トリック・オア・トリート! |
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10月17日午後8時。音藤家。 音藤茜(おとふじ・あかね)は受話器をかけて電話を切った。彼女は丸星大学ミステリサークルの部長だったので、副部長の白瀬尚幸(しろせ・なおゆき)と、サークルのイベントのためのちょっとした打ち合わせをしたのだ。経費のことについてである。 イベントというのは、音藤家の別荘に集まって、若手の推理作家の話を聞く、というものだった。ちょうど日程が10月31日――ハロウィンの日だったので、ついでに仮装パーティーもすることになった。 その推理作家(名前は青田勇(あおた・いさむ)という)に仮装パーティーのことを話したら、「楽しそうですね、僕も仮装してきます」という返事だった。茜は、部員一人ひとりに連絡を取り、参加名簿を作った。 音藤茜、音藤碧(おとふじ・みどり)、白瀬尚幸、黒川真(くろかわ・しん)、村崎忠文(むらさき・ただふみ)、仲原和香(なかはら・わか)。 結局、参加できるのは6人だけだった。 引っ込み思案の茜はパーティーに乗り気ではなかった。しかし推理作家の青田勇の話には興味があった。青田はメジャーな推理作家ではなかったが、探偵をしていて推理作家もしているという変わった人種である。面白い話を聞けそうだった。部長という建て前、欠席もしにくい。 出席をするには、仮装していかなければならない。茜は、同じ大学に通っていて、サークルも同じである、妹の碧と一緒に、仮装衣装を探した。今ではインターネットという便利なものがあるから、面白い仮装衣装を探すのに手間はかからなかった。二人は笑いあいながら、いろんな仮装衣装を見た。茜は妹のことが好きだった。碧も姉を慕っていた。茜と碧は、ミステリという趣味以外に、似たところがほとんどといっていいほどなかった。茜は引きこもりがちで押しが弱かったが、碧は反対に天真爛漫で何事にも積極的だった。しかし、互いの違う部分に惹かれ、お互いに敬愛しあっていた。 ★ ★ ★ 同日同時刻。村崎家。 村崎忠文はクイーンの第二長編を読みながら、手が細かく震えているのに気がついた。最近は注意力が散漫になっていて、どんなことにも集中できなくなっていた。目は活字を追っても頭に内容が入ってこない。何度も何度も読み返して、ようやく理解でき、そして単純なことを何度も読み返さないと理解できなかったことに驚かされた。 原因はわかっていた。 やめなければならないと思いながらも、やめることができなかった。 村崎は本を放り投げて、なかば這うようにして、書き物机の引き出しに向かった。強いめまいがした。自分が歩いているのか、這っているのかわからなかった。引き出しを開けて、中から小さなビニール袋を取り出した。その袋にはごくわずかな白い粉が入っていた。別の引き出しを開けて、注射器を取り出した。暗澹たる思いに気が沈んだ。 (もう、どうにでもなれ。どうにでも……) ★ ★ ★ 同日同時刻。あるアパートの503号室。 「はい、わかりました。どうも」 黒川真は電話を切った。真はエプロン姿のままだった。テレビを見ていて、食器の片づけが遅れたのだ。そこに電話が鳴ってきた。 亮は兄が電話していた様子をずっと見ていた。真は振り返って、はじめて亮がそこにいることに気がついた。 「おお、亮か。お前、聞いていたのか」 亮は照れ隠しに笑った。「うん。誰から?」 真は台所に向かいながら、言った。「サークルの部長の音藤茜さん。ほら、碧さんの姉だよ」 亮は音藤茜という名前を聞いて、少し心が弾んだ。亮にとって、この名前の響きは、他の名前が持ち得ない特別なものだった。しかしそのことは、亮のほかに誰も知らないのだ。 真は続けていった。 「推理作家を招いて、パーティーをするんだってさ。ハロウィンの仮装をするらしい。俺も行くことにした。お前も来るか?」 亮は悩んだ。悩んでいるまま首を振った。 「いや、勉強があるから」 真は手を泡だらけにしたまま、亮のほうに向かい合った。 「おいおい、また勉強か。勉強ばかりじゃ友達もできないぞ。……お前が勉強をがんばるのはわかる。それにはちゃんと目的があるんだ。俺たちは、他の家族と違うわけだからな。俺たち二人で母さんを支えていかなきゃならないんだから」 亮は、そうだね、と言った。「でもやっぱり勉強しなきゃいけない。受験も近いし」と、口ではそう言いながら、胸のうちでは、やっぱり行きたいと思った。推理作家には興味はない。だが行きたい。 真は溜め息をついて、また皿洗いにとりかかった。母親は、まだ仕事から戻っていない。 亮は内心の希望を振り払うように、首をぶるんと振ると、自分の部屋に戻った。 ★ ★ ★ 10月31日。 青田勇は愛車のハンドルにかじりついて夜道を運転していた。アスファルトで舗装された道路から外れて、林間の砂利道に入ると、灯りはヘッドライトだけになった。林の中の闇は濃かった。道幅も、それほど広くはないので、注意して運転しないと、事故を起こしそうだった。 時計をチラッと見ると、夜の7時45分だ。 (パーティー! ……なんだってこんな遅くにパーティーをやるんだろう) 青田は心の中で愚痴をこぼした。できれば家に帰って、柔らかい布団にくるまり、昼寝のときに見た夢の続きを見たかった。それは推理小説のような夢だった。不可解な殺人事件、怪しげな容疑者たち、二転三転する推理、……かつて見たどんな夢よりも甘美な夢だった。ところがいまから解決編というときに―― (目覚まし時計が鳴った。はあ。あと一時間寝ていたらぜんぶ見られたのに) 青田がひとしきり悔しがっていると、前方に灯りが見えた。ほどなくして、空き地に到着した。車が何台か停車している。駐車場だ。目的地に着いた。 昨夜から今朝まで降った雨で、駐車場はぬかるんでいた。 青田は車から降りる前にきちんと扮装した。通販で買ったハロウィンのかぼちゃの被り物だ。目と鼻の部分が三角にくりぬいてあり、口は不気味に笑っている。本物のかぼちゃではないがよくできている。これを頭にかぶるとかぼちゃ男になれる。<かぼちゃ男>は車から降りた。 音藤家の別荘は木造のペンションといった趣だった。なかからは愉しげな談笑の声が聞こえてくる。サークルの部員はもう集まっているらしい。<かぼちゃ男>は深呼吸した。山間の清澄な空気がすがすがしい。推理作家として大学のサークルから招待を受けるのは初めての体験だった。講演などもしたことがないから、いくらか緊張した。 <かぼちゃ男>はドアの前に立ち、ブザーを鳴らした。中から誰かがドアを開けた。 ドアを開けたのは、魔女の格好をした女性だった。黒い服に、黒いトンガリ帽子、手にはほうきを持っている。ネズミやトカゲをぐつぐつ大釜まで煮ている醜怪な魔女と言うよりも、魔法使い見習いという印象だ。彼女は<かぼちゃ男>を見たとたん、驚いてキャッと声を上げた。 <かぼちゃ男>はあわててかぼちゃを脱いで、「青田勇です」と自己紹介をした。 <魔法使い見習い>はくすくすと笑って言った。「お待ちしていました。どうぞお入りください!」 <魔法使い見習い>に先導されて、<かぼちゃ男>は廊下を通り、広い部屋に案内された。<かぼちゃ男>は一瞬ぎょっとした。 薄暗い部屋だった。天井の蛍光灯は消してあり、灯りは、部屋のあちこちに配置されたハロウィン用のかぼちゃのランタンと、テーブルの上にあるろうそくに見立てたライトだけだった。その幻想的な光に浮かび上がっているのは、人ならぬ化け物どもの姿だった。 テーブルでチェス盤をはさんでチェスをしているのは、フランケンシュタインと狼男だった。