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マルクス主義同志会機関紙
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えせ教育基本法成立に際して訴える

2006年12月22日
マルクス主義同志会
代表委員会

教基法改悪・憲法改悪と闘う人々へ!

今なぜ
教基法改悪か
「愛国心」と「階層教育」と

 4月28日、ついに自公の教育基本法「改正」案が国会に提出された。これはたんなる教育の問題ではない。同時に審議されている「共謀法」もそして「国民投票法」案も憲法「改正」もみなひとつ連なりであり、一体のものだということだ。それはブルジョアジーが民主主義の仮面を投げ捨て、強権的支配へ、警察国家へ、ファシズム的専制国家へ向かいはじめたということである。

『海つばめ』第1017〜1024号連載



全国社研社刊、B6判384頁
定価2千円+税・送料290円
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「天皇制を根底的に論じる『女帝もいらない 天皇制の廃絶を』(林 紘義著)」(『海つばめ』第989号)他

理論誌『プロメテウス』第49号
2006年10月(定価840円)

・富塚良三の「剰余生産手段」と「均衡蓄積率」の概念――それが過少消費説とケインズ主義に帰着する必然性
・ブルジョア社会の美化――教科書『現代社会』を切る
・共産主義の概念なき“共産主義”論――的場昭弘『ネオ共産主義論』批判』

 
 
 教育のこれから
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まかり通る「偏向教育」、「つくる会」の策動、教育基本法改悪の動きの中で、“教育”とは何であり、いかに行われるべきかを、問いかける。  


 第一章  
教育基本法改悪案の出発点、
森の「教育改革策動」
 第二章  
破綻する「ゆとり」教育の幻想
 第三章  
“朝令暮改”の文科省、
「ゆとり」から「競争原理」へ
 第四章  
ペテンの検定制度と「つくる会」の教科書
 第五章  
歴史的評価なく詭弁とすりかえ
つくる会教科書(06年)の具体的検証
 第六章  
日の丸・君が代の強制と
石原都政の悪行の数々
 第七章  
憲法改悪の“露払い”、教基法改悪策動


●1043号2007年5月20日

【一面トップ】国民投票法は改憲の突破口
 “長期”政権企む安倍――改憲「凍結」して反動派の総結集図る

【主張】父でもないのに父と言えるか
 “三百日”規定に固執する頑迷固陋の安倍内閣

【一面連載/ワーキング・プア――「絶対的窮乏化」は現実だ(4)】
 女性労働者はみなワーキングプア――急増する無権利な派遣、契約社員
【草枕】「激流・中国」
【コラム】飛耳長目
【二面〜三面】民族問題学習討論会テキスト
 “ドイツ的”民族概念は観念論――フランス革命の“国民”概念が出発点
【各地の“草の根”政治】富山
 自民王国に綿貫の影――三党統一候補成るか
【四面トップ】フランス大統領選挙
 ・競争原理を加速――サルコジが大統領に
 ・後退する仏“ミニ”左翼――“トロツキズム”も衰勢あらわに
【四面書架】シンシア・エンロー著『策略』――女性の“軍事化”を告発
【四面サブ】トヨタ、日産の“民主主義”――組合員の投票をチェック
【連載小説】奉安殿は毀ち捨てられたか 第百三十五回 最終章、2・1スト(23)


国民投票法は改憲の突破口
“長期”政権企む安倍
改憲「凍結」して反動派の総結集図る

 「国民投票法」なるものが成立した。安倍内閣は憲法改定に道を開いたと評価し、民主党は逆に憲法改定を遠ざけたと毒づき、社共(共産党と社民党)は、まるで憲法改定が強行されたかに大騒ぎしている。しかしこの法律は安倍の権力野心のための“欠陥”法以外ではなく、今後憲法改定の国民投票が行われるような事態になればなるほど、その愚劣さとナンセンス、そして反動性を暴露して行かざるを得ないであろう。

 そもそもこの法案自体、何のために提起されたのかさえはっきりしないのである。安倍は、憲法改定の「手続き」を決めた法律がないというが、基本的に、憲法の九六条はすでにその「手続き」は明示しているのであって、それに加えて必要なものは具体的、技術的な問題であって、そんなものは、必要なら実際的に議論されればいいことであって、大騒ぎするようなものは何もないのである。

