田舎の駅舎の事件――問題編
田舎の駅舎で起こった殺人事件。
犯人は誰か!?
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発見━━2月25日夜11時15分

 花村三平は、電車の中で、座席にすわってウトウトしていた。
「堀山駅〜、堀山駅です」
 車内アナウンスが告げると、花村はハッと目を覚ました。━━降りなければ。
 酒のためと、寝ぼけているためとで、足元がふらついた。プシューと音がして、ドアが開く。寒風が吹きこむ。用心してプラットフォームに降りた。
 駅舎の待合室に蛍光灯が晧々とともっている。無人駅なので、ほかに灯りはない。ふらつく足元で、よろよろと駅の出口へ向かう。ここから徒歩で、家まで帰るのだ。無事に帰れるだろうか? このままじゃ、田んぼに頭から転がり落ちかねないな。━━花村は、酔った頭で、ぼんやりとそんなことを考えた。
 待合室に誰かいた。ガラス越しに見えるのだ。男がベンチに仰向けに横たわっている。床に片手をだらんと垂らしている。手が床にくっついていた。
 ━━酔っ払っているのか?
 花村はもっとよく目を凝らして見た。ガラスに近づいて、鼻をくっつけた。胸からにょっきりと短刀の柄のようなものが出ている。服のその周囲が赤く染まっている。目は見開かれ、なにも見ていない。
「ひゃっ」花村はへたり込んだ。━━死んでいる。殺されたんだ!



青田勇氏の退屈な日常━━2月26日午前9時

 青田氏はいくらか退屈気味だった。30分も前から目を覚ましているのに、まだベッドに寝そべったままだった。さて、起きて何をしたものか。━━このままでは自堕落な日曜を過ごすことになってしまう。いかんいかん! とにかくベッドから身を起こすことだ。
 生まれつき怠け者の青田氏は、ようやくベッドから身を起こし、ぐしゃぐしゃの髪をさらに手でかき乱しながら、洗面所へ向かった。
 ━━ピンポーン。
 訪問者あり。仕事かな。
「ハイ、どうぞー」青田氏は顔を洗いながら、冴えない声で答えた。
 玄関から声が聞こえる。「青田くん、不用心だよ。玄関のドアにカギもかけないなんて」
 青田氏がタオルで顔をふきながら玄関を覗きこむと、そこには精悍な顔立ちをした初老の男性が立っていた。
「ああ、楠木さん」楠木は青田がむかし刑事をしていた頃の、先輩に当たる人だ。「なに、構いやしませんよ。ぼくのところには、盗られて困るようなものはないんです。悲しいことにね。それに、こんなド田舎じゃ、泥棒も出ませんよ」
 楠木は、部屋の中にずかずかと入っていった。床に山積みにされた本のあいだに、座り込む━━というより埋もれた。
「やあ、どうぞ、そんなところに座っていないで、こっちへ腰掛けたらどうです?」青田氏はベッドを手でぽんぽんと叩きながら、自分は仕事机の回転椅子に座った。
 楠木は明らかにいやいやベッドに腰かけた。
 青田氏は椅子をギシギシいわせながら、「━━それで、なんのご用です。ずいぶん久しぶりだと思いますが」
 青田氏はあるしくじりのために刑事としての自信を失って、この高山町という片田舎に引っ込んだ。3年前のことだ。ここで、いちおう私立探偵をやっているが、田舎のことだから儲からない。現在は、小難しい推理小説を書いて、食い扶持を得ている。
 楠木は、青田氏が刑事だった頃から、彼の頭脳を買っていた。妙なところで切れる人間で、複雑な事件をたやすく解き明かすかと思えば、簡単な事件を複雑に考えすぎる。「青田の頭は使いようだ」というのが、楠木の彼に対する評価である。
 今日は、ちょっとてこずりそうな事件なので、青田氏の出馬を願うつもりで、やってきたのだ。こういうことは、今回が初めてである。
「少し君の力が借りたい」楠木は言う。
「ぼくの力? ははーん、敏腕の楠木警視も焼きが回りましたね。楠木ともあろうものが、推理作家ごときに力を借りるのですか」青田氏はニヤついている。「よろしい。では、力になりますよ」
 青田氏はお調子者なのだ。
「君はさっき、ここは泥棒も出ないほど平和だといったね。ところが、こんなド田舎も、盗みどころか殺人が起こるまで、出世したらしいよ」と楠木は平然と言ってのける。
 青田氏は目を点にする。
「は、さ、さ、殺人ですと? この堀山町で?」青田氏は、興奮のあまり目を白黒させ、椅子から立ったり座ったりした。「━━殺人! 殺人とは誰かが誰かを殺すこと!」
 楠木はしかつめらしく言う。「まったく君というやつは、不謹慎というか、常識がないというか。人が殺されたというのに、喜ぶやつがあるか」
「いや、喜んでなんかいませんよ。この平和な堀山町が恐ろしい犯罪によって擾乱をきたすことを、じつに遺憾に思っています。……いや、ほんとうに!」青田氏は厳粛な顔つきをする。「しかし、しかしですよ。ぼくのような探偵稼業をやっているものにとっては、やはりただの喧嘩や子供のいたずらや家畜の逃亡事件を解決するよりも、強盗や殺人のような、ちゃんとした犯罪事件を解決してみたいのです。推理作家の端くれとしても! わかります?」
 楠木はあいにく分からなかった。彼はいつも都心で第一級の犯罪事件を扱っているからだ。「とにかく現場へ行こう」
「ええ、行きますよ!」青田氏はいまや張りきっていた。「ちょいと失礼。着替えてきます」青田氏はどこかへすっ飛んでいった。遠くから、「ところで現場はどこです」
「堀山駅だ」楠木は叫び返した。



