書評『社交する人間』山崎正和著/松原隆一郎・評
世界を構成する原理に何か大きな異変が起きていると感じる人は多い。ところが対策としては、「自己決定」の推進が関の山であるかに言われている。医療については患者が情報を得て自分で治療法を決定する「インフォームド・コンセント」が進められているが、それで万能かというとそうは言えまい。分かりもしない分野について素人が選択したからといって、何かが解決するわけではない。
確率そのものが計算できない「リスク」の高まりは、医療のみならず環境問題や食品安全においても深刻だ。これが未知の現象だとすれば、グローバル化やIT化、そして欲しいものに「友達」が挙がる淋しい社会もまた未曾有である。こうした問題を解決する導きの糸として、著者は「社交」に注目する。
社交は、ゲマインシャフトのように血縁や共同体で閉じた関係ではない。友人関係のようにもう少し距離を置き、といって顔が見えないほどには離れない。その原理に関心を向けた人には、社会の原点を人の相互作用に求めたジンメルや「遊び」を重視したホイジンガ、職人的なもの作り技術(「アルス」)を哲学的に把握したコリングウッドという思想の系譜があるという。
社交の衰退には、近代的な工業技術の展開がかかわっている。いつでも誰でも同じものが作られるとなれば、作り手個人の個性は無用となり、物作りの職人芸や対人のサービス業は時代遅れとなる。大量生産・大量消費・大量廃棄が社会の趨勢となる。
ところが近代工業の時代にも、くせや勘、感情や共感といった要素は死に絶えなかった、と著者は見る。その証拠に、今になって売れているものは対人サービスであり、職人芸的ブランド品であり、品揃えで主人の個性を競う「セレクト・ショップ」である。
時代は一巡したかに見える。では以前とはどこが異なるのか。この点を敷衍することが次の課題であるようだ。