『学者人生のモデル』H.A.サイモン

 二十歳で職業研究者となり、二十ケ国語の本を原書で読み、一九七八年にノーベル経済学賞を受賞した大秀才、ハーバート・A・サイモン。にもかかわらず彼はこの本で、自分の人生を振り返りつつ、人間が経済学の想定するような最適かつ合理的な生き方をするものではなく、ごく平凡であいまいな存在でしかないことを一貫して主張している。最適な生き方を数式で表現すると複雑すぎて解けないというのに、人間は「限られた合理性」のみで数式をときえたかのように生きている、これこそが驚異ではないのか。サイモンが生涯を通じて取り組んだのが、経済学があえて見ぬふりをしてきたこの問題だった。

 本書は彼の学問業績についての回想と、少年時代から現在に至る赤裸々な体験談とからなっている。この二つは切り離すことができない。彼の研究は、地方自治体の業務の計量的評価に始まり、人間が理性を高めるために集まったものとみて組織を分析し、心を記号の操作システムとしてとらえる認知心理学を生み、同様の記号操作をコンピュータに命じるためのプログラミング言語を開発するといった具合に多彩極まりないが、ひとことでいえばそれらは「意志決定」のなされ方を扱う。一方、彼にとってのもっともリアルな意志決定は、生活上の体験においてなされるものだからだ。

 チェスの指し手が次の手を選び、医者が診断を下し、建築家が住宅を設計するとき、いずれも形式的には迷路の分岐点で道を選ぶのと同様の意志決定がなされる、と彼はいう。そしてその形式についてのヒントを得た体験、すなわち夫人以外の好きな女性にいかに接したか、共産主義かぶれの嫌疑をどう切り抜けたか、大学行政をいかにこなしたかといった自身の生々しい体験が率直に語られる。まずまずの出来でしかない日常の意志決定が、重なり方次第で名人の洞察になる。平凡さの中にきらめきが秘められることを伝える自伝だ。(読売新聞)