も。同氏はスウェーデンの柔道会長でもあり、『武道を生きる』を寄贈。 |
| (2009年12月8日) 中日新聞、「時のおもり」。民主党がなぜ景気対策や基地問題で後手に回っているかについて。マニフェストは国民との契約であって、包括委任してしまう自民とは違うというのが民主党の根幹だが、そのせいで工程まで8月に決めたままで固定されてしまっている。マニフェストを打ち破る微調整こそ政治と思うが、そうできないのが反自民に固執する民主党の欠点なのだろう。 |
| (2009年12月8日) 御厨貴先生と「週刊朝日」恒例の「政党の通知簿」。今年、なんと五回目である。民主党が政治を話題にしたのは、間違いない。 しかし、その民主党は迷走して見える。政策の順を絞り込めないからだ。その役は鳩山首相か菅副総理が果たすべきだろう。政権発足後百日、すなわち年内にせめて基地問題と景気対策をなんとかしないと、いよいよまずいと思う。 |
| (2009年12月2日) 週刊鉄学。「千年働いてきました」の著者であり友人でもあるノンフィクション作家の野村進さんに、日本の「超」老舗の不思議を伺う。日本の老舗の特徴に、三代続けば一人は出るボンクラ長男に経営を継がせず、養子なり婿なりに任せるところがあるという。血族しか信じない華僑、印僑に100年を超える老舗がないのはそのせいだ。 二本目は『「坂の上の雲」と日本人』を著した関川夏央さんに、司馬遼太郎と「坂の上の雲」について伺う。しかし武田さんが関川著『坊ちゃんの時代』を誉める あまり、なんと日露戦争に話が届かなかった。暴走の妙を、どうぞ。 |
| (2009年11月30日)今年の論壇で目立った論攷を三点挙げよというお題をもらった。 朝日には、 @宮本太郎「アクティベーション型保障へ舵を切れ」『世界』臨時増刊「大転換」 読売には、 @田子泰彦「サクラマスはよみがえるか」『科学』3月号、岩波書店 とした。読売記者から、「二本が総合誌じゃないのに驚いた。これって、総合誌がダメってことでしょうか・・」とメールをいただく。 その通り、もはや論壇は総合誌にはないのだと思う。 |
| (2009年11月27日) 朝日 、論壇時評。今回は、民主党政権の「事業仕分け」の意味と、子ども手当、戸別所得補償など金銭ばらまきの効果について。 ベーシック・インカム論にせよ、定額給付金にせよ、みな現金信仰である。それよりも、雇用を媒介に貨幣が流通するようにすべきだろう。「公共」の再建が必要だと思う。 |
| (2009年11月25日) 週刊鉄学。一人目は、帯津 良一先生の「ポックリ名人」。死は苦しみではない、無限の虚空へ戻るために楽しく出発するのだ。そのために楽しく日々を過ごすコツ。競技武道は、引退したら終わり。生涯武道こそポックリ名人修行だと、納得。 途中、武田鉄矢さんが妙にマイケル・ジャクソンに触れるので、「マイケルさんもポックリ名人」ですね、と言うと、「こりゃ」と叱られた。 続いて、音楽 産業史をひもとくということで、武田さんの所属会社であるユニバーサル・ミュージック社長である、小池一彦さん。LPがCD、最近はMPファイルからSDカードまで、媒体がめまぐるしく変遷している。 私としては、本州で1970年前後に民謡が廃れた頃に歌に所有権が生まれた点に関心がある。歌詞に著作権があるため、「パクリ」が問題になる。しかし民謡は歌詞が真似られて変形し、伝わる。「19の春」には、少なくとも四種の元歌があるという。元が民謡だからだ。沖縄では、いまだに民謡が健在であり、それが沖縄音楽がいまだに元気である理由だろう。 武田さんは、モンパチと仲良いのだそうだ。 |
| (2009年11月20日) 山岡淳一郎『田中角栄 封じられた資源戦略』(草思社)を、中日に書評。 角栄は金力にもとづく権力者、せいぜいが日中国交までの土建屋という印象があるが、本書はまったく違う。エネルギー獲得へ向け、邁進する外交家という人物像だ。その角栄が、世界の核戦略構想の中で挫折する。壮大な人物論だ。 それにしても、この百年、クーデターをしかけては開国を迫り続け、企業を送り込むアメリカとは・・。構造改革もそうしたものと考えれば、平仄が合う。しかし一方でみずから公文書を公開するのだから、アメリカの民主主義とは奇妙なものだ。 |
| (2009年11月15日) 世界大会だというのに、朝から原稿書き。八時過ぎに書き上げて、会場へ。 『商業界』、「2010年の消費と消費者を予見する」がテーマだ。不況のもと低価格が続く。しかしそれは量を求めるのではなく、質を求め社会と調和するような消費行動を呼び起こしている。「持つよりも使う」、が基調になる。 |
| (2009年11月13日) 朝日新聞で座談会。宮崎哲弥、四ノ原恒憲(編集委員)、川本裕司編集委員(メディア担当)と、「論壇時評」をめぐり「言論とメディアの関係はどうなるか」。 私の基調報告は、「論壇時評は必要か」との問いに答えるもので、
・総合雑誌を評価するのが論壇時評という先入観が批判する側にもあるが、そもそもそんな論壇時評は冷戦前に死滅している。 以上だが、宮崎氏の「まとめ」はほぼ私が述べたことをなぞるものだった。彼は論壇を示す四限図(実は彼のは区分だけなのでせ私のとは違うが)を使うところなども、私のやり方をなぞっているところがある。今回はどうなるのか、楽しみだ。 終了後、赤坂「涵梅舫」スープがうまかった。私が注文したのは、「フカの唇スープ」。 |
| (2009年11月11日) 鉄学。一本目は伝統「的」工芸品。経産省が後押ししているもの。 これは1974年の「伝産法」で指定された211産品につき、各地で指定された工程にもとづき作られた工芸品だけを国が指定し、擁護しようというもの。 番組では伝統的工芸品のヨイショが行われたが、私はかつてから強い疑問を持っているので、率直に申し上げた。 ・かつての伝統には、多様性があった。輪島には「こよりを塗り込む」といった技法もあったが、これが国の規制により「輪島塗」ではない、ということにされている。これは、伝統の多様性を国が破壊することではないのか。 私には、こうしたことは伝統の技である「肩車」を規制する柔道界と同じに見える。日本柔道を守るといいながら、伝統を破壊しているのである。 ************ もう一本は、「蓄電池」。先週土曜のNHKのゲストをNEDOからお招きする。 電池というのは、実は中で何が起きているのかよく分かっていない、とい話しが面白い。結果オーライ、で産業化されているだけらしいのだ。蓄電池をめぐる不思議と期待を聞く。 |
| (2009年11月10日) 中日新聞、「時のおもり」。先日のトッドとの対談を受け、さらに日本経済の現状を考える。消費不況なのだが、貯蓄しているのは家計よりも企業。しかも企業は、利益を賃金よりも配当に回している。これは要するに、銀行からの借金を危険と考えている、ということではないか。されに言えばそれはBIS規制のせいだから、それが不況の真因とも言える。 |
| (2009年11月8日) NHK、朝9時からの経済番組「経済ワイド ビジョンe」。池袋量販店(ヤマダ、ビッグ)戦争とリチウム電池、たばこ増税が話題。 量販店はデパートを駆逐しての我が世の春なのに、デパート化しつつあるところが面白い。 たばこ税は、喫煙という「愚行」に対する課税だが、人間には愚行を行う権利が、他人に迷惑をかけない限りであるはずだ(そう言ったのはJ.S.ミルである)。とコメントしておく。 以前に鉄学(草食系男子の回)でご一緒したマーケターの牛窪恵さんとご一緒したが、コメントが冴えていた。リチウム電池の型式を統一するのは消費者サービスとして必須だ、というのは正論だ。 |
| (2009年11月4日) 松本市にて、「建設業の衰退は国是か」のタイトルで防災講演会(主催:松本広域土木振興会、長野県松本建設事務所) 建設業界は、以前は指名制だったので、自分たちの「なわばり」に当たる地区にかんしては、ボランティアで災害時に自衛隊より早く被災地入りし、復旧に当たってきた。平成16年に入札制度に代わってから、そうした防災が不可能になってしまった。不況に加え、公共投資削減、さらになわばりではなくなったからだ。 防災にかんする「知恵」は、いわば公共財である。その再生を、建設業の業態刷新(ダムから小さな氾濫容認の河川監督)とともに求めた。 |
| (2009年11月3日) 『日本の論点』に「公教育の再生」につき、書く。中央公論に昨年末に書いた「塾と商店街で子どもは育つ」の内容を不縁して欲しい、との編集部の要望に応える。 「ゆとり教育」はたんなる子ども放置教育になってしまったが、本来はその時間で商店街に聞き取りに行かせるとか、子どもの「読み書きそろばん」能力の応用を図るもの。さらに、塾で中学受験に使われている国語の長文読解と算数の問題はこの時期にやるとやらないで「読み書きそろばん」能力に差がつくと思う。算数は一題、長文は本を読む入り口として、毎日の授業で生かすべき、と書く。 |
| (2009年10月28日) 毎日書評、『ベスト・オブ・谷根千』(亜紀書房)。 ベストと言っても、94冊すべてがベストなのだと啖呵を切っている。しかし高橋くらという建具屋の女将のインタビューは、たいそう面白い。一回二合ずつ、職人には食べさせていたらしい。十人いて、一日六升の飯である。大変だ。湯気の出る様すら思い浮かぶ話だ。 |
| (2009年10月28日) 「週刊鉄学」。半藤一利さんをお招きして、昭和史の政治家について伺う。民主党はどうなのかを、歴史に問うという趣向。 半藤さんの「昭和史」は、めっぽう面白い。二冊で1000ページもあるが、あっという間に読んでしまった。いろいろ聞いてみた。 |
| (2009年10月28日) 「週刊鉄学」。遠隔治療の話を、この分野で日本をリードする旭川医大の吉田学長から伺う。 過疎地では簡単には病院に行けない。利尻だと稚内まで100分かかる。それでも必ずしもベストの医者が稚内にいるわけではない。さらに別の病院を訪ねなければならないのだ。 ところがテレビ中継で他の場所にいる専門科医に映像を送ると、最高の判断を仰ぎながら稚内でもベストの医療を受けることができる。 専門科医の知識や判断力は、公共の持ち物なのだ。それを利用しうるのが遠隔治療なのだと思う。 |
| (2009年10月24日) 朝日カルチャーセンター。『経済学の古典30』から、ワルラスを講じる。ワルラスは社会主義者だった、と述べたら、安井琢磨ゼミだったという年配の紳士が、「初耳だ」と仰る。授業と合わせて一日に4.5時間喋って、頭がぐらぐらした。 |
| (2009年10月24日) 朝日新聞でもトッドについて聞かれたので、まとめると。 ・彼の経済論はエコノミストからは素人芸のように見えるかもしれないが、系譜としてはスチュアート、リスト、マーシャル、ケインズを受け継ぐ正統なものである。 ・新古典派が合理性と個人主義から金融にかんしても市場競争を単純に正当化してしまうのに対し、家族構造が価値観の基底をなし、それに識字化が上乗せされて意識を変動させるという基本的な図式によって、近代化とその帰結であるグローバリゼーションが論じられている。 ・市場が賃金を均等化させる速度が速すぎるというのがトッドが自由貿易に反対する理由である。フランス人の賃金がインド人のそれと急激に近づいているのが混乱のもとであり、その速度を抑えるために保護主義が提唱されている。 |
| (2009年10月23日) 仕事中にパソコンで映画ばかり見ている。 成瀬巳喜男の『浮雲』は、恋愛映画の傑作とばかり聞いていたが、太宰に顔が似ている森雅之が太宰真っ青なデタラメ男で呆れる。高峰秀子はがらがら声だし。構図も小津の『東京物語』『麦秋』の視覚の美しさとは雲泥。 大島渚の『日本春歌考』は、若者が大学では嘘くさい左翼歌か健全さのしらじらしいフォークしか歌えないことに反発して春歌で対抗する話。伊丹十三が荒木一郎に殺される(ガス漏れを見過ごされる)のだが、感慨深い。 長谷川和彦という人は勢いだけの男かと思っていたが、『太陽を盗んだ男』は掛け値なしの傑作。森田芳光の『ときめきに死す』は沢田研二を使っておきながらつまらない出来だったが、ここで沢田は剽軽さでテロリストの不気味さを好演している。どんでん返しを多重に仕掛け、娯楽作としても抜群。パキスタンで核テロが危惧されるだけに、先見の明もある。興行収入が振るわなかったらしいが、信じられない。今からでも金銭的に成功させてあげたい。脱帽。 小林正樹の『切腹』も傑作。ストーリー抜群で、リアリティありすぎ。封建時代が嫌になる。仲代達矢の名演。 |
| (2009年10月23日) 朝日論壇時評、今回は「鳩山政権の外交方針について」。 非現実的だ、とさんざん批判されているが、批判者は自民党とグリーンやフォルフォウィッツら知日派。トッドの言う「アメリカ帝国の崩壊」という見方をすれば現実的なのだ、と書く。 |
| (2009年10月17,19日) 新装Rocksが講談社流通ということで、連載第四回「考える格闘技」。 撮影は長尾迪氏にお願いし、大道塾とスネークピットで撮影。前者は靱帯が伸びて前足が上がらず、後者は二日後に少し蹴れたが15ラウンドのスパー。長尾氏は呆れていた。 原稿も書く。柔道で東大の津澤・柏崎師範に出会い、考えることの重要性を確認。キックでも毎回のスパーから学んで、空道に還元している。 |
| (2009年10月15日) 青山学院の総合政策学部主催、エマニュエル・トッドを囲むシンポジウム。 トッド氏は、私に会うなり「一昨日と同じ事を喋るから、寝ていて」という。情熱的であり、面白い人だ。 ・高等教育につき、トッドは楽観していると述べたが、私は「読み書きそろばん」が金融工学に変わったのがアメリカの高等教育であり、それが金融危機をもたらしたのだ、と質問する。また、学問が専門分化しすぎ、「常識」を失ったのが金融工学である、とも。 ・トッドの言う「保護主義」は、自由貿易のスピードを弱めるものにすぎない。保護か自由かという二項対立で批判するのは、ナンセンスである。 懇親会で、石崎教授や大勢の先生方と会食。 *しかし、青木保先生の司会は、なんだかなあ、だった。トッドは今回は金融危機やグローバリゼーション、保護主義の話をしに来たのだが、青木先生は第一声、「私はそんなことに関心ない。親族の人類学にしか関心ない」と仰る。もちろんそれはトッドの専門だが、批判されれば激論になり、肝心の経済の話をする余地がなくなる。「東アジア共同体についてどう思うか」との質問がトッドになげかけられたが、トッドは「そんなことは知らない」と答えていた。やっぱり、なんだかなあ、である。 |