フランケンシュタインは縫い合わせた痕が生々しいぞっとする青い顔をしていた。狼男がくるりとこちらを振り向いたとき、<かぼちゃ男>は思わず声を上げそうになった。毛むくじゃらで、耳がぴんと立ち、なかば開いた口からとがった牙が見えた。 部屋の隅の椅子にはマントを着た骸骨が座っていた。骸骨は左手でノートを支えて持ち、ペンで何か書いているようだった。 テレビの前のソファに座っているのは、妙にひょろ長い顔をしたお化け(?)だった。黒い頭巾をかぶったお化けはテレビを真剣に見つめてる。 「皆さん」と隣にいた<魔法使い見習い>が言った。「青田勇先生がいらっしゃいましたよ〜」 その声にハッとしたように、ソファのお化けが立ち上がった。頭巾を脱いで、仮面をとると、そこには意外なことに女性の顔があった。彼女はスリッパをペタペタいわせながら歩み寄ってきた。「青田勇さんですね。本当に今日はこんな辺鄙なところまでご足労いただいて。私たちなんかのためにいろんな話までしていただけるそうで」 「いや、なんでもないことです」青田もかぼちゃを脱いで言った。かぼちゃを脱いだり着たり大変だ。 「申し遅れました。わたくし、このサークルの部長をしています音藤茜です」茜はぺこりと頭を下げた。 「どうも。はじめまして」と青田も会釈した。 フランケンシュタインと狼男も立ち上がって、ともにマスクを脱いでいた。フランケンシュタインのマスクの下から現れたのは、眉目秀麗な美男子だった。狼男のマスクの下から現れたのは、痩せこけて鋭い目つきをした男だった。 先ほどまでフランケンシュタインだったほうの男が言った。「青田勇先生ですね。僕は先生のファンなのです。新刊が出ると必ず買うようにしています。先生の御本はぜんぶ三回どおり読んでいます。『災厄の靴に棲む猫の不思議』なんて一文一文暗記しているくらいです」彼は青田の手をしっかと握った。「黒川真と言います」 青田は思わず感激して目頭が熱くなったが、クールに「ありがとう」と言った。「あなたのような熱心なファンがいてくれると、僕もがんばらなくちゃと思います」 狼男だったほうは、テーブルのそばで頭を下げていった。「おれは村崎と言います。村崎忠文。よろしくです」 青田は「こちらこそ」と言った。 部屋の片隅にいた骸骨もいつの間にかそばに来ていた。骸骨のマスクはぺしゃんこになって左脇に挟まれていた。えらが張って頬骨が突き出て鼻がひしゃげた顔だった。彼は低い声で言った。「私は白瀬尚幸と言います。いちおう副部長ということになっています。はじめまして。先生の本はすべて読んでいます。さすがに黒川くんのように三回どおりとはいきませんが」白瀬はクックッと笑った。「一通り読んでいます」 「ありがとう」と青田は言った。「本当にここのサークルはすばらしいね」 そのとき部屋の奥にあるもうひとつのドアが開いて、女ドラキュラが現われた。口の端から牙が出ている。<骸骨>の白瀬と同じく、こちらも黒マントを羽織っている。過剰に化粧をしているが、もとは美人なのだろうと思われた。青田を発見して「あっ」と驚いたような声を出したあと、<女ドラキュラ>は言った。「青田さんですか。私は音藤碧です。はじめまして」 青田は「はじめまして」と言った。 壁の鳩時計がポッポーと八回鳴いた。八時だ。 ゲストが登場したことで、それまで倦怠気味であったパーティーが、にわかに盛り上がった。青田は、せっかくのハロウィン・パーティーなのだから、仮装をしたままで話しましょう、と提案した。皆、承諾した。青田はかぼちゃをかぶり、<かぼちゃ男>になった。<フランケンシュタイン>、<狼男>、<骸骨>、<お化け>がふたたび現われた。ジャックオランタンとろうそくに照らされた部屋の雰囲気は、ハロウィンそのものだった。 <かぼちゃ男>は物の怪たちにいくつかの質問を受け、それに答えた。<かぼちゃ男>と彼らはすぐに仲良くなった。 ★ ★ ★ 夏野芳雄は、足元に注意しながら石ころだらけの夜道を歩いているときに、向こうから走ってくる車にハッと気がついた。二つの大きな光る目を持つ怪物が襲ってくるようだった。夏野は反射的に頭を下げて顔を見られないようにした。 車は徐々にスピードを落とし、ついに夏野の傍でとまった。ウィンドウが下がる音がした。 夏野は相変わらず顔を伏せたままだったが、自分をいぶかしげにじっと見ている車の運転手の気配がそれとなくわかるようだった。 「こんな夜にどうしたんですかい? 迷子ですか?」 人なつこい声がした。夏野は思わず顔を上げた。車の運転手は、麦わら帽子をかぶった、人のよさそうな老人だった。老人は金歯をちらちらのぞかせながら言った。 「あっしはこれから買い物に行くんですがね、このへんはよそものには迷いやすいらしくって。――もし迷子なら、ひらけたところまで乗せてきますよ。いや、遠慮はいらねえって」 夏野は黙って首を振った。(世の中には親切な人間もいるものだ……)と彼は思った。(しかしおれは迷子ではない) 老人は不思議そうに言った。 「しかしあんたはこれからどこに行きなさるんで? この先には音藤さんとこの別荘しかないですが」 夏野は黙って前に歩き出した。 老人は、相手が余りにそっけないので、妙な人間だと思ったらしい。居心地の悪さをごまかすような咳払いをすると、「……そうですかい。では、道中お気をつけて」と言って、エンジンをふかして背後に遠ざかっていった。 夏野は振り返って、車がいなくなったのを確かめた。周りを見渡しても、誰もいなかった。 腹がグルグルとなった。空腹でめまいがした。(このままのたれ死ぬよりは、盗人になったほうがいい)と彼は決意した。(別荘……。そこに食べ物があるといいが。食べ物でなくても金目のものが。誰もいないともっといい……) |
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★ ★ ★ ちょうどそのころ、音藤家の別荘では、みなが思い思いの場所に座って、話をしていた。 <狼男>が訊いた。 「おれは趣味でミステリを書いたりしているんですが、なかなかトリックを思いつけないんですよね。青田さんは、どうやってミステリのトリックを発想されるんですか?」 <かぼちゃ男>は「そうですね」と少し考えて、 「他の作家の方は、どうかわかりませんが、僕は、ミステリを読んでいるときが多いですね。ああじゃないか、こうじゃないかと推理しながら読んでいると、たくさんの可能性が頭に浮かぶのです。そのうちの大部分は使い古されたトリックなのですが、いくつか、これは新しいんじゃないか、と思えるものがある。それが正解と違っていたら、自分の作品に使うようにしています」 と答えた。 <魔法使い見習い>が「ハイ」と手をあげて、「でもそれじゃ、もとの作品とそっくりになりませんか?」と訊いた。 <かぼちゃ男>は言った。「そっくりにはならないようにします。設定を変えたりしてね。ですが、やっぱり、そうやって思いついたものは、ある種の型と言うかパターンにはまってしまうことが多い。たとえば、いくら珍しい密室トリックを思いついたとしても、そのアイディアから出来上がった作品は、<密室もの>というパターンに乗っかったものになってしまう」 <狼男>が「なるほど」と言った。 <かぼちゃ男>は続けた。「私はそういうパターンを踏襲する作品は嫌いではありません。むしろ大好きなくらいです。本格ミステリには、古い器に新しいものを注ぐ、という側面がある。つまり縛りのなかで、新しいこと、意外なことをやるのが、ミステリのひとつの面白さとしてあるのです。