 現行憲法の第九六条は以下のようなものである。

「この憲法の改定は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票または国会の定める選挙の際行われる投票において、その過半数を必要とする」

 これに加えて必要なものは、それぞれの憲法改定案が提出された場合に具体的にどうするかといった程度の「手続き」にすぎず、基本的に、国政選挙に準ずる形で簡単に規定できることであろう。憲法自体が、一般の国政選挙とともに、憲法改定の国民投票を行っていいと謳っているのであって(「または国会の定める選挙の際行われる投票」云々)、独自の「国民投票法」といったものをでっちあげること自体、こうした意味では、憲法違反とさえ言い得るのである。

 また、国民投票法は選挙年齢を勝手に十八歳に引き下げたが、しかしそんな権利がどこにあったのか、これは明らかに、「成人」を二十歳以上と定めた法律に違反していないのか。一般の国政選挙と憲法改定の国民投票を行う場合、どうやって調整するというのか。

 一般の選挙の投票と国民投票とは違うというのか。しかしともに国政選挙であって、しかも大枠はすでに明らかにされているのであって、どんな本質的な違いもないことは明らかである。そんな副次的な「手続き」なら、憲法改定案が提出され、その改定案の具体的なものが明らかになってから検討しても少しも遅くないのである。

 それとも、安倍は憲法九六条に加えて、さらに憲法改定の一般的な「手続き」の追加が必要だとでも考えているのだろうか。しかしそんな「屋上に屋を重ねる」ようなものが、なぜ、何のために必要なのか。

 他方、具体的、技術的な「手続き」だと言うなら、個々の憲法改定案、あるいは客観的、時代的な情勢によって変り得るかもしれないのであって、それを何か一般的な「手続き」であるかに押し出すのは混乱を持ち込むことでしかない。むしろ、そんなものを定めることは、具体的な憲法改定に対して、融通性と弾力性を失わせるマイナス面さえあり得るであろう。

 実際、今回の法律は、例えば「投票は一人一票に限る」、などといったことまでもったいぶって書き込んでいるのであって、そのばからしさは歴然としている。

 公務員や教員の選挙活動がどれくらい規制され、制限されるかといったこともあいまいなままである。しかし職場(教室など)ではともかく、それ以外の場では、彼らが自由な政治活動を保証されるべきであることは“民主主義”の原理から出てくることである、というのは、彼らもまた“国民”として、国家を形成するその“市民”として、他の国民、市民と全く同等であり、自由だからである。

 政府自民党が彼らの政治活動を制限してきたこと自体が否定されなくてはならないが、国民投票法が教員らの政治活動の自由を保証することは決してないであろう。その意味でも、この法はまさに“欠陥法”、自民党や反動派のための法であり、労働者にとって唾棄すべきインチキでしかない。

 もちろん、単に憲法改定に限らず、一般的な国民投票のための法律を作るというなら、特別の国民投票法を作る意義も分からないことはない。しかし今回の国民投票法は、決して一般的な国民投票法ではなく、憲法改定についてのみのものだというのだから、ますますこの法律の奇妙さ、うさんくささがきわだってくるのである。

 そして、この法律は三年間の「凍結期間」を置くとわざわざ断わっているのだが一体安倍は何を考えているのであろうか。まさにこれは実際上、憲法改定引き延ばし案、あるいは憲法改定拘束案と言うしかない。三年間あるいはその二、三倍もの長い期間、必要な憲法改定もしない、やれないと言うのだから、二乗、三乗にばかげている。

 安倍は憲法改定が緊急に必要だと主張している、とするなら、それを五年も十年も引き延ばすことにどんな意味があるというのか。憲法改定の意義をだいなしにするだけであろう。

 実際、自民党はすでに昨年、憲法改定案を作り上げ、安倍は、それを今も「最良の案」などと持ち上げているが――もちろん、本心がどこにあるかは神のみぞ知るだが――、そうだとするなら、その憲法改定をただちに実現するように考えるのがまともと言うものであろう。

 しかし安倍は五年も十年も引き延ばすのであり、その方が利益だと考えるのである。少なくとも三年の「凍結期間」、そしてその後の実際に憲法改定が行われる期間は、彼は権力を握り続けることができるのである。自民党総裁の二期六年間を務め上げ、権力を保持し続けることができるのである。憲法改定という課題があるということが、彼を守ってくれるというわけだ。