| (2009年10月14日) 中日新聞「時のおもり」。可児市の文化施設「ala」について。ハコモノだけでなく、ソフトを創造しうる地方文化こそが求められている。 |
| (2009年10月14日) 『新忘れられた日本人』の佐野眞一氏を招き、昭和の怪物について話をうかがう。 やはり、春日一幸が秀逸だ。七人の愛人がいたという女性関係を追求され、「私のチンポは、指弾されるような立ち方ではない。オーソドックスな立ち方である」と答えたという。 時に奥様も嫉妬で半狂乱になるのだが、そうしたときは羽交い締めにして背後から般若心経を唱えて落ち着かせたとも。佐野氏が「耳を勃起させて」聞いた話である。笑った。 |
| (2009年10月14日) 週刊鉄学、久々。伊藤聡子さんの故郷、「世界ジオパーク」に日本から三カ所選ばれた、糸魚川市を紹介する。 北米とユーラシアがそれぞれ乗っかっているプレートがぶつかる静岡・糸魚川構造線は、一本の線として地上に見えているのかと思ったら、そうではないらしい。 裂け目が剥きだしになっているのが糸魚川のとある地区だというのだ。 また日本には産地が存在しないと長らく考えられたため、縄文期からの遺跡で発掘される翡翠はアジアから来たとみなされていた。しかし唯一、糸魚川で産することが発見された。ということは、縄文人は翡翠を全国の古墳に運ぶすべを持っていたことになる。なんと、ロマンチックではないか。 ぜひ、糸魚川に行ってみたい。 |
| (2009年10月13日) 読売新聞で、エマニュエル・トッド氏と対談。鵜飼記者が質問して下さる。トッド氏の分は除いて、自分が喋ったのは。
<冷戦終了から現在までをどう総括するか(鵜飼)> ・冷戦後に生じたこととしては、 ・ここで起きたのがバブル崩壊という内生的な無秩序化であった。経済学の想定は崩れた。 ・世界の信頼は、金からドルへ、ドルからオバマへと対象を変えてきた。だが今後どうなるかは、不明である。 |
| (2009年10月6日) 筑波大学大学院人間総合科学研究科でスポーツ社会学及び身体文化論を研究しておられる清水諭教授のお誘いで、『現代スポーツ評論』(年2回発行)誌のインタビューを友添秀則早稲田大学教授から受ける。(2009年11月発行予定) 「国際化時代の武道を考える」がテーマ。自分の空道・柔道体験から武道とは何か、を語る。友添先生は、筑波大で柔道部にいらした方だ。 |
| (2009年10月6日) 「ゴング格闘技」のインタビュー。昨日のDreamについての感想を喋る。 従来、プロ格闘技とは、ボクシングのようにアマのランキングで最上位になった者がヘッドギアを外したプロのランキングを作るものと考えられてきた(自噴はそう思っていた)。しかしプロ興業の本質は、そうした@ランキングによる「権威」以外にA「試合そのもののおもしろさ」B「試合外のおもしろさ」といった項目があり、亀田はボクシングでありながらBを強調し@のランキングは日本人と対戦しないことで過小に扱ってきた。@は勝ち負けのみに関心が持たれるのだが、それではボクシング人気が下がっていた。そこにリング外の話題をもちこみ、人気を一時的に回復させたのだ。この日の亀田弟は、初めて@で勝負し、負けた。しかし視聴率は19%と高かった。 Dreamは、@の王者をトーナメントで決めたが、青木真也の試合は見所が大幅にカットされていた。スーパーハルク・トーナメントというのは無差別トーナメントというより、色物世界一決定戦だが、ミノワマンといいソクジュといい、良い試合をした。しかしソクジュのニーオンザベリーの強さなど指摘されなかったから、視聴者の技術に対する見方は育たないだろう。結局、Aのみの際だった大会になってしまった。 @に頼る興業は企業に例えると長期的経営を目指す日本企業。Bは一時的に収益が上がれば良しとするアメリカ企業である。一時的にはBでありうるのがプロ格闘技なのは仕方ないにしても、Aを維持しつつ@を目指さないと長期的にMMAは持たないだろう。 しかしそもそもタイトルというのは、契約が長続きせず、外人同士で視聴率が取れないとタイトルマッチが行われないなら、あまり意味がない。K−1のように、毎年トーナメント王者を決めるというのが本筋なのかもしれない。 となると、ランキングがありつつ総当たり戦を行い、A、様式美でBも目指す大相撲はプロ興業の完成形ともいえる。内舘牧子のような素人が知ったかぶりで楽しめる余裕も、大したものではある。 |
| (2009年10月5日)
溝口紀子さんをコーディネーターとし、欧州王者に三度輝くミシェル・ブルース氏(ボルドー大学教授、IJF研究員)を囲む研究会を開く(東京大学駒場校舎 12号館 306教室)。発表内容は「フランスにおける柔道の生成と社会イメージの関係」といったもの。一時間半にわたりパワーポイントで貴重な映像も交え講演をいただいた。 参加者には日大の田辺陽子先生、筑波大の山口香先生、日大柔道部女子部員、樟蔭女子大・国士舘・静岡芸術大の教員先生方を迎え、会場は満席だった。 山口・田辺先生と溝口さんで、日本柔道界のメダリスト勢揃いである。それぞれが美しいというかオーラのある方々なのが印象的。 ブルース氏によれば、柔道の誕生を文化変容として扱う研究者は自分だけとのこと。溝口さんが日本をやり、私が現代武道論として武道史を扱っているので、主な研究者はここにいるのだ、と笑っておられた。 |
| (2009年10月5日) 毎日短評に香山リカ『しがみつかない生き方』(幻冬舎新書)。 すでにベストセラーとなり、週刊朝日では記事も出た作品だが、市場主義が前提する「自己決定」の考え方が「頑張れば願いは叶う」というように、人生や社会を単純化してかかることに警告を発する展が面白く、いまさらではあるが書評を書く。 勝間和代がこれだけ重用されるのも「前向きさ」が分かりやすいからだろう。しかし社会も人生も分かりやすくはなく、その「分かりにくさ」を扱うのが本来の文学や社会科学のはずだ。 |
| (2009年10月2日) 日経の日曜版「今を読み解く」。 私が「消費不況」と言い出してから6年ほど立つ。その後貯蓄率は下がったものの、本格的に消費不況という言葉が定着しつつある。 ユニクロや無印が売れていることにつき、たんに「安いから」というのではない理由を社会論・文化論として説明する。 私としては、三浦展氏の「シンプル消費」というよりも、「持つ」から「使う」へとフェーズが変わったのだ、と解釈しておきたい。 |
| (2009年9月27日) 静岡文化芸術大学の10周年記念公開講座ということで、講演を頼まれた。「柔道の国際化について」である。 全三回を溝口紀子先生が「女子柔道の起源について」、ミシェル・ブルース氏が「海外の柔道について」ということで、私は「柔道と異種格闘技〜武道としての柔道の拡がり〜」という話を二時間ほど行った。 柔道には、一般的に唯一と思われている「講道館ルール=国際ルール」以外に「七大戦ルール=高専柔道」が日本にも存在し、柔道は名乗らないが起源がそこにあるものとして、サンボやブラジリアン柔術がある。現在の柔道は、それらが技術的に入り交じり、明治期に続き、第二の「異種格闘技総合」の時代にある。 というわけで(武術=実戦的には「正しい柔道」の組み方では頭突きやパンチの餌食になるので片襟片袖を勧める等)様々に説明を行ったあと、映像を見てもらった。 @カント(柔術)VS 加藤 である。これも、柔道。 「社交としての柔道」という話をして、しめくくった。
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| (2009年9月25日) 朝日新聞論断時評。今月は民衆党の政策構想について。 「できっこない」と財源や官僚の反応を含め批判を受けているが、「成長戦略がない」という揶揄は、的はずれだと思う。 不況期の成長戦略とは需要を増やすことでしかなく、内需の不測している現在、消費の強化、すなわち家計の補助しか道はない。民主党はそれをやろうとしているのだが、対照的に企業を支援するのが自民党のやり方だ。私としては、家計の不安を取り除くという点で、民主党を支持している。 もっとも、「子ども支援」等を現金で行うのはどうか、とは思う。現金を渡しても流動性の罠の下では需要に支出されないからで、その点では保育所の充実など、現物の方がよい。それを打ち出せないのは、公的組織は「官僚」側なので批判するという民主の中心的価値観があるからだ。これについては、今回は書かなかった。 「消費不況」が日本経済の特質になった、というのは最近三件されるようになったが、これは私の年来の主張である。「分断」同様、どうやら世間の同意を得られるようになったらしい。 |
| (2009年9月20日) 小学校の同級生の松木君から、「町内会で講演をしてほしい」との要請があり、ちょうど可児市に森山威男さんの演奏を聴きに行くのと、京大・東大定期戦があるのと同時期だったのでお引き受けした。 ニュータウンの集会場で、30人ほどお集まりいただく。松木君は場を和らげるために武田鉄矢さんの印象でもイントロにすれば、と言ってくれたのでそうしたが、本論に入ったら結構そっちで熱心に聞いてくれた。講演の内容は、民主党の政権奪取の意味するもの。 |
| (2009年9月16日) 毎日新聞書評にイマニュエル・トッド『デモクラシー以後』(藤原書店)。 トッドの話はいつも面白く、今回はグローバリズムとはフランス人の賃金がインド人並みになるということで、それが排外主義で国民の平等(偏った普遍性)を保つかもしくは普遍性を放棄して選挙を取りやめるかという方向を強いている、というもの。 普遍性や人権、平等、権威といった価値観が家族制度での経験にもとづくという言い方はき身も蓋もないが、兄弟とのおもちゃの取り合いの体験は大人になっても人を支配する、ということなのだろう。日本人は直系家族で権威主義なんだそうだが、現在の崩れ方はどう説明すればよいのだろうか。 |
| (2009年9月13日) 『教養学部報』に原稿。なんでもいいからスポーツについて書け、といったご要望だったので、柔道の七大戦についてアピールしておく。ノーギャラの原稿だから、ここに公開しても構わないのかな? **************************** あなたは、七大戦を知っていますか。
運動会にかかわっている方なら、年間のひとつの試合としてご存じだろう。「全国七大学総合体育大会」の略で、旧帝国七大学の運動会各部が競技を行い、総合優勝を決める大会である。今年は東大が主管校だった。 |
| (2009年9月11日) 阿佐ヶ谷のバー、『青二才』にて、勉強会講師に呼ばれる。 従業員が世界を旅したくなるような話を、とのことだったので、地球儀持参で自分の体験を話す。連れとの親睦や絵はがきを確認する旅ではなく、自分の先入観を取り替えるような旅を、というのが言いたいこと。 http://www.aonisai.jp/diary/ 神谷君から同店の経営方針を聞く。私の想定と同じだったので、深く頷く。食材の発注も見せてもらったが、野菜など有機のものばかり。コストがかかっているな、ここは。イタリアンにて食事。 やっぱり山路。 |
| (2009年9月10日) 中日新聞時評、「時のおもり」。選挙について総括。「自民党的なるもの」が否定されて選挙だった。「自民党的」、というのは派閥政治であり、それは以前は国民が不満を抱くと反省し改革するという信頼の対象であったのに、対応できなくなっている。それが嫌われた原因なのだと思う。 |
| (2009年9月9日) 「週刊鉄学」、続いてミツバチの大量失踪(北米で四分の一がいなくなった)をめぐり、専門家である玉川大学の中村先生をお招きする。 話題の本『ハチはなぜ大量死したのか』は、科学的には不完全な知識が多い、とのこと。ハチの大量死も、一年だけの現象なのか、まだ確定していない由。 同じハチが巣の内勤、外勤と勤め上げてコロっと死ぬ、という話には感銘を受ける。しかし、女王バチにせよ働きバチにせよ、使い道がなくなるとポイ捨てされ、部分的な生しか営んでいないように見える。全体としての生を送っているのは、「群れ全体」であるらしい。個別のハチは、器官のように部分にすぎないのである。社会的生物というのは、なかなか面白い。 |
| (2009年9月9日) 「週刊鉄学」、三砂ちづるさんをお招きし、『オニババ化する女たち』。三砂さんはマスコミには滅多に出られない方だ。たおやかな着物姿でのご出演。 良いセックスと良い出産をしないと、40歳くらいから女性は不調になる、身体を良好に保つような知恵がかつては働き方、座り方の姿勢にも伝承されていた、との説である。 その通りだ、と思う。しかし、「出産しない自由」を訴えるフェミニズムからは批判を受ける内容ではある。医者からも批判が来そうだが、それはなかったとのこと。疫学のデータが上げられているので、反論の仕様がないのかもしれない。 伊藤さんから「出産したくとも不妊の女性もあり、ストレスが原因ではないかと思う」との反論があり、やはり社会の仕組みの問題として女性が身体に向き合えないようになっている、と思えた。 私は武道で身体と向き合えているが、忙しい男性にもそうした時間は必要である。 京都では花柳界で女性器を「おひし」と呼ぶらしい。菱形、の「ひし」である。なるほど、形がそうかも。「そんな座り方しはると、おひしが歪みますえ」、と叱られるという。美しい言葉だ。 |
| (2009年9月6日) shimokita voiceのシンポジウムに今年も呼ばれたので、参加。 「金融資本主義と都市再生論の関係」について、10分で説明せよ、とのお題。 都市再生とは、構造改革の一環として、景気回復のために土地・労働・資本を流動化させる策。それを策定した意図として政府は「収益率が業種によって異なっているのは高収益業種で土地や人、資本が不足しているから」と説明してきた。低収益のゼネコンや流通、不動産業をつぶして、移動させるというのである。 しかし現実に起きたのは周知の通り、正反対の出来事だった。規制が緩和されたため、製造業・輸出企業が海外との競争のため、工場を閉鎖し労働者をリストラしたのである。移動の方向は逆だった。 この考え方では、「収益の上がらない業種は不要でありつぶすべき」とされている。しかし、収益の高い店ばかり揃えれば、どの街もコンビニと7−11、スタバばかりになってしまう。そうでない個人業主が創意工夫し、収益以外の魅力を高めているのが下北沢の賑わいだと思う。 リリー・フランキー氏は、「カネがない時にも、ちくわを奢ってもらって朝まで飲める街だった」と言っていた。そんな風に飲める店は、良い店ではあるが、収益は上がらない店でもある。都市再生論によれば、もっとカネを使う客を集めるべき、ということになるのだから。 |
