2005.01.02 up

その時私は・・・


地震発生1分前のレシート。


10月23日:その日昼間11月に魚沼市になる区域に「発足記念のエコー」を買ったり風景印を押印しに出かけて、 夕方一旦帰宅します。嫁さんが夕食を作っていましたが、ふと麻婆豆腐が食べたくなったので嫁さんを アパートに残し私は一人近くのスーパーに買い物に出かけました。買い物を終え、籠から品物をレジ袋に 入れていたその時!遠くから「ゴゴゴ」と短く音がしたと思ったら、いきなりドスン!あとは建物全体が 容赦なく揺れ、ものすごい音が鳴り響き、夢でも見ているのかと思いました。1分くらいで 揺れは一旦収まったのですが、すぐに停電しあたりはわずかな非常灯以外真っ暗。 すぐに建物の外に出ようとします。しかし、次の揺れ(17:59)が再び襲います。入口のガラスは 割れており、一人ずつしか通れず譲り合ってなんとか外の駐車場に出られました。
車に戻ろうとすると、3回目の揺れ(18:03)がまた襲います。車のエンジンをかけ、カーナビの テレビを見ると震度6強!驚いている暇もなく、アパートに戻ります(車で2分ほど)が、停電のため すでに信号は機能せず。道路も波打っていました。
最初の揺れから10分ほどでやっとアパートに帰り、玄関を開けると棚が入口をふさいで 部屋の中がほとんど見えず「大丈夫か!」の問いかけに弱弱しく嫁さんが「だいじょうぶ」と 返事が返ってきました。嫁さんは倒れた食器棚で手を打撲、指から出血もしてました。 まずは入口をふさいでいる食器棚を横に倒そうとします。しかしここで4回目の地震(18:11)。 柱にでもしがみつくしかありません。やっと揺れが収まり、再び食器棚を完全に倒します。 床は食器や食器棚のガラス戸の破片で埋められてしまっています。スリッパを嫁さんに 渡し、やっと玄関側に来ることができ、あとは駐車場まで急いで戻ります。しかしタイミングの悪いことに ちょうどアパートの外壁の塗装工事を行うためにこの日足場が組まれており、余震が起きるたびに その足場がぎしぎし音を立てて今にも崩れようとしています。
駐車場に戻ると、アパートの他の住民の方が集まっていました。ほとんどの世帯では旦那がまだ帰って こないため母子だけの方ばかりでした。また近くの動物病院から抜け出してきたのか、一頭のシベリアン ハスキーが紛れ込んで、不安そうにうろうろしていました。駐車場に避難していても、余震は容赦なく襲い、 地面が大きく揺れ 停めてある車も音を立てて揺れ続けます。しばらくして駐車場の向かいの木造の家(作業用小屋)が 音を立てて崩れていく瞬間も目の当たり(正確には耳で聞いてた)にしました。 幸いにもこの日は天気がよく月明かりで周りの様子がわかりましたが、逆に放射冷却で寒くなる一方で、 嫁さんと近所の方が恐怖と寒さで震えていたので、覚悟を決めて2・3回アパートに戻り布団やら、救急箱やら、 持ち出します。(アパートの部屋は1階で入口の非常灯があったので助かった) 1時間ほどで非常灯も暗くなり、 ついにはアパートも完全に真っ暗になりました。 電話はPHSはすぐに駄目、携帯もかけることはほぼできませんが、時々かかってきたり、メールは 届いていました。カーナビのテレビで情報を得たり、幸い夕食に炊いた炊き込みご飯があったので それを2人で食べながら過ごします。8時を過ぎたくらいに、お互いの実家に行って見ることにします。 まずは嫁さんの車で嫁さんの実家へ向かいますが、信号機の倒壊・電線の垂れ下がり・道路の陥没・ 橋げたの段差などで思うように進めません。嫁さんの実家になんとかつきましたがすでに避難して いたようでご両親はいませんでした。しかも途中でタイヤがパンクしたようでした。 一旦アパートの駐車場に帰り、今度は自分の車で自分の実家に向かいます。再び陥没や段差だらけの 道ばかり続きます。自分の出身小学校の前の道は特に酷く、車の腹がつかえて身動きが取れなくなる ほどで、なんとか脱出し、実家に到着。家の中にはすでに誰もおらず、少し離れた車庫の中に 両親が避難しておりました。祖父母は近くの集落センターに避難したとの事で、こちらの安否は確認 できました。再びアパートの駐車場に戻ります。次は兄に連絡をとるため、公衆電話のある近くの 高速のPAに向かいます。柵の隙間から入ることができ、2人の方が建物の入口にたたずんでいました。 停電なのでカードは使えないとの事ですが、硬貨では使うことができ、兄と連絡が取れました。 兄はこちらに向かっているとの事です。 とりあえず、これ以上動くと危険なのでアパートの駐車場に戻って、カーナビのテレビで情報を得たり、 嫁さんの携帯でインターネットにアクセスできたので、自分の掲示板に生存を知らせました。 (私の安否を心配する書き込みが20件以上ありました) 翌日に備えて車内で寝ますが、とにかくひっきりなしに余震が来てほとんど寝れません。 救急車などのサイレンも絶えず鳴り響き駐車場の前の道路には長岡方面から十数台もの救急車が 通り過ぎ、おそらく市内の2つの病院から症状の重い患者を他の病院へ搬送していたようです。 (来る時に鳴らし、行く時はサイレントモード)


10月24日:
翌朝6時前には明るくなったので周りの様子を見てもう唖然。向かいの家(作業小屋)が屋根を残して
倒壊しておりました。昨夜のシベリアンハスキーもほとんど寝てなかったためか、朝になってから横たわって寝ていました。
情報を得るため嫁さんと歩いて市役所に向かいます。昨日見た倒壊した信号機はそのままです。
市役所は被害はあまりないものの、マスコミが殺到しており混乱に拍車をかけていました。庁舎内の壁にどこに
避難所があるかが貼り出されているくらいで、市内の被害の状況などは把握は出来ませんでした。
玄関にはすでにいくらかの援助物資が積み上げられており、これを各避難所へ配布する準備をしていたようです。

その後、再び嫁さんの実家へ。昨日暗くてよく見えなかった道路の状況がやっとわかりました。
中学校前の道路はマンホールが浮き上がり、その前後のアスファルトがほとんど陥没しており、車が通るのも
やっとという状況でした。実家にはやはり誰もおらず、中学校を探してみます。校庭は車で避難した人たちで
ほぼ埋め尽くされておりましたが、ご両親は確認できませんでした。次は総合体育館にも行ってみます。ここにも
すでにかなりの数の住民が避難しておりましたがここにもいません。再び実家へ戻るところでやっと両親と再会。
近くの駐車場で夜を明かしたとの事です。その後、一旦アパートに戻り嫁さんと別れて自分の実家へ向かいます。
実家の前にあるアルミサッシ工場の事務所の入口がめちゃくちゃになっていたり、道もマンホールの周りが陥没し
時々水道の水が勢いよく吹き出してきて道路が水浸しになっています。実家には兄も駆けつけていました。しかし
家の中はまさに戦場状態。特に洋間は本棚とそこに入っていた本とか書類が全部部屋の中に散乱しどこから手を
つけてよいかわからないほど。台所も食器棚がテーブルの上にのしかかって、地震の凄まじさを物語っていました。
その後アパートから布団や毛布を運び出し総合体育館へ運び、再び嫁さんの実家に向かう時に車の中で震度5強の
揺れ(14:21)に襲われました。ちょうど交差点で電柱が倒れ掛かってかなり危険でした。嫁さんの妹さんもようやく戻ってきて
おり、一家で総合体育館へ避難しましたが私は耐え切れず再び車に戻り、数日間過ごすことにしました。
なお、体育館に避難したと言っても電気だけは発電機で賄うことはできますが、水道・ガスがつかえないため
トイレは水が流せないため、かなりの臭いでした。(25日くらいにやっと仮設トイレが設置された)
食料は嫁さんたちが確保したものの一部を分けてもらいました。

10月25日:6時ころ強い余震で起こされます。7時頃、嫁さんのところへ行ってみます。
やはり余震で目を覚ました人が多かったようです。台数の少ない公衆電話から会社へ
連絡を入れると、社長が出てくれて会社の製品は被害があまりなかったが設計室はPCやモニタが転がって
図面や書類の海になっていたとのことでした。この日は休みにして、長岡方面へ物資などを探しに
出かけてみます。
国道17号を進むと信越線を跨いだあたりから信号が点いており、ここから南が停電でした。
またPHSもやっと電波が届いていました。
長岡市役所近くのスーパーに到着。早くも営業しているものの、すぐに食べられるものや単1電池は売り切れでした。
その足で市役所へ。ロビーには避難している方が何人かおられました。案内係に風呂が入れるところはないか聞いて
みたところ、長岡市内の兄の家の近くにあるとのことでそちらへ向かいますが、「月曜定休」・・・。お役所仕事のようです。
結局、兄の家に厄介になります。ここは長岡の北部であるため、ほとんど被害も無く、ライフラインもストップすることも
なかったとのことで、今回の地震がほんとに局地的であることが理解できました。自分一人で厄介になるわけにも
いかないので、一旦戻って嫁さん一家を連れてくることにします。ガソリンスタンドは長岡南部では行列ができるほど
でしたが、北部ではすぐに給油できました。また小千谷に戻ってきます。嫁さんの両親を説得しようとしましたが、失敗。
嫁さんだけを連れて再び兄の家へ。早い夕飯もご馳走になり、再び小千谷に戻る頃には日も沈んでいます。
この日も総合体育館前のスーパーの駐車場で過ごします。

10月26日:ようやく会社へ向かいます。やはり出社している人は少なく、仕事も手につかず。
当時の様子を聞いたところ、自分の担当している製品で1つだけ倒れたほかは無事だったとの事。
倒れた盤はへこんだり傷が目立ち、地震のすさまじさを物語っていました。
会社のPCでやっとまともにインターネットに繋ぐことができたため、その時の地震のデータなどを
ダウンロード。この日はそんなに目立つ余震はなかったものの、家の事が気になり昼飯を食べてすぐに退社。
途中、新産の大型店で買い物しようと立ち寄ってみると、店の中は危険なため入れず玄関先での販売のみと
西部は意外に地震の影響があるようです。
実家に戻り、片付けを少し。電気がまだ復旧しないようなのでこの日も同じ場所で過ごします。

10月27日:再び会社を休みます。実家に行くと電気が復旧。居間のテレビがついており、PHSもやっとつながり
ノートPCからインターネットで情報を確認することができるようになりました。
家の外にはヘリが絶え間なく飛んでおり、ここから5kmくらいの土砂崩れ現場に小出の親子の乗った車が
前日見つかったとのことで、救出作業を行っているとのことで、テレビでもずっとその様子が流れていました。
近くの避難所から祖父の薬や診察券を取りに祖母が戻ってきたので一緒に探していたところ、またもや
激しい揺れが襲いました。(10:40)
午後3時過ぎ、男の子が救出されたようですが、母と姉は残念ながらなくなっていたようでした。
この日は家の中で寝てみることにしますが、周りが異常に静か過ぎるため余震が来るたびに目が覚めて
ほとんど寝ることもできず、午前3時頃結局車の中に舞い戻る羽目に。

10月28日からは車で寝て朝・晩は実家で食べて昼間は会社という日々が続きます。
風呂は会社近くの友人宅で何回かお世話になります。
アパートの電気が11月3日にようやく復旧したので、アパートに戻ることにします。
しかし、水道や浄化槽・風呂釜など完全復旧したのは11月22日と1ヶ月でようやく普段の生活に戻ることができました。

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