| 『ヴェブレン経済文明論−職人技本能と産業技術の発展−』T.ヴェブレン著/松尾博訳 ソースタイン・ヴェブレンは一八五七年に生まれ、世界の覇権を握りつつある頃のアメリカの「金ぴか時代」の経済文明を文化人類学や哲学までを含む幅広い教養と皮肉っぽく奇妙な文体で批判的に分析した人で、経済学説史上では制度学派の祖と呼ばれる。没したのは一九二九年だから、ケインズとその先生であるマーシャルに挟まれた世代に当たる。 しかし彼の名は、学説史に残るほどのものでありながら、主流派であるマーシャルの新古典派には極めて懐疑的であり、しかも主流派からすれば異端児であるケインズよりもはるかに知られていない。主流派に批判的だといえ何を言っているのかが経済学の枠内で理解されうるケインズの著作とは違って、ヴェブレンの業績は経済学の枠組そのものからもはみ出てしまうようなものだったからだ。「パラダイム(既製の理論枠組)の転換」が必要だと言う人でもその多くは決してパラダイムから出ようとはしないものだが、ヴェブレンは本気で経済学以外の学問を駆使しつつ経済学を刷新しようとしたのである。そうした彼の流儀が制度学派と呼ばれたのだが、結局はその神髄は彼一代で廃れてしまったのだといえよう。そして今日の経済学界を支配しているのは、依然として新古典派(とくにそのアメリカ版)である。 それだけに、彼の業績の翻訳は大変な難事とされ、これまでは出版当時に評判を取った『有閑階級の理論』(原著一八九九年、岩波文庫)と『企業の理論』(原著一九〇四年、勁草書房)、それと『技術者と価格体制』(原著一九二一年、未来社)がそれぞれ小原敬士氏によって訳出されたに止まった。しかもそれらが連続して出版された一九六〇年代以降、内容的にはもっとも体系立っていて彼自身が主著とみなしていたとされる本書は翻訳されなかった。それが突如、この読みやすい新訳が提出されたのだから、昨今の困難な出版事情も考え合わせれば、まずは快挙というべきだろう。 本書の登場で、ヴェブレンの経済思想は、おおむね三つの部分から成ることが明確になった。『有閑階級の理論』は、当時のアメリカに出現した浪費的な消費社会について社会学的に分析したものであったが、より経済学的な『企業の理論』では、産業技術が不断に進歩することで財価格が下がり続け、企業は慢性的な不況にみまわれる可能性に脅かされていることを明らかにして、浪費はいわば必要悪として現代の経済に組み込まれていることを論証した。そして本書(原題は『ワークマンシップの本能と産業技術の状態』)では、このような産業の状態のよって来るところを人類史の起源にまで溯り、経済史として描き出そうと試みている。 ただしここでいう経済史は、通常の歴史上の経済事件を並べ立てるようなものとは相当に異なっている。ヴェブレンはまず、説明すべき経済史の段階を、当時の人類学や歴史学の文献にのっとりつつ、未開状態、掠奪的(封建的)文化の時代、近代以降の手工業の時代、そして機械産業の時代の四つに区分する。その上で「本能」と「制度」を仮説し、これらの各時代が順を追って到来した理由を説明してゆくのである。 彼のいう「本能」とは、意識的に目標を立てて追求し、人類の物質的な福利を高めようとする人間の特質である(これは外的な刺激に対する反射でである「向性」とは区別される)。中でもとりわけ重要だとされるのが「職人技本能」と「親性本能」で、前者は知識を利用して物的な生活を向上させ、後者は将来の公益に配慮するものだという。そして「制度」とは、人間が過去から蓄積してきた知識の体系、ヴェブレンの表現では「いくぶんかは現象に関する即事実的な知識から構成されているが、より多くは社会に流布している後天的な偏愛と先入観を含んでいる慣習的な知恵」である。 「職人技本能」と「親性本能」が十分に発揮されるならば、社会は生産かつ平和でありうるだろう。しかし本能は知識の偏向によって歪められ、それによって自然の擬人化や物神崇拝が起きる。差別と掠奪が生じたり(封建時代)、株主が所有権を振りかざすことで生産効率上の無駄が出る(機械産業の時代)のはそのせいだという。 という具合にヴェブレンは、市場の効率性にしか関心をもたない主流派経済学パラダイムのとは対照的に、経済文明を多層的にとらえ、その現状をつきはなして見る視角を提供している。彼にいわせれば、経済学のパラダイムもまた「制度」なのであって、それこそが浪費を正当化する偏向せる知識となっているということになるのだろう。たんに経済効率の観点からしか論じられない規制緩和などはヴェブレンの文明論ではどうとらえられるのか、といったこともつい気になる古典だ。 (This is 読売) |