| (2009年9月5日) 東大柔道部誌『赤門柔道』に寄稿。部長の弁である。例年、いろいろと意図のあることばかり書いたので、今年はあっさりと。
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| (2009年9月4日) 先月中日新聞に書いた記事が好評だったとかで、私が心の師として敬愛するドラマーの森山威男氏が7.19日比谷野音で叩いたドラムヘッドを後援会の方がサイン入りで送って下さった。これにはびっくり、家宝である。 森山さんは、私の記事につき、「まさにその通り」「文章に迫力がある」とのこと。可児市の市役所も「森山威男Jazz Night2009」を9月19日に控え、大変喜んでおられるそうだ。こちらからもご招待を受けた。大変嬉しい。 |
| (2009年9月4日) ゴンカクの連載。武道について喋る。 武道とは、競技のルールの外で争う(武術)、ないし社会を渡っていく(修心)ための心技体をつくるための技法のことではないかと思う。 ルールの「外」であるから何が起きるか分からず、そうした(起きることの分類や頻度が既知のリスクではない)「不確実性」に対処する身体的精神的な構えを作る鍛錬のことだ。それは闘争に向けられると武術になるが、社会に向けられると世渡りの知恵になる。 武道とは不確実な、未知の世界に開かれるための心構えを作るものだ。「タックルは柔道ではないからやめろ」等と発言するのは、武道家ではない。社会で通用しないのも、武道ではない。 |
| (2009年9月3日) 日経のオンラインでインタビューを受ける。 人口は減るので「高層マンション建設を打ち切り、木造一階建てを増やして観光資源にする」という意見の評価を求められる。 万人に空の眺望を楽しむ権利があり、それゆえ高層マンションは人口の増減には関係なく、まちづくりの観点から特定のゾーンにのみ許すべきだと主張しておく。ゾーニングは、十年に一回ほど改訂すればよいのではないだろうか。 |
| (2009年9月3日) 「週刊鉄学」、続いてアイルランド。留学経験のある読売新聞の松本敦子さんがゲスト。 アイルランドに対するイングランドの収奪はすさまじく、ジャガイモに疫病が流行って大飢饉となり住民がアメリカに移住した1845年にも自由貿易を唱えてジャガイモを奪い、家畜のエサにしていたらしい。アイリッシュは本国に400万人、世界に7000万人が暮らしている。逃避の痕跡を見ても、圧政のひどさが分かる。 今に至るまで北アイルランドを支配しているのだが、中国をアヘン漬けにしたり、イギリスの帝国主義はすさまじい。日本は中韓から植民地支配の反省を迫られてばかりだが、ここまで反省する気がない国でないと、植民地など持ってはいけなかったのかもしれない。 |
| (2009年9月2日) 「週刊鉄学」。方言について、詳しい岩城裕之先生をお招きする。この方は、たんに一地方の方言に詳しいのではなく、広島も博多も新潟も、そして私の神戸もという具合に、全国の方言に詳しいという稀有な方である。というのも、旅行好きで、あちこちに行ってはアポなしで方言の調査をされるらしいのだ。 面白かったのは、地方の病院では方言が喋られない先生は問診が十分にできないという話。痛みにも体感を表現する言葉は様々にあり、内臓が痛いと外傷が痛いとを使い分ける地方もあって、それが分からないと患者の言い分を聞き取れないからだそうな。 岩城さんは言葉には伝えるための「共通語」と考えるための「方言」とがあり、さらに理想言語としての標準語、方言の変異体等が層をなしているのだ、と仰る。私としては、後ろ二者はその通りと思いつつも、方言には「つながる」働きもあるのではないかと思えた。考えたり伝えたりするのは、内容である。しかし、「アホやなあ」と関西弁で言ったとき、相手を馬鹿だと侮蔑したり、馬鹿だと判断したりしているのではない。「アホちゃいまんねん、パーでんねん」と答えてもらう言葉遊びを楽しんでいたりする。 この考え方をどう思うか、聞けばよかった。 |
| (2009年8月30日) 青森旅行から帰り、そのままテレビで開票速報を見つつ、福田和也氏・酒井順子さんと文春の座談会。 まあ、日刊ゲンダイでも民主300届かずと報じたのに、それ以上行くとは。国民がゲンダイよりもラディカルとは、困ったものではある。 小沢にとって人生最良の日。国民にとっては、どうなんだろうか。 |
| (2009年8月27日) 朝日、論壇時評。 次回、次々回に政局がらみになると予想されるので、テーマは農業にすることにしていた。今回は、雑誌はほぼ取り上げない。 川上康介氏の本は面白かったが、読んでから後になって、よく娘さんをプールで背負って泳いだ文春のあの川上氏と気づく。脱サラ農民へのインタビューだが、文章がこなれている。先だってまで「ブルータス」やらスタイリッシュな雑誌をやっていた人がこのテーマなのが面白い。 朝まで七転八倒。それなのに一回荒く書いたただけで送ったところ行数もぴたり。こんなことは初めてだ。 直売所の本も、スケールが大きくて面白い。青森旅行で、さっそく十和田の道の駅に。 **************** 息子が太宰の旅をしたいというので金木の斜陽館へ行く。せっかくなので太宰を復習。 「ヴィヨンの妻」を読み返したら、「私、これで幸福よ」みたいなことが書いてある。亭主は詩人の芸術馬鹿でヒモみたいな中央線の男である。 同じようなセリフを最近聞いた。 そうか、「美代子阿佐ヶ谷気分」は漫画家版「ヴィヨンの妻」だったのか!そういえば、「人間失格」の主人公は漫画家だった。太宰は中央線文化の創始者でもある らしい。 |
| (2009年8月27日) 鉄学、武田さんの主演作『降りていく生き方』がテーマ。 この映画、農業・まちづくり・消費・教育などにかかわっており、自分の関心にも近い。伊藤聡子さんはさらに、ロケ現場が出身地も近く、前のめりで話す。 素人の参加者が武田さん、沢田雅美さんら役者と絡むのだから、達者なものである。しかし、役者さんたちのギャラはどうなったのだろうか・・聞き忘れた。 |
| (2009年8月26日) 鉄学の収録。 裁判員制度発足について、光市母子殺人事件を報じている門田隆将さんがゲスト。 私は、裁判員制度の批判が「市民に個人として判断する力があるのか」という点に集中していることに疑問を持っている。なぜなら、プロの司法関係者とは、「個人として判断するのでなく『法』ならこう判断するはず」と「法」を主人公と みなす人々だったからだ。だから、死刑についても「判断する個人が誰かを殺す」のではなく、法が「死に値する」と判定するのであり、人はその介助をするにすぎない と考えられてきたのだと思う。 そう思っていたが、実際に裁判官がおかしな判決を出すことを週刊新潮誌で報じてきた門田さんの話を聞くと、そうばかりもいえないと分かった。裁判官は、「法ならばこう判断するはず」と解釈していくのでなく、「過去の法の相場はこんなもの」と機械的に値踏みするだけ だ、というのだ。「裁判官の官僚化」、がキーワードである。 なるほど、経済学の現実判断に似ているのかも。ただ既存の論理を振り回して現実を切断するのだから。「法に判断せしめる」には、未曾有の現実に対しては、法 の方を修正していかねばならないのであり、繊細な現実理解が必要とされるのである。 |
| (2009年8月23日) 電線のない街づくり支援ネットワークの『電柱・電線地中化の方法と実際』(仮)に寄稿。電線類地中化が国交省の事業としては進んでいても、体感としては芳しく感じられない理由として、電柱が実数で増えていること、それも国道以外の道路に集中していることを挙げる。 地方分権には、電線類地中化を含む財政判断が求められるのである。 ところで私は以前から不思議に思っているのだが、日本の保守派思想家の人々はほとんど景観の劣化に関心を持ってこなかった。拙著『失われた景観』(PHP新書)はある保守派雑誌に連鎖したものだが、「後進に道を譲るように」とFaxが流れてきて、連載打ち切りになった。保守派ってそんな 品のないやり方をするのね、と打ち切りの仕方にも呆れたが、 連載中にも冷淡な扱いであることは感じていた。なにしろこの雑誌では、私の文章に前月の要約が割り振られたりしたのである。扱いは私がマスコミで経験した限りで最低であった。 それなのに、本になった後、その連載の文章は保守派の政治家にはしばしば引用されている。 保守派の政治家は、景観が好みなのである。それはそうだろう、保守とは美意識の問題であることは保守思想の元祖エドマンド・バークが美学から出発したところからも明らかであり、バークは政治家でもあった。 政治は思想を必要としながらも具体的営みであるから、保守派政治家は景観の保全が自分たちの仕事だと理解している。一方、日本の保守思想は、机の上の抽象論でしかないのだろう。 |
| (2009年8月22日) 関西大学の中澤信彦さんから先に出した二冊につき、メールで感想をいただく。ご自身のHPに文章も載せていただいた。 『経済学の名著30』 実は、共和主義について調べ物をしていたとき、ネットで中澤さんの講義ノートを見つけ、精緻な知見に学ばしていただいたという経緯がある。専門家から評価をいただき、ありがたい。
バブルと共和主義の関連が強引、とのご感想には、「そりゃ専門家からすればそうだよな」とは思う。
ただ、バブルに向かう国民の心情を、慎慮を大事にする共和主義者が苦々しく思っていたのではないか、とは想像できる。何か証拠があるかどうか、探しておきたい。
中澤さんの読書日記も、なかなか充実している。私は仕事でしか本を読まないので(遊ぶのに忙しい?)、広い知的好奇心には圧倒される。 メールの中で、マグヌソン『重商主義』の翻訳が出た、とお知らせを受けた。毎日の書評欄の速報では知っていたのだが、タッチの差で他の書評者に権利を取られていた。この本は、「政府が規制を用いて介入し経常黒字の増大を狙う学説」としての重商主義観を根本的に覆えそうとするもので、重商主義の経済学説の核にbalance of tradeの概念を認め、17世紀を通じてtradeが意味する内容の重心が「貿易の差額」(流通)から「労働の差額」(生産)へとシフトしていった、という新説を唱えるものだという。私も重商主義が流通=貿易差額のみを意味するとすれば、何が書いてあるのかよく分からない文章が古典には頻出すると感じていたので、なるほど、と思う。
http://d.hatena.ne.jp/nakazawa0801/20090819 |
| (2009年8月20日) すっかり夏休み気分で、息子の宿題『十五少年漂流記』と太宰「ヴィヨンの妻」を読む。 ヴェルヌの前者は、15歳にもならぬ漂流少年たちが大統領を決めたり、任期満了で次の大統領ほ決めて派閥が分裂したり、「勤勉、勇気、熱心」を長い夏休み(二年)の間に経験する話である。学校の先生が薦めてくれたのもうな ずける立派なお話である。 後者は、夏の課題で太宰について息子が書くというので中公の日本文学全集の太宰集に入っていた。こちらは、舞台は中野や吉祥寺。家を出たきりときどきしか帰らない詩人の夫が飲み屋のつけを踏み倒したり複数の女から金を引き出していると知った妻が、その飲み屋に 夫に無断で勤めたり、女連れの自分の夫の酌をしたり、夫のファンだという客に手込めにされたりしながらも楽しいという、まあ中央線らしいというか、「勤勉、勇気、熱心」にはほど遠い、どうしようもない話である。しかし、こんな飲み屋に探してでも行ってみたいと思う私はいったい何であろうか。 息子が両者の感想をどうまとめるか、楽しみではある。 |
| (2009年8月14日) 毎日書評、ゲラ直し。日本建築学会『生活景』学芸出版社と坂口恭平『TOKYO一坪遺産』春秋社。 「生活景」とは、身近で国家遺産と認知されていない風景のこと。それを守ろうという運動が、自宅の自慢の庭を一時的に開放する「オープン・ガーデン」のようにひたひたと流行りつつあるらしい。 私はこれを『失われた景観』で「生活圏の景観」と呼んできたので、望ましいことと歓迎している。 私にとっての「生活景」とは、電線のない空であったり、片岡東洋描くところの高さ1mほどの寝て飲む架空の飲み屋だったりする。片岡さんお住まいの 十条あたりにはありうるかも、といった光景なのだが、ま、好みの風景は人それぞれということだろう。 そうこうしていると、まさにその十条の知り合いから電話。もつ焼きの名店、「埼玉屋」の大将である。このところ行列店として有名になっちゃったらしいが、私は十年来お世話になっている。 「夜も七時というのに、どうしたんですか、お仕事は?」 埼玉屋の大将にそうお招きいただいたとなれば、さっそくに行くしかない。息子と家内に伝えて、駅に出、新宿で埼京線に乗り換えて、十条へ。てくてく歩いて埼玉屋着。大将が横の扉を開けてくれる。休日だけあり、綺麗に消毒している。 大きな皿に、山盛りに土気色の肉が。刃の当たった切れ目はピンクだ。霜がびしっと降っている。「センセー、肉はA3くらいがいいよぉ」と大将。 さっそくに家庭用コンロで焼いく。脂が口内に染みる前に、肉の筋がからみつく。品の良い脂なので、いくらでも食べられる。あっという間に三人で一キロを消費。 「いやね、先生。私も投資信託なんかでちょっと赤字になったことがあって、センセイの本を読んどきゃよかったなぁ。線引いてます。魂がこもってるね、この本」と言われて、よい気分でふらふらになり、帰宅したのだった。 埼玉屋は、客と大将がサシで勝負するような、本当にうまいものを求める客のための店である。サシで勝負できないような、雑誌を見てくるような客には不向きの店なのである。 食べる側も、必死。出す側も、必死。そんな考えをする読者を得られて、うれしい。
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| (2009年8月14日) 「ゴング格闘技」。青木真也vsシャオリン戦の青木選手の戦い方をどう見るかを喋る。不思議なもので、総合格闘技で寝技師vs寝業師の対決となると、キックの試合になることがある。プロの試合でそれを避けさせることは主催者権限に属するが、MMAでそうすることにどのような意味があるのか 、検討の余地がある。 それにしても中井裕樹先生は、柔道界に地殻変動を強いておられると思う。柔道界は気づいていないらしいが。 |