 だからこそ、彼は最初二年だった「凍結期間」をわざわざ三年に延長させたのだろう。もし本気で憲法改定を企むなら、むしろ一日でも早くそうするはずなのだが、反対に悠長に構えるのは、ただ彼の個人的な権力欲、私利私欲(党利党略ならぬ、私利私略)のため以外の何ものでもない。

 あるいは、彼は今は憲法改定そのものはできないと見て、国民投票法を持ち出すことで、反動イデオロギーをプロモートする大キャンペーンを、大騒ぎをしてみせてくれたのである。愚かな野党は「この法案が通れば憲法が改定される」などどいった的外れの空騒ぎにふけることによって、安倍の策動にうまうまと乗せられ、手を貸したのである。

 安倍や反動たちの立場は矛盾そのものである。

 安倍や反動どもは「戦後体制からの脱却」を叫び、自主憲法の作成をスローガンにしてきたのである。とするなら、はたして憲法「改定」でいいのか、むしろ本音は“新憲法”の制定ではないのか。彼らは憲法改定について発言しながら、他方では新憲法の制定だと強調するのである。国民投票法が成立したときも、中川幹事長は「夏の参院選では、全党、全候補者が新憲法に賛成か、反対か、態度を鮮明にすべきだ」と語った。つまり彼は単なる個々の部分における憲法改定ではなく、「新憲法」の制定だと言うのである。

 だからこそ、安倍内閣は何か大げさな「国民投票法」といったものを必要としたのだが、しかし「憲法改定」と「新憲法の制定」とは全く別個の二つのことである。

 もし憲法改定だというなら、例えば中曽根が執念を燃やしている、前文の改定といったことは許されない、というのは、前文は憲法の精神であって、憲法改定はその性格からいって個々の条文にかかわるにすぎないからである。もし前文を変えるというなら、それは実際に「新憲法」の制定である、だからこそ、自民党や中曽根や反動派は憲法改定案ではなく、新しい「憲法草案」についておしゃべりし、それを自ら提案しているのであろう。

 しかしもし、実際に「新憲法」を制定するというなら、それは憲法改定とは全く別個のことであって、憲法改定と本質的に違った意義づけと「手続き」が必要になるのであって、そのことなくして、「新憲法」について語ることができないのは余りに明らかであろう。

 もし「新憲法」について語るなら、安倍はむしろ、そのための「手続き」を定めた法律を作るべきであって(現憲法は、そのことを全く謳っていない)、そうしてこそ彼は首尾一貫しているのである。しかし「新憲法」制定について語るということは、はたしてはクーデタを策動することではないのか、そして彼らの「戦後体制の見直し」とか、「戦後レジームからの脱却」というのは反革命クーデタのことなのか。

 安倍は国民投票法などという、“大げさ”で混乱したものを成立させることによって、実際、あれこれの憲法改定を一層困難なものにしてしまったとも言える。そして憲法改定が行われるときには、それはクーデタと結び付くようなものとして行われるように、いやでもしてしまったのではないのか。

 実際国民投票法によれば、十個所の憲法改定が提案されたなら、その一つ一つについてそれぞれに承認、不承認の(賛否の)意思表示がなされなくてはならない、つまり投票が行われるときには十も二十もの修正案が出されるのであり、そうでないときは実際に憲法改定は問題にもされないのである。少なくとも、次の憲法改定はことの行き掛かり上、例えば、九条についてだけ、といったものにならないのは明白である。焦点ぼけの、空虚な空騒ぎにならないという保証は何もない。

 しかし安倍は本気で憲法改定をしようとしているのか、必要としているのか。憲法改定の期間を五年十年もの長いものにしたことについてはすでに述べたが、さらに、安倍は最近、集団的自衛権の問題について、それの実行が現行憲法の下でも可能であるという憲法解釈をするべきだと、叫び始めている。

 つまり現行憲法のもとでも集団的自衛権の行使が可能だというのだから、安倍が今すぐ憲法改定を必要としないということ、あるいは憲法改定一般さえも必要としないことは明らかではないのか、というのは、すべてが「解釈改憲」でかたがつくのであり、現行憲法の下で、できないことは何一つないからである。