たとえば、えーと、実際の作品の例をあげると……」 と<かぼちゃ男>はかぼちゃ頭をかしげて、 「『十角館の殺人』はみなさん、読んだことがあるでしょう。綾辻行人さんの。あれだって、ある種のパターンを踏襲しながら、新しいことをやった作品ですね。あー、『十角館』についてネタバレで話してもいいですか?」 <魔法使い見習い>が手をあげて言った。「すみませ〜ん。和香読んでないんです。てへ」 それまで退屈そうにしていた<骸骨>が<魔法使い見習い>の方を向いて、驚きの声をあげた。「え〜っ! 和香ちゃんアレ読んでないの〜?」 <女吸血鬼>が言った。「和香ちゃんはミステリプロパーってわけでもないしね。でもあーやは和香ちゃんの好みに合いそうだけどなあ」 <魔法使い見習い>は「えっ、そうなんですか〜。和香、今度読んでみますね〜」と言った。 廊下に面したドアが開いて、<フランケンシュタイン>がのっそり入ってきた。「どうも」 彼は自己紹介があった後で、トイレに立ったのだ。 <骸骨>がそれを見て、立ち上がった。「すんません。ちょっと失礼していいですか。私も野暮用で」<骸骨>はせわしなく足踏みしていた。 <かぼちゃ男>は「どうぞ、構いませんよ」と言った。 <骸骨>は慌てて廊下に出て、ドアをバタンと閉めた。 ★ ★ ★ 夏野芳雄が林の中の一本道を歩いていくと、前方に目的の場所が見えた。木造の家だ。手前の空き地には、車が五台停まっていた。 (誰かいるのか……) 夏野の期待は裏切られた。 夏野の空腹は思考を鈍らせはしなかった。むしろ緊張が、精神を研ぎ澄まし、いつもより頭が回った。 (車が五台あるから五人以上いるのだろう。5対1じゃ、勝ち目はない。下手すれば、こっちも相手も、怪我じゃすまない。殺すのも、殺されるのも、ごめんだな) 引き返そうと思った。 しかし不思議なことに、家に灯りは見えなかった。夏野は、家を遠巻きにぐるりと一周した。どの窓も真っ暗だ。 (寝るにしてはまだ早い。日が暮れて、そんなに時間は経っていない。いまは遅くても9時くらいだろう。だが誰もいないなら、なぜ車があるのか……) 夏野は家の裏手の林の陰に潜んで、息を殺しながら、じっと耳を澄ました。何か、物音が聞こえないか、気配を探るためだ。 そのまま五分くらいたったが、何も聞こえなかった。(きっと、誰もいない) 夏野は自分に言い聞かせるようにそう思った。腰をかがめて身を低くしながら、裏手の窓にそっと近寄った。ぬかるんだ土が靴に泥をつけた。 窓枠の下に鉄パイプが転がっていた。夏野はそれを手に取った。ピンチのときにはこれを使えばいい。 窓の外から、錠がかかっていないのが分かった。部屋の様子は、暗くてまったく分からない。スルスルと窓を開け、サッシに手をかけた。体を持ち上げ、窓枠に乗り、部屋の内側にそっと下りた。そのまま、背を壁に預けて、うずくまった。 心臓が早鐘のように打っていた。(大丈夫だ。きっとうまくいく。誰かいても見つからなければいい。……) 夏野は立ち上がると、手探りをしながら、前にゆっくり歩いた。床には厚い絨毯が敷いてあるらしく、音はしなかった。音藤家は、別荘を持っているうえに、そこに立派な絨毯を敷くほど裕福なのだ。金目のものがないはずがない、と夏野は思った。 鉄パイプを持った右手を握り締め、左手で前方を探りながら、文字どおり暗中模索の状態で、一歩ずつ歩を進めた。 そのとき、ガツンと膝が何かに当たった。バランスを崩した夏野の体は前のめりになって、どうっと何かの上に倒れこんだ。テーブルのようなものが、進路上にあったのだ。 夏野は大きな音を立てたことに慌てた。 「誰かいるのか?」 と声がした。足跡がこちらに近づいてくる。 逃げようと考える間もなく、ドアが開く音がし、次の瞬間、天井の蛍光灯の光がまばゆいほどに煌々と室内を照らし出した。 闖入者はドアの横のスイッチに手を伸ばし、夏野の方を見たまま、ビックリしたように立ちすくんでいた。その人物は、骸骨が描かれたマスクをかぶり、黒マントを羽織っているという奇妙な格好をしていた。 夏野は右手の鉄パイプをぎゅっと握り締めると、闖入者に躍りかかった。我に返った闖入者は鉄パイプの攻撃を防ごうと腕で頭をかばった。振り下ろされた鉄パイプは、その腕にしたたか当たった。 「ぐあっ」とうめくような声を上げて、闖入者はうずくまった。 痛みに耐えているその闖入者の頭を、夏野はガツンと殴った。 闖入者は床に倒れこみ、動かなくなった。 ぜいぜい息をつきながら夏野はかがみこんだ。震える手で、頭の傷を調べた。 (……死んではいない。気を失っているだけだ) 夏野は開いていたドアをそっと閉めた。 それから、自分の服を脱ぎ、下に着ていたTシャツをびりびりに引き裂いて、即製のロープと猿轡を作り上げた。縛りやすいように、闖入者のマスクとマントを脱がせ、ロープで後ろ手に縛り、猿轡を噛ませた。両足も一つに縛った。 (こいつをこのままここに放っておいていいだろうか) 夏野はぎらぎらした目で部屋の中を見渡した。部屋の隅にロッカーのようなものがあった。開けてみると中には箒や掃除機やバケツなどがあった。それらのものを片隅に押し寄せた。 夏野はぐったりしている闖入者をずるずると引きずって、掃除道具入れに押し込んだ。細切れになったあまりのTシャツも一緒に丸めて放り込んだ。扉を閉めて、鍵穴に刺さったままだった鍵をかけ、外から施錠した。 夏野は脱いでいた上着を着た。闖入者が着ていた奇妙なコスチュームがそのとき目に留まった。 (これは……ハロウィンか。今日は10月31日)家の前に停められていた五台の車が思い浮かんだ。(やはり人がいるのだ。おそらくパーティーだ) 奇妙な考えが夏野の頭にひらめいた。夏野は骸骨のマスクをかぶり、マントを羽織った。そして靴を脱ぎ、闖入者が履いていたスリッパに履き替えた。いかにも浮浪者か泥棒然としているより、こちらのほうが比較的安全だろうと、思ったのだ。それは決して賢明な方法ではなかった。しかし暴力と犯罪と欲求とが夏野の頭をおかしくさせていた。 ★ ★ ★ 誰も駆けつけてこないところを見ると、夏野と闖入者の格闘に気づいた人間はいないようだった。 夏野は部屋を見渡した。何もない部屋だった。床には黒い絨毯。壁にかかった小さな穴だらけのダーツの的。湖畔を描いた(素人目にも下手な)風景画。部屋の中央から少し右寄りにあるビリヤード台。 夏野はこのビリヤード台にぶつかったのだ。夏野が台の上に倒れこんだ拍子に、玉はばらばらの方向に散らばっていた。キューは無造作に台の上においてあった。キューを拭くための布もあった。 そして部屋の隅に、この部屋にはいくらか不似合いな掃除道具入れがあった。 (金目のものはなさそうだ。この画も、大したものじゃないな) 夏野はその部屋を後にした。廊下は薄暗かった。足音を殺して歩き、いくつかの部屋をのぞいたが、食べ物も、価値のありそうなものも、なかった。 廊下の角を曲がろうとしたとき、向こうから来た人間にぶつかりそうになった。 おおっ、と頓狂な声を上げたその人物は、奇妙なかぼちゃの被り物を頭にすっぽり被っていた。買い物袋のようなものを手に提げている。かぼちゃ男は言った。 「心臓が止まるかと思いました。どこへ行ってらっしゃったんですか? まあいいや。いまから推理クイズをやります。僕が出題して、皆さんに解いてもらいます。白瀬さんも、ぜひ、参加してください。さあ、行きましょう」 陽気なかぼちゃ男に背中を押されるようにして、夏野は薄暗い部屋に押し込まれた。 狼男、フランケンシュタイン、細長い顔をしたお化け(?)、女吸血鬼、魔法使い。ハロウィンの仮装をした人々が、集まっていた。 夏野は仮面の下で、たらたらと冷や汗を流した。 