| (2009年8月13日) 杉並区立杉並芸術会館運営評価委員会というのがあり、私は区の依頼を受けてその委員長をしている。 要は、「座・高円寺」の運営についての外部評価を行う機関ですね。それで新しい芝居がかかるたびに招待を受けている。今回は、鴻上尚史演出・虚構の劇団「ハッシャバイ」。「第三舞台」公演の、若手による再演である。 これは、ちょっと辛かった。脚本は面白いし、七つのドアが開くことで自在に舞台に出演者が登場したり、海を映写したり空中に浮遊物を舞わせる等、裏方の仕掛けもふんだん。 しかし、九人だかの出演者が、叫ぶというか怒鳴るというか、二時間の間、単調に台詞を言うので、聞きづらく、疲れてしまった。お笑いのセリフも間がないので乗れない。観客は引き気味だったが、同じような感じだったんじゃないか。 若い俳優たちなので、これからに期待したい。 |
| (2009年8月12日) 読売新聞からインタビューを受ける。月末の選挙が持つ文化・社会的意味は何か、と。 官僚批判が民主党の主眼だが、官僚は一国の目的について設定する存在ではない。価値観を提示し、それに併せて官僚機構を改変するのは政治家の役割だ。現在、そうしたことが求められているのだが、 官僚に目標設定まで丸投げの自民党がそれをできていないのは当然として、民主党も目的についてではなく官僚機構の制度改革に焦点を絞っている。それも今回は必要なことかもしれないが、政治の本道は一国の進むべき方向を目的として示すことだろう。 大企業に有利なように規制緩和し、アメリカ・中国への輸出頼りの経済を作り上げた。こんな国のかたちで良いのか、ということだ。 どんな国のかたちを作ろうと言うのか。 私としては、そうした大きな見取り図を描こうとする人が選ばれることを願っている。 |
| (2009年8月9日) 北京。1990年の6月半ばから8月一杯、私は文部省の求めに応じ中国は東北の長春で中国人博士課程院生40人を相手に日本語を教えていた。年齢は私とほぼ同じから10歳下だったから、現在40〜55歳ほどである。一年の日本語特訓のあと、日本の大学院に留学して、博士号を取られるという事業、いわばODAだった。この事業の初年度がこの年だったのである(私は3年後の93年にも教えた)。 その後20年が経ち、彼らはそれぞれ各地に散って、まさに中国を代表する学者や実業家、医者になっていた。彼らは当時、中国全土から選抜され、背水の陣で長春に集結していた。落第しても故郷に帰れない覚悟 だったのだ。四人部屋、少し授業終了が遅れると昼飯がなくなり、10時に消灯のあとは道ばたで街灯のあかりを頼りに勉学するような日々。結婚してすぐに彼氏と離ればなれ、日本に留学して赤ん坊と離ればなれという人もいた。その修業時代を懐かしみ、教えた私を呼んでくれたのだ。滞在費を一切合切持ってくれたのである。教師の側は、私と日本語教育専門家の青木伴子先生だけが参加した。 生徒の側が、それぞれに日本に行ってからの業績と現状を紹介する。北京大学の医学部長、精華大学(日本なら京大か?)の工学教授(弟子がすでにMITで博士号を取得していた)、プリンストン大学の教授、大学の副学長、日本からもスカウトをかけられている医者、等である。アメリカで出版した立派な経済学書をくれた人もいた。 皆口々に言っていたが、人生の早い時期にあそこまで追い込まれたことで「必死」ということを知ったし、勉学で立っていく覚悟ができたとのこと。 私もゼミの院生に強制合宿でもやってみようかしらん。しかし一年となると、つきあう教員も必死だしなあ。こういう国の「若さ」は、日本では明治からせいぜい大正期までしかなかったのかもしれない。 |
| (2009年8月7日) 中日新聞、「時のおもり」。7月に35年ぶりに復活した山下洋輔トリオについて。私は森山威男信者なのだと、改めて思った。 老い方も素敵。 ******************* フジで山下トリオの演奏が放映された。しかし、こういった音楽について、地上波で放映するのはやはり無理なのだろうか。半分以上がメンバーの雑談(新宿・「ふらて」)、肝心の演奏は集団でやった最後の曲だけだった。けれどもこれでは、何故に山下トリオが音楽文化の奇跡であるのか、まるで分からない。山下・森山・坂田がこれ以上ない密度で音をぶつけ合った様が、再生不能な、まさにジャズとしかいいようのない状態を作り出したのだが。 私は、森山・坂田とのトリオは時間限定の人間国宝に相当し、その映像が残っていないことを心から残念に思っている。しかしこのような同窓会で昔話をくだくだしているのは、まさに「非ジャズ的」な行為ではないのか。座談会に森山は参加していなかったが、こんな扱いになるのが分かっていたからだろうか。
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| (2009年8月6日) 毎日書評、短く、花村萬月『俺のロック・ステディ』集英社を書く。 花村版ロック入門だが、趣味がよろしい。ピーター・グリーン、ロリー・ギャラガー、テンペストにマイルス。かなり変わったロック史だが、最高に素敵だ。 http://www.youtube.com/watch?v=SmPsYY0nbaw&feature=related |
| (2009年8月6日) BSフジ、「プライムタイム」。二時間の生である。 何度かご一緒させていただき、そのたびに敬意を募らせているアサツーDK岩村暢子さんのご本をめぐり、コメンテーターとして出演。 食卓の驚きの変遷につき、 ・岩村式定性調査の画期的な点について・・食卓の写真を撮ると、自分の無意識が写しだされている(野菜重視といいながら、肉中心等) ・家族とは人間関係のノイズを厭わぬつきあいのはずだが、メディアのパーソナル化とともにノイズが嫌われている といったことをお話した。むろん、岩村さんはいつもの名調子。これだけデータが示されて、なお事実関係について反論する人がいるらしいのに驚く。 |
| (2009年8月5日) もう一本、元『歴史読本』編集長の高橋千劔破さんを迎えて、歴史に見るリーダー論」。 動乱期におけるリーダーの特質ということで、戦国時代、幕末維新期に共通するのは ・門閥からではなくリーダーが出てくる ことだと仰る。なるほど。信長・秀吉・家康も立派な書を残しているし、伊藤博文にしても農家の出で、英語に堪能だったことが初代首相になった理由だった。 では現在は?ということで、次のリーダーを考えてみたい。 |
| (2009年8月5日) 『週刊鉄学』収録。「感性価値」とはプロダクトデザインに注目した商品価値のこと。デザイナーのムラタ・チアキさんに話を伺う。 興味深かったのは、氷を入れて汗をかいたグラスを持ち上げると、机に桜の花びらの形が残るデザインがあるということ。若いデザイナーの作品であるらしい。モノに付着していないだけに、なるほど「日本的」な感性だ。見てみたい。 ムタラさん自身は、ゆらぎを取り入れた作品を見せて下さった。心温まる作品だった。 ただ、この話を経産省が後援しているというのでHPを見て、やはり役所は異様な言語感覚しか持たないのだなあとため息が出る。プロジェクトの意見聴取をした人々を、「感性☆21」(☆は「キラリ」と読ませる)と呼んでいるのだ。聴取された方々には偉い人も含まれているが、どうしてこの呼び名に抗議しなかったのだろうか。恥じらいや陰影のなさ には、役人特有の感性がある。 |
| (2009年8月2日) 毎日の書評で、漆作家(当人は職人と言っている)・赤木明登さんの『美しいこと』(新潮社)を書く。 赤木さんの大学時代の恩師は木田元先生で、木田先生は私を見ると「武道はどうかね?」と聞かれる方である。ご当人が総合系(というか、ヤミ屋の喧嘩で使う)柔道をやっておられたので、興味をもっていただいたらしい。 「美しい」という、個人の感覚でしかなく、しかし他人にも共有されうる、それでいて自分でも忘れてしまいがちな不定形の何ものかにつき、多彩な知り合いと語り合った対話を赤木さんが再構成している。木田先生はもちろん現象学の大家だが、本書の筆致も現象学を思わせる。 面白いのが、対話相手に批判され、それを素直に書いているところ。広大な土地を買い、仕事場を新築しようと時間を使っていたが、「最近のあー君はいまいち」みたいに言われて中止したりしている。謙遜か仕掛けで書いているのかもしれないが、赤木さんらしい翻意ではある。まだ彼が修行中だった十数年前に能登に遊びに行ったことがあるが、月に5万で奥さんと暮らして、それでも充実した暮らしぶりだった。余計な資産は持たぬが勝ち、ということか。弟子にまで批判めいたことを言わせて、おろおろぶりを自分で記している。心の揺れを記す文章を書かせたら、ちょっと比類がない。 これだけのそうそうたる作家・職人たちの対話者が実人生の知人である点も素晴らしい。赤木さんは職人であるとともに著作家・プロデューサーでもあるが、それはこのべたべたしない交友にも現れているのだろう。美しい本だ。 http://www.amazon.co.jp/%E7%BE%8E%E3%81%97%E3%81%84%E3%81%93%E3%81%A8-%E8%B5%A4%E6%9C%A8-%E6%98%8E%E7%99%BB/dp/4103025727
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| (2009年7月30日) 時間ができたので、久々に18年来の友人に会う。エリザベス・ドーンさん。もともとは私の英会話の先生なのだが、たんなる飲み友達と化している。本日は吉祥寺のカフェにて、投資に失敗した話を聞く。 話している間に、テーブルに妙なものを立てるので何かと思えば、「プライベート英会話講師」と書いてある。こうすると、フライヤーを持って行く人が多いのだそうな。せっかくなので、宣伝させていただくことにした。 公立中学の英会話教師も長年勤めたが、最近では高井戸・吉祥寺周辺で、シャイな人にぴったりな会話を教えている。友達もものすごく多い方である。
ご関心の向きは、ぜひよろしく。 |
| (2009年7月29日) 「週刊鉄学」、収録。今週も武田さんはお休み。伊藤さんだけが頼り。心細い限りだ。 今回も私が好きなテーマを選んで良いとディレクターから言われたので、「電線地中化」にする。去年、講演させていただいたNPO法人「電線のない街づくり支援ネットワーク」http://nponpc.org/default.aspxの井上利一さん、元国土庁審議官の中津真治さんにご出演いただく。 私は『失われた景観』(PHP新書)でこの話を書いた(おそらく一般書で活字になったのは初めて)が、それから7年も経っている。国交省の計画もすでに五期が終了。そこで最新の情報に詳しいお二方から話を伺った。 銀座は昭和30年代に地中化したが、それは地中化した方が安上がりだったこと、最近でも電柱は着実に増え続けていること、近年国交省等と民間が協力して地中化を進めているのに進捗度合いが芳しくないのは地方自治体の財政状況が悪いせいであること等、盛りだくさんに語っていただけた。 この話題が電波に乗るのは、稀なのではないか。 伊藤さんのお陰でなんとか司会を終えられた。嬉しい。来週からは、リラックスして冗談が言えるぞ。 |
| (2009年7月27日) 久しぶりに、映画館で映画を見た。『美代子阿佐ヶ谷気分』である。 私は阿佐ヶ谷に住んでいるが、わざわざ富士見台から越してきた理由は、関川夏央の「1985年の阿佐ヶ谷気分」というエッセイを読んだからだ。駅前のどこかのジャズバーで、どうでもよいような話をちょっと気のある女性とする・・みたいな話だったような気がする(詳細は忘れてしまった)。 しかしともあれ私はそんな無駄が魅力的であるような空気が欲しくなり、阿佐ヶ谷に定住するようになったのだった。 70年代のガロをフリマで買って持っていたので、阿部慎一の漫画は読んでいた。我が愛する阿佐ヶ谷の気分が刻印される映画だったらいいな、と思い、渋谷の映画館に向かった。 しかし、期待はずれだった。町田マリーという女優は、裸体といい憂いのある表情といい、素晴らしい。こんな女と阿佐ヶ谷で出会えたら最高だな、とは思う。しかし街がまったく阿佐ヶ谷らしくないのである。 だいいち、下宿は白鷺あたりではないか。白いポートタワーみたいな煙突は鷺宮の方にある。出てくる居酒屋は「和田」みたいに見えるが、とくだんの雰囲気があるわけではない。監督は、「阿佐ヶ谷」の空気を撮る気はなかったようなのだ。 音楽も、いくつものバンドのものが挿入されていて、印象が薄くなっていた。家内の店のヒット陶器作家である工藤冬里さんの曲も、どれだか分からなかった。 もちろん原作そのそのも、阿佐ヶ谷らしさを欠いてはいる。せっかく良いタイトルなのに、もったいない。私なら、70年代の阿佐ヶ谷らしさを出すのに、「スターダスト」と「山路」は外さない。「リッキー」や「阿呆船」もよかったが、いまはない。 阿佐ヶ谷というのは、ダメダメな人間が、妄想に捕らわれて最上を目指すのを言祝ぐ町ではないのか。妄想が暴発しても、受け止めてくれる空間だ。私はここで何度助けられたことか。 私生活を描くダメ亭主といえば車谷長吉が有名だが、会社にズボンを履き忘れてパンツだけで行っても首にしなかった堤清二氏や見限らなかった夫人に恵まれていた。阿部慎一は、奥さんには恵まれたが、神経が持たなかったらしい。そんな阿部のダメダメぶりが描かれるのだが、ダメな男が和田で飲むのは贅沢過ぎやしないか。やはり、山路にでも行ってもらいたかったな(もっとも、ヨシコに出禁にされただけか も)。 |
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(2009年7月26日) 今月の朝日新聞論壇時評は、「米中G2」を基軸通貨論から論じる。 基軸通貨と米国債とはながらく同義だった。それは流動性が同じほど高かったということだが、国債の乱発で流動性に不安が生じている。これで基軸通貨と米国債は別物と認識されるようになった。これは、米国だけが経常赤字で他国が黒字、他国は輸出して得たドルで米国に投資するという資金循環が崩れるということも意味している。 このような整理はあまりなされないと思う。「米中G2」は、国際的にそうなのではなくて、日本にとって妥当するのである。 「フォーリン・アフェアーズ」のマッドセン論文は、日本における構造改革にも金融緩和にも、ほとんど意味はなく、消費不足だけが問題だったという、私の説とまったく同じ論旨。持論は海外では 共感されているらしいが、この十年ちかく、日本でなされた構造改革vsリフレという議論は的はずれと認識されたことになる。エコノミストの皆さん、今回は どう言い逃れするのだろう?
