『デモクラシーを生きる−トクヴィルにおける政治の再発見−』宇野重規著/創文社

 一八三〇年代のアメリカを観察し、『アメリカの民主政治』(1835〜40、上・中・下、井伊玄太郎訳、講談社学術文庫)を著してデモクラシーの行く末を的確に思索した政治思想家、アレクシ・ド・トックヴィルがこのところ注目を集めている。

 もともとトクヴィルに対する評価には、多様なものがあった。丸山真男も著名な文章で「ちかごろもっぱらトクヴィル一辺倒」と述べ、彼の多面性への憧憬を隠さない。トクヴィルについては、自由主義者、保守主義者、君主主義者、いや共和主義者、はては大衆社会の到来を予見した、近代組織の理念型である自発的結社の存在をアメリカに見いだして社会学の先駆者になった、という評価まである。

 一九三〇年代、同じくデモクラシーを政治原理としながらも、革命を経て大混乱に陥り彼を悩ませた祖国フランスに対して、アメリカではデモクラシーが健全なかたちで花開いていた。この事実に衝撃を受けたトクヴィルは、デモクラシーの取り得る型に、フランス的な専制形態と、アメリカ的な自由かつ民主的な形態とがあるのだとして『アメリカの民主政治』を著したのである。トクヴィルが近年注目されている理由はここにある。


 第一に、冷戦の終了とともにアメリカ的な自由民主主義が社会主義・共産主義に優越するという信念が広がったが、社会主義・共産主義はフランス革命の落とし子である専制の極致だとみなすなら、この信念はすでにトクヴィルが『アメリカの民主政治』に織り込み済みであった。そこでアメリカの勝利を予言した書として同書が再評価されることになる。

 ところが今日のアメリカ社会には、楽観だけが許されているのではない。トクヴィルの見た十九世紀のアメリカの美点は失われつつあると見る人もいる。R.ベラーらは個人主義が極端なものとなったために公共的な論議は回避され官僚任せにされている、そうした観点から白人中産階級にインタビューを行い、現代アメリカを蝕む行き過ぎた個人主義を調査した(『心の習慣』邦訳、みすず書房)。 以上、今日のアメリカを評価するための座標軸を与えた人としてトクヴィルが思想史から呼び戻されているのである。しかし、トクヴィルはなにも、アメリカの評価そのものを目指していたわけではない。むしろアメリカやフランス、イギリスの比較を通じて、デモクラシーとは何か、そしてそこでは政治はどのようなものとなるのかという政治哲学を問うという面が彼には色濃い。

 本書はトクヴィルのこうした面に注目し、彼はデモクラシーを批判したのでも克服したのでもなく、まさにそのただ中を生きぬくことを近代政治の課題ととらえたのだとして一貫した解釈を与える。一九六七年生まれの若き俊秀による博士論文だけあって、ここには政治哲学の最近の論点が盛り込まれている。

 デモクラシーにおいては身分などの条件が平等化し、同時に個人主義の行き過ぎが起きる。そこで人的な結合が弱まって人間の原子化が生じ、また個人の外部の権威が崩壊したために規範を個々人が自己の内部に求めざるを得なくなる、その結果として人格の均質化と専制が生じるとトクヴィルは推測する。そこで彼は公民として共同体の規範に服することを求めたのだとベラーなどは解釈するのだが、著者はむしろトクヴィルが個々人の差異性を共同体に埋没することから救おうとしたのだとみなす。「差異の政治学」の先駆者だというのである。これが第一。

 では差異性と両立しうる共同性とは何かというと、議論の結論を共有することではなく、議論の場を共有することがそれだとされる。つまり差異ある存在としての個人をバラバラ置かず、彼らが具体的な状況に即してみずから思考しうるようにして、まとめて意味づけるのが政治だととらえるのである。自由主義というともっぱら市場の自律性を信頼して政治介入を否定するのが通り相場だが、逆に「政治の集中」の必要を説く(ただし「行政の集中」は批判する)のである。これが第二点。

 第三には、共和主義はしばしば「徳」がいきわたっていると前提するが、トクヴィルのアメリカ体験はむしろ徳の不可欠さを否定しているという。「正しく理解された自己利益」(現在の用語では「啓発された自己利益」)にもとづき、自己利益を短期的にではなく長期の視野で追求することがアメリカの習俗として定着しており、それが場の共有をもたらしたとみる。アメリカの共和主義は徳でなく利益にもとづいているというのである。

 本書に描かれたトクヴィルの肖像は清新なものだが、とくにトクヴィルからデモクラットらしくなさを脱臭する試みと読める。しかし「差異」と言う以上、そこには差別につながりかねない危うさがつねにつきまとい、「場の共有」だけでそれを免れるとは思えないところがある。差異を求めて差別を拒否する性向が必ずしも濃くないために、トクヴィルがときに保守主義者とみなされるのではないか。

(This is 読売)