を読み解く』、『柳田国男と事件の記録』等、数多くの著作を発表してこられた。けれどもタイトルを並べただけでは、読者はそれらがどのような関心の流れから書き継がれたのかはまず分からないのではないか。
ある時は現代社会を消費社会とみなしてその論理を探り、またある時は柳田国男の仕事を媒介に明治期日本の成立を描く。さらにフーコーの思考法を抽出し、探偵小説の古典を題材としてそれらが登場した時期に人々のまなざしや知覚、知の様式がどのように変貌したかを分析する。現代日本を中心なきところで多様化を進める都市として読み解き、CMは社会の独り言だという観点から時代の「無意識」をえぐり出す。というように、これまでの著作群は一見バラバラな主題を扱ってきたように見える。
ところが600ページ近い大部となった本書では、それらから得た知見がモザイクのように編み上げられている。過去の著作をコラージュすることにより、ちょうど密集地の建物群をぬってできる通路を遊歩するかのように、読者は二十世紀の百年間に日本において展開された「社会性」の軌跡をたどるのだ。
全体は四部から成っている。各部で扱われる題材は、第一部が天皇暗殺計画(大逆事件)と乃木希典の殉死、唱歌「故郷」、第二次大戦時の米軍による爆撃。第二部は敗戦に対する坂口安吾・柳田国男・折口信夫の思索および高度成長とマイホーム、三つの社会派探偵小説、三島由紀夫の死。第三部は昭和天皇崩御と中上健次、米ソ経済と日本のバブル、そしてニュータウン。第四部が諫早湾干拓・酒鬼薔薇聖斗事件・東電OL事件と時代を代表するものばかりだが、といってもこの本が描くのは、様々な事件そのもののを時代を追って並べるような「日本史」ではない。つまり事件が主人公ではなく、それらが生気した「場」、すなわち「国土」の来歴が、著者独自の(フーコーが乗り移ったかのような)文体で描かれるのである。
だがここで「国土」というのは、物理的な土地のことではない。それは我々がものごとを知覚したりまなざしを投げかけたり思考したりするときの、個々の時代に特有で人々に共有される様式のことである。その様式が変われば、同じ事件でも見え方が変わってくる。それは象徴的な中心を持てば閉じて安定するが、明治以降の日本では近代化が進み、つまり資本主義が導入されて、天皇制を中心に安定していたはずの空間は切り裂かれて流動的で無限定になる。
圧巻は、焦土から立ち上がろうとする戦後の出発点において安吾が望みを託した堕落する「私」や柳田が復興しようとした「家」、折口が構想した宗教としての「神道」などが、資本の力によってもろくも平板化されていくくだりだ。それらは高度成長期を経て、マイホーム主義および利権誘導による国土開発へとなし崩しにされてゆく。その結果、バブルを経た日本社会では、かつてはかつては娼婦ややくざ、変死者、浮浪者のように社会にとっての「他者」であったはずのものが、「女子高生」の援助交際やキレる「少年」、自殺する「中高年」やスーツ姿の「ホームレス」といった具合に、我々の日常に易々と侵入してくるのである。酒鬼薔薇事件や東電OL事件は、事件の具体的な登場人物よりも、このように変容した「国土」を通して分析されねばならないというのである。
現在政府が進めている「構造改革」では、いかに早く資本を流動させるかが課題とされている。そこでは、国土はたんに利益を生み出す土地にすぎず、収益率が低ければ死んでいるとみなされ、「都市再生」の対象として再開発を施されねばならないとされている。そうした方針から、六本木や汐止には高層ビルが日に日に建ち並びつつある。それがさらにどのような社会性を産み落とすのか、著者が次に打ち出すスリリングな解釈が待ち遠しい。
(東京大学教養学部報)