「さ、さ、どうぞ座って」 <かぼちゃ男>は<お化け>の隣にあるソファを指して言った。 夏野は部屋の入り口で硬直したように立ったまま動けなかった。 <かぼちゃ男>はいぶかしむように「どうかしましたか?」と訊ねた。 夏野はぎこちなく体を動かしながらソファに座った。そのときなにかの香水の香りがした。<お化け>が香水をつけているのだ。隣に座っている<お化け>をてっきり男だと思っていた夏野は驚いた。 <かぼちゃ男>は座って、演説調で言った。 「さて、皆さん、準備はよろしいでしょうか。先ほども皆さんに言いましたように、僕は推理クイズを用意してきました。これにみごと正解されました名探偵さんには、僕のサイン入りTシャツをプレゼントします。正真正銘、世界に一枚しかないものです」 買い物袋をガサガサさせて、そこから景品を取り出した。 「ジャーン。これです」 『あなたは名探偵!』の文字の下に「青田勇」とサインがある。 <フランケンシュタイン>が「おーっ、欲しい欲しい!」と雄たけびを上げた。他の人々は笑っているだけだった。 <かぼちゃ男>は続けていった。 「シチュエーションとしては単純なものです。――もう、問題に入っていますよ。ある富豪が毒殺されるのです。年齢は、まあ、五十そこそこでよいでしょう。容疑者は、その妻、そして4人の息子です。名前はなんでもいいのですが、被害者は健史、奥さんは絹代、その息子たちが、上から順に、太郎、次郎、三郎、四郎としておきます。動機は遺産です。その男が死ぬと、莫大な金が容疑者たちの懐に転がり込むのです。 健史は自分の妻と息子たちを愛していたのです。しかし表向きはその愛情にこたえながらも、事情が変われば、金のために殺してしまうような、腹黒い人物が一人だけいたのですね。そいつが殺った。悲しい話です。 健史は朝食後にコーヒーを飲むことにしていた。絹代さんが台所で作って、それを食卓に運ぶのです。ここは重要なところですが、食卓から、台所は死角になって見えません。いいですか。 その日も、奥さんがコーヒーを作ったのです。台所で、です。そのとき台所にいたのは、絹代さん、太郎、四郎――この三人です。いつもは奥さんが食卓までコーヒーを運んでいくのですが、その日は太郎が運んでいった。奥さんと四郎はそのまま台所に残りました。 食卓にいたのは、健史、次郎、三郎です。そこに、コーヒーを持って太郎が来た。『はい、お父さん』『ああ、ありがとう』 ところがお父さんはすぐには飲まず、新聞を読んでいた。他の三人も、テレビを見たり、食事をしたりで、つねにコーヒーカップを見ていたわけではない。 三郎は早い出勤で、それから出かけていった。 その後、健史はコーヒーを飲み、新聞を読みながら、顔色を変え、血を吐き、自分の手を真っ赤にした。 太郎と次郎が慌てて駆け寄り、『お父さん、どうしたのです』 健史はなにか言ったが、血でゴボゴボ音がするだけで言葉にならない。太郎と次郎はかろうじて、『毒を盛られた』と聞いたといいます。 太郎はコーヒーカップを見て呟いた。『まさかコーヒーに毒が?』 『いったい誰がこんなことを!』と次郎が怒ったように大きな声を出した。 そのとき健史は何か言おうと口をパクパクさせた。しかし太郎と次郎には何と言っているか聞き取れなかった。 そして、血にまみれた人差し指で、新聞になにか書こうとした。しかし、指がそこに触れ、文字を綴ろうとしたその瞬間、彼は死んだのです。 その後、騒ぎを聞きつけて、絹代と四郎が来たときには、彼はすでにこの世の人ではなかった」 <かぼちゃ男>は一息入れた。 部屋はシーンと静まり返っていた。みな熱心に考え込んでいる。もちろん夏野をのぞいて。 <かぼちゃ男>は言った。「さ、犯人は誰でしょう?」 |
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「なるほど。“書かれなかったダイイング・メッセージ”か……」 沈黙を破ったのは<フランケンシュタイン>の声だった。 <かぼちゃ男>は愉しそうに言った。「その通り。書かれなかったダイイング・メッセージから何が分かるのか?」 「はい、はーい」と<魔法使い見習い>が手をあげた。 「おや。和香さんもう分かりましたか?」と<かぼちゃ男>は驚いて言った。 「らぁくしょぉう(楽勝)ですよぉお。だって逃げたのは三郎だけじゃないですかぁ。三郎が犯人、決まりぃ〜」 「おいおい」と<狼男>が言った。「三郎は逃げたんじゃねえよ。仕事に行ったんだよ。出勤って聞いてなかったのかよ」 「でも仕事に行くって言って、逃げたのかもしれないじゃないですかぁ」と<魔法使い見習い>。 「だあ〜、もう。出勤つったら出勤なんだよ。ねえ、青田さん。三郎は逃げたんじゃないでしょう?」 <かぼちゃ男>は答えた。「はい。三郎は確かに出勤したのです」 「あの〜、ヒントをいくつかいただけないでしょうか?」といったのは<お化け>。 「ヒントは、そうですね。健史は自分が殺されるようなことは予想していなかった。それから、容疑者たちの毒を入れるチャンスがポイントです」 「質問です」と<女吸血鬼>。「毒は本当にコーヒーに入っていたのですか?」 「良い質問です。毒はコーヒーに入っていました。朝食の食器などに毒の痕跡はなかった。コーヒーの原料や砂糖に毒があらかじめ混入してあった、ということもありません。つまり犯人は、コーヒーが出来たあとで、直接カップに毒を投入したわけですね。ポイントはそのチャンスです」 <フランケンシュタイン>が言った。「四郎さんに毒を入れるチャンスはあったのですか?」 「ありました。絹代さんがコーヒーを作った後、太郎がコーヒーを運んでいく前、毒を入れるチャンスはあった、ということにします」と<かぼちゃ男>は言った。「もうひとつ補足しておきますと、健史が、犯人の名を直接口にせず、新聞紙に書こうとしたのは、毒による麻痺とゴボゴボいう血のせいです。そのせいでうまくしゃべれなかったのです」 「わかりませえーん。降参でーす」と<魔法使い見習い>が言った。 「私もわかんない。当てるのって苦手なんですよね」と首を横に振りながら<女吸血鬼>。 「おやおや。はやくも二人がギブアップ宣言ですか」と<かぼちゃ男>。「他の方も、だめですか。茜さんは?」 <お化け>は首をかしげた。「難しいですね」 「村崎さんは?」 <狼男>はうーんと唸って、「いや俺には無理っす」 「白瀬さんは?」 夏野はみなが自分のほうを見ているのに気づいてハッとした。慌てて首を振った。 「黒川さんは?」 <フランケンシュタイン>は頭を抱え込んだまま、「……あと3分ください」とボソリ。 <かぼちゃ男>は「じゃ、3分待ちましょう。降参された方々も、考えてみてください」 ★ ★ ★ <かぼちゃ男>は時計を見て、「3分経ちました」と言った。 <フランケンシュタイン>は溜め息をついて言った。「だめだ。さっぱりだ」 「では、いまから、答えを発表します。よいですか? 呆気にとられるくらい単純ですよ。ダイイング・メッセージから、犯人が分かります」 と<かぼちゃ男>はクスクス笑って、 「メッセージは完成しないどころか、書かれもしなかった。しかしこの場合は、書こうとしたそのこと自体が、犯人を指名しているのです。 まず毒を入れるチャンスがあったのは、絹代、太郎、次郎、三郎、四郎の五人です。だからこの中に犯人がいるはずだ。ま、言うまでもないことですね。 健史は犯人の名を残そうとしたからには、誰が、自分に毒を盛ったか知っていたはずだ。どうしてそれを知りえるか? 誰かが自分に対して殺意を持っていたのに気づいていた? 違います。