沖縄紀行 |
長年懸案だった沖縄へやっと行くことができました。これは、そこで見たこと、考えたことをまとめたものです。皆さんのご意見を伺えるといいのですが。
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| 第1日目(2005/1/13) |
1月13日お昼ごろ、約1時間遅れで那覇空港に到着以来、3日間の盛りだくさんで大急ぎの平和の旅がスタートした。会員になっている生協の企画で沖縄支部との協賛のため、普通の観光旅行とは趣向の異なる旅ができると期待して参加したのである。 沖縄は寒かった!毎年この時期はいつもこうなのだそうで、寒くて風の強い天気は日程が終わるまで続いて、私の沖縄に対するイメージは全く狂ってしまう。けれども、実はこのことこそがまさに沖縄の現実なのではないかと、今では思っている。 つまり、言い古されたことではあるけれども、イメージと現実のギャップ。このギャップを少し戯画化していえば、片方には過去の不幸と基地の存在の「おかげ」で、日本政府や米軍から過分なほどの経済的補償を与えられ、依頼心ばかり強くなったひ弱でネガティブ思考の沖縄がある。そして、もう片方に旧日本軍と米軍の理不尽な圧制にもかかわらず、故郷の国土と同胞を純粋に愛して、自身の利益など眼中になく、どんなに権威ある相手にも勇気をもって立ち向かっていく、信じられないほどポジティブな沖縄。真実はその中間にあると言ってしまえば間違いないけれど、その中間て一体どこ? ここでは、今度の沖縄旅行を通して、自分なりに見出したと思う、沖縄問題の本質を報告したい。その目的を果たすために、この旅行はとてもよくデザインされていたと思う。 那覇空港を出て以来、凝ったデザインのビルの林立は言うまでもないが、濃い緑や花々に縁取られた幅の広い舗装道路など、思ったよりずっとこぎれいで真新しい街並みに、最初の意外さを感じた。運転手の西冨さんと案内役を務めてくれたコープおきなわの大田さん、武内さんのお話でわかったことだけれども、ここにも沖縄が基地の島であるという現実の一端が示されているらしい。 返還後大幅に増額された軍用地借地料(国に買い上げられた土地代も含めて)を受け取った人々の内、たとえば旧王族の尚氏は現在でも毎年3億円の借地料を日本政府から受け取って東京で暮らしているそうだ。それほどではないにしても、島に近代的なビルを建てて人に貸し、自分は島の外で豊かに暮らしている人々も多いそうである。また、国から様々な名目で支払われた補償金によって建てられた数多くの施設も、街の近代的で美しい景観を作る助けになっているらしい。 一方、沖縄戦の早い時期にわずかばかりの農地を米軍に占領され、それ以来わずかな借地料と基地で働く給料だけで生計を立ててきた人々は、日本政府と米軍を恨みながら沖縄にしがみつくしかない。借地料が幾ら上がったとはいえ、土地が狭ければ当然借地料も大した金額にはならないし、戦時中米軍が勝手に造成して飛行場などに使っている土地は既成事実として、日本政府の黙認のもと実質的に米軍所有地のような扱いをされているらしい。その上、もともと沖縄は自給自足型経済で成り立っていたから、農業や漁業以外知らない人々がほとんどなのに、島全体の経済システムを近代化するための努力はつい最近まで一切なされなかった。 結果、自然を活かしたいかにもリゾート地らしい洗練された風景と、それとは裏腹に事情を知らない者の目には強迫観念とすら見える外部の人間に対する怨念とが共存することになる。それやこれやで、現在観光用建物以外で伝統的なシーサーの載った赤瓦の屋根を見ることはめったにない。たまに見る伝統的な民家は、あの戦争で一家全滅したまま残されている廃屋だったりする。 沖縄本島南部にある那覇空港から高速道路を使って辺野古を目指し北上する。ところが、どの道路を走っても道の片側にはいつでも高い塀がそびえて視界を遮る。説明はいつでも米軍基地。ユビキタスとはこのことか。ノーテンキな私はマスコミなどの「島の中に基地があるのではなくて基地の中に島がある」という表現を、基地被害を訴えるための誇張だと思っていた。しかし、これでは「基地の中に島がある」ですらない。基地の中でそれぞれの地域はその機能によって別々の名前がついているから、まるで島の中に基地がばらばらに存在しているように見える。しかし、実際には沖縄全体が基地なのではないか。島民たちは基地を運営する上で邪魔にならない限り存在を許される。 辺野古の海で闘っているのは疲れきった普通の人々だった。「ヘリポート建設阻止協議会」という名前を聞いて浮かぶイメージは、イデオロギーでがっちり理論武装した、たくましくて居丈高な男性たちの組織。ところが、座り込み用のビニールテントで私たちにこの運動について説明してくれたのは、今年70歳になるという会長の金城さんである。そして、工事をしようと乗り込んできた荒くれ男たちに「実力」で立ち向かった人々の多くは、過疎化したこの土地に残っていた、もう決して若いとはいえない(どころか、壮年とさえ言えないような)いわゆるおじい、おばあたちだという。 金城さんは熱心に話してくれたけれど、私には勇ましい信念よりは愚痴の方が耳に残っている。地元の人々だけで8年間運動を続け、座り込みも270日に達すれば疲れ果てて当然である。私の個人的な感想から言えば、外部の強力な組織体に操られることなく、等身大で続けている運動だからこそ信用できるのだけれど、それでは結局勝てないということなのだろうか。あれ以来ずっと考え続けて、いまだに結論が出せない。(この運動については、サイト:http://dugong2003.fc2web.comを参照) 金城さんの話を聞いている間、青テントの前の道をパトカーがそろそろと行ったり来たりする。「こんなに穏やかな人々がただ集まって座り込んでいるだけなのになんだか滑稽だ」と違和感を持っていた。ところが、東京に帰宅後上記のサイトで、その日午前中彼らが船(釣り船やプレジャーボート)を使い実力で建設工事を阻止していたことを知る。東京ではもっぱら駐車違反摘発に使われるあんな小さなパトカーだけれど、理由がどうあれ「中央政府」の意思に逆らう者たちにとっては、やはり重く暗い現実の象徴であるに違いない。 なお、3月初めピースボートの「虹の戦士」号が人々と共闘するため那覇港に入港したというニュースをインターネットで知った。それがどの程度彼らの助けになるのか、ならないのか、私にはわからない。だが、少なくとも金城さんが自分たちは孤立しているわけではないと力づける役には立つだろう。親代々あの土地で生まれ育った人々の叫びには無反応で、外国から押しかけてくると初めて問題意識を持つというのもおかしな話だけれども。 車を取って返して読谷村に向かう。途中下車して座喜味城址を見学。城址の一番高いところからは米軍上陸地や戦いの推移などを俯瞰できる。とりわけ日本軍の右往左往ぶりが手に取るようだ。寒風の吹きすさぶ石垣の上で呆然と往時を思う。きざな言い方だが、こうとしか言いようがない。このごく限られた土地の中で両方の兵士たちから追い立てられ、逃げ惑った住民たちはどれほど怖かったろう。当時私がここにいたらどちらの側にしろ兵士であったはずがない。間違いなく住民の一人として怯えながら逃げ惑っていたに違いない。まあ、ドジな私のことだから怯える暇さえなく殺されていただろうけれど。 これは沖縄の史跡の特徴の一つではないかと思うのだけれど、座喜味城址もまた日米が激しく戦った戦跡にしては非常に手入れが行き届いている。きちんと積まれた石垣、よく茂った樹木、工夫を凝らした説明版、どれをとっても言うことはない。欠点はたった一つ。ここに限らずとにかく石段が多い。日本の高齢化社会についてこれだけ言われているのに、足の悪い者は沖縄戦について知らなくてもよいのか。ふだんの運動不足がたたって私も帰宅後2週間ほどは膝痛に悩まされた。 読谷村に入ると静かな住宅街が続いてなんとなくほっとする。東京でいえば練馬の石神井公園あたりの感じだろうか?近代的な鉄筋コンクリート造りの二階家に緑あふれる生垣と庭。村の政策で国からの補助金をもっぱら壷屋焼きやガラス工芸のような芸術活動に振り向けたため、今では日本全国から芸術家の卵が集まっているという。何分沖縄中基地だらけだから、もちろん読谷村にも米軍基地がある。この村は、絶えず米軍に掛け合ってあまり使っていそうにない基地内の土地をどんどん返してもらうというか、いわゆる黙認耕作のような形で実質的に返還させているらしい。もっとも、このやり方は別に読谷村に限らず、北谷村は基地の中に役所を建てたり、三日目に見学した佐喜真美術館のように、先祖代々の墓が存在することを理由に個人が返還させた土地に、沖縄戦を描いた丸木夫妻の絵を展示する美術館を建てたり、皆さん果敢に「闘って」いる。こういうやり方って好きだな。 なお、読谷村役場には憲法第9条を掘り込んだ立派な碑がある。瀟洒なデザインの建物の入り口に立つそれを私たちは雨に打たれながらポカンと眺めた。小さな地方自治体がこんなに近代的なやり方で平和主義を宣言している。オーストラリアの政治学教室で、あるいは日本の自民党政策委員会で、専門家あるいはその卵が賢しら顔で標榜する「現実主義」とか「責任論」の稚拙さを思わざるを得ない。 車中からトリイ通信施設なるものを見る。施設の入り口にある鳥居にはなんと星マークの扁額が掲げてある。本来神道の結界を示す鳥居がアメリカの軍事力を示す道具に使われているようでなんとなくグロテスク。アメリカ人たちは多分気づいていないだろう。案外自分たちの沖縄への善意を表しているつもりなのかもしれない。チビチリガマが他人(私たちのような観光客)の入壕を拒む気持ちが少しわかった。 全員疲れ果ててその日の宿、まーみなーにたどり着いた…はずだった。ペンションだから特別な期待はない。食堂に入ってテーブルセッティングをながめ、覚悟していたほどひどくはなさそうだとほっとした程度である。ところが、「ひどくない」どころではなかった。凝った前菜から始まって魚料理に肉料理、サラダにスープ、食後のデザート、さらには食事の後全員が手にした泡盛用のおつまみまで、シェフ(女主人のパートナー)の腕と心遣いは感動的でさえある。 しかし、私たちは甘かった!満腹の上泡盛ですっかり盛り上がったメンバーに女主人の会沢芽美さんが宣言した。 「さあ、これからしごかせていただきますよ」 「うっそ!」(また階段登り?それともウサギ跳び?会沢さんて体育会系なんだ!) かつての歌声喫茶を彷彿とさせる合唱の後は会沢さんの一人芝居と民謡が続く。興味深いのは、彼女はもともと北海道出身で反戦運動も沖縄の反米軍基地闘争も関係がなかったのだという。それが、たまたま出会って結婚したパートナーが沖縄出身だったので、ここ、読谷村残波岬に来てカップルでペンションを始めたところが、沖縄の実情を知って自分の特技を活かし一人で運動を始めたのだそうだ。ペンション経営の合間には全国の学校をめぐって、さっき私たちに見せてくれたような、沖縄戦を生き延びた人々から聞いた話を基にした一人芝居を見せて回っていると言う。 会沢さんだけでなく、この日一日私たちを案内してくれた大田さんも沖縄出身ではないと言うし、辺野古で紹介された青年の例も、東京の中学で登校拒否だったのがジュゴン見たさに辺野古に来て、今ではこのグループの中心となって活躍しているそうだ。沖縄には確かに何か異郷人を惹きつける力が存在している。美しい風景だけでも、悲劇的な歴史だけでも、「純朴な」人々だけでもない何か。会沢さんに「しごかれて」エイサー踊りの真似事をしながら思う。ここには考えなきゃいけないことがたくさんある。後でゆっくり考えよう。(これが私の悪い癖!) (写真説明) 辺野古海岸:白い砂浜をちょうど二分する位置に防衛施設庁が有刺鉄線を二重に設置した。人々は抗議の意を込めてリボンを結びつけた。 |
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| 第2日目-1(2005/1/14) |
二日目も雨。気のせいか、昨日よりもっと寒い。ガイドさんは太田さんに代わって武内さんという方。太田さんの口ぶりではこの問題の権威あるベテランらしい。時間ぴったりにバスで迎えに来てくださったