| 『ノージック−所有・正義・最小国家−』ジョナサン・ウルフ著/森村進+森村たまき/勁草書房/三二九六円
アメリカでは、七十年代までの民主党政権がJ.K.ガルブレイスらに率いられたリベラリズムによって福祉主義・ケインズ主義を政策の主軸にすえていたが、激しい財政赤字を招いたために八十年代の共和党政権はM.フリードマンらの主唱する新保守主義の「小さな政府」路線を取り公共投資を大幅に切り詰めた。ガルブレイスやフリードマンはもっぱら経済学によって政府の大きさを論じたのだが、彼らにちょうど重なるようにして七十年代前半には政治哲学の分野でもJ.ロールズの『正義論』とR.ノージックの『国家・アナーキー・ユートピア』が著されて大変な反響を呼び、おのおの福祉基準を求める配分的正義と、対照的に「税は強制労働である」として所得再分配を拒否する自由尊重主義(リバタリアニズム)を主張した。 ロールズとノージックはともにそれ以降の法・政治哲学界の話題の中心となってきたが、ことノージックについていうと、国家は軍事・警察と裁判をつかさどる十九世紀的夜警国家にとどめるべきであって、福祉にまで手を出す「拡張国家」が税を取るのは個人の所有権を侵害するものだ、と時代錯誤風の立場を打ち出したため、学界にほとんど追随者をもたなかった。そのせいか『アナーキー・国家・ユートピア』の全体を検討した単著は本書が初めてのようで、著者ウルフも、ノージックの考えはサッチャーも含めて多くの人々に「巨大で破壊的な効果をもった」と述べるように、批判的な姿勢を崩していない。 ノージックの議論は、 個人が別個の人格をもち、有意味な生を送る権利を有していること(自己所有権)、さらに正当に獲得されたものにかんしては合意にもとづいた移転だけを正義として認めること、これらを根底に置き、そこから 無政府主義者に対して国家の必要を説くこと、しかし 拡大(福祉)国家論者に対しては最小国家にとどめるべきだと主張することを目指している。 こうした論理構成は、「所有・自由・生命」の自然権から個々人が契約を通じて社会を形成すると説いたJ.ロックの社会契約説のリバイバルだといえるが、ノージックが所有にかんする自然権を正当化するに当たって、聖書の権威を持ち出さず、またロックがいくらか残している功利主義的な説明を排除して「個人は目的なのであって、手段ではない」というカントの論法(定言命法の第二公式)を前面に押し出しているのが違う、とウルフは指摘している。筆者には、個人が他者と団結して相互保護協会なる組織を作り、それらのうちから支配的な力をもつに至ったものが超最小国家となるといった「見えざる手」の論理によるノージックの説明こそ、「推測的歴史」を唱えるハイエクや市場から企業が生成するさまを説いたコースの影響を受けているように見えて現代的と思える。 ウルフはとくに、警察や裁判の力を当てにしない「スタローン」的人物の復讐の権利を賠償によって国家が取り上げるという議論には無理があること、また所有権が功績・必要・幸福に断然優先するとは言いがたいことなどを強調していて、そうするとノージックにはほとんど貢献がなくなってしまうのだが、これに対しては独立のノージック論となるだけの体系性をもつ五十ページの訳者解説が著者よりもずっとノージックに好意的な立場から反論を試みていて、一読の価値がある。 ノージックの魅力は奇想天外な思考実験を重ねる哲学の醍醐味にあるが、自動車を運転したがる癲癇症患者には運転の権利があるかといった筒井康隆氏の断筆事件を思わせる設問なども、その一例だろう。個人の自由と責任を問う論法は、小沢一郎の『日本改造計画』にも通じるものがある。ただし、ノージック自身は後の『哲学的説明』(八一年)『生のなかの螺旋』(八九年)では自由尊重主義を捨てて、共同体主義(コミュニタリアニズム)に接近しているようだ。 (読書人) |