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《えせ教育基本法成立に際して訴える》 |
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“官製”ファシズムが登場しつつある 安倍内閣は、高校での教科の履修漏れや、教育基本法のためのタウンミーティングの「やらせ」など、政府や文科省の不潔な悪行がはびこる中で、新しい教育基本法を強引に成立させた。数々の政府や文科省の“不祥事”──事実上の権力犯罪──が明らかになった時点で、こうした法案が廃棄され、政府は総辞職すべきなのは余りに明らかであった、というのは、彼らがそもそも教育基本法をあれこれいじくる資格はおろか、それについて語る資格さえないことがとことん暴露されたからである。一体、タウンミーティングの「やらせ」といったことを平気で行うことができるような不道徳の、腐敗したごくつぶしども、事実上の犯罪者どもに──彼らが罪を問われなかったのは、権力の側の人間であり、権力によって保護されていたからであって、普通なら逮捕され、裁判にかけられて当然であったのだ──、教育基本法を作り、国民に押しつけるどんな資格があったというのか。 だから、政府や国家の汚いぺてんと虚偽と腐敗の中で強引に誕生させられたこの新法は、まさに最初から教育基本法の資格のない、汚れた、空疎な法律、教育にとって「百害あって一利なし」の反動法であり、そうなるしかないのである。 それは、もったいぶって公共心や愛国主義を謳いながら、他方では、「教育」もまた市場原理によって動かされるべきたとして、子供たちに競争を強い、競争に駆りたてるような、根底から矛盾し、混乱した法律である。競争原理を謳い、国民を相互に競い合わせながら、それは個人主義や利己主義でもなく、それらを煽りたてるものでもないと思い込むような、愚劣で、自家撞着した法律である。 そして、それは法律で「道徳」や「愛国主義」などを押しつけられると妄想する、徹底的に観念的な法律、そして国家が国民や子供たちに「思想信条」までも強要できると考える、とんでもない“官製”ファシズムの法律である。 この法律は、“公”の精神を謳っているが、しかし実際には、その根底は二重の意味で卑しい個人主義、利己主義の精神で貫かれている。 まず第一に、この法律は、決して個人主義、利己主義を否定しないで、資本主義社会の根底である競争や市場原理を持ち上げ、教育の中にまで、そうしたブルジョア的原理を持ち込もうとしている。 そして第二に、彼らの謳う“公”とは、「愛国主義」の強調にも明らかなように、国家主義であり、軍国主義、帝国主義であるにすぎない、つまり支配階級の、ブルジョアたちの国家的、集団的な形を取った個人主義、利己主義でしかないのである(自国中心主義、自国だけは特別であり、自国だけは愛されるべきであり、また自国の歴史だけは何があろうと正当化される等々の狭い、偏跛な観念である)。しかし利己主義を違った形で説きながら、“公”の精神について、“社会性”について語ることは決してできないのである。 こうした二重の意味において、この新しい教育基本法もまた卑しいブルジョア的“原理”を根底を置いているのであって、決して子供たちを健全な本当の社会的人間として育てようというのではないし、またそんなことは決してできないのである。 戦後の教育は、基本的に個人主義、自由主義に基づいてきた、そして反動たちは、この個人主義や自由主義こそが、教育への適用こそが、子供たちを、国民を堕落させ、頽廃させてきた、国家を解体させてきたと言い続けてきた(過度の自由主義、個人主義の弊害だ等々)。彼らは自らの体制のイデオロギーが、意義を失っていくのに深刻な危機意識を抱くのであり、抱かざるをえないのである、というのは、それはまた本当の階級的イデオロギー、マルクス主義や共産主義の進出の条件とも成りえるからである。 だから、彼らは口先では自由主義や個人主義を批判してみせてくれる、そして“公”や“規範意識”や“道徳”についてもったいぶって“がなり立てる”のであり、自由主義や個人主義をそれで置き換えようとわめくのである。 しかし実際には、こうした反動たち(つまり安倍や中川昭一やつくる会の連中)こそ、もっとも腐敗した、もっともえげつない利己主義者であり、権力主義者であるのだから噴飯ものである。彼らは“偏向教育”についてさんざん騒ぎ立ててきたが、しかし自分たちが“責任をもって”教育について語る段になると、これまでの“戦後教育”あるいは“自由主義”教育など問題にならないような、えげつない、そして空疎な“偏狭教育”しか提出できないのだからあきれたものである。 彼らは個人主義、自由主義の教育とは、資本の支配と決して矛盾するものではないこと、それゆえにこそ、それが戦後の「教育の憲法」となり得たことは百も承知である、しかし資本の体制の頽廃、腐敗や、教育の荒廃を目の前にして、彼らは、自由主義、個人主義、利己主義を、このブルジョア的生活原理を非難し──その恩恵に充分に預かってきたくせに──、“公”の原理に止揚しようと叫ぶのであり、叫ばざるを得ないのである、というのは、そうしないで放置しておくことは危険であり、労働者人民大衆がますますマルクス主義や共産主義の影響を受け──というのは、これまでのブルジョア教育、つまり自由主義的原理の破綻は明らかだから──そこに刈り取られてしまいかねないからである。 しかし彼らの“公”とはいつわりのもの、偽造品であって、ただ別の形での個人主義や利己主義、つまり「愛国主義」や国家主義等々でしかないのである(どうして、そうならないわけがあろうか、彼らはブルジョアに追随して、本当の社会的立場を、つまり社会主義を拒否したのだから)。 だから、彼らの教育基本法は本質的に自己矛盾した、表裏ある、卑しいぺてんであり、またぺてんとして登場するしかないのである。彼らの謳う“公”といったものが、全くのまやかしものでしかないゆえんである。 実際、新しい教育基本法はいたるところで矛盾しており、混沌そのものであって、たちまちその破綻を暴露して行かざるを得ないであろう。 例えば、教育は“公的な”ものであると言いながら、私学教育を重視すると言ったり、「家庭教育」こそ「第一義的だ」なとどのたまったり──それなら、「教育」はなぜ必要なのか、単なる「家庭教育」の補助だというのか──、また教育は「不当な介入」を排除せよと謳いながら、政府や法律の名を借りた反動や政党の介入は正当であると強調したり(つまり事実上、「不当な介入」をいくらでも容認したのである)、教育は「真理」──新しい教育基本法もまた、この言葉を厚かましくも導入している──を愛する心を養うといいながら、自国の歴史については、事実に基づいて客観的に評価するのは“自虐史観”であると攻撃し(つまり十五年にわるた、犯罪的で、とことん利己的だったかの反動的な帝国主義戦争を否定し、それを正義の戦争であるかにいつわり)、世界のすべての人々が正当であり、真実であると認める客観的な歴史の真理があるかもしれないが、しかしそんなものは日本には関係ない、そんな歴史はあってもなくてもどうでもいいものだ、日本には日本の歴史があり、歴史観がある、日本にとって意味がある歴史のみが真実である、などわめくのである。 そして、彼らがこうした珍奇な法律を作った本当の動機は、政府や自民党にとって、目の上のタンコブであった日教組を粉砕し、教員たちを管理し、支配するところにあったのだから、最初からこの法律が低俗なものとなったのは当然であって、その卑しい動機やあさましい政治的意図は一目瞭然である。それが教育の根底を規定した法律であるなどと言うのは、言うも恥ずかしいほどである。 政府自民党は「教育」について、どんな明確な観念ももっておらず、ただ混乱し、矛盾した内容をそこに盛り込んだにすぎず、これを具体化するなどと言っても、ただ愛国主義、国家主義を強要するという以外の、どんな意義ももちえず、また「教育」に対してどんな積極的な役割を果たすこともできないであろう。それは必ずや、広汎な労働者人民に憎まれ、呪咀され、いつの日か廃棄される運命にある。 そして安倍内閣は、新教育基本法を突破口に、憲法改訂を企むのである。そもそも安倍内閣が教育基本法をまず改訂したのは、その方が手っ取りばやく、安易に行われ得るからであって、これを小手調べとして、先導役として、憲法改訂をやりとげようという意図もあってのことであった。 しかしもちろん、教育基本法を“先行させた”ことは、政府自民党にとって必ずしもうまくやったということにはならないのだ、というのは、それは労働者階級に断固たる反撃の準備──思想的、実際的な──の時間を与えたかもしれないからであり、新教育基本法によって、政府自民党の企むことの本当の意味を理解させたかもしれないからである。 ブルジョアや政府や国家が反動化していくなら、それはまた労働者人民の反発が高まるということであり、その階級的な闘いが発展するということでもある、そして新教育基本法の成立は、労働者階級の危機意識を呼び覚まし、まさに新たな、断固たる闘いの出発点となり得るのである。ブルジョア支配の反動化が一つの段階を画すなら、労働者階級の闘いもまたそうであるし、そうでなくてはならない。 したがって新教育基本法はブルジョアの反動化が新しい段階に達したことを教えるとともに、労働者の闘いもまたさらに前進した段階にたどりつくし、つかなくてはならないことを明らかにしたのである、今こそ、労働者階級が断固たる反撃に移っていくべきときであることを告げ知らせたのである。 自覚した労働者の諸君、自らの歴史的な任務を自覚し、闘いにおける自らの役割を反省せよ、しかして同志会に結集せよ。 |