 国家に「個別的」自衛権があるなら、当然「集団的」自衛権もあるのは当然、という理屈がそれ自体当たり前のことであって、社共や自由主義者たちがこんな単純なことを理解できなかったとするなら、それは彼らがとんまであり、愚劣だったからにすぎない。共産党は一方で、安倍らとともに、国家は「自然権」として自衛権を持つと言いながら、集団的自衛権だけはアメリカに従属するからだめといったへりくつを持ち回ってきたが、今ではこんな立場はすっかり破綻してしまったのである、というのは、安倍はまさにアメリカと「対等の」国家として、あるいは「対等の」国家として認められるために集団的自衛権を行使するのだ、と言うからである。

 安倍や反動どもが、現行憲法のもとでは軍隊も持てない、集団的自衛権も行使できない、だからこそ憲法を変えて、それを持てるようにしようというなら首尾一貫しており、いさぎいいのだが、現行憲法のもとで、事実上強大な軍隊は持つは、海外にそれを送るは、イラク侵略戦争を見てもわかるように不正義のアメリカとの集団的自衛権を行使するは、など散々好き勝手をやり、さらに憲法改定だなどと言うのだから、本当に下劣な連中としか言いようがない。

 安倍や反動どもの言うところを聞いていると、現行憲法を変えなくてはならない必然性など少しも出てこない(せいぜい国家として体裁が悪い、といったことであって、実質のことではない)、だからこそ、安倍は長い「凍結期間」といった奇妙なものを設定して満足していられるのであろう。

 安倍は憲法改定で問題になっているかぎり、権力を維持できるとソロバンをはじいている。権力維持のためにこれほど好都合の政治課題はない、というわけである。憲法改定が具体的に提起できるようになる三年三ヵ月後までは確実であり、その後も、実際的に憲法改定をやりとげるために、政権の座に居座りつづられるのである。安倍が憲法改定に夢中になり、それを持ってまわるのは当然のことである。三年余の“冷却期間”を置いたのは、安倍にとっては妥協でも譲歩でも何でもないのである。

 そして反動陣営は一斉に、この三年間を一大“国民”運動の時期と位置づけ、勢いづくのだが、もちろん、それは単に「憲法改定」のためではなく、「新憲法制定」のためである。「戦後体制は一掃」され、転覆されなければならないのである。戦後体制からの「脱却」が図られなくてはならず、さもなければ「美しい」国は決して生まれないのである。こうした国家がもし生まれたとしたら、それがどんな国家になるかという点で、自覚した労働者はどんな幻想も持っていない。

 もちろん、労働者にとってもこの三年間は重要である、つまり戦後の社会体制の、また戦後政治の「総決算」が迫られ、諸政党がその本質を問われるという意味で決定的な意味を持ってくる。公明党は自民党の小判鮫としての地位を決定的に問われるだろうし、民主党は党として解体を迫られるだろう(この党はもともと一つの党ではなく、単なる権力亡者たちが便宜的に集まったにすぎない)し、共産党はフランス共産党の後を追うしかないし(つまり労働者の影響力を完全に失う――もっとも今でも、実際にはほとんど持っていないが)、社民党は存続の危機に見舞われるだろう。

 重要なことは、労働者階級が自らの党派結集において決定的な前進を成し遂げることができ、ブルジョアと反動陣営の騒々しい軍国主義な策動に対抗して、自らを階級的に再結集できるかどうかであろう。

 最後に、我々は野党なるものが、安倍の挑戦に勝てるなどと考えるのは全くの幻想であることを強調しておく。

 民主党は自ら「自衛権があるのは当然だ、自衛隊は必要だ」(鳩山ら)などと言いながら、つまり事実上、安倍の憲法改定の立場と一致しながら、安倍内閣と闘うというのだから、安倍にたちまち打破されるのは明白である。民主党の過半の議員は、憲法改定――つまり天皇制を一掃するといったような意味での憲法改定ではなく、安倍や反動の言うような意味での憲法改定――に賛成しているようなカスたち、反動たちと一緒になって「憲法草案」作りに熱中しているような悪党たち――労働者にとって――である。