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| (2009年7月25日) 格闘家・武道家の平直行さんと行徳にて対談。 平さんとは、デンバーの第二回UFCの会場で初めてお会いした。市原さんがホイスに負けて、最前列でさめざめと泣いておられたのが印象的だった。 後に平さんはカーリー・グレイシーに入門、ストライプルを設立。市原さんが打撃で接戦勝利したヤン・ロムルダーをMMAで撃破した試合が恐ろしかった。目つぶし・かみつき以外は何でもありという、非スポーツ的な試合で、相手が「タップ以外は見込みで判定するな」と注文をつけてきたので失神したのを絞め続けたという試合である。 その平さんは柔術のストライプルを主催しておられるが、実際はブラジリアンよりも武道としての大気拳、身体操法としての操体に関心があるのだという。DVDをいただいたので、それを題材に高齢者として稽古を続ける心境をお話した。 |
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(2009年7月24日) 週刊朝日の恒例、国会通信簿。これは元々は『論座』で半年限定で行ったものだった。当時の担当というか発案者は村山正司氏だったが、いつのまにか週刊朝日で引き取ってもらい続けている。 御厨先生と、九時過ぎから神楽坂のアグネスホテルにて。今回は解散・選挙を機に行うことになった。 民主が政権を取ったとして、大臣に多党党首を起用するか否かに注目が集まる。まさか、W田中は・・田中康夫、田中真紀子を使ったら、政権は半年も持たないぞ。 社民党のマニフェストにはびっくり。「大企業中心の輸出最優先」「内需中心の経済への転換」なんて書いてある。そうか、俺は社民党と同じ経済観だったのか、と感慨しきり。もっとも、自民党からも呼ばれて、古参数人と食事をしたとき、「あなたの『分断される経済』だけが正しかった」と言われた。そうした見方が広まってくれるのは、有り難くはある。 国民新党はタイプミスのあるレジュメのようなマニフェスト。それでも出てきていない自民党よりはマシということか。 |
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(2009年7月23日) 夕方、『週刊鉄学』収録。今回は武田さんが博多公演で不在。舞台を見に行った伊藤聡子さんによると、爆笑の傑作だったとか。自分の母親役はまだしも、自分の若い頃を長髪のかつらをかぶってやったらしい。本当に芸達者な方ではある。 というわけで、「どんなテーマでも、お好きなものを」とディレクターに言われたので、柔道の話題。ゲストは柏崎克彦師範、溝口紀子先生。外国の柔道は「正しい柔道」ではない、なんて言い方がしきりになされるが、日本サッカーは「正しいサッカーではない」なんて、誰も言わない。勝てるために最善を尽くしているだけだ。国際化した数少ない日本文化・柔道の現在を見極めるために、多様なルールと多様なスタイルを論じた。 武田さんのデビオレターでは、「松原さんの生涯柔道という持論に賛成」と言っていただく。うれしい。 多様なルールということで、戦前の柔道ルールについて、現在の七大学戦について語っていただく。七大戦は、溝口先生によればゆっくりやる寝技だそうで、速度のある国際ルールの寝技とはやはり違うそうだ。 多様なスタイルとしては、外人の柔道の象徴のようにいわれる隅落とし・浮き技を、私が以前に撮影した柏崎先生の指導ビデオから紹介。溝口さん曰く、「柏崎先生はいまでもアギンギャルドです」。 言いたいことをしっかり述べた。この内容が電波に乗るというのは、画期的なことだと思う。ぜひ、ごらん下さい。
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(2009年6月20日) 『ゴング格闘技』誌、座談会/板垣恵介・増田俊成・松原隆一郎・夢枕獏「七帝柔道、講道館に帰る」について 私の発言に、一部不明瞭な点があり、関係者に誤解を与えかねないという懸念がありますので、正確を期してここにご説明申し上げます。 ・講道館で七大戦を開催したことについて、「僕が東大の部長になったりとか・・」という記述について 今回、講道館で七大戦が開催されたのは、発案したのは私ですが、講道館と話をつないでくださったのは東大師範である津澤寿志先生。受理されたのは講道館側であります。私はたんに「講道館でやりたい」と津澤師範にお願いしただけなのですが、講道館側でどのような話があったのかは伺っておりません。古参の方には、七大柔道をよく思っていない雰囲気があったのは事実のようですが、今回は受け入れて下さいました。 東大周辺では、今回も当然のように綾瀬の体育館等が候補に挙がっていました。七大関係者には講道館で開催するという発想がなかった(過去の経緯からの先入観でしょう)ので、その点では私が発案しなければ講道館で、とはならなかったと思います。ただ、私がやったのはそこまで。発案しただけで、実際にことを運んで下さったのは津澤師範と講道館であります。
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| (2008年6月6日) 中日新聞6月4日付け「時のおもり」で掲載されたエッセイにつき、一部に誤記があり、また意図とは異なる読み方がなされる可能性があった。 混乱させた方にはお詫び申し上げたい。正確を期し、趣旨を以下別途に表現しておきたい。
・これに喩えると、「準備をして切開せず裂傷も負わない」のはA、「準備せずに切開もせず裂傷を負う」はB、「準備させず切開する」はCに相当する。私は、産科医の集まりで話をしたときに、医師がまるでBかCかの二つのケースしかないかのように語るのに違和感を覚えた。ちゃんと準備すれば武道の試合が安全であるのと同様に切開しないで裂けることもなくなると思う。もちろん、準備していても武道では怪我人が出るが、その確率が想定の範囲内であれば、武道で試合することは自己責任といえるだろう。
・ただし私は、「効率」のために帝王切開するケースについては、必ずしも否定するものではない。助産婦の元で自然分娩するのは、あまりにも時間が不確定であり、医師への負担は過剰になる。とくに前回に帝王切開した妊婦についての場合などは、再度切開するのは仕方ないのだと思う。 |
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(2008年2月7日) 『別冊宝島 おじいちゃんにもセックスを。』というムック本が送られてきた。二月ほど前にインタビューを一時間ほど受け、一月後にゲラがメールで来たので、修正した。ところがこの本を見ると、インタビューをゲラとして起こした本文とは別に、私の発言が掲載されている。その中に、「団塊の世代に何を期待するのか」という問いがあり、私は「早く死ねばいいのに」と主張したことになっている。確かにその場での私の発言を部分だけ取ってつなげればそうなるのかもしれない。そう面白くまとめる人がいたということであろう。しかし私はゲラが出て目を通していたなら、これについては真意についての曲解だとして修正したはずだ。 私が喋ったのは、こんなことである。 団塊の世代は、人数が多く内部で競争が激しかったため、それ以外の世代に対しても内輪ノリで接するところがあり、礼儀知らずに感じることがままある。これは世代全般について言えることだ。そして人数にすればそのうちでほんの一割ほどかもしれないが、そうした中に全共闘運動に関わった者がおり、さらにその一部には東大で闘争にかかわった者がいた。私はかつて彼らの発言だけを聞いて、警官から暴行を受け重傷を負った者が多数あったと思っていた。官憲の暴力許すまじ、と共感すらしていた。ところが後に佐々淳行氏の本や『全共闘白書』(新潮社)などを読んでみると、その数十倍に当たる人数の警官が重傷を負っているではないか。それはそうだ、警察が学生になるべく怪我をさせないよう配慮していたのに対し、安田講堂の屋上に陣取った学生たちは、登ってくる警官めがけて巨大な岩石などを上から落としたりしているからだ。 警官といっても、同世代である。その人々のうちには、不幸にも岩石を頭部に直撃された人が多数いたという。首に重大な障害を負い、明るい将来があるはずの若い身で、売店などでしか働くことが出来ない身体になってしまった人もあると聞く。それに対し、とくに『全共闘白書』に記されたかつての全学連学生の発言は酷い。人生を棒に振らせた警官を思いやる言葉など見あたらないのである。また政治活動で盛り上がろうぜ、といったノーテンキなノリが見られるばかりなのだ。 このように、老境にさしかかってもまだ反省するすべも知らないグループについて、「早く死ね、何も期待などしない」と私は述べたのである。私は、被害者も含まれる団塊世代の全体に向けて、そんなことは言っていない。 |
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(2007年12月27日) 先日、武道について衛星放送(朝日ニュースター)で対談することがあり、今年多く見られた武道的な事件についての私見を述べた。朝青龍問題、亀田問題などである。その一部で、中教審が武道を中学の正課に取り入れるという答申を出したことなどに触れた。また、柔道の世界大会で鈴木や井上が負けたことを受け、「柔道」が「JUDO」に変質したといわれていることについてコメントした。 番組そのものについては、収録中から社長がじきじきに立ち会われるなど、大変好評であった由。さらに二週間ほど経って、反響の葉書などが寄せられたとして、ディレクターが届けてくださった。 その中に、唯一批判らしきものがあった。葉書「三枚」に続けて不満が述べられているという奇妙なものであったので、「これは何でしょうか」と尋ねられた。 「元全日本学生柔道連盟会長」のTさんという方(実名が記されている)によるもので、私としては、「ああ、またか」という感じであり、 東大柔道部長を批判すべく熱心に投書をしておられる様子には、関係者は切迫したものを読み取るかもしれぬ。 しかし内容はごく他愛ないもので、「柔道の本質は道衣のゆとりにあり、それが国際柔道では失われつつあることが問題の本質うんぬん」というものであった。それを私が認識していない、自分は高専柔道はかつての名人に習った、ボルドーでは道上伯師範から話を聞いた、とか、ディレクターには訳が分からないことが書いてある。これまた、関係者ならばいつもの 自慢話かと分かりはするものである。 しかし、私の当日のテーマは、「武道」であった。武道はスポーツと武術と修心から成ると嘉納治五郎は言っている。私は、中教審の件については、「戦後の柔道指導はスポーツとしての勝利をめざすものでありそれについては成果を上げたが、弱い子を指導する面では必ずしも成果は見られない」として、正課への導入については「修心」としての指導をいかにするのかを詰めるのが課題だと述べた。しかし、「道衣うんぬん」はスポーツとしての柔道のルールにかかわることであり、当日のテーマである武道とはずれている。学柔連はもっぱらスポーツとしての勝利を競う団体であるから、元会長氏はスポーツとしての柔道を武道と勘違いしているのだろう。柔道と聞けば何でも持論にひきつけて語りたがる人の典型が、ここにいる。 もちろんスポーツとしての柔道の伝統とルール問題をどう考えるのかというのも重要なテーマではあるので、司会者が次回は山下泰裕氏にも声をかけたい旨を言っていた。だから、その場では述べなかったのである。 ところで、私は一部当日語ったことに、伝統とは異なるナショナリズムを排せ、ということがある。それ以上は述べなかったのだが、私には、この「柔道着のゆとりうんぬん」もそれに当たると思えている。私自身は、講道館柔道や日本人の身体に適した柔道は、なるほど道衣のゆとりを用いて崩し・ つくり・かけを駆使するものだと考えている。というか、そんなことは常識であろう。ところが柔道が外国人にも伝わり、国際化する中で、それとは異なる戦法をとるJUDOが現れた。外国人にすれば、日本人が崩しからの戦法に長けているのであるから、それとは異なるパワー柔道・組み手柔道に偏するのは、当然の戦略である。挙げ句、日本人の戦法を封じるために、道衣の規定を変えようとする政治までが行われようとしている。私も、これは由々しき状況だと考える。 しかし、それに対する日本の柔道界の反応は、もっぱらこの元会長と同様であり、「真の柔道はうんぬんであるから、それに諸国も従うべし」というものであった。スポーツにおいて競争するのに、ルールのみならず戦法までも敵に強いるというのは、ナンセンスである。 外国勢は、あえてそれをしないことで日本に対抗しようとしているのであるから。ルールのもと、多様な戦法が競い合うのは、サッカーなどを見れば当たり前である。それゆえ 多くの国がこの意見には従わず、 国際大会では崩しの柔道・パワー柔道・組み手柔道が競い合っている。いずれもスポーツのルールとしては容認されているからだ。そして日本人が負ければ、それは「JUDOになったからだ」と深刻ぶって嘆くのが通弊となってしまっている。 柔道本質論は、日本国内では伝統ある意見だし、私も尊重するが、スポーツとしての競技においては戦法のひとつにすぎない。それを国際舞台で他国が真似るよう訴え続ける ことには意味がない。どの国も、自国の戦法に有利なルール変更を目論んでいるからだ。つまり「柔道本質論」は、スポーツのルールを変更するという政治の世界では、まったく無力であり、むしろそれ以外の主張をしない言い訳になってしまっているという点ではマイナスですらある。 こうした本質論のせいで、道衣が変更されていくのを傍観するしかなくなっているのだ。この現状に、私は大いなる危機感を持っている。 柔道がスポーツとして国際化を目指した時点から、講道館柔道の伝統は、国際舞台においては「本質」などとは主張できなくなってしまった。 柔道をスポーツとして時点で、崩しやつくり・かけは一戦法にすぎなくなったのである。それが嫌ならば、剣道のように国際化・スポーツ化を拒絶すれば良かっただけのことだ。 それゆえルール会議などでは、本質論によって外国勢を折伏しようとすることは日本有利の状況を作り出す戦略にしか見られなくなり、反発を受け、むしろ変更論を促進 してしまっている。私は、全柔連は「柔道の源流である日本のものも含めて多様なJUDOが共存しうるように、道衣の形状は変更してはならない」と唱えるべきだと思う。道衣変更は スポーツとしてのJUDOの多様性を損なうから拒否する、という理屈である。 この立場からすれば、「柔道本質論」は日本の優位を保つためにJUDOの多様性を抑制するものである。 実効性ある立場を築けないのは、ナショナリズムのせいだというのが、やはり私の結論だ。 柔道界には、書生の本質論ではなく、大人の外交ができる人材はいないものであろうか。 (追記)葉書の内容につきこの場で公開したのは、私文書であるから不当という考え方があるかもしれない。しかしそれは元学柔連快調という公人名で、私の柔道にかんする理解が足りない旨を放送局に伝えるものであるから、ある種の公性を有するとここでは考えている。 |