彼は殺されることを予想していなかった。では、どうやって、毒を盛った人物を知りえたか? もちろん見たからでしょう。これから飲もうとするコーヒーカップに、ある人物が、なにか怪しげなことをしているのを見たからでしょう。そのときはまさか毒を入れているとは思わなかった。しかし、コーヒーを飲み、毒が体を急速に蝕み、もはや用心しても手遅れになったときに、気づいたのです。『あれは毒だった! あいつが毒を入れたのだ!』 しかし、ですよ。もし絹代か四郎が毒を入れたのだとしたら、それは台所で、なのです。台所は、食卓からは死角になっています。見えたはずがない! 絹代か四郎が犯人ならば、健史には誰が毒を盛ったか分かるはずがない。毒は絶対に、食卓で入れられなければならない。だから、絹代と四郎は犯人ではない! 被害者は、死の直前に、太郎から『誰に?』殺されたか問われて、何か書こうとしました。もちろん犯人の名を知らせるために。しかし、犯人がその場にいた太郎か次郎だったとしたら、書いて名を知らせるというのは妙ではありませんか。われわれは推理小説を読みなれているものだから、こういう場合は、書くものだと思い込んでいますが、もしその場に犯人がいたら、決して書いたりはしないでしょう。「そいつだ!」と指させば済むことです。それが自然でしょう? だから、太郎と次郎は犯人ではない! 残るは、三郎ただひとりです。三郎は食卓で毒を入れるチャンスを持ちました。健史がダイイング・メッセージを残したときは、仕事のためにすでに出かけていて、その場にいませんでした。犯人は三郎でしかありえません」 <かぼちゃ男>がクイズの答えを発表すると、「ああ〜、そうか」と<フランケンシュタイン>が天を仰いで嘆いた。 <かぼちゃ男>は賞品を取り上げて、 「本当の意味での正解者はいませんでしたが、たまたま和香さんが犯人を当てられました。したがってこの景品は、和香さんにあげましょう。せっかく作ったものですし、持って帰るのも空しい」 と、<魔法使い見習い>へそれを渡した。 「や、やったー」と無理に彼女は喜んだ。「う、嬉しいですぅ」 「もし着るのが恥ずかしいようでしたら、お部屋のインテリアとしても使うのもいいでしょうね。……とまあ、これは冗談ですが」と<かぼちゃ男>は笑った。 その笑い声が、いつの間にか苦しげな咳に変わった。咳がおさまるとかぼちゃからしゃがれ声が聞こえた。「失礼。少ししゃべりすぎたようです」 「お飲み物をお持ちしましょうか」と立ち上がって、<女吸血鬼>が言った。 <かぼちゃ男>は、いや、けっこうです、と遠慮したが、また咳き込んでしまった。 「やっぱり持ってきましょう。確か、冷蔵庫にリンゴジュースがあったよね?」 問われた<お化け>は、うなずいて、ぐるりの人を見て、「他に誰か飲む人いますか?」 結局、<フランケンシュタイン>と<骸骨>を除く全員が、ジュースを飲むことになった。 <かぼちゃ男>を中心としてふたたび座談が始まり、彼らが話に集中しているすきに、<骸骨>はそっと立ち上がり、ごく自然な挙動で、部屋を後にした。ちょうど、8時30分だった。 <骸骨>は逃げるようにひとつの部屋に駆け込み、太い溜め息をついた。 (ジュースを飲むときには、仮面を外さなければならない! 危なかった!) ★ ★ ★ 青田は、すっかり愉しい気分になって、いろいろなことを喋った。そして喋り疲れ、みなもぐったりとなり始めた。すでに彼らは仮面を外して、邪魔な仮装をあちこちに放り投げていた。 いちばん元気だった<フランケンシュタイン>だけは、仮装衣装を着けたまま、不気味なマスクを被ったまま、無邪気に床に寝転がって、爆睡しているようだった。 皆は青田勇という作家に馴染み、そのせいで話の輪も青田を中心としたものばかりではなくなった。 時計の針が11時を指したころ、青田の話し相手になっていたのは、意外にもミステリの教養が深いことが発見された、村崎忠文だった。二人の話の聞き役に回っているのは、才気煥発で頭のいい女性であることが判明した、音藤茜だった。 音藤碧と仲原和香は内緒話でもしているのか、耳打ちして何事か話してはキャッキャッと笑いあっていた。 白瀬尚幸の姿が見えないことに、何人かは気づいていた。しかし自分からいなくなったのだから、特に探す必要もないだろうと彼らは個別に胸のうちで考えた。 部長の茜の号令で、もう散会しよう、ということになった。 「ほらっ、起きろこのやろーっ」と村崎が<フランケンシュタイン>を蹴飛ばす。 「もう少しやさしく起こしてくださいよぉ」と涙声で彼は起きた。 「いや今日はほんとに愉しかった。来て良かったです」と青田が本心から別れの挨拶をして、いざ散会となったときに、白瀬がいないことが話題に出た。さすがにお別れのときにいないのは不躾になると村崎が言い出して、「ちょっくら探してきます。おおかたビリヤードでもしているんでしょう」と廊下の奥へ走っていった。 ――うわっ。うわああぁぁ。 と大きな悲鳴が聞こえたのは、そのすぐあとだった。 彼らは思わず顔を見合わせた。一瞬、みなが凍りついたように動けなかった。 青田は言った。 「何かあったのかもしれない。みんなはここにいてください。黒川くんも。僕が見てきます」 青田は部屋を出て、暗い廊下を声のしたほうに進んだ。すると、明かりが漏れていたドアがばっと開いて、血相を変えて別人のようになった村崎が部屋から転がるように出てきた。 「あ、あ、あ、あ、……」 青田を見開いた目で見て、部屋の中を指さしながら、村崎は必死に何か伝えようとしていた。 青田は村崎のただならぬ様子に恐怖を禁じえなかったが、勇を鼓して、その部屋の中を見た。 部屋の中央右にあるビリヤード台の傍にねじれたような格好で骸骨のマスクを被った男が横たわっていた。青田は(白瀬だ!)と思った。漆黒の絨毯を踏みしめながら、恐る恐る近づいていった。 胸に包丁が突き刺さって、それが男の体が完全にうつぶせになるのを防いでいた。左脇を床につけ、右脇を天井に向け、左手はまっすぐに頭上に伸ばし、右手は胸のナイフを押さえた格好だった。 青田は白瀬と目の前の男との服装の微妙な違いに気がついた。白瀬はねずみ色のトレーナーを着ていたが、いま目の前にいる男は茶色のトレーナーだった。ジーンズも、白瀬のが薄い青だったのに対して、この男のは緑だった。 青田は男のマスクをとった。見知らぬ顔が現われた。 青田の恐怖は急速に静まっていった。原因がひとつの他殺死体ならば、これは彼の領分だ。 青田は袖で額の汗をぬぐいぬぐい振り返った。「村崎くん。落ち着いてください。これは殺人事件です。犯人はすでに逃げているでしょう。僕がいまから警察に通報します。あなたは部屋に戻って、『なんでもない』とだけ言ってください。あとで、ゆっくり、パニックにならないように、僕とあなたで説明しましょう。いいですね」 村崎はこっくりうなずくと、よろよろしながらみなのいる部屋へ行った。青田が携帯を取り出し、110番を押そうとしたとき、何か物音がするのに気がついた。ずっと前からその音はしていたのに、気づかなかったのかもしれない。 部屋の隅にロッカーのようなものがある。青田が驚いたことに、ドンドンという物音に混じって、人のうめき声のようなものが聞こえる。 (誰かが中に閉じ込められている!) 扉を開けようとしたが、鍵がかかっているらしくあかない。青田は鍵を探した。「落ち着いて。いま開けるから。くそっ、鍵はどこだ」 青田はひらめいた。ポケットだ。ただの勘だったが、殺された謎の男のポケットを探ると、果たして鍵があった。 青田はそれを使って扉を開けた。 転がり出てきたのは、手足を拘束され、猿轡を噛ませられた、白瀬尚幸だった。 |
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★ ★ ★ パトカーのサイレンがいくつも重なって聞こえ、窓から赤いランプの光が差し込んだ。青田が窓越しに見ると、制服を着た刑事たちがパトカーから降りていた。 作り物のろうそくやジャックオーランタンの照明はすでに消され、代わりにまぶしいくらいの天井の蛍光灯がつけられていた。和香は床にへたり込んで泣いていた。それをあやすように、碧が頭を撫でていた。茜は悄然とソファに座っていた。村崎は落ち着かないように部屋中を歩き回っていた。黒川真は膝頭を手で押さえつけていたが、その足が細かく震えていた。白瀬はまだ頭に血が上った様子でギラギラした目で周囲を見渡していた。 青田たちは、すでに白瀬から、彼が殺された人物に襲撃され、閉じ込められた話を聞いていた。 青田は玄関まで刑事たちを迎えに出た。 「事件があったのはこちらですな」と布袋腹をした太った刑事が訊いた。 青田は首肯した。 「私は○○県警殺人課警部の新舘二郎(しんだちじろう)と申します。あなたが、通報された青田勇さんですか? ふむ。死体はどこですかな」 青田は遊戯室まで彼らを先導した。 警部は死体にかがみこんで刑事と一言二言、何か話した。彼は向き直って、「この人は、誰ですか?」と青田に訊いた。 「僕の知っている人間ではありません」 「確か何かパーティーをしていらっしゃったとか」 「大学のミス研サークルのハロウィン・パーティーです。そこにゲストとして、推理作家の僕が呼ばれたのです」 「なるほど」 青田はもちろん現場に一切手を触れなかったが、十分に観察は済ませていた。そしてすでにいくつか頭の中で結論を出していた。 「警部さん」と青田は呼びかけた。 ビリヤード台の縁についた血痕を調べていた新舘警部は、振り返った。 「あ、何ですかな。ああ、あなたはもう皆さんがいるところに戻ってもらって結構です。またあとで話を聞くことになるでしょう」 「いや、そうではないのです。僕は以前刑事をやっていたことがあって、捜査の仕方は心得ています。そしていまは、私立探偵をしているのです。推理作家は副業のようなものです」 「はあ。それで?」 「僕は少し調べたのです。もちろん、現場は完全に保存してあります。手を加えたりはしていません。ほら、そこに、部屋の中央に、絨毯に血痕があるでしょう。そして、死体の傍まで血痕が点々と続いている」 「そうですな。――おい、田中君、きみ、血痕を踏んでいるよ!」 田中と呼ばれた若い刑事が飛び上がった。「すみません。まったく気づかず……」 「ちゃんと注意したまえ」と新舘警部はプリプリした。 青田は、差し出がましいことをしているのは知っていたが、ひとつ言っておかなければならないことがあった。 「被害者は、部屋の中央で、刺されたのだと思うのです。そして今、死体があるところまで、歩いていった。ビリヤード台のそばまで、です」 「私が思うに」と新舘警部は言った。「犯人から逃げようとしたのだ」 「そう考えることもできます。ですが、そのビリヤード台の上にある布巾を見てください」 その布巾には明らかに赤い染みがついていた。 「血だな」と新舘警部は言った。 「そう、きっと血でしょう。犯人は、それで血をふいたのです。犯人が自分の手をぬぐったとも考えられます。ですが、この現場の状況を考えあわると、ぜひとも、そのビリヤードの玉のルミノール反応や指紋を調べるべきです」 新舘警部は不思議そうに訊いた。 「どういう意味です?」 「おそらく」と青田は考えながら、言葉を選んで言った。「その玉のどれかひとつからは、指紋がまったく検出されないでしょう。代わりに、ルミノール反応が出るでしょう」 新舘警部は笑った。 「あなたが何を言おうとしているのかは私には分からないが……しかしわれわれは無能ではありませんよ。あなたにそんなことを言われなくても、現場は隅から隅まで捜査します。この玉も、この布巾も、このビリヤード台の血痕も、われわれの鑑識が、きちんと調べます。これで気が済みましたか」 「はい。安心しました」青田は愛想よく微笑んで、では、と言って部屋に戻った。 ★ ★ ★ それからサークルの部員六人と青田勇は順番に尋問を受けた。青田は最後だった。彼は正直に、彼の知っている限りの、事の顛末を話した。 夜は明け始めていた。 青田が部屋に戻ってくると、ほとんどの人は、居眠りしているか舟をこいでいるかだった。 (彼らのうちの大部分は災難に巻き込まれたと思っているのだろう。殺されたのは、赤の他人なのだから、きっと殺したのも赤の他人だと思っている。しかしそれでも――殺されたのが赤の他人でも、犯人がこの中にいることは十分にありうるのだ。なぜなら犯人は間違って殺したのかもしれないから……) 青田はこの事件の捜査が難航するとは考えていなかった。いずれにせよ彼の推理が正しければ、どの玉にルミノール反応が出るかで犯人は決まるはずである。 (しかしもし外部犯だったら?)と青田は考えた。外部犯だったらどんなにいいだろう。何の悪意も持たないように見える彼らのうちに犯人がいるとは考えたくなかった。短い時間だったが心を通わせあった人たちの中に犯人がいるとは思いたくなかった。 青田はソファに座って、ほのかに明るみ始めた夜明けの光に手や足を照らされながら、思いにふけった。 もし内部犯だったと仮定した場合、犯人は白瀬尚幸を除く五人の中にいるはずである。なぜなら、白瀬は外から鍵をかけられた掃除用具入れの中に、拘束されて、閉じ込められていたからである。そのうえ、被害者は白瀬と間違って殺された公算が大だからだ。 よって犯人は、音藤茜、音藤碧、黒川真、中原和香、村崎忠文の五人の中にいる。 さらにこの五人から誰か除外できるか……。できる。ひとりだけアリバイが成立している人間がいる。四人になった。 他には消せないか? あっ、そうだ。明白な理由でひとり消える。残ったのは三人だ。 窓から差し込んでくる光が徐々に強く明るくなっていく中で、青田はさらに考え続けた。昨夜起きた出来事をゆっくりと思い出し、さらに、容疑者をひとり消去できた。残りは二人だ! 青田はその二人の顔を見た。どちらも人殺しの顔には見えない。しかし彼の推理が正しければ、どちらかが犯人なのだ。 ガチャリとドアを開ける音がした。新舘警部が二人の刑事を連れて、部屋に入ってきた。うとうとしていた人たちも目を覚ました。「少しよろしいですかな。話を聞いてください」と新舘警部が言った。眠っていた人たちが起こされた。 新舘警部はひとつ咳払いして、立ったまま話し出した。 「昨晩の雨でこの別荘の周りの土はぬかるんでいました。駐車場はご存知のように石敷きになっています。しかし駐車場の周りも土です。比喩を使えば、この屋敷と駐車場は、ぬかるみの海に浮かぶ孤島のような状況だったわけです」 皆は、警部が何を言おうとしているのか不思議がるふうだった。警部は淡々と続けた。 「で、われわれは当然、そのぐるりの土と、駐車場の石畳に残っている跡を調べました。足跡なりタイヤの跡なりをひとつひとつ見ていったわけですな。すると面白いことが分かった」とここで警部はにやりと笑って、「余分な足跡はなかったのです。あの男――われわれは遺憾ながらまだ被害者の名前すら知りませんが――あの男の足跡ははっきり残っていました。しかし他の不審な足跡はなかったのです。もちろん車や自転車のタイヤの跡もです。もしわれわれにとっての未知の人物Xが、あの男を殺し、そしてこの屋敷から出て行ったとすると、当然入って来た跡と、出て行った跡がぬかるみについていなければならない。ところがその跡がなかったのです。ですから、Xが飛んでいったと考えない限り、われわれはあなた方の中に、犯人がいると断定せざるを得ない」 警部はそこで口を閉ざして、探るような視線でじっと容疑者たちの顔を順番に見た。 青田は思った。(この警部は見かけによらず賢いようだ。あのおなかの出っ張り具合は、敏腕を隠す良いカモフラージュだな) 新舘警部はなおも淡々と弁舌を振るった。 「あなた方がおっしゃりたいことは分かっています。あなた方は胸のうちでこう思っていらっしゃる。『だが、私たちはあんな男なんて知らない』。あなた方は、私の尋問に答えて『あの男を知らない』とおっしゃった。それが本当だとしても実のところあまり問題ではないのです。何となれば、あの男は、ここにいらっしゃる白瀬さんと間違って殺された、と考えられるからです」 白瀬は頭に雷の直撃を受けたように愕然とした。「ど、どういうことですか!」 「あなたが閉じ込められている間に、あの男があなたを演じた、ということですよ。このマスクとマントを使って」警部は骸骨のマスクと黒くて丈の長いマントを取り出した。「あなたと被害者はまったく同じ服装をしていたわけではない。しかしこの部屋はうす暗かったから誰も気づかなかった。あの男はおそらく泥棒に入ったのでしょう。遊戯室の窓から侵入した跡が残っています。あの男の心理としては、見つかったときの用心のためにこれを付けていたんでしょうなぁ」と警部は首をすくめた。 「この仮装のために、犯人は白瀬さんを殺すつもりで、間違って泥棒を殺してしまった。ピンピンしている白瀬さんが現われたときには、犯人はさぞ肝をつぶしたことでしょうな。何しろ殺したと思っていた人間が生きていたのだから。犯人は目的を達成しなかった。『ならばもう一度』と犯人が思うことは、有り得ないことではない」 警部の言葉に、白瀬は思わず身震いした。 警部はその白瀬を見て言った。「もう一度訊きますが、あなたは自分が命を狙われる理由に、何も心当たりがないのですね」 白瀬は一瞬ぼんやりとし、それから床を見つめ、「……ありません」と言った。 新舘警部は責めるように言った。「われわれが犯人を捕まえることが、あなたを救うことになるのですよ。あなたは積極的にわれわれに協力すべきだ。動機に心当たりがあるのなら正直に言ってください」 「ないと言ったらない!」 白瀬はガクガクと震えていた。さっきから床を見るか警部を見るかで、サークルの部員の方を見ようとしていない。 新舘警部は言った。 「われわれは犯人を捕まえるまで、白瀬さんの身辺を警護します。われわれは必ず犯人を捕まえます。あなた方は容疑者です。また新事実が見つかったら話を聞くことになるかもしれない。いつでも連絡がつくようにしておいてください。よいですな」 新舘警部は最後に白瀬に呼びかけた。「自宅までわれわれが送りましょう。刑事を二人付けます」 白瀬はぼんやりとしてうなずくと、連行されるように二人の刑事に挟まれて、部屋を出て行った。 「もう一度犯人に言いますが、妙なことは考えないことです。逃げても無駄です。白瀬さんをふたたび殺そうとすることなどもってのほかです。罪を重くするだけです。よろしいですな」 新舘警部はそういうと部屋を出て行った。 |
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★ ★ ★ 翌日から青田は日常に戻った。食うためには働かなければならない。 青田は毎日新聞やニュースをチェックした。同じ日に別の悲惨な殺人事件があったので、それほど大きな扱いではなった。青田は新聞によって、殺された男の名前を知った。夏野芳雄と言うらしい。数ヶ月前から仕事を辞めて無職になり、汚いアルバイトに手を染めていたが、いざこざからそれもできなくなった。路頭に迷ったところで、音藤家の別荘へ泥棒に入ったということのようだ。 どの新聞やニュースを見ても、夏野が間違って殺されたことは報道されていなかった。警察はその情報を公開していないらしい。 楠木警視に連絡を取り、捜査の進捗具合を知った。新舘警部は署内でも敏腕の噂が高いらしいが苦戦していると言うことだ。 青田は犯人を二人に絞っていた。しかしそこから先が一向に進展しなかった。雑務に追われるうちに、自分から捜査する機会もなかった。頭の中で推理できることには限界がある。足での捜査で情報を集めなければならない。しかし何しろ時間がなかった。 ハロウィンの間違い殺人から一ヶ月たつころには、事件の印象が薄れるとともに、関心も薄れていた。原稿の締め切りに追われて徹夜でカリカリとやっていると、ピンポーンとチャイムが鳴った。 「はーい」と青田は鉛筆を走らせながら大きな声で言った。「少々お待ちを」 青田はその一文を書き上げて、鉛筆を置くと、玄関に飛んでいき、ドアを開けた。 「おや、白瀬くん」 ショルダーバックを肩に下げた白瀬が立っていた。白瀬は一ヶ月でずいぶんやせたような気がした。 「中に入ってもよろしいですか?」 青田はうなずいて、彼をリビングに招きいれた。テーブルを挟んで青田と向かい合うと、彼は用件を切り出した。 「私が今日ここへ来たのは、依頼人としてなのです。私は……私は怖いのです。まだ犯人に命を狙われている気がします。つい昨日までは刑事が二人ついていたのです。ところが『もう一ヶ月たったのだから、護衛する必要はない』なんてむちゃくちゃなことを言い出して、その二人の刑事がいなくなったのです。そんな勝手な、と思うでしょう? ひどいですよ。犯人を捕まえるまで護衛をつけるといっていたくせに」 「僕に護衛を頼むというのですか?」 「いいえ、そうではありません。あいつらにだけ気をつけていればいいんです。私は戸締りを厳重にして、部屋の中にこもっていれば、安心ですから。むしろ根本的なことを解決してもらいたいのです。警察は、あれから一ヶ月もたつというの犯人を捕まえていません。もう警察には任せていられないのです。あなたが犯人を見つけて、警察に引き渡す。私の依頼はこれだけです」 「あの事件の捜査を依頼する、というわけですね」 「そうです。あ、それから」と言って、白瀬はズボンのポケットから財布を取り出した。分厚い財布には、何枚もの紙幣が挟み込まれていた。白瀬は、それをまとめてつまみ出し、テーブルの上に置いた。すべて一万円札だった。 「これが依頼料です。30万あります。足りるでしょうか」 「足りるもなにも」と青田は驚いて言った。「多すぎるくらいです」 青田はソファから立ち上がった。「コーヒーを淹れます。いや遠慮は無用です。インスタントですから」 青田はコーヒーを作りながら、白瀬が学生にしては金を持ちすぎていることを気にしていた。青田は疑問を直接相手にぶつけることにした。 コーヒーカップを両手にひとつずつ持ちながら、「そんな大金、どうやって調達したのですか? アルバイトですか?」と訊いた。 白瀬は一瞬気まずそうにしかめ面をした。それは本当に一瞬だったが、青田は見逃さなかった。 「そ……その、アルバイトです。はい」 「そうですか」 青田はこの白瀬といういかつい顔をした学生は何か後ろ暗いところがあるのではないかと感じた。「ではその汗水流して働いた成果だろうそのお金は、僕は受け取らないことにしましょう。僕は純粋に好奇心で――と言ったら聞こえが悪いですが、事件に関わってしまった一関係者として、犯人を探し出すことにします。依頼料を受け取らなかったからといって調査を怠ったりは無論しません。依頼は受けます。しかし金は取らない。良いですね」 白瀬は「はい」と言って、一万円札の束を財布にもどした。 