 実際、自民党議員や反動議員たち(例えば、“無所属”の平沼ら)は「新憲法制定促進委員会準備会」――憲法改定ではなく、「新憲法制定」であることに注目せよ――をでっちあげて、策動を強化しようとしているが、この「準備会」には、民主党からも松原仁、笠浩史らがおっとり刀で駆けつけているのである。

 小沢は反安倍を演出しているが、ただ参院選のためだけである、つまり“戦略”など何もなく、ただ小手先の“戦術”からであるにすぎない。小沢は「憲法」ではなく「生活」で安倍と対決する――できる――と考えているが、そんな日和見主義と逃げ腰はただ民主党の敗北と分解に行き着くだけであろう。

 公明党は民主党が自分たちに代わって自民党と連合するのを極度に恐れており、ただそれを回避するためにのみ(つまり“与党”の地位を守ることが至上命令というわけだ)政治をやっているような堕落ぶりだから、そして、ただ「加憲」などと言って「体面を保ちつつ」安倍内閣を側面から援助することだけが目的だから、こんな党にどんな期待も持てないことは明らかであろう。

 共産党や社民党もまた安倍内閣の策動に対して、どんな“有効な”反撃も組織できないことは今さら言うまでもないことであろう。

 彼らはせいぜい、「米国と肩を並べて戦争できる国にするのが安倍首相のシナリオだ。九条を売り渡すなら、最悪の売国政治だ」(志位)と空虚なプチブル民族主義をいまだに振りまき、「国民投票法が成立すれば最短で三年二ヵ月後に憲法が変えられる危機的状況になる」(福島瑞穂)といった、つまらない危機意識と繰り言を言うだけである(産経新聞五月四日)。

 実際、「九条を売り渡す」などといった的外れな観点から(つまり安倍はアメリカのために政治をやっているのだ、といったばかげた観点である)、どうして安倍の改憲策動の本質を見抜き、それを暴露して闘っていくことができるだろうか。

 そもそも、国には“自然権”として本来「自衛権」があるなどと言いながら、集団的「自衛権」には反対だ(アメリカを利するから?)などと言っても、ただ安倍を利する以外のどんな意味もなかったことは明らかである(事実、安倍はこの問題で、共産党などのたわ言を利用しつつ、国に自衛権があるなら、集団的自衛権もあるのは当然だ、と主張している)。

 社民党にいたっては、現行憲法を「平和憲法」として絶対化する他、どんな知恵もないのだから、まさに無力な“政治音痴”としか言いようがない。現行憲法がブルジョア憲法であり、天皇制さえもその冒頭に掲げているような反動憲法である、という自覚が皆無であり、現在の憲法つまり“平和な”資本主義が永遠続けばいいといった、プチブル的でなさけない幻想以外何も持っていないのである。こんな党派が、ブルジョアや反動たちに、つまり安倍内閣に簡単に手玉に取られ、圧倒されるのも一つの必然であろう。

 安倍に反対する(と称している、あるいは見られている)党派や勢力がこんな有様なら、安倍が、「自分の信念を保持して頑張り、突き進んで行けば、道は自ずから開ける」と楽観し、確信を持つのも当然であろう。


父でもないのに父と言えるか
“三百日”規定に固執する頑迷固陋の安倍内閣

 離婚後三百日以内に生まれた子の父親は前夫の子とする、という民法の規定を変えるという提案が、安倍内閣によって葬り去られた。

 子供の本当の父親が、前夫のものでないとはっきりしているのに、戸籍上、前夫だということになってもやむを得ない、その方がいいというのである。反動の観念論者たちの考えにろくなものはない。

 明治時代に生まれた、こうした愚劣な法律が残っていること自体浅ましく、日本の恥だが、安倍内閣や反動どもが、この規定を必死になって守ろうとしているのだから、悲劇を通り超して喜劇と言うしかない。

 彼らのいい分は、神聖なる家庭を守れ、それが崩壊するのはよくないといったものである。自民党の女性局次長の稲田朋美――安倍の「盟友」として今はときめく権力者、労働者人民の嫌われ者――は、妻の「婚姻中の“貞操保持義務”は法律上の義務」といった、時代錯誤の名言を吐いている(毎日新聞、五月十四日)。

 現実と遊離し、もったいぶって道徳論を説くこうしたやからは、多くの女性や子供がどんなに苦しもうが、そんなことは知ったことではないのである。現実の幸福や実際の便宜よりも、どうでもいいような観念論や道徳や思い込みの方が重要だというのである。