| (2007年6月12日) 最近、自分が武道に専念していることについて質問を受けたので、考えを述べておきたい。 ひとつは、そもそもなぜ社会科学者が武道なぞにかかわっているのか、と聞かれたことである。私の答えは簡単で、私は日本の伝統的な価値観に関心を持っているが、それは仏教や神道などの宗教だけでなく武士道にも集約されているという(藤原正彦氏的な)考え方に共感しているからである。 現代では武士道は形は変えてはいるものの武道に引き継がれているだろうから、それを実践してみているわけだ。これについては逆に私が質問してみたいのだが、なぜ武士道うんぬんを論じる方が、武道で汗を流そうとしないのだろうか?武士道が武道にかわり、それが現在の消費社会の中で時々刻々と変形しつつあることは、この社会を論じるための格好の素材だと思うのだが。武道にかかわらず武士道に論究するのは、机の上の話でしかないと感じる。 ふたつには、この三月から東大の柔道部長を拝命し就任させていただいているが、それならば『GONKAKU』の連載で全日本選手権での「井上(康生の組み手)は知的にレベルが低かった」うんぬんと発言するのはいかがなものか、という問いかけである。 この部分だけ読めば井上選手を侮辱する発言ととれるだろうし、一大学の部長という柔道界での責務ある立場からすれば不穏当ということになるかもしれない。ただ私にとっては、現代社会を分析するという学者としての活動の一環として武道をみずから実践しているということが、あくまで根本にある。柔道愛好家であり柔道部長である以前に、私は社会科学者なのだ。 その立場からすれば、何事か(たとえばキリスト教)を分析するというのは、特定のキリスト教会が何を主張しているのかとはまったく別に、その主張の真意を探ることだったりする。価値中立的に対象を分析するということは、それを対象とされた組織が不快に思おうと、学者としての使命である。 それでいくと、社会的な事象としての柔道にについては、これまで価値中立的な分析がなされてこなかった、というのが実態ではなかろうか。講道館という組織が主張することをなぞるのが柔道論とされるのが通例となっているが、それは知的な営為とはいえない。社会科学にも水準というものがあるが、大半の柔道論はその水準に達していないのである。 それともうひとつ、ここでの私の発言は柔道界に向けてのものではなく、いわゆる格闘技にかかわる読者に向けてのものだということがある。柔道界の内部での発言ならばその業界内でそれなりに気を配って発言しなければならないかもしれないが、『GONKAKU』は柔道はやったことがあっても現在は専門ではない人、そもそもかかわったことがない人を読者としている。その読者と思われる人々と共有するであろう前提のもとで、話をしているわけだ。 この発言の前にも、私は「柔道界には先輩に何も考えずに従い、身体能力が高いものを偉いとする風潮があるが、格闘技畑の人間から見ると、そうした知性の無さが柔道のいやなところでもある」と言っている。身体能力が高くて強い人間に頭を使って対抗しようとするのが武道であるとすれば、我々凡人が持ちようのない身体能力の高さの表れである内股だけを連発するという組み手は、知的ではないことになる。 さらにその前でも述べていることだが、身体能力として明らかに劣る庄司選手が背中を向けて組み手を取らせない戦法は、格闘技の発想からすればいかにも知的刺激に満ちていた。武道としての柔道には、そうした戦法を抑圧するのでなく、知的な妙味としてとらえるだけの鷹揚さを求めたい。工夫も封じられるならば、身体能力に劣る人たちは、ますます柔道から離れていってしまうだろう。 |
| (2006年11月28日) 読売新聞に、とある書評が出た。 私は原著を読んでいないのでそれについては論じない(ネットで参照できないからで、議論は別の機会に譲る)。だが、この書評にかんしては、ひとこと言っておかねばならないと感じる。何割か私の景観論に対する当てつけだと思われるが、それだけではない。 http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20061120bk02.htm 世の中には、愚論というものがある。およそ議論するために必要な水準の知識も持たないのに、何ごとかを鼻高々に論じるような文章だ。 この文章には、日本の景観をここまで醜悪にしたのが建築家たちやその主張に乗せられる人々であることがよく示されている。ここでは、「景観」が「日本橋」と「首都高」に置き換えられている。この段階で、すでに景観論としてはペケである。なぜなら、それらは建造物であって景観ではないからだ。景観とは、建築物や自然環境などが生み出す一種の「文脈」である。 建築を論じるにすぎない人が景観を論じた気になり、どの建築物が美しいかといった下らない主張をしている。ここには、「文脈」として景観を論じるという初歩中の初歩の知識も見あたらない。私としては、首都高と日本橋がともども美しいとされても構わない。問題は、美しいものが重なる文脈が醜悪なものになっている、ということなのだ。美味しい松茸ごはんに美味しいショートケーキを混ぜればどんな味になるものだろうか。日本の景観を破壊したのは建築物そのものが醜悪なことではない。「文脈」という感覚が麻痺していることなのだ。首都高と日本橋が重なって見える光景が、どう美しいのか、 書評者には論じる義務があると思うが、いかがだろうか。深刻ぶってヨイショ記事を書いた責任はとっていただきたいものだ。 また建築家には、美しい作品に堂々と電線や電柱がかぶさる正面写真を撮る人がいるが、どういう神経なのだろう。絵画の額のガラスにいたずら書きされて平気な画家は多くはあるまい。 「美意識のおしつけ」といった話はこれまでにもマンション業者が散々振り回したもので、いまどき文章にするという神経には驚くべきものがある。しかもそうした業者は国立マンション訴訟の明和地所に至るまで、景観を守ろうとして提訴した地元住民に連戦連勝してきたのだ。ここに描かれるような被害者意識は不気味である。 自己中心的な建築家や利己的なマンション業者、そして「文脈」感覚の麻痺している書評家が一緒になって、日本の景観を末期的にまで破壊している。それに対しそれこそ一石を投じたにすぎない景観法が現れただけで、被害者意識まるだしで愚論を展開しているのだ。 |
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(2005年5月28日) あさって朝日に掲載される書評で、訳書の監訳者に対して批判を書いたので、ありうべき反論にあらかじめ応えておく。 評したのはアミタイ・エツィオーニ『ネクスト』、小林正弥監訳、公共哲学センター訳、麗澤大学出版会、である。 私は書評の末尾に「監訳者解説はアメリカの政治潮流も踏まえて有益だが、字句表記などで自己宣伝の気配が あり、戸惑う。」と述べたのだ。朝日の担当記者からも「何のことですか」と尋ねられたので、真意を正確に書いておきたい。 @エツィオーニのコミュニタリアンとしての主著は前に翻訳された永安幸正監訳『新しい黄金律』(同社)であるが、解説ではこの訳書の書名を何度か挙げられており、しかもなぜか『新黄金律』という表記も同時に用いている。当然、読者としては別の本か、もしくは『新黄金律』を単独の論文と考えるだろう。フクヤマの『歴史の終わり』は、その前に同名で「?」のついた論文があった。別のものと考えるのは、『新黄金律』に「1996年に原著刊行」と付記されているからだ。『新しい黄金律』の原著は、1997年に出版されており、その旨も解説で述べられている。 Aところが驚くなかれこの二つの名称は、同じ書物を指しているのである(それが分かったのは、出版社に問い合わせたからだ)。前の翻訳の書名が気に入らないということはありうるし、訳し直して悪いわけではない。けれどもそれならそれで「書名の訳がよくないから変えた」と記するのが読者に対する礼儀である。それにしても、原著の刊行年次が違うとはどうしたことだろうか。 Bその上で解説を読み進むと、妙な雰囲気もある。「エツィオーニも、監訳者の提案した『地球的公共哲学』や『地球的コミュニタリアニズム』と極めて類似した観念を提示しており・・」などとあるからだ。自説を述べたいのだな、と苦笑する。 Cクリントンからブッシュに至る政治姿勢の変化などはよく書けているのに、Bの自説の部分が浮いているのが何故かといぶかしく思って読み進んだら、最後を見て驚いた。「解説は吉永が書いた原稿に、小林が加筆・修正を行って作成された」とある。それならば共著ではないか。いくら断っているといっても、解説には「小林」の名前しかクレジットされていない。 コミュニタリアンとはコミュニティの道徳を重視する立場であるが、読書界も一個のコミュニティであろう。共著を単独名にしたり、訳書の書名を書き換えて注釈をつけないのが「地球的公共哲学」なのであろうか。たんなるエゴイズムではないかと思うのだが。 |
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(2005年5月31日) 小林氏からメールで反論を頂いた。主な内容は ・『新しい黄金律』の出版年次には資料に二つのデータがあり、それで混乱した。 ・解説は、小林氏が他で書いた文章を吉永氏が整理し、さらに吉永氏が『ネクスト』を要約し、それに小林氏がオリジナルな文章を付け加えたものである。共著と表記しようとしたところ、吉永氏が単著としてほしい旨申し出られた。 ・反テロについてエツィオーニを批判する感想を記すのは、学者としての務めであると考えた。 ・松原が「エゴイズム」と評したのは、松原と小林氏の思想的立場の相違を示すものであり、「地球的公共哲学」に対する反感がコミュニタリアニズム的な精神に対して目を曇らせているからである。 というものである。 それに対する私の返信をここに掲載しておきたい。 ***************** 小林正弥様 |
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◇バカさゆえ・・・(2004年7月6日) 景気が回復している。これにかんする私の判断は中日新聞に書いたが、要するに Aストックについて:昨年初夏来の株価上昇のせいで大銀行が自己資本比率をクリアし、さらに余裕を持てるようになり、不良債権処理を進めている。これについてはりそなへの公的資金投入が効を奏した というものだ。私の年来の主張は、 ・土地神話の崩壊以降、資産デフレが起きたために自己資本比率を維持できなくなった銀行が貸し剥がしを行っていた ・将来収益に不安があるとき、銀行は金融緩和の下では安全資産である貨幣や国債を保有しようとする。 ・金利を下げようと、インフレにしようと、それで貸し出しが増えたりしない ・土地・労働・資本についての制度の急激な解体により不安が広まり、消費は「負け組」の間で落ち込んでおり、とくに消費性向が下がっている ということだったので、フローの需要が輸出で増えたことや、実物投資の回復が金融緩和ではなく輸出財生産をきっかけとして生じたことなどと整合的だと思っている。土地神話も一種の(思考の)制度であるから、広く言えば制度が解体したために生じたのが今回の不況だったというわけだ。 ところで@Aという次第だから、当然、構造改革と景気回復は何の関係もない。ドル買い介入や公的資金投入は財政支出削減という構造改革の精神には反しているからだ。 だがそれにも増して傑作なのが、リフレ派の理屈が総崩れになってしまったことだ。実物投資が増えないのも、消費が回復しないのも、ともにデフレが原因だと 彼らは言っていたのだが、景気が回復しているここ数ヶ月、消費者物価指数はさらに下落している。デフレのままで景気が回復しちゃまずいでしょうが。 それでも言い訳しようとすれば、「デフレにもかかわらず景気がよくなるほど輸出が増えた」「自分たちがインフレになると騒いだかにインフレ期待が形成された」とでも言うしかなくなる。まあ、どんな愚論が出てくるのか、見物ではある。とはいえ所詮は適当な理屈を並べてエバりたいだけ連中、主張に思想を賭けて論じていただけではないだけに、いつのまにか「そんな話はありうべき論理として述べただけ、仮説を立てただけ」などと言って、リフレ騒動などなかったことにするに違いない。私としては、連中がまたしゃしゃり出てきたときに備えて、どれだけ騒いだかの証拠物件を残しておこうかな。 ところで三馬鹿やその取り巻きに代表されるリフレ派の連中が、自分たちだけが経済学を理解していると鼻息を荒げていたのも、今となっては懐かしいエピソードではある。『エコノミスト・ミシュラン』の冒頭を読み返すと、こんなことが書いてある。 ・・・間違っても経済書を読んで経済学の勉強の代わりにしよう、などと思ってはいけません。やはりまずは定評ある優れた教科書にもとづいた勉強をしっかりとすべきです。そうした教科書としてはスティグリッツの『経済学』をお勧めいたします。・・・ だってさ。これにはびっくり。何が面白いって、先生方はスティグリッツの教科書をお勧めなんだが、当のスティグリッツは、専門書で先生方のリフレ論を批判しているの だから。ということは、教科書の次を読めてないってことですわな。景気がよくなった過程が自説と違っていたというのは、まあ大目にみてやってもよい。だが自説を批判しているとも知らずに、その著者の別の本を推薦するというとんちんかんは、普通のおツムでできることではない。 スティグリッツが昨年出版した本が今年東京大学出版会で訳出されているのだ。内藤純一他訳『新しい金融論−信用と情報の経済学−』である。この191ページを引用しよう。
どうだろう、「金融緩和しても貸し出ししない」のだから、インフレ・ターゲットにしようと何だろうとリフレなど起きるはずがない、と言うのだ。すでにリフレ政策は、スティグリッツによって梯子をはずされていたの である。それも知らずにスティグリッツを読めとご推薦なさるのは、なかなか念の入った珍芸、いや自爆芸というしかない。 さてではスティグリッツは、なぜ金融緩和を無効とみなすのか。 銀行は、企業からの収益が悲観に思えたり、資産デフレで自己資本比率を達成できないときには貸し渋りを行い、金融が緩和されても安全資産である国債を買う、という。それが「新しい金融論」 からどう導かれるかというと、要するに現代の「金融」では、貨幣ではなく「信用」こそが中心になっているからだ。MMFやCMAなどの貯蓄性金融商品が現れ、企業も貸し出しを行い、クレジット・カードが普及しつつある現在、経済は貨幣経済ではなく信用経済と化しつつある、というのである。 貨幣は無差別に流通するが、信用は個別に信用力が評価される。私が広く「信頼」と言ったのも、金融に即して言えばこの信用である。企業に対する銀行の信頼が損なわれ、そして銀行や企業が倒産するリスクを孕むと、貸し出し金利には信用力を反映してリスク・プレミアムが上乗せされるか、時には信用割り当てが行われる。貸し渋りはここから起きる、というのだ。とくにそれは、企業について情報を持っていない金融機関について顕著であるという。ここには、「情報の非対称性」という年来の主張も援用されているのである。 リフレ派にしても貨幣経済における短期市場金利や長期国債金利について、名目値か実質値かなどと口から泡を飛ばして言い募ってきたのだが、そもそもそれは「古い金融論」であり、それでは不況を論じることができない、というの がスティグリッツの立場だ。 ちなみに1990年代以降の日本の経済と金融については、大蔵省で最前線にあって金融危機に対処してこられた本書の訳者である内藤氏が『戦略的金融システムの創造』(中央公論新社)でスティグリッツ理論を応用して論じておられる。私としては、資産デフレがファンダメンタルな背景を持つかに書かれる部分には少々疑問があるが、それでもここ十年で書かれた本の中で、唯一すっきりとした説明を与えてくれたと思う。それで、朝日の書評で紹介させていただくこととした。 いっときはリフレ派の肩を持っていた山形浩生君なんかは、朝日の書評委員会では同席して酒を飲んでいるが、最近では同じく委員である青木昌彦さんの著書を持ってきてサインをもらったりしている。青木さんは『ミシュラン』ではボロクソ書かれていたのだから、さすが機を見るに敏ではあります。まあ、ボロ船から逃げ出すのは、早いに越したことはない。バカさゆえにイケイケだった 連中がどう落とし前つけるのか、楽しみではありますな。 追記。そういえば先日の朝日書評で、山形君はこんなことを書いていた。ケインズの有名な文句の引用だ。 ・・・ケインズは「知的影響から自由なつもりの実務屋は、たいがいどっかのトンデモ経済学者の奴隷だ」と述べたけど・・・ 山形君は専門外のヒトだから知らないんだろうけど、ここでケインズが言っている「トンデモ経済学者」って、リフレ派のことなんだよね。リフレ派応援しているヒトがこんなこと引用していいのかしら? さらに追記。 ケインズが批判しているのが「リフレ派」だという言い方がなぜかうまく理解されないみたいなので、注をつけると、ケインズが批判したのは、もちろん「古典派」である。今で言う新古典派である。その中の重要な人物にフィッシャーがいる。ケインズは、経済学説史に通じている人なら誰でも知っているように、フィッシャーに由来する貸し付け資金説や異時点間の資金配分論、貨幣数量説を批判して、流動性選好説や消費(貯蓄)関数論、有効需要説を打ち出した。 ケインズは「一般理論」に先立つ「貨幣論」では貨幣数量説を支持していたのだが、「一般理論」では完全にそれまでの立場を放棄して、貨幣数量説の批判を展開したのである。ケインズの死後、新古典派がIS=LMという枠組みでケインズの立場と貨幣数量説が両立するような解釈(総需要・総供給論)を出したが、それはケインズ自身とは関係ないことだし、IS=LMという枠組みで一般理論を書き直したヒックスも、のちにIS=LMはケインズ自身の主張の核心をはずしていた、と回顧している。つまり、ケインズが「一般理論」で批判したのが貨幣数量説であった。 そしてフィッシャーがリフレ派というのは、何も私がそう言っているのではなく、リフレ派の皆さんの主張なのである。 |
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◇「バカ(略)」につけるクスリ 『エコノミスト ミシュラン』なる本について下のように(2004.1.17、「バカの壁」について)書いたところ、出版社の担当編集者である落合美砂なるヒトからメールがきた。 無断で引用させていただく。 ありきたりの挨拶のあと、 「このたび、松原さんのホームページで拙書に関してご批判を頂きました。それを拝見し、当社のWEBページにて、著者の野口氏、田中氏、若田部氏による返答を掲載しました。 拙著が松原さんのご主張を読者に誤解させるような表現をしたことに関する謝罪と、しかし反論したい部分もあり、こうした運びになりました。 なお、以下のアドレスで、掲載しております。 http://www.ohtabooks.com/view/rensai_show.cgi?parent=2&index=0 ご多忙だとは思いますが、ご一読いただければ幸いです。 もし、反論、ご意見などがあれば、遠慮なくおっしゃってください。 一部、拙著のなかで読者の誤解を招きかねない表現があったことは、お詫びいたします。」 だって。 すっごいねえ。 ずうずうしいというか、抜け目ないというか。「反論、ご意見などがあれば、遠慮なくおっしゃってください」だって?一見すると丁寧めかしたメールなんだが、ここで言ってることは、要するに「ウチの社にタダ原稿ちょうだい」ってことでしょ?この出版不況の折り、出版社が生き延びて行くには、編集さんもこれくらい面の皮が厚くないといかんの ですね。見上げたド根性ではある。 で、「一部、拙著のなかで読者の誤解を招きかねない表現があったことは、お詫びいたします」なんだってさ。「読者の誤解を招きかねない表現」があったから、私信のメールを出して「お詫び」するから許してね、って言ってるわけだ、このヒト。 ここで、拙著について『エコノミスト ミシュラン』がやったことをおさらいしておこう。(以下、「『バカの壁』三人組」は、「バカ(略)」と略記することにする。) 「バカ(略)」は対談部で、「買いたいものがないという、需要飽和派の倒錯した論理」という見出しのもと、3ページにわたって吉川洋氏の説を批判する。その途中で、「需要が飽和しているという説は意外に人気があって、買いたいものがないという議論」(若田部)については「松原隆一郎もその立場」(野口)で、「処方箋が、消費不況だから何もしないほうがいい、社会不安だからどうもようもないというような無責任なことを言っている」(田中) という発言が出てくる。 私の『長期不況論』における立論は、急激にすぎる構造改革(制度破壊のこと)が90年代後半、特に97年あたりからの消費不況の原因となった、というものだ。したがって、80年代から存在している「需要が飽和しているという説」 については、もちろん否定している。つまり事実認識において拙著は、「需要飽和派」と対立しているのである。さらにいうと、吉川氏は、構造改革を通じて需要を喚起しよう、という立場である。対するに私は、構造改革が消費停滞を招いたという立場。ということは、対策の点で も吉川氏を批判したのが拙著ということになる。つまり、事実認識でも対策でも吉川説を批判するのが、拙著なのだ。 ちなみに私の吉川説批判は、「ずさんな需要創出論」という見出しでp65から3ページにわたっている。私の主張を吉川説と読み違えて「同じ立場」と断言するというのは、「バカ(略)」にしかできない至難の業であろう。 たとえて言うと、こんなことだ。私はソバ屋を営んでいるとしよう。フレンチなんて好きじゃないから、さっぱりしたやつがいい。どうせやるなら二八で小麦粉を混ぜるのでなく、100% ソバ粉だけで打つ「生粉打ち」の店 、それも産地にこだわってる店という設定がいいかな。そこにミシュラン執筆者の「バカ(略)」が調査にやってくるわけだ。ところがこのセンセイたち、地図が読めないもので、 てんで違う場所に行ってしまう。で、フレンチレストランを発見したとしましょう。 こちらも野菜なんかに気を配って、有機野菜の産地を明記したりしている店。ここで「バカ(略)」は、「なんか、こんな店じゃなかったっけ?」「まあいいんじゃない?編集さんだってテキトーだし」なんてんで、そのフレンチを食べてしまう。で、「ミシュラン」に書くわけだ。「 産地にこだわるべきだという説は意外に人気があって、松原隆一郎もその立場なんだが、ソバ屋でソースを使うというのは無責任」とかね。 他の店と取り違えてボロクソに批判されたら、当然ながらソバ屋は抗議するだろう。そしたら編集さんがメールを寄越すのだ。「一部、拙著のなかで読者の誤解を招きかねない表現があったことは、お詫びいたします」なんてね。でも、元の本はそのまま。「バカ(略)」が太田出版のウェブで「謝罪」しているって 落合女史は言ってるけど、どこにも「ゴメン」とか書いてなかったぞ。「需要飽和派」だとか「倒錯した論理」だとか何の関係もない私もひとくくりにしといてね。まあ、売れればなんでもいいんだろう な。さすが落合サン、『完全自殺マニュアル』を編集して、自殺者続出でもどこ吹く風の敏腕編集者だけあるわな。 他人に迷惑かけて本を売るのはお手のものなわけだ。まあ今回は、被害妄想に走った著者とトラブらなければいいよね、ひとごとだけど。 本家の「ミシェラン」が、他店と取り違える大チョンボやらかしたら、どんな謝罪をするだろうか?私信やウェブでお茶を濁してすませるだろうか。この応対を見ても、ハナっからまともな評価本を作る気なんかなかったことがよーくわかる。どだいこの本は、体裁だけは論争本のような作りにしてはあるものの、その実はエラーイ経済学者が「経済学を知らないエコノミスト&読めば害になる『トンデモ』ビジネス書を一刀両断」(帯より)してみせることで、読者の溜飲を下げさせようという あさましい魂胆で作られているだけの代物なのだ。 それでいてエラーイ先生は、誰が誰かも識別できないので、赤の他人を取り違えて一刀両断。大ボケかましたり害をまき散らしたりしてるのは自分たちなのに、蛙の面にな んとかなのである。 「そうじゃない」、と「バカ(略)」や編集・落合は食い下がるのかもしれない。だがそれならば、本家のミシュランはこんな場合にどう謝罪するのか、真面目に想像してみよ。ちなみに、似た例がある。著名な美術評論家であるW氏が、読売新聞の文化面に寄稿した。その内容は大略、次のようなものであった。・・写真というのは、素晴らしい。右の写真を見よ。空からは米軍の戦闘機がおそってくる。地上では、ベトナム兵が逃げまどっている。戦争の悲惨と米国の傲慢ぶりはこの一枚で一目瞭然だ、と。ところがこの記事、W先生の大チョンボであった。編集部だって信じられなかっただろう。何しろその世界の大家が、 自分の写真論を賭して断言されたことであるから。そして数日後、「お詫び」広告が紙面を飾ったのであった。読売文化部は言う。「お詫び。先日の記事中、戦闘機はベトナムのもので、逃げまどっているのは米兵でした」、と。読売は、しっかりと紙面で「お詫び」したのだよ。さぞカッコ悪かっただろうけどね (ちなみにこの話、私の記憶にもとづいている。というのも大読売、この記事をウェブの過去ログから抹消しているのだ。さすがインフレ・ターゲットのパトロン、芸が細かいです)。 それとは対照的に、「バカ(略)」は、太田出版のウェブで、こんなことを言っている。「・・本書を批評していただいたことを感謝したい。われわれはかねてから、日本の経済論議の混迷の原因の一つは、各論者の見解がこれだけ鋭く対立していながら、明示的な論争が行われず、・・・・そしてそのことが、エコノミストたちの論議の信憑性に対する人々の根強い疑念の大きな原因となっていると考えてきた。」 どうやら、私とのやりとりを論争だと思わせたがっているらしい。だが、こんなものを論争と称したら、論争している人に申し訳ない。料理の評価にたとえれば、他の店に迷い込んじゃって私の店に ついて訳の分からないゴタク並べるセンセイたちと、論争なんかしようがないでしょ?そんな識字力もない連中に、論争以前の教育をするほど私はヒマではないのだ。センセイたち、論争がないから「エコノミストたちの論議の信憑性に対する人々の根強い疑念」が起きているなんて書いてるが、エコノミストの信頼が低下しているのは、そんな高尚な理由からじゃない。他店と間違って人の店の悪口を書き、平然としている「バカ(略)」が跋扈しているから、エコノミストが信頼を失ったのにすぎないのである。 ところで私は前回、「この本には、他にも学生のような人が長い文で私の経済論にかんして揶揄しているが、まあ私に指導義務があるわけでもなし、面倒なので放置しておく。若い身空で「バカの壁」 建てなくてもいいのにねぇ。」と書いた。ここで「学生のような」と私が形容したのは、飯田泰之というセンセイである。大学の「専任講師」とかの肩書きがついているから、 何かのセンセイをしているらしいことは私も認識している。 にもかかわらず、学生のレポートみたいなこと書くから、「学生みたい」と評したのである。私としては、まだ若い人であるようだし、自力で考えていただこうと、「バカの壁」 を建てなさるな、とのみご注意申し上げた。書評するときにはちゃんと本を読んでからにしなさいね、ということだ。「バカ(略)につけるクスリ」を差し上げたつもりであったのだ。 本来ならば、年輩者である「バカ(略)」や、サル回し役の落合某といった人々が、若手の書いた文をチェックすべきであろう。ところがここでまた「バカ(略)」が、鬼の首でも取ったかのようにはしゃいでいる。「(飯田氏は)・・数多くの学術論文を公表しているだけでなく、経済学の論理的思考に関する啓蒙書・・・の著者としても知られ、それらによって高い評価を得ている研究者である。そのような研究者に対して、「学生のような人」とか「私に指導義務があるわけでもなし」といった、明らかに個人を侮辱しようという意図を含んだ表現を軽はずみに用いることの重大さを、松原氏は十分に考えてみるべきであろう」なんだそうな。 ふーん。 では尋ねたい。まずはこの人が拙著を評した文の見出しにある、「社会学者による”誤解だらけの”経済学批判」というのは、いったい何なのだろか。センセイは、私に対して「著者が主流派経済学の功績についてどの程度の理解を得ているのかはわからない。もし、著者が本当に以上にふれたような主流派経済学の主要な結論を知らないのならば、虚心坦懐にミクロ経済学・マクロ経済学の中級テキストを読むことを薦めたい」と言っている。私は大学で経済学を教えているのであるが、こうした文を読んだ 学生は、「松原は中級のテキストも読んでいないらしい、経済学者は詐称で、社会学者にすぎないらしい」、と思うだろう。なにしろ「高い評価を得ている研究者」であるらしいから。これだけ「個人を侮辱しようという意図」まるだしの文も珍しいんじゃない? もちろんそれでも、述べていることが的確ならば、私も批判に甘んじなければならないだろう。講義する資格を疑われても仕方ないところだ。ではこのセンセイは、拙著にかんしてどう理解しているのか。散漫な文なので「バカ(略)」の言い換えを借りると、この センセイが述べているのは「(松原が述べている貯蓄率上昇現象)は、異時点間の最適化を考慮に入れた新古典派の標準的な消費・貯蓄理論から得られる、きわめてありきたりの結論であって、「主流派経済学では説明できない現象」ではまったくない。事実、そうした現象に焦点を当てた研究は数多く存在する(たとえば、岡田敏裕・鎌田康一郎「低成長期待と消費者行動:Zeldes-Carroll理論によるわが国消費・貯蓄行動の分析」日本銀行ワーキングペーパーシリーズ、2004年1月)」ということである。こうした批判を読めば、当然「エコノミスト ミシュラン」の読者は、私の本の内容を次のようなものだと考えるだろう。 1.松原は、需要不足による不況や、貯蓄率上昇現象は、主流派経済学では説明できない主張している。 2.松原は、需要不足による不況や、貯蓄率上昇現象にかんし、「異時点間の最適化を考慮に入れた新古典派の標準的な消費・貯蓄理論から得られる、きわめてありきたりの結論」について知らない。当然、そうした結論を導く論文の存在についても知らない。 1.から行こう。私は、内閣府の構造改革論が、市場が長期的に均衡することを前提に立てられていると理解している。長期的には価格が伸縮的であるから市場が均衡するというのは、主流派経済学の常識 でもある。とまあこう述べたのを見て、飯田センセイは、大変だ、松原は「新古典派には需要不足による不況の視点がない」と考えている、と早とちりしたらしい。あのねえ、私は、「新古典派 の理論では、長期には市場が均衡し、短期にも需要不足が生じうる」という話をしてるの。 p33からの3ベージなどで長々とそう書いてあるのに、分からないのかなあ。長期と短期って概念があるの、知らない?初級の教科書にもそう書いてあるから、ちゃんとお勉強して下さいね。 2.について。飯田センセイの文やそれにつられて「バカ(略)」が上記のような論文を引用するところから、読者は当然私がそういった議論や文献について知らないと思われるであろう。ところが驚くなかれ、私は拙著で貯蓄率上昇現象について述べた後、長々とこう書いているのである。
ここで私は、需要不足による不況や貯蓄率上昇現象 を、土居氏の論文が恒常所得仮説や予備的貯蓄といった概念から説明し、その説明をさらに石原氏の論文が異時点間の選択という観点から補強していることを紹介しているのだ。つまり私の立論は、短期的 な需要不足は新古典派での理屈で説明できるという認識から始まっているのである。 ちなみに、石原論文につき、全7節のうち、該当箇所を紹介すると、次のようになる。「第1節は導入部として,恒常所得仮説が提唱された背景と,Friedman (1956)による恒常所得仮説の概略を紹介し,Hall (1978)以前と以後のアプローチの違いについて簡単に指摘している. 第2節では,Flavin (1981)に従って,恒常所得の適切な定義を,動学的な効用最大化を行う家計の,時間を通じた予算制約式に基づいて行う.この定義が,元々Hicks (1946)の議論に基づいていること,また,この定義を労働所得や利子率に不確実性がある場合に拡張する場合の注意点についても議論する.さらに,恒常所得仮説の下では,消費の時系列がランダム・ウォークに従うことも示される. (以下略)」 ところで、私の勤務する大学の教養学部には、「基礎演習」という授業があり、そこで私たち教官は、レポートや簡単な論文の書き方を講義している。で、最初に伝えるのは、次のようなことだ。 「まず、説明したい現象を述べなさい。次に、それを説明する既存の説を列挙しなさい。それから自説を展開しなさい。そののちに、自説が既存の説よりももっともらしい説明になっていることを論じなさい」。こんなこと、大学で教えるほどのことではない常識だ、と従来は考えられていたのだが、あまりにも学生の学力が落ちたため、教養学部で必修の演習科目となったのだ。十年ほど前のことである。 センセイはその単位をちゃんともらえたのかなあ。 センセイ方、分かりますか?ある現象について、説明する理屈が複数あるというのは、当たり前のことなのよ。そしてその説明の中でもっともらしいものが自説であることを論証するのが、論文というものなのだ。たとえば天体の運行については、地動説と同様に天動説でも大半説明がつくのです。そ うした中で地動説の優位を唱えようとするから、論文を書く意味があるのだ。そこで私は、 「需要不足や97年に生じた貯蓄率の上昇などという現象」を持ち出し、それを説明する既存の理屈として土居説+石原説という新古典派理論を挙げ、対する自説として、( 既述したのですべては述べないが)不安を制度崩壊によって異時点間の選択ができなくなった状態と解釈するものを掲げたのである。 ところがセンセイは、私が既存の(新古典派)説を批判しているのを見て動転し、既存の説では現象の正当化そのものができなくなると私が主張していると 思いこんでしまった。それは、文章の論理構成というものがどうあるべきなのかを理解していないから、そして私が何を書いているのかを読めていないからだ。もっと言うと、ご自分のよって立つ新古典派の理論が批判されたから、逆上したのであろう。早とちりするのはセンセイの勝手だが、私が「新古典派の標準的な消費・貯蓄理論から得られる、きわめてありきたりの結論」も知らない、なんて活字にするのは、自分の読解力 の貧困を棚に上げて、ずいぶんな物言いだよね。 せっかくだから、ふたたびたとえ話をしておこう。私は、ソバ屋を営んでいる。これまでは二八のソバが主流であったし、老舗では職人にそう打つよう指導している。実際、二八の方がツルツルしているし、それを ソバの醍醐味だと考えることにも一理はある。しかし私は、ソバの実の香りを味わうことこそがせいろソバの本質だとみなしたい。100%のソバ粉を使う方が、ソバの香りも立つし、ソバらしいと考えるからだ。 そこで私は、二八のソバと生粉打ちソバの双方をメニューに載せ、ただし後者に「お薦め」と記すことにした。そこにミシュランから、また若手のセンセイがやって くる。このセンセイは、エラソーに評論するわりには、老舗にしか行ったことがない。