現場まで━━2月26日午前10時

 堀山駅へ向かう途中。楠木の車の中。
 道が舗装されていないので、車がガタガタ揺れる。
「昨夜の雨はひどかったなあ」青田は車の窓から思いっきり顔を出して、景色を見ている。「昨日はね、ひどい雨が降ったのですよ。通り雨っていうんですか。1時間ばかりザアッと降って、あとは一滴も降らなくなった。まるで時計で測ったようにかっきり9時から10時まで、降っていましたよ」
「ハアー」楠木は、あまり気のない返事をした。
「ここらの道は舗装されていないのでね。このぶんじゃ、きっとこの車は泥だらけになっていますよ」青田は窓から身を乗り出して、車の側面を見る。「あー、こりゃひどい。悲惨なまでに泥まみれだ。とくにバンパーなんて。アハハハハ」
 楠木はもちろんおもしろくない。黙ってハンドルをつかみ、運転に集中する。
「殺されたのは誰ですか?」青田はまじめになって訊く。
「荒川辰夫。31歳。この歳でフリーターだった。といっても先月でアルバイトを辞めているから、実質的には無職だ」
「荒川辰夫……知らないな」
「高山町○番地のアパートの2階に住んでいた。一人住まい。あまり人付き合いがよいほうではなかったようだ。アパートの管理人も、よく分からない人物だったと言っている」
「ふーん」
 堀山駅が見えてきた。田んぼに囲まれたのどかな風景である。ここで昨夜殺人が行われたとは、信じられないほどだ。
 楠木は駐車場のような空き地に車を止めた。「駐車場も、舗装されていない」実際そこは泥がむき出しであり、昨夜の雨でぬかるんでいた。車から一歩足を踏み出すと、靴が泥の地面にめりこんだ。
 一台自転車がとめてある。「あれは……」青田は何か言いかけた。
「そうだ。被害者の自転車だ」
 青田は身をかがめて、地面をじっくり観察した。「さあて、弱ったな」青田は地面を指す。「この泥には砂利がたくさん混じっています。そのせいで、自転車の跡はきわめて不明瞭にしか残っていません。足跡もたくさんあるようですが、きちんとした型をとれるような精確なものはないようですね」
「さよう。その点はわれわれ警察もわかっている。初歩だな」
「初歩ですね」青田は立ち上がりながら言った。「死体はどこです?」
「君のためにとってある。こっちだ」
 二人は駅舎の中に踏み込んだ。そこで、ふたたび手間取った。
「またもや足跡の問題だ」青田は舌なめずりしそうだ。「ここに残っているべらぼうな数の足跡は、もちろん鑑識のものでしょう?」
 床はリノリウムか何かで敷いてあった。もとはぴかぴかに磨かれていたのだろう。それを多数の泥の足跡が見事に汚していた。
 楠木は答える。「そうだ。われわれも仕事なので、現場に踏み入らなければならない。そしてわれわれの靴にはあいにく、駅舎の外の泥がついていたのだ」
 青田は下唇をかんで、眉根を寄せた。「泥の足跡を残さずに、この駅舎に入ることは不可能だった。これは留意すべき点です」
 楠木は鼻を鳴らした。「なるほど、そうかい。……まあとりあえず、記憶の片隅においておこう」
 駅舎に入ると、すぐ左手が待合室である。無人駅だから、この待合室が、駅舎の本体と言っていい。改札も何もない。駅に到着して、待ち時間があれば待合室へ、さもなければまっすぐ進んでプラットフォームへどうぞ、というわけだ。
 二人は待合室のドアを開けて、中に入った。
 待合室はほぼガラス張りだった。駅舎の中から入るドアがひとつ。開閉自由な窓が駅舎の外に向けてひとつ、破目殺しの大きな窓が、プラットフォームの側に向けてひとつある。ベンチが三列並べられ、その中央の列に横たわった男性の死体がある。
「荒川辰夫だ。ごらんのように果物ナイフで心臓を一突きされている。被害者は、抵抗する間もなく、グサリとやられて死んだのだ」楠木は死体に近づく。
 青田は死体を見るのが久しぶりなので、どうも落ち着かない。何とはなしに周囲を見まわす。
 窓に近寄ってそれを開ける。窓はきっちり閉ざされ、クレッセント錠が内側からかかっていたのだ。「風通しをよくしましょう」ドアを開ける。「さあ、これでよし。新鮮な外気は偏見をなくします」
 楠木は青田のやっていることにはお構いなく、ポケットの中身を取り出して、ベンチの上に並べていた。
「アパートの鍵。これは自転車の鍵だ。そしてこれは財布、中味は100円硬貨1枚と10円硬貨3枚━━とんでもない貧乏だ。札は1枚もない。これはタバコ。……おい、青田、どこへ行った」
 青田は駅舎の外で深呼吸していた。死体というものは、ほんとうに嫌なものだ。やっぱり自分は刑事を辞めて正解だったぞ。彼はそんなことを考えていた。



毒死━━2月26日正午

 平井善文は、自宅の庭にスコップで穴を掘っていた。だいぶ日が高くなってきた。寒い季節だと言うのに、額にすこし汗が滲んできた。庭の土は固く、力が要った。
 30分もすると穴は完成していた。貞文の死体はタオルでくるんであった。善文はこの死体を、庭に埋めるつもりだった。
 貞文の死には不審な点が多かった。警察は彼が食べた昼食を検査して、毒物が混入していることを発見した。しかし警察はその後ほとんど何の捜査もやっていないのではないかと、善文は疑っていた。すくなくとも、警察は犯人を見つけ出せていない。
 彼にできることは、貞文を手厚く葬ることだけだった。
貞文の死体を抱えあげると、自然と涙がこぼれてきた。
「……おまえは私の唯一の家族だった。……私はおまえを殺した人間を許さないよ」
 さらに30分後、墓は完成していた。善文は線香を炊いて、黙祷した。



犯人の行動━━2月26日正午

 青田は待合室に戻った。すこしは気分が落ち着いた。彼の眼も、本来の洞察力を取り戻していた。彼はすぐさまいろいろなことを発見した。━━被害者は、胸を刺され、驚愕の表情のまま、ベンチの上に横たわっている。━━セーターの上にコートを着ている。下はジーンズをはいている。コートはかなり厚手のものだ。━━被害者のベンチの下に転がったオレンジジュースの空き缶。中味は床にこぼれている。━━その近くに、踏み潰して消された三本のタバコ。━━自分がさっき開けた窓のそばの床が、濡れている。これは昨夜、雨が降りこんだためだろう。
 楠木は証拠物件として、被害者の所持品をビニールに入れていた。
 ジュースの自動販売機は、待合室の中にあった。
 青田はベンチの下のジュースの空き缶を拾い上げた。「これは誰が飲んだものでしょうね」
 楠木はベンチに腰を下ろした。「被害者だ。指紋が残っていた」
「そしてこのタバコも、被害者が吸ったのでしょうね」
「そう、同じ銘柄のがポケットにあった」
「なるほど。……つまり、被害者はここで電車を待っていた。ベンチにこういうふうに座って」青田はベンチに腰掛けた。「そこへ犯人が現われた。犯人は突然被害者に襲いかかり、ナイフを相手の胸に突き刺した。そのときジュースの空き缶が床に落ちた。被害者は抵抗する間もなく死んでしまった。犯人は目的を達したことを知ると、あわてて逃げ出した」
 青田はそうしゃべっている間中、犯人と被害者の一人二役を演じて、おおわらわだった。ナイフを突き刺し、突き刺され、うめき、力尽き、逃走した。たいへんな熱演である。
「さよう。われわれの見解も、それと同じだ」楠木は、青田が息を切らして戻ってくると、言った。楠木はユーモアをまじめに理解することができる特殊な人間だった。
 青田は言う。「しかし問題は、犯人がどこから現われたか、ですね」
「そう。犯人は、もともと待合室にいたのかもしれない。あるいは、駅舎の外からやってきたのかもしれない」
 青田は下唇を噛んだ。「ふーん、もうひとつ、可能性があります。犯人は電車の中から来たのかもしれない」
 楠木は驚いた。うかつにも、彼はこの可能性を見落としていた。「なるほど。電車から降りてきたかもしれない。……確かにそうだ」楠木はうなずいた。「そして、電車で逃げた。ありうることだ」
「いやいや、電車で逃げるなんてことはないでしょう。もし、誰かが入れ違いで、電車から降りて、顔でも見られたら、どうします。死体はあんなに分かりやすいところにあるのだから、きっと犯人と見なされますよ。ぼくだったら、すぐさまこの殺人現場から逃げ出しますね。電車を悠長に待っていたり、ちょうどよいときに到着した電車に乗るなんてことは、まずない」
 楠木は説得されない。「そうかな?」
 青田は微笑む。「まあ、こんなことはあまり実りのない議論かもしれない。まずしっかり現場の状況を整理しましょう。曖昧な根拠に基づく推理ほど、誤りやすいものはありません。データを揃えよ、しかる後、考えよ、ですね」


 

迷宮の入り口━━2月26日午後1時

 検死医が楠木をひっぱっていき、駐車場でなにか話していた。
 死体が運ばれそうになって、青田は呼びとめた。コートやジーンズやセーターを熱心に調べて、それらが完全に乾燥していることを知った。青田は腕時計を眺めた。いまが午後1時。これだけ時間があれば、昨夜雨で濡れて、乾いたとしても、おかしくない。
 窓のそばの床にかがみこみ、染みが斜めに降りこんだ雨のためであることを確認した。窓はおそらく半開きになっていたのだろう。そこから雨が降りこんだのだ。
 青田は時刻表を眺めた。これは重要であるという直感があったので、小さなノートにメモした。

 上り     下り
 20:15  20:20
 20:45  20:50
 21:15  21:20
 21:45  21:50
 22:15  22:20

「きわめて規則正しい」青田は気をよくした。「すべて鈍行か」
 1時間に2本、各駅停車の電車が到着する。上の図は、青田が重要だと考えた時間帯を、ピックアップしたものだ。当然、19時45分の上りだとか、22時50分の下りだとかも、あるのだ。
 二つのプラットフォームが向かい合わせになっていて、こちらが上り、向こうが下り用だ。上りのプラットフォームに、待合室がある。下りのほうには、待合室はない。
 この二つのプラットフォームは歩道橋で結ばれている。歩道橋は天蓋つきである。
 最寄の駅までいくらかかるだろうか。彼はほとんど好奇心で知りたくなった。上りで次の駅は、林が丘駅100円、下りで次の駅は、美空駅180円と記載してある。
 楠木が戻ってきた。渋い顔をしている。
 青田は質問を用意していたので、すぐに訊いた。「被害者は、いつ殺されたのです。死亡推定時刻は?」
「それがきわめて曖昧にしか、わからなかったそうだ。昨夜のおよそ8時30分から11時までの間だろうと言っている」
「ずいぶん幅がありますね」青田は、プラットフォームを歩いている。「被害者は、いつ発見されましたか」
「昨晩、23時15分に、花村三平という会社員が発見した。この町に住んでいる。彼は23時15分の上りの電車でこの駅に到着した。死体を発見して、通報した」
「彼に話を聞く必要がありますね。現場がどんな状況だったか」
「われわれは彼を深夜の3時ごろ開放した。聞くべきことは聞いたのでね。住所は○△◇だ」
「わかりました。後で行くとしましょう。○△◇へ」青田は相好を崩した。「さっき僕のお腹が鳴りましたよ。昼食にしませんか?」



幕間(昼食)━━2月26日午後2時

「何を食わせてもらえるのかと思ったら、カップラーメンとはな!」楠木は目の前に差し出された昼食を、嫌そうに見ている。「私はどこかレストランでも探して来よう」
「冗談でしょう。せっかく作ったんだから、食べてくださいよ」青田はもう食べはじめている。「それに、これはただのカップラーメンじゃないですよ。ほらここに、≪名店の味≫と書いてある」
「なるほど、本当だ。……うまいのか?」
「いやあ、これは確かに≪名店の味≫ですよ」青田はコンビニのビニール袋をガサガサいわせる。「はい、これ、おにぎりです。おにぎりがお気に召さないなら、サンドイッチ」
 楠木はラーメンをすすりながら、サンドイッチを手にとった。
 二人はしばらく黙々と食べた。ここは青田の自宅である。
 食べ終わって一息つくと、話は自然と事件のほうへ向かった。青田は訪ねる。「まだ何か、あなたが知っていて、ぼくが知らないことは、ありませんか」
「いまのところ、被害者が殺されるような理由が見つかっていない。被害者の自宅に行って、いろいろ調べるべきだろう。━━検死医の報告に拠れば、凶器の果物ナイフは、斜め上方から心臓に到達している。被害者がベンチに座っていたところを、犯人はその前方に立って、ナイフを正面に構えて、突き刺したのだ」楠木は立ちあがり、箸をとって青田を刺すふりをした。「こんなふうに」
 青田は座ったままウグッとうめいた。
 楠木は説明を続ける。「━━あのオレンジジュースは、確かに被害者があそこで買ったものだ。自動販売機に指紋がついていた。そのほかには、現場に特に目立った指紋はなかった」
「犯人は、待合室のドアのノブを握ったはずですよ」
「ノブには多くの人間の指紋が複雑に重なっていた。識別することは不可能だ」
「凶器には?」
「凶器に指紋があれば楽なのだが、そうはいかないようだ。指紋は綺麗にふき取られていた」
「ところで被害者はいつ殺されたんでしょうね」
「いまのところ、検死医の死亡推定時刻を頼りにするしかない。昨夜の8時30分から11時までのあいだだな。あの駅は、利用者が少ないらしいからな。もうすこし頻繁に人通りがあれば、もっと犯行時刻をせばめることができただろうに」
「駅に面している道路も、閑散としていますからね」
 ━━ピンポーン。
 青田は立ちあがって、「おや、誰かな」と玄関へ行った。
 青田が伴ってきたのは、40歳くらいの、黒ぶちめがねをかけた、実直そうな、背の高い男だった。「ご紹介します。ベッドに座ってコワイ顔をしているのは、ぼくの永遠の先輩である楠木警視です。こちらは、ぼくの大事な依頼人である平井善文さん」



「連続ペット毒殺事件」━━2月26日午後3時

「ぼくが私立探偵もやっているってことを、忘れちゃいけませんよ」青田は言う。「ぼくは文字通り、探偵作家なのです。探偵であり、なおかつ作家です」
 事務室に行きましょう、と青田は二人を引導した。青田の家は、生活空間と事務室に分かれていた。事務室は立派なもので、まるで社長室のようだった。
「楠さんも同席して構いませんか?」
 青田が尋ねると、平井は快く承諾した。
 黒檀のテーブルをはさんで、向かい合わせになったソファーに彼らは座った。
「例の件のことですが、何か目星がつきました?」平井はさっそく切り出した。
「正直、サッパリです」青田は率直に言った。「異常者がやったことに違いありませんからね。まったく探り出すのは至難の技ですよ。聞き込みなどもやっているんですが……サッパリです」
「そうですか……」平井は落胆を隠し切れない様子を見せた。
 楠木は恐る恐る口出しをした。「失礼。よろしいか? いったい何の話ですか? 差し支えなければ、教えてもらいたいが」
 青田が答えた。「ああ、最近この高山町で起こっている『ペット連続毒殺事件』のことですよ。いままでで、4匹の犠牲者がでたのです。━━犠牲犬、犠牲猫かな」
「私の貞文も、その異常者に殺されたのです!」平井は激昂した。
 楠木は尋ねる。「貞文というと、お子さんですか」
「いや、ペットです。狆です。……それはもう、ふさふさと黄金色の毛並みをしていて、すばらしい犬だったんですよ」
≪貞文≫は明らかに人間の名前だろう、と楠木は思った。
「何を考えてらっしゃるか分かります」平井は首を振った。「犬に人間のような名前をつけて、何が悪いのです。私は彼を家族の一員として、扱っていましたよ。そう、われわれと同等の人権を持つ、ひとつの生命として」
 楠木は呆れた。
 青田は茶々を入れる。「犬権ではないですか?」
「ケンケン?━━ケンケンってなんです?」平井は頭のなかの辞書を繰った。
 青田は話を軌道に戻した。「まあ、真面目な話、いままで4件も、起きています。誰かがエサに毒物を混ぜて、食べさせたのです。手口も同様だし、毒物も同じものです。すべて火曜日に起きています。……そして昨日の昼、平井さんとこの貞文さんがやられたのです。平井さんは、昨日の夕方でしたか、ぼくのところに来て、犯人を探してくれるよう、頼まれたのです」
 ちなみに今日は水曜である。
 平井はうなずいて、「はやく異常者を捕まえてもらわないと、犠牲者は増える一方ですよ。━━私はあなたの能力を信頼しているから、調査を依頼したのです。ちゃんと報酬は払いますから」
「わかっています。……わかっています」
 青田は、デスクに向かい、メモを取り上げた。そこには「連続ペット毒殺事件」の犠牲者となった犬や猫の飼い主のリストがあった。

1、草刈士郎 住所、林が丘駅前 ペット、チワワ
2、高橋鈴子 住所、堀山駅から5分 ペット、雑種の猫
3、左藤明彦 住所、美空駅から10分 ペット、シャムネコ
4、平井善文 住所、堀山駅前、ペット、狆



荒川辰夫の部屋━━2月26日午後5時

 それからしばらくして、平井は帰った。青田と楠木の二人は、家を出て、花村三平を尋ねたが不在だった。花村の奥さん曰く、「いつも深夜ごろ帰ってきますので」
 二人は出直すことにした。「では、また明日、うかがいます」
「はい。主人に明日は早く帰ってくるように伝えておきます」
「それはどうも。よろしくお願いします」青田と楠木は頭を下げた。
 荒川辰夫が住んでいたアパートは、堀山駅から少し離れたところにあった。青田の見るところでは「自転車で10分くらい」の距離である。
 二人はそのアパートを訪ねた。荒川の住居は2階であり、二人は階段を上ってドアの前に立った。青田がドアを引こうとすると、鍵がかかっていた。
「この部屋の鍵は……」
「私が持っている」楠木はポケットから鍵を取り出して、ロックを解除した。
「それはどこにありました?」
「被害者のポケットの中だよ。━━ああ、君はいなかったか」
「ひどいな。ぼくに隠れてコソコソやるなんて。ポケットの中の所持品は、あとでぼくもチェックしなけりゃならない」
「うん、そうするといい」
 すでに宵闇が迫っていて、部屋の中は薄暗い。電灯のスイッチを探し出した楠木が、灯りをつけた。
 まず目に入ったのは、玄関わきの傘と、折りたたまれたレインコートだった。
「謎解きの神様が、ぼくに考えよと囁いています」
「え、何だって?」
「いや、何でもありません」青田は部屋に踏み込んだ。部屋は男の一人住まいにしては片付いていた。「特にこれといって不審なところはありませんね」
 楠木はすでにいろんな物を引っ張り出したり、掻き回したりしていた。
 青田は気が進まなかったが、何かしていないとどやされると思って、ゴミ箱を突っついた。ドッグフードの空き箱がペシャンコにされて突っ込まれていた。キャットフードの袋もある。
 青田はギョッとした。部屋の中を見まわした。犬も猫もいない。飼っていた形跡もない。━━よろしい、落ち着くんだ。早計はいけない。早合点は禁物だ。
 机があった。引出しを開けると、メモ帳が見つかった。パラパラめくると、日記として使われているようだった。一日の記述は、何も書いていないか、1行程度で走り書きがしてあるかだった。
 青田は震える手で、最新の記述を探した。━━あった。

 2月25日
 ×成功。
 エサが切れた。今夜、林が丘へ買いに行くこと。

「×成功?」青田はページをさかのぼった。7日前、7日前……。

 2月18日
 美空へ行った。

 2月11日
 猫。

 2月4日
 誰かに見られた?
 自分の闇がこわい。

 青田はもはや確信していた。
「何をしているんだ」楠木がメモ帳を後ろからのぞきこむ。
「わかりきったことです」青田の興奮は徐々に静まっていった。「荒川だったのです。……ペットに毒入りのエサをやって殺していた異常者は、荒川だったのです」


 

容疑者は絞られた━━2月26日午後6時

 青田と楠木はレストランにいた。夕食は豪華にしようと、二人の意見が一致したのだ。
「これで、動機がわかりましたね!」青田はハンバーグをほお張りながら言った。「つまり復讐ですよ。愛犬、愛猫を殺された報復」
「動機としては、少し弱いんじゃないか?」楠木はステーキを切るのに苦戦している。「ペットを殺されたくらいで、人を殺すかな」
「わかりませんよ。世の中には、それくらいペットを愛している人がいるかもしれない。動機が他に見つからない以上、この線を追うべきだと思いますね」青田は、ポケットから1枚の紙切れを出した。「それが、今回の『ペット連続毒殺事件』の被害者のリストです。ひとりひとり、当たってみましょう」
「よろしい。しかしこれを食ってからだな」
「もちろん」
 さて、二人はまず、平井善文の自宅に行った。場所が近かったからである。
 青田は平井の家まで歩きながら言った。「ぼくは平井さんとはもちろん会ったことがありますが、他の3人は知らないのです。ペット殺しをそのまま調査していれば、いずれ会うことになったでしょうがね」
 平井は一戸建ての家に住んでいた。その家は、堀山駅のすぐ近くだった。ドアのベルを鳴らすと、いかにも家政婦然とした家政婦が出てきた。家政婦はかなり耳が遠いらしく、用件を伝えるために、青田は近所中の人間が家から飛び出すほどの大声でしゃべらなければならなかった。平井を呼ぶために、家政婦は引っ込んだ。
「やあ、いらっしゃい」平井は愛想よく笑いながら言った。「なんのご用です」
 青田は事情を説明した。平井は客間へ二人を招じ入れた。
 家政婦が出したお茶をすすりながら、平井は愉快そうに言った。「私が容疑者ですかー。殺人の容疑者。これはおもしろい。いちどこういう疑わしい容疑者というものに、なってみたかったのですよ」
「しかし犯人にされてしまうかもしれませんよ」楠木は忠告する。
「私はやっていないのだから、犯人にされることはない。これはもちろん、いわゆる≪形式上のこと≫でしょう? よく刑事ドラマとかで、ありますね。怪しげな容疑者が『君は私を疑っているのか!』と怒鳴る。すると刑事は泰然自若として、『これは形式上のことでして』。要するに、今回もそれと同じでしょう」
「まんざらそうでもありません」楠木は無表情で言った。
 平井は少しうろたえる。「まさか、本気で私を疑っている?」
 青田も楠木も、何も言わない。
 平井は立ちあがって、おろおろと歩き回った。「しかし……しかし私にはアリバイがある!」
 楠木は驚いた。「アリバイ?」
 平井はソファーに腰をかけた。「そうです、アリバイです。鉄壁のアリバイです!」
 そのとき、青田はアッといって立ちあがった。楠木はいぶかしげに青田を見やった。
「アッ、そうだった! あなたは昨夜ぼくと一緒にいたんでした」





平井のアリバイ━━2月26日午後8時

 平井がしどろもどろに言ったことを、整理すると、こうなる。
 2月25日(つまり昨日)、昼ごろ、彼の狆が庭先で死んでいるのを、家政婦が見つけた。てんやわんやしたり、警察に届けていたりしていると夕方になった。平井は警察は当てにならないと決め込んで、青田のところに行った。青田はいちおう〈現場〉を見ておかなければ、といって、平井の家へ彼と一緒に赴いた。現場の調査や事件の話や雑談などをしているうちに、9時近くになった。
「ぼくは自分の腕時計を見て、ちょうど9時になったことを知りました。『遅くなったので、帰る』といってお暇したのです」青田は口を挟んだ。
 平井は説明を続けた。「青田さんがかえって、すぐ、私は家政婦を起こしました。━━あー、うちの家政婦は、夕食の片づけが終わると、少し寝ることにしているのです」
 楠木はそのことに間違いがないか、家政婦に確認した。
「そうです。私は9時に起こしてもらいました。いつもそうしてもらっています」家政婦は言葉すくなに証言した。
 平井は自身まんまんに言った。「その後は、私は11時まで、居間で刑事ドラマを見ていました。貸しビデオの。この人は」と楠木は家政婦を指す。「私の前や後ろを行ったり来たりして家事をやったり、ときどきテレビに見入ったりしていました」
「つまりあなたには夕方から11時までの完璧なアリバイがあるわけですな」楠木は総括した。
「そのとおりです!」平井は手をこすり合わせた。「これで、私の潔白も証明された。━━いやしかし、スリルがある一瞬でした。無実の罪で、絞首刑にされる自分が目に浮かびましたよ。……私にアリバイがあったのは、じつに幸運でしたね」
「そうですね」青田は釈然としなさそうだ。何か考えている。
 平井は冷蔵庫からビールを取り出してきた。「乾杯しましょう。時の神様に」
 楠木はコップを受け取ったが、青田は遠慮した。「ぼくは9時15分にあなたに電話をしましたね。報酬の件について話しました」
「ああ、そうでしたね。確かそうだった」平井はビールを呷りながら言った。そんなこと、この際どうでもいいだろうという口調である。
 楠木はもう完全に平井を容疑者から外したような打ち解けた口調で、言った。「ところで、その刑事ドラマはどんなでした?」
 平井は答える。「コロンボですよ。『刑事コロンボ』……“歌声の消えた海”。おもしろかったですよ」



事実と演繹とジグソーパズル━━2月26日午後10時〜11時

 楠木と平井は酒宴を催していた。そのすきに青田は家政婦に質問をした。大声で。
「昨日は夜の11時以降、何をしました?」
「すぐに自分の部屋に引き取って寝ました。朝が早いので」
「いつもそうするのですね?」
「ええ」家政婦はあくびをした。
 青田は満足したようだった。
「昨夜の9時15分に電話がありましたか?」
 家政婦はうなずいた。「はい、ありました」
「ぜったいに9時15分でした? 正確に思い出してほしいのですが」
「9時15分でした。私は居間に掛かっている時計を見ましたから」
「そうですか……」
 青田は意気消沈したようだった。
 それからしばらくして、青田と楠木の二人は平井の家を辞した。楠木はほろ酔い気分だったし、時刻も遅かったので、今後の調査は明日に繰り越すことになった。楠木は酔って運転するわけにはいかないので、タクシーを拾った。彼の車は青田の家の前に一泊した。
 青田は風呂に入って、湯船のなかで、いろんなことを考えた。青田の推理法はいっぷう変わっていた。
 彼はまず、明白な事実だけを取り出した。これが最初の重要なステップだ。
 次に、それらの明白な事実から、確実に演繹できることだけを演繹した。このときに不確実な断定や想像を抑制して、論理の飛躍がないように注意した。
 彼は演繹できるまで精いっぱい演繹し尽くした。これ以上、分かることは何もないというところまで。
 そこからが想像力の出番だった。彼は十分に想像力を働かせて、始めから分かっていた事実や、演繹されて導き出された≪事実≫をつなぎ合わせて、ひとつのストーリーを作った。これはジグソーパズルの要領でやれた。
 そして、もういちど冷静になって、仮説に矛盾がないか確かめた。おかしなところがあれば、どこかで間違ったのだ。「明白な事実」が明白でなかったり、「演繹」にミスがあったり、「ジグソーパズル」でしくじったりしたのだ。
 青田はいつもこんなふうに推理した。そうすると間違いが少なくなるからである。
 しかし今夜はいかんせん眠すぎた。何度か風呂に溺れて死にかかった。青田は睡魔に降参して、いさぎよくベッドで寝ることにした。



林が丘にて━━2月27日朝8時

 青田は大きなあくびをした。林が丘駅へ向かう電車に乗っている。楠木もつられてあくびをしそうになったが、噛み殺した。
「まだ朝の8時ですよ」青田は腕時計を見ながら言った。
「もう、朝の8時だ」楠木は言った。
 電車がつき、ドアが開いた。二人は降りた。
 堀山駅より、ずいぶん立派な駅だった。自動改札機もあるし、駅員もいる。電車の中で買った乗車券を見せて、二人は改札をくぐった。
「あ、コンビニがある」
 コンビニが駅の中にあった。青田が入っていったので、楠木はついていった。
 青田は何か探していた。立ち止まると、叫んだ。
「やっぱりそうだ! ほら、これ、ドッグフードとキャットフード。荒川の部屋にあったやつと、おんなじですよ。荒川の日記に書いてあったことを覚えていますか。『林が丘へ買いに行くこと』。ここのことですよ」
 二人はコンビニを出た。林が丘へ来た本来の目的は、容疑者・草刈士郎と会うためである。
 草刈は≪ほのぼの荘≫というアパートの4階に住んでいた。ブザーを鳴らすと、むさくるしい顔が出てきた。
「なんスか? 誰スか?」
 袖なしシャツに、短パンで、汗がだらだらこぼれている。
 楠木が事情を話すと、「んじゃ、中へ」と二人を招き入れた。
 部屋の中はトレーニング・ルームさながらだった。青田が、深夜のテレビでやっている通販で見たことがあるのも、あった。
 今はトレーニングの最中なので、続けてもよいか、日課なので、どうしても続けたいのだが、と草刈は楠木に頼んだ。楠木はなんとなく承諾した。草刈は腕立て伏せをはじめた。
「チワワを飼っていらしたんですよね」青田は訊いた。
 草刈は腕立て伏せしながら、答えた。「ええ。チワ太郎って、ハッ、名前でした。かわいい、ホッ、やつでした。それが、フッ、あんな殺され方をして。犯人を、ハッ、見つけたら、クッ、ひねりつぶして、ホッ、やったでしょうよ」
「一昨日の、2月26日だね。その晩の8時30分から11時までのことを、訊かせてほしいのだが」今度は、楠木が質問した。
「その晩は、ハッ、仕事でしたよ。私は、ウッ、警備の仕事を、クッ、しているんです。夜勤で、ンッ、9時からなんです。9時には、フッ、仕事場のビルに、ウッ、いましたね。それから、ハッ、深夜までずっと、オッ、そこで詰めていました」
「なるほど。それを証明できますか」楠木はたずねた。
 草刈は腕立て伏せをやめて、今度は腹筋運動をはじめた。
「証明もなにも、ホッ、同僚が、ハッ、ずっと一緒にいたので、へッ」
「なるほど」
 草刈はタオルで顔の汗をぬぐって、ゆっくり立ちあがった。「しゃべりながらやると、結構疲れるもんですね。いいトレーニングになりました」草刈は二人に握手を求めた。二人は握手に応じた。


 

現場存在証明━━2月27日午前10時

…林が丘駅…………堀山駅………………美空駅…

 簡単な路線図を挙げておく。林が丘駅は上り方面であり、美空駅が下り方面である。
「結論から言うと、草刈に犯行は可能ですね」
 青田と楠木は、高橋鈴子の住むマンションへ向かっている途中だった。
「堀山駅発20時45分の電車があるのです。それに乗ると、20時50分には林が丘駅につきます。草刈の仕事場は、駅のすぐ近くなので、9時には間に合うのです」
 楠木はうなずいた。「平井と違って、不完全なアリバイなわけだな」
「不完全なアリバイ。……言い得て妙ですね」青田は言った。「ところで、平井のアリバイは、完全だと思いますか?」
「完全じゃないか。君も証人だろう?」
「平井が家を抜け出して、凶行をやって、それから戻ってくるのには、15分もあればじゅうぶんだと思いますね」
「その15分がなかったのだろう? 『コロンボ』を見ているときに、こっそり抜け出したというのか? それはあいにくだが、無理だと思うね。家政婦が、もし平井がいないと気づいたら、おかしいと思うだろう」
「もちろん『コロンボ』はちゃんと居間で見てたでしょうよ」
 楠木は首を傾げた。
 高橋鈴子が住むマンションに着いた。堀山駅から徒歩で5分のところだ。
 出てきたのは、髪の長い、色白の、20代前半くらいの女性だった。「あの……どなた……」
 楠木は警察手帳を取り出して、事情を説明した。かくかくしかじかであるゆえ、お話を聞かねばならない。あくまで形式上のことであり、びっくりしたり、おびえたりすることはない。
 部屋の中に入ると、紙が散乱していた。その紙の一つ一つに、いろんな絵がかかれていた。猫の絵がいちばん多かった。
「……すみません……私の部屋、散らかっていて」鈴子は少し片付けはじめた。
「いやいや、こんなの散らかっているうちには入りませんよ」青田は正直に言った。「どうぞお構いなく」
 鈴子は、今は出版社の仕事をしているが、将来は絵本作家になりたい。お話を作るのは苦手だが、心温まる絵を描くのなら、得意なつもりだ。とくに猫が好きで、よく描くのだ、と説明した。
 猫がみゃーみゃー鳴いているのが、聞こえた。台所のほうから、三毛猫が飛び出してきた。
 青田は驚いた。「あれ、猫がいるんですか?」
「ええ、死んだのは、もう一匹のほうです。……もともと2匹飼っていたのです」鈴子はとても悲しそうな顔になった。「2匹とも捨て子で、同じダンボールに入れられて、一緒に鳴いていました。……かわいそうな気がして、私、拾ってきたんです。育てはじめて、1年くらいになります」
 楠木は一昨日の晩のアリバイを訊いた。
 鈴子の説明をまとめると、こうである。鈴子は友達のユリと、林が丘へ買い物に行った。晩ご飯を一緒に食べて、ぶらぶらしていると、9時を過ぎていた。林が丘駅で下りの21時14分の電車に、一緒に乗った。鈴子は21時20分に堀山駅で降りた。ユリとは電車の中でお別れをした。ユリは美空に住んでいるので、そのまま乗っていたのだ。それから鈴子は帰って休息した。
 青田は慌てて口を挟んだ。「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。そうすると、あなたは9時20分に堀山駅にいたんですか!?」
「え、そうですけど……」
 青田は、被害者の死亡推定時刻が8時30分から11時までのあいだであることを話した。「あなたは、犯人か、そうでなくても、第一級の重要な証人です。あなたは待合室に何かを見ましたか、それとも何も見ませんでしたか?」
「わ、私……」鈴子は胸を抑えて、苦しそうにあえいだ。「……あ、あの……」
「ぼくは何もあなたを苛めているんじゃない。ただ教えてほしいだけなんだ。あなたは何か見ましたか?」それともあなたがやったんですか。青田は思わずそう言いそうになった。
「……私、下りのプラットフォームから外に出たんです。下りのプラットフォームには抜け道があって、そこを通るほうが、近いんです。……それで、待合室のほうは見もしなくて」



推理小説談義━━2月27日正午

 ━━堀山駅で。
 堀山駅の下りのプラットフォームには、確かに抜け道があった。高橋鈴子のマンションへ行く近道になっていた。
「上りの方から出ると、踏切までかなり歩かなけりゃなりませんね」青田は、遠くにある踏切を目を凝らして見た。「この抜け道を使うのは、当然かもしれない」
 青田は下りのプラットフォームから待合室を見た。ベンチはよく見えない。死体があったとしても、見えないだろう。
「しかし」楠木はタバコを踏んで消した。「クサイな。現場にいたということだからな」
「……そうですね。怪しいといえば、怪しい。とりあえず、もう一人の容疑者の話を聞きましょう」
 二人は電車に乗って花村へ行った。左藤は大学生で、アパートに住んでいた。
 部屋のドアの前で、ノックすると、左藤が出てきた。
 左藤はごく平凡な見た目の青年だった。楠木が事情を説明すると、「え、ぼくは何もやってませんよ。違いますって、ぼくじゃないですよ!」とたいへんな慌てようだった。
 楠木と青田は彼を落ち着かせるのに骨を折った。二人は部屋に入った。部屋の隅にダンボール箱があり、文庫本が詰め込まれていた。
「お、君〜」青田は親しげに左藤を抱擁した。「楠木さん、彼は犯人ではありませんよ」
「なぜ」楠木はダンボール箱を覗いた。青田がペンネームで書いた推理小説があった。
「左藤くんはぼくの推理小説のファンですよ。今までぼくが書いた本が、3冊とも並んでいます」
 左藤はビックリしたようだった。「え、じゃあ、あなたがあの◎○●さん!?」
 青田はうなずいた。
 左藤は青田にサインを頼んだ。青田は本やシャツにサインした。それから記念撮影をしようということになった。「そこの刑事さんもついでにどうです」左藤は楠木を誘って、三人一緒に写真に映った。
 青田と左藤は、テーブルをはさんで、ミステリ談義をはじめた。
「推理小説はエンターテイメントである」
「賛成!」
「エンターテイメントであるからには、作者は、読者に無償の奉仕をしなけりゃならぬ」
「賛成!」
「≪本格≫は甲賀三郎が発明した言葉であり、当時の≪変格≫探偵小説に対して、言われたものだ。つまりそれは純然たる形式のことだった。これは日本独自の用語である」
「ふむふむ」
「しかるに、現今日本においては、この用語はもっと本質的な意味で、使われているようだ」
「な〜る〜」
「……ひとむかしまでは、旧弊な形式を打破することが、当時の推理文壇の目標だった。この運動の旗印を掲げたのが、松本清張だ」
「はあ〜」
「松本清張はじっさいミステリに新風を吹きこんだ、偉い人間だ。━━さて、いわゆる新本格ブームは形式への回帰を意味した。新本格第一波の人々は、若いながら、本物の実力の持ち主だった」
「よ、大将!」
「しかるに、だんだん形式だけで、中身がともなわない作家や作品もちらほら見うけられるようになった! あるいは、その逆に、本格の形式をとっていないのに、本格ミステリの面白さをもつミステリも書かれた! ここからが問題だ!」
「その調子!」
「≪本格≫とはなんなのか? その面白さはどこにあるのか? ここに作家や評論家の悩みが生まれた!」
「いや、ほんと」
「ぼくはここに、新たな標語を掲げたい。曰く『本格とは形式ではない。本格スピリットのことである!』」
「少しよく分からないな」
「……つまり形式はどうでもよいが、謎解きに知的な面白さがほしいということだね。ぼくは、この知的な面白さを<本格スピリット>と名づけたい」
「へえ〜」
 楠木はなんのことだか分からなかったので、退屈だった。ダンボール箱の中は、すべて推理小説だった。青田はなんのためにここへ来たのか、忘れているようだった。


左藤の推理━━2月27日午後2時

 楠木は横槍を入れて、二人の永遠に続きそうな推理小説談義を終わらせた。楠木は一昨日のアリバイを尋ねた。
「一昨日は、━━えーと、確かミステリーサークルの集まりがありました」左藤は答えた。
「ミステリーサークル?」楠木は、横倒しにされた稲で描かれた神秘的な模様をイメージした。
「あ、ぼくの言い方が変でした。ミステリーのサークル、大学の推理小説の同好会です」
「ははあ、なるほど」楠木は合点がいった。
「いっしょに料亭へ行って、ご飯を食べて、グダグダくっちゃべっているうちに、もう夜の10時になっていました。それでお開きになりました。それからここに帰ってきて、寝ました」
「その料亭はどこだね?」
 左藤は料亭の場所を言った。堀山駅から遠くないところだ。
「どうですか、ぼくのアリバイは完璧なもんでしょう?」左藤は落ち着き払っていった。
 青田は注意する。「被害者の死亡推定時刻は、夜8時30分から11時までだ。じゅうぶん可能だと思うね」
「え、本当ですか?……でも、ぼくは酔っ払っていたし……その日はとても疲れていたので……とても人殺しなんてできる状態じゃありませんでしたよ」左藤は必死に自分の容疑を晴らそうとしている。「もし人殺しをするんだったら、次の日に回しましたよ。ベストコンディションで臨みましたよ」
 楠木は「ああ、そう」とつれない返事をした。楠木は自分のメモ帳にメモした。━━「左藤には10時以降のアリバイがない。」
 青田は左藤に昼食を御馳走してもらうことになった。「お近づきのしるしに」と左藤は言うのだ。「ついでにそこの刑事さんもどうです?」
 三人でスパゲッティーを食べた。
 青田は極秘にしておくべき捜査情報をどんどん漏らしていた。「……今度の事件は、こういうわけだが、ぜひミステリマニアのきみの意見を聞いてみたい」
 左藤は目をきらきらさせて考えている。自分が容疑者の一人であることを、もう忘れたらしい。「そうですねえ、まず、ぼくがどうも不思議でならないのは、なぜ、あなた方名探偵と名刑事のお二人は、荒川がペット殺しの犯人であると決めてかかっているのか、という点です」
 楠木は驚いた。「どういうことだ?」
「つまり、荒川は、ペット殺しの犯人じゃないかもしれない、ということです。なるほど、ドッグフードの紙箱や、キャットフードの袋はあったかもしれない。日記の記述もあった。この二つのことが、荒川がその『異常者』であることを証拠立てていた。しかし、その証拠は捏造されたものかもしれませんよ」
 青田と楠木は考えてみた。
 左藤は続ける。「いいですか。アパートの鍵は被害者のポケットにあった。言いかえれば、犯人は被害者を殺したあと、鍵を自由に使えたのです。そのあとで、ポケットに戻せばいいんですから。犯人は、荒川の部屋に入り、ドッグフードやキャットフードのゴミを、ゴミ箱に突っ込んでおくことができた」
「しかし日記は捏造のしようがないな」楠木は口を挟む。
「いえ、問題ありません。お話を伺っていると、日記には何も書かれていない日もあったんでしょう? おそらく偶然に7日ごとの火曜日に、何も書かれていなかったんですよ。犯人は、荒川の筆跡を真似て、怪しげなことを、少しだけ書けばいいんです」
 青田は、本当に感心している顔だ。「それで、犯人はなぜ、そんなことをしたんだい?」
「それはもちろん、自分を容疑者のリストから外すためです。……ぼくはペット殺しの真犯人が、荒川を殺したんだと思います。何かの動機でね。……まあ、あるいはペット殺しにはぜんぜん無関係な人物かもしれませんね。━━荒川がペット殺しの犯人と見なされれば、とうぜん捜査陣はペット殺しに関連した方向で、捜査を進めるでしょう。ペットを殺された復讐だと動機を決めつけて、容疑者を絞ってしまう。犯人の狙いはそれですよ」
「ほうほう」青田は楽しそうだ。「そうすると、きみを含めた4人の容疑者のほかに、犯人がいるというんだな?」
「ずばり、その通りです。犯人は賢い。ニセモノの動機で、本当の動機を覆い隠しているんですからね! ぼくの推理はきっと間違っていませんよ」左藤は椅子にふんぞり返った。



家政婦は見た━━2月27日午後3時

 荒川の日記の筆跡鑑定を行ったところ、偽筆である可能性はゼロだということだった。
 警察はいろいろな捜査を行っていた。堀山駅で降りた人物はいなかったか、電車の車掌は怪しげな人物を見なかったか、駅周辺での目撃者はいないか、……めぼしい収穫はなかった。
 楠木は捜査会議のために警察へ戻った。
 青田は平井の家を訪ねた。出てきた家政婦は、今は平井は出かけていて留守だといった。
「少し訊きたいことがあります」青田は言った。「一昨日の晩、9時15分に電話があったといいましたね? その晩の電話は、それだけでした?」
「……ええと。ああ、そう、その前にも、ありました。私が平井さんに起こされてすぐ、電話が鳴りました。平井さんは受話器に飛びついて、何か話していました」
「話の内容は聞こえました?」
「私は耳が遠いので」家政婦はすまなそうに言った。
「じゃあ、9時15分の電話ですね、そのときにベルの音は聞こえました?」
「ベルが鳴ったかは分かりません。耳が遠いので」
「そうですね。もちろん、そうでしょう」青田はニコニコしていた。
「話の内容は聞こえました?」
「私は、いちどそばを通ったのです。それで、少し小耳に挟みました。ええと、確か、『アオ』だとか『ホウショウ』だとか聞いたように思います」
「青田、報酬、ですか?」
「そう、そんなふうなことです」
「なるほど、うまいことやるもんだ」青田はひとりごちた。「━━ところで、この家には時計はいくつあります?」
 家政婦はしばらく思い出していた。「一階に3つ、二階にも3つだと思います」
「あなたは一昨日の晩、二階へ行きました?」
「いいえ、二階でやる家事は、昼間のうちにやっておくのです」
 青田は頭を下げた。「ありがとうございました。おかげさまで、もう少しで事件が解決できそうです」


 


青田の告発━━2月27日午後5時

 平井の家の前の道路、午後5時。
 平井善文は映画館で『スパイダーマン』を観て、いま帰ってきたところだった。彼はスパイダーマンのように素早い動きで、玄関までたどり着くと、ドアを開けた。
「ただいま━━うお、びっくりした」平井は思わず腰を抜かしそうになった。「何をしているんだ、人の家で」
 青田は平井の家の中に立っていた。悲しそうに。自分の手で人に引導を渡すのは、なんとも辛いことだ。たとえ相手が殺人者であっても。「あなたを待っていたのです……真実を聞くために」
「真実?」平井は非難がましく言った。「私が知っている真実はすべて話した。これ以上話すことはない」
「いいえ、あなたは大事なことは何もおっしゃらなかった。……例えば、あなたに貞文というお子さんがいたこと」
 平井は明らかに動揺した。「……そ、そんなことが、何だというんだ。確かに私には貞文という子がいた。生まれつき病弱で、3つのときに死んでしまったが。それから、妻とも別れた」
「重要なことです。たいへん重要です。このことは、あなたがただのペットに尋常ならざる愛情を抱いていたかもしれない可能性を示唆します」
「ふん」平井は手提げ鞄を持ち替えた。「━━とにかく話はあちらで聞こう」
 二人は押し黙って居間に移動した。平井はソファーに座るように勧めたが、青田は立ったままだった。
「確かに私は、犬の貞文を愛していたよ。自分の子供を愛するようにね」平井は無理に笑おうとした。「しかし、そんなことがなんだね。私にはアリバイがあるじゃないか」
「あのアリバイはでっち上げです」青田は即座に言った。
 平井はうろたえた。何も言えなかった。
「あなたは、ぼくが9時に帰ってから、家政婦を起こすまでのあいだに、堀山駅へ行って、荒川を殺したのです」
「不可能だ」
「可能です。あなたは9時15分に家政婦を起こしたんだ。一階の時計をすべて15分遅らせて」
「何を言っているのか理解できん」
「しらばっくれても無駄ですよ」青田はソファーに座った。「あなたの行動を順番に説明しましょう。まず9時にぼくが帰ると、あなたはすぐさま堀山駅へ向かった。駅の構内に入る前に、靴についた泥を落とすなり、靴を脱ぐなり、別の靴に履き替えるなりした。あるいは、布か何かで足跡を拭い取ったのかもしれない。足跡を残せば重要な証拠になるからです。当然の行動です」
 平井は壁を見て黙っていた。
 青田は続けた。「急いで犯行を終え、家に戻ってきた。それからすぐ、一階の3つの時計をすべて15分遅らせ、9時を指すようにした。そして、家政婦を起こし、9時だと錯覚させる。そのまま夜まで、一緒にいれば、完全なアリバイができる」
「バカバカしい」平井は震える声で言った。
「あなたは余裕シャクシャクだったんでしょうね。人を殺したあとで、アリバイ工作に『刑事コロンボ』を利用するとは! 完全犯罪を成し遂げようとした人間が、どうやって失敗するかを、研究していたんですか!?」
 平井は鼻を鳴らした。煙草を取り出す手が震えている。
「あなたの計画は完璧だった。しかし実行に際して、ひとつのアクシデントが起こった。ぼくの電話です」
 平井は何も言わない。
「ぼくは9時15分に電話をかけました。あなたは家政婦を起こしたとき、電話が鳴って、一瞬パニックに陥ったでしょうね。家政婦はもちろん、時計を見て、その時刻を9時と記憶するでしょう。そうなれば、ぼくと家政婦の話を照合してみれば、家政婦が15分時刻を錯覚していたのは、誰にも明らかになってしまう! ひいては自分の犯行も立証されたようなものです。あなたはぼくとの電話を切ったあと、きわめて賢く立ちまわらなければならなかった。そしてじっさい、あなたは恐ろしく賢くやったのです。あんなみごとなやり方は、とても思いつけるもんじゃない」
 平井は、煙草に火をつけるのを忘れていた。「推理小説の読みすぎだ!」
「あなたはこの家の時計が、9時15分を指したとき、つまり、それは本当は9時30分なのですが、ぼくからの電話を受けたように家政婦に見せたのです。あなたはベルも鳴っていないのに受話器を取った。そして、『青田』だとか『報酬』だとか、あたかもぼくと話しているようにしゃべったのだ。家政婦に聞かせるために! ぼくと家政婦の証言が矛盾しないように!」
 平井は煙草に火をつけた。「きみの言っていることは理解できないでもない。しかし私はそんなことをしていない。きみは推理作家になるべきだよ。そのトリックをネタにして、乱歩賞にでも応募するといい」
 青田は言った。「いや、ぼくはもう推理作家なので」
「あ、そうなのか」平井は膝を打った。「道理で妄想が過ぎると思った。いいかね、きみ、現実は推理小説ではない。そんなトリックは誰も実際には使わん」
「しかし、あなたはそうしたんだ!」青田は立ちあがった。
「証拠は! 私がそんな下らんせせこましいことをしたという証拠は! 私が殺したという証拠は!」平井も立ちあがって怒鳴り声を上げた。
「では、訊きますが、9時にかかってきたという電話は、誰からでした?」
「間違い電話だったよ」
「間違い電話だなんて、言い訳に決まってる!」
「だから証拠を持って来いと言っているだろう! のっぴきならぬ証拠があれば、刑務所でもなんでもぶち込まれてやる!」平井は座った。「もっともそんな証拠、あるわけないがな!」平井は手を払って、出て行け、というしぐさをした。
 青田は憤然として居間を飛び出し、玄関のドアをバタンと閉めて、出ていった。
 ━━ぜったいに証拠をつかんでやる。なんとしても見つけ出してやる。



最後のデータ━━2月27日午後6時〜10時

 その後、青田は極めて精力的に動きまわった。まず彼は、花村三平宅を尋ねた。が、留守であった。(チッ、三平め、はやく帰って来いよ!)と、普段人の良い青田も、そのときばかりは心の中で悪態をついた。
 青田は一昨日の晩のことを思い出した。9時から振り出した雨は、だんだん本降りになったのではなかった。9時5分にはすでにザアザア降っていた。
 はじめに現場に到着した警官は、現場に近い派出所の横倉巡査だった。11時30分に彼は現場についた。青田は巡査に、現場に到着して被害者の衣服に触れたか訊いた。巡査は「ハイ、触れました。まったく濡れておりませんでした。乾ききっていました」と答えた。
 警察の科学捜査課に行って、雨に濡れたコートやセーターやジーンズが3時間程度で乾くものか訊いた。「まあ、乾かないでしょうなあ」
 それから、青田は堀山駅へ急行した。彼は駅周辺を見渡し、堀山駅が見事なまでに田んぼに囲まれていることを確認した。
 駅周辺の泥土はすっかり乾いてパサパサになっているようだった。彼はひたすら歩いた。そして駅の構内に踏み込んだ。足跡はほとんどつかなかった。たんに汚れ程度のものが残っただけだ。「エクセレント!」青田は歓喜の声をあげた。
 ふたたび花村三平を尋ねた。彼は在宅していた。「奇跡だ!」と青田は心中で喝采した。
「二つだけ、質問したいのです。死体を発見したときの現場の状況について」
「はいはい、何でもお聞きになってください」
「まず、駅の構内の床にですね、目立った泥の足跡はありましたか?」
「はて、どうでしたか。残念ですが、よく思い出せません」
「これはたいへん重要なことなのです。是が非でも思い出してもらわなければ、困ります」
「(花村は面白い顔をして考えている)……あ、思い出しました。何にもありませんでした。足跡はなかったです」
「もうひとつの質問は、待合室の窓についてです。窓はすべて閉まっていましたか?」
「そんなこと言われましてもなあ。目の前に死体があるのに、窓に注意するというのは妙なことで」
「それはごもっともです」
「しかし、私が窓に触らなかったことは、保証できますなあ。巡査さんに訊いてみればよいのでは?」
 それで、運命にもてあそばれて、青田はまたもや横倉巡査のところへ行かなければならなかった。
「窓は閉まっていましたか?」
「ハイ、閉まっていました。私はいちおう職業がら、現場を入念にチェックしたのです。待合室の二つの窓は施錠されて、閉まっていました」
「ありがとう。あなたはきっと出世しますよ」
 青田が自宅に帰ったとき、10時を過ぎていた。
 青田はベッドに横たわり、精神統一して、考えはじめた。彼は一連の推論を行い、ひとつの結論に達した。そしてその結論によれば、犯人はあの人物以外に考えられなかった。
 ━━よし、決戦は明日だ。例のやつを、堀山駅の駐車場でやろう。多少非常識だが、地味な事件だったのだから、最後くらいは盛り上げなければ。今夜は、ぐっすり寝て、英気を養うとしよう。



読者への挑戦

ジュナ丸は読者に挑戦します。
荒川辰夫を殺した犯人は誰か?
このミステリの登場人物は少ないので、勘でやって、当てることは簡単なのです。
いかにして犯人を論理的に指名するか?
ぼくの挑戦はそこであります。
ヒントを与えましょう。ぼくがやりたかったのは、フーダニットか、ハウダニットか、ホワイダニットか、それとも……。



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