 家庭が大事だというが、男女の結び付きにとって一番大切ものは、愛情であって、制度や建前やつまらない形式ではない、という最も根本的なことが――労働者なら簡単に理解できる、こうした普通のことが――、この愚劣な連中には分かっていないのである。

 “不貞”――何という時代がかった、古色蒼然たる言葉か、ただこんな言葉を持ち出すのを見ただけでも、稲田が、血の通わない、冷酷な人間であることを知るに十分である――は法律でも不道徳とされている、その証拠に、浮気は離婚の原因とされているではいなか、と知ったかぶりをして言っているが、しかし浮気が離婚の原因として重視されるのは、法律の問題である以上に、愛情の問題である。法律的な条文の問題は二の次、三の次でしかない。

 稲田は、「子供が前夫の名字になっていたとしても改めることは可能で、その間の事情は成長後に説明すればいい。親子関係が確かなら子供は分かってくれる」などと無責任な理屈を並べているが、そんなばかげた事態――女性にとっても、子供にとっても、本当の父親にとっても(前夫にとってさえ)、何一ついいことがなく、わずらわしいこと、不愉快なことばかりがついてまわるような事態――が生じないようにいくらでもできるのであり、するにこしたことはない、という単純にことが分からないのである。偏狭な思い込みのために、健全でまともな理性も常識もどこかに忘れてきているとしか言いようがない(もっとも安倍内閣や反動どもが、労働者の持つような普通の理性や“常識”を忘れてきているのは、この問題に限らないのだが)。

 また東北大の水野紀子は、「DNA鑑定で子供の本当の親を確定するのは家庭崩壊を招く」などといった奇妙な見解まで持ち出している(毎日新聞五月六日)。

 もちろん、「招く」場合もあるが、しかし仮に「招いた」ところで、その家庭はすでに愛情が冷めて事実上崩壊しているのであり、いまさら本当の父親がはっきりしたからといって、それが家庭崩壊の原因であるはずもないではないか。彼らには、こんな空っぽの形式だけが重要なのである。

 しかも、DNA鑑定をやったために「崩壊を招く家庭」といった例は、ただ例外的にあるだけであって、法律をさっさと変えるのに反対する論拠には全くならないのである。水野がこんな論拠に依拠するしかないという事実そのものが、反対派の立場がどんなにあやふやで、根拠のないものであるかを教えている。

 安倍内閣に巣食い、古くさい法律を弁護する連中の理屈はかくも軽薄でナンセンスであり、現実を無視した極反動的な空語でしかない。安倍内閣がどんなに労働者や国民の幸せにとって有害であり、時代錯誤であり、途方もない愚昧な内閣であるかが、ここでもとことん暴露されている。

 水野は言う、

「結婚は、基本的には婚姻中に生まれた子について夫が責任を持つという重い制度だ」

 水野は一体誰の幸せと利益を考えているのか。前の夫のためでさえないだろう、というのは、前の夫にも愛情が無くなっているなら、新しい夫の子供の「責任」を負うことなどまっぴらご免かもしれないからである。誰にとってもいいことのない、時代遅れの法律にしがみつく“復古趣味”はまさに異常としか言いようがない。

 これは女性を侮辱するばかりではない、子供に不幸と精神的、実際的な負担を押しつけるものであり、前夫にとってさえわずらわしいだろう、つまりすべての人がもはや欲していない法律に安倍内閣のごくつぶしたちは固執し、しがみつくのだが、その理由は、すでに事実上崩壊している「家庭」までも何が何でも守るためであり、古き良き時代の「家族制度」を持ち上げ、日本の「歴史」や「伝統」に深く根ざした“父権”を維持せんがためであり、また「家族制度」を根底とする“社会秩序”のためだというのである。

 水野は「社会生活を平和に営むための法的な親子関係」こそ重要だなどと盛んに強調するのだが、実際の親子でもないのに、子供が前の夫と法律的に親子関係に置かれることのどこに「平和」があるのか、またそのために多くの不都合や障害が出るなど、実際的、精神的に悩まざるをえない女性や子供たちがどんなにたくさんいるか、ということを見ないのである。

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