それで、 生粉打ちのソバを食べ、メニューには二八ソバも記されていることを見落として、こんな風に書くのだ。「パスタ屋による、誤解だらけのソバ批判」「松原のソバは、 なんかぼそぼそしている。パスタ屋の出身なのだろう、ツルツルしているというのがそばの醍醐味であることを知らない。虚心坦懐に、老舗ソバ屋で修行することを薦めたい」、と。つまり自分が不勉強で早とちりしているだけなのに、エラソーに私の店の営業妨害をするのである。 ここまで書けば、なぜ私がセンセイを「学生のような」と形容したかはお分かりいただけるだろう(私はここまでなかながと述べなくても、まともなヒトなら簡単に理解してもらえると考えていたが、それは「バカ(略)」を甘く見ていたからであった)。第一に、飯田センセイは、 学生が修得すべき論文作法について理解していない。第二に、センセイは私の本を「啓蒙書」と呼んでいるが、その啓蒙書 の内容も把握できていない。第三に、私に「中級テキスト」を読め、というのであるから、私のみならず私が紹介している土居氏や石原氏も、中級テキストを理解していないことになる。これはたんなる中傷を越え、 我々の職業に対する妨害である。自分が啓蒙書も読めもしないのを棚に上げて同業者の資格問題にかかわるようなことを軽々に書くのだから、どこかの大学で学生相手に講義したり、なにやら「論理的思考」の本(!)を書いたりしているとしても、この ヒトはしょせんは学生に毛が生えたか生えていないかといったお方なんだろうと忖度した次第なのである。 他にも、センセイ方は教科書というのも一個の制度にすぎないことすら分かっていないなど、笑わせてくれる論点が多々ある。「バカ(略)」 は、私の説に対して、「「制度を貨幣よりも信頼しうるものにすべき」といった、何か深い意味がありそうだが実は無内容な論理」と述べている。そりゃそうだろうな。この連中は、学説という制度を改革するには、ちゃんと既説を挙げ、自説を対置し、漸進的に改革すべきだということをまったく理解できていないのだから。そんな手続きを踏むことは、「バカ(略)」 の目には、「無内容」と見えているのである。一方、私は、新古典派の教科書という制度にせよ、「エコノミスト ミシュラン」のような内実がバレたら世間から信頼をなくすことになるので、こういった事態を改革すべきだと言っているのである。無内容なのは「バカ(略)」著の「エコノミスト ミシュラン」なのだが、繰り返しても詮無いので、もうやめることにしよう。 最後にもう一度言うが、私は決して論争しようなどとはしていない。論争するだけの識字力もない「バカ(略)」 と、本さえ売れれば誰が迷惑しようとお構いなしの編集者が牛耳っているのがエコノミスト業界であることを報告しているだけなのだ。そして「エコノミスト ミシュラン」が多く売れれば売れるほど、 その証拠が世に残ることを、読者には知らせておきたいのである。 そういえば私は、景気対策を提案しない無責任者だと批判されていたな。ならば最後に、提起しておこう。この不況には、経済政策の混乱が引き起こした面がある。そして政策の混乱は、エコノミストの学力が、論争できる水準に達していないことに由来している。学者の学力崩壊である。そこで、提案。政策提起者には、せめて啓蒙書を、小学生ばりに声を出して読ませましょう。 その啓蒙書としては、養老孟司著『バカの壁』と、参考文献『エコノミスト ミシュラン』をお薦めしましょう。なんちゃって。 嗚呼、やんぬるかな。「バカの壁」はかくも高く、険しいのである。 |
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◇「バカの壁」について(2004.1.17) 『エコノミスト ミシュラン』なる本がある。編集者が、お前のことが書かれている、と言って送ってくれたので、目を通した。田中・野口・若田部というリフレ派の連中による経済書 評価本だ。といっても自説に関係するものは仲間ぼめして、他はけなすということなので、評価でもなんでもない。たんに陣地を張るだけのしろものだ。 私についてはボロクソ書いてあるのだが、その内容が笑える。こんなこと印刷して、証拠残していいのかな〜とにんまりしてしまう。 「需要が飽和しているという説は意外に人気があって、買いたいものがないという議論」(若田部)については「松原隆一郎もその立場」(野口)で、「処方箋が、消費不況だから何もしないほうがいい、社会不安だからどうもようもないというような無責任なことを言っている」(田中) のだそうだ。 噴飯ものである。 私の『長期不況論』の主張は、以下の通りである。 1.景気後退期には消費性向が上がり、回復期には下がるというのが戦後日本に限らず経済の一般的な傾向であるのに、なぜか97年から2000年、さらに2002年には逆のことが起きている。つまり、景気後退とともに消費性向が下がり、人々は貨幣保有を増や すという現象が目立っている。景気後退→消費性向下落→需給ギャップの拡大→不況の深刻化、というスパイラルだ。これを消費不況と呼びたい。 2.消費の落ち込みについては、80年代半ばから「選択的消費」が増えて欲しいものがなくなったという説があるが、それでは97年からの異変について説明がつかない。それゆえ、別の説明が必要になる。 3.消費者に対する調査によれば、消費を手控えているのは、雇用や所得、年金や増税について将来不安があるからだ。 4.私としては、この「将来不安」を、生涯所得にかんする計算ができなくなった状態と解釈したい。 5.消費関数論で一般に採用されているフリードマンの恒常所得仮説では、消費は恒常所得の関数である。そこで私は、消費不況を、恒常所得について計算できなくなったため生じた異常現象としてとらえたい。 6.所得は生産要素の対価として与えられるが、それは労働に対する賃金、土地に対する地代、資本に対する利子・利潤が源泉となっている。それらは完全な市場化が困難であるため、さまざまな制度によって守られてきた。労働については終身雇用制等、土地については容積率・都市計画法・建築基準法等、資本については護送船団方式等である。それらの制度が存在したせいで、人はおおよその生涯所得を算出できたつもりになっていた。 7.ところが構造改革は、こうした制度を一気に解体しようとしてきた。そのせいで、生涯所得が算出できなくなり、将来不安から貨幣需要が高まり、流動性の罠が生じて消費不況に陥った。 8.こうした急激な改革を行うなら、何もしない方がまだましだが、改革を行うとすれば漸進的にすべきだ。それはソ連がビッグバン方式で混乱したのに対して中国が漸進主義を採って成功したことにも符合している。そこで制度を、たんに撤廃するのではなく、資本・土地・雇用にかんして必要な形に再編すべきである。 ちなみに誰でもこう読める証拠に、最近出版された朝日選書『経済大論戦2』には、ほぼこの形で正確な要約がなされている。 さて、「需要が飽和しているという説は意外に人気があって、買いたいものがないという議論」があり、私はそれを上記のように批判するために『長期不況論』を書いた。それなのに、「松原隆一郎もその立場」というのだ。彼らの頭の中では、私の立場と、私が批判する立場がひっくりかえっている。 また、「何もしないほうがいい」、というのは、余計な構造改革に対して言っているのであり、必要な改革は粛々と行うべきだ、としている。「社会不安だからどうもようもない」というのは、インフレ・ターゲットなどの小細工ではどうしようもない、ということだ。私は、現在は制度が崩壊する中で貨幣だけが唯一信頼できるものとなっているから人々が貨幣を持とうとしていると考える。それゆえインフレを起こすのは唯一信頼している貨幣をも信頼できなくすることに等しく、自虐的政策である。政策であるからには、制度を貨幣よりも信頼しうるものにすべきだろう。私からすれば、「無責任なことを言っている」のはこの三先生である。 この三人組は、「リフレ政策に反対する連中は勉強不足もはなはだしい。」「ぼくたちは、リフレ派に反論している人たちの本をかなり読んで」いる、と鼻高々である。ところがどう読むかというと、私にかんしては正反対に理解しているわけだ。読んでいないと思いたいが、読んだというのだから、理解する力がないということなのだろう。『経済大論戦2』は三人がしばしば「世間知」とかで蔑視するジャーナリストの共著だが、こちらは正確に私の主張を理解している。ということは、この三人は、揃いも揃って知的には世間にも劣っていることになる。 もっとも、私はそうではないと思っておきたい。そうだとすれば、一つの解釈が成り立つ。養老孟司氏は『パカの壁』(新潮新書)で、「自分が知りたくないことについては、自主的に情報を遮断してしまっている。ここに壁が存在しています。これも一種の「バカの壁」です」と述べている。この三人は、一生懸命勉強した教科書に書かれていないことは知りたくないのであろう。それで「バカの壁」を建てる。「バカの壁」を隔てると、私が言っていることが逆に読めてしまうのであろう。 三人してせっせと建てた「バカの壁」が、この本である。 (付記) だがどうやら、エコノミストたちの討論を聞いていると、そうした言論のルールにはとんと無頓着で、自説を振りかざして大立ち回りする人が増えているように思える。そうした人たちは、大声で騒げば自説が正しいことが世の中に受け入れられると考えているようだが、私の感じるところ、すでに世間の目は小うるさいだけで成果もない政策論議には飽き ている。むしろかつては人目にさらされなかったエコノミストという人々が、一見賢そうに見えるわりにはあまりに怪しい性格で、それが丸見えなのにまったく気づいかないほど無邪気かつ鈍感であることを面白がり始めている。 |
| ◇「ネット・ストーカー」について(2003.10.1) 池田信夫という人がいる。経済産業研究所で、IT関係の仕事をしているらしい。彼が私的なサイトで私について触れているとゼミ生が言うので、拙著「長期不況論」への「反書評」なる文章を見てみた。(http://www003.upp.so-net.ne.jp/ikeda/matsubara.html) 書評としては、お粗末の一言。なにしろ拙著に書いてあることの要約にしてからが、学生のレポートの水準にも達していない 。批判ならありがたく拝聴するが、拙著には関係ないことばかり書いてあてこするのだから、話にならない。この人は 世間の人が誰も読まない研究所の内輪の雑誌に難しげなテーマで文章を書いているようだが、誰にも分かる書評のような文章を書くととたんに馬脚をあらわして、 読んだり考えたりさらにその結果を文章化するという作業を平静に遂行できないことを、自分で暴露してしまっている。プロとして書評の仕事を頼む活字媒体は稀有らしいが、それも当然であろう。 それでも一応、敢えて本欄を覗いて下さっている方のために、どこがおかしいのか指摘しておく。 ・「著者(松原)は、構造改革によって「制度が崩壊」していることが不安の原因だから、改革をやめて政府が「信頼を回復」すべきだという」 →私が主張しているのは、生産要素にかんする制度を「ビッグバン的に」改革するという構造改革が不安を引き起こしているのだから、「漸進的に」改革すべきだということ 。改革の内容についても土地・資本・労働に分けて論じている。私は「改革をやめて」などとは一言も言っていない。構造改革に反対する論者が述べることはすべて同じに読めてしまうらしいが、この人の読解力の構造改革こそが必要だ。 ・「「お上」の力で国民を情緒的に「統合」しようとする主観主義は、佐伯啓思氏などとも共通する西部一派の特徴だが、問題は逆である。いま不安が広がっているのは、政府が信頼に値しないから ・・」 →私が述べているのは、BSE対策などで政府が信頼を失い、しかもその政府が失敗を棚に上げて構造改革などと言ってみたり、金融制度改革や牛肉買い上げなどを行っていることの滑稽さである。 つまり「お上」じたいが信頼をなくしているのに、その「お上」がさらに制度を解体しようとしていることを批判しているのである。「お上」の力で国民を統合しようというのに近い印象のことを佐伯氏や西部氏は述べているのかもしれないが、私は佐伯氏の著作への書評などではしばしばこの点を批判してきた。 ・「必要なのは、信頼を回復することではなく、信頼できる制度を作り直すことである。」 →これなどは、逆に私が主張していることである。何を言っているのやら。だがしかし、現在進行している「構造改革」では、この人が主張するようには「信頼できる制度を作り直す」ことなど 決して行われていない。「規制緩和」「経済慣行の撤廃」に象徴されるごとく構造を破壊することに主眼があり、その結果現れた現在の金融庁などは、逆に役人が強権を持つよう「制度を作り直」したものだ からだ。「お上の焼け太り」 現象である。この人などは、さしずめ焼けて太った公務員の好例であろう。官僚を焼け太りさせる構造改革ではなく、まっとうな改革を行うべきなのだ。 さらに、この人は「まともな経済学のトレーニングを受けた」とか「ノーベル賞をもらった」とか言えば、何か信頼が得られると思っているらしい。そんなことを信じているのはPh.Dを取ったとかいう既得権益を持つ人たちだけで、市場(関係者)ではない。そういえば、「インフレにする」と日銀が宣言すれば市場が信じるから本当にインフレになる、とインフレ・ターゲット論者 も言っていたが、そんなことを信じているオメデタイ人は経済学者だけ である。この連中の魂胆は、国という「お上」が信用できなくなった隙に、竹中大臣を始めとする学者を「お上」に祭り上げ、自分たちで利権を得ようということだ。だが、国という「お上」も、経済学界という「お上」も、 世人は信じていないのである。 そもそもこの人の言う「まともな・・・トレーニング」は、受ければ書く文章の水準が学生以下まで下がるたぐいのものではないのか。 といった具合だから、私がうんざりするのもお分かりいただけるであろう。とはいえこの手のいじましい人はネットには掃いて捨てるほど生息しているのだから取り立てて触れる必要はないのに、と読者は思われるかもしれない。私もそう思って いたのだが、それでも敢えてここで取り上げようと思い直すことにした。それは、書評への反論を上述のごとく書くためはない (それはあまりにも簡単だと、我がゼミ生も言っていた)。こういった手合いがどのような背景からものを言っているのかについて注釈を付けておきたいのである。 この人は、サイトを御覧いただけばお分かりのように、佐伯氏や西部氏、そして私も含めて「西部一派」と彼が想定する人々を、異様な敵意と粘着性をもって攻撃している。それも本を読んでのまとも な批判ではなく、「学生時代から知っているがあのころはこうだった」という手の、証拠もない与太話や当てこすりばかりである。まったく、「卑しい」としかいいようのない文章の羅列 である。 この人にならって昔話をすれば、私は幾度かこの人を見かけたことがある。彼は学生時分に西部氏の追っかけのようなことをしていて、かまって欲しいのか、うるさくがなり立てては西部氏に一喝され 、しゅんとして逃げ出すといったことを幾度か繰り返していた。しばらく見かけなかったが、インターネットという利器を得て、またぞろ学生時分の恨みを晴らそうとしているらしい。 追っかけても受け入れられないので妄想にかられつつ「一派」にまで執拗なストーカー行為を及ぼすわけだ。まあ、こう した例を見せつけられると、 淋しい人にとって、ネット社会は憂さ晴らしの天国に違いないと 改めて感じる。それでいてこうした人物に限って「信頼できる制度」うんぬんと説教するのだから、たまらない。 ちなみにアマゾンの拙著紹介のページには、非固定のハンドルネームを名乗る人物がこの人にそっくりな文章で拙著をけなすレビューを投稿している。そこでも「西部一派」という言い方 がなされているが、こういう呼び方をする人を私はこの人の ほかには知らないし、とくに前著の景観論以降、西部氏主幹の『発言者』と異なる路線をたどっている私を「西部一派」に加える人も珍しい。 こういった人が官庁に巣くい、社会から信頼を奪う構造改革を主導しているのである。このことを、銘記しておきたい。 (後記)この人がここで私が書いたことを読んだらしい、とふたたび学生が知らせてくれた。サイトを覗くと、私が書いたことが本当かどうか、西部氏を交えて検証しよう、などと 付け加えている。変なこと言うねえ。ならば、佐伯啓思氏やその他、この人が勝手に思い出などを書き散らした人も呼んで検証しなけりゃならんでしょうに。自分の都合のいいことしか考えないんだな。 それと、私が「プロとして書評の仕事を頼む活字媒体は稀有」と書いたら、『ダイヤモンド』誌でやってるのを知らないらしい、と反論している。だからぁ、そんなこと、知ってて書いてるんだって。文意を読めない人ですねえ。 |
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