青田はコーヒーをすすって、カップをテーブルに置くと、「その代わり、あなたが出せる情報は全部出してもらいます。依頼人であるあなたに隠し事があったら、達成できる依頼も達成できません。今からいくつか質問をしますから、それに答えてください」 白瀬はまた小さく「はい」と言った。 「あなたは自分が命を狙われる理由に、本当に心当たりがないのですか?」 白瀬は心の内部に葛藤があるように口をつぐんでじっとテーブルの一点を見つめていた。ほとんど一分経って、かすれた声で「ありません」と彼は言った。 「では、殺された夏野芳雄ですね。あなたと夏野は本当に一度も面識がありませんでしたか?」 白瀬は一秒も間をおかず、「私はあんな奴知りません。信じてください。もちろん私が殺したのでもありません」 「あなたが犯人だなんて、そんなことは疑いもしません。あなたは掃除用具入れに閉じ込められ、縛られていた。それに夏野芳雄はあなたと間違って殺されたのだから」 青田はそう言いながら、頭の中でいくつかの考えがひらめいた。(もし間違いではなかったら? 最初から、夏野を殺すつもりだったら? 白瀬は夏野を殺した。そして自分が犯人の標的だったと思わせるために骸骨の衣装を着せた。共犯者に手伝ってもらえば、その後、縛られて掃除用具入れに閉じ込められることもできる) 青田はその仮設を頭の抽斗に収めておいて、次の質問をした。 「犯人が被害者を殺したとき、あなたは現場にいたはずですね。何か物音を聞きませんでしたか?」 「はい聞きました。聞いただけではありません。掃除用具入れの中から犯人の姿を見ています」 青田はびっくりして思わずコーヒーを噴き出しそうになった。 「えっ!? 犯人の姿を見た? じゃああなたは、犯人が誰かわかっているでしょう?」 「それが……黒いコートを着ていたので、顔が見えなかったのです。丈が長いフードつきのコートでした。私は扉のごく細い隙間から一瞬見ただけなのです。フードを被っていて、ちょうど斜め後ろから見たので顔はわかりませんでした」 「待ってください。たとえ犯人の顔を見ていないにしても、あなたがそのとき何を見何を聞いたかはとても大事な情報です。犯人に直接つながるデータかもしれない。そのとき起こったことを、順を追って、できるだけ正確に話してください」 白瀬はこめかみを押さえて目を閉じたまま話しはじめた。 「……あいつに閉じ込められてどれだけ時間が経ったころか、それはわかりません。最初は何とかして縄をほどいて脱出しようともがきました。しかし無駄だとわかって、あきらめて、ボーとしていました。真っ暗な中で何もしないのですから時間の感覚もありません。そのうち眠くなってきてうとうとしていました。完全に寝たのか寝なかったのかもどうもはっきりしないのです。『誰だ!』と低く押し殺したような声がしてハッとしました。人がもみ合うような衣擦れの音がして、誰かががうめく声がしました。私はただ事ではないと思って、体を無理に捻じ曲げて、光の線が漏れている扉の隙間から外の様子をうかがいました。部屋の中央に、あいつ――夏野芳雄が倒れて苦しそうにうめいていました。そのとき蝶番のきしむ音がしたので、視線をそちらにやると、黒いコートを着た人間がドアから出て行くところでした。ドアが閉まって――私は今でもあいつがなぜあんなことをしたのかわかりません。床に倒れていたあいつは、うずくまるような格好になって、腹を押さえながら、ゆっくりと立ち上がり、ふらふらと歩いたのです。そして私の視界から外れて、見えなくなりました。あいつが倒れる音がしたのはそのすぐあとです。情けないことですが、私は恐怖で震えていました。それからあなたが助けてくださるまで、どれくらいの時間が経ったかもわかりません。……私が見たのはこれだけです。警察にも話しましたが、きっと役に立たなかったでしょう」 青田はしばらく考えて、質問をした。 「その黒いコートの人間は、一言も喋りませんでしたか?」 「はい。終始無言でした。声を聴ければ誰かわかったのですが」 「しかし、何か特徴があったでしょう? 背が高かったとか、ごつい体格をしていたとか……」 「青田さん。うちのサークルの人間は、ほぼ似たような体格をしています。犯人も普通の体格でした」 男か女かもわからないかと青田は訊いた。返事は否だった。 「じゃあ……そうだ! 服装から何かわかりませんか? コートの下に何か着ていたでしょう。ズボンはどんなものでした?」 「コートはずいぶん丈が長いものでした。ほとんど床に届きそうなくらいでした。コートの下の服装はまったくわかりません」 青田は立ち上がって部屋をうろうろ歩き出した。 「犯人はなぜコートを着ていたのだろう?」 「それは」と白瀬が言った。「新舘警部が、返り血を防ぐためだろうと言っていました。コートは、家の裏手の、生ごみやなんかを捨てるポリバケツに放り込んであったのが見つかったらしいです。私は確認のために写真を見せてもらいましたが、襟首のあたりまで血がべっとりついていました」 「なるほど。返り血が襟首までついていた。僕もその写真を何とかして見なければ……」 青田はぶつぶつ言いながら部屋を歩き回っていた。すると「あっ」と声を上げると、突然歩みを止めて、白瀬のほうに向き直った。 「犯人は戻ってきたはずだ。そうでしょう? いや戻ってこなければならない」 白瀬は妙な興奮状態にある青田におびえながら、 「わ、私には、わかりません。犯人が戻ってきたとしたら、それは私が眠っているときだったでしょう」 「また眠ったのですか?」青田は目に見えて落胆し、「あなたは大事なところで眠る人だ。もっとあなたが目撃者としてしっかりしていれば、事件は簡単に解決できたのに。犯人は遊戯室に戻ってきたはずなのです。そのときにあなたが見ればよかった。……いまさらこんなことを言っても仕方ないですが」 作者からのコメント 挫折しました。 自分でご都合主義な展開が嫌になったので。 トリックを明かします。仮面の入れ替わりトリックじゃないです。そんな簡単な手を使うはずがないでしょう。『十角館の殺人』に言及したのはひっかけです。 続きには、ビリヤードの玉にはすべて血痕がついていたという情報を書くつもりでした。被害者は犯人を指し示すために(茜は赤の玉、碧は緑、村崎は紫、黒川は黒、白瀬は白)、どれか玉を握ったが、犯人が戻ってきてすべての玉をぬぐったとこれでわかります。 被害者の夏野が彼らと初対面したとき、彼らのほとんどが仮面をかぶっていたから、被害者に彼らの顔がわかったはずがありません。したがって被害者は犯人の顔以外の部分で誰か知ったということになります。(碧と和香は仮面をかぶっていませんでした。が、碧は名前を呼ばれていないので被害者は名前を知らないはずです。また、和香はビリヤードの玉に適合するものがありません。)服装ではわからないとするつもりでした。白瀬の証言から犯人は声を発してもいません。何で知ったのか? 茜は香水をつけていたのでその匂いで知ったのです。 それ以外の方法で知ることはできないはずです。よって犯人は茜です。動機は妹の碧が白瀬が原因で麻薬中毒者になったからです。 第二の事件で白瀬が殺され、その犯人は黒川亮(真の弟)、動機は「茜が白瀬を殺したいと思っていたから」「茜にアリバイがあるときに白瀬を殺し連続殺人と見せかければ茜は嫌疑をまぬかれるから」、とするはずでしたが、上のような理由で挫折しました。 またこの作品は一から作り直したいと思います。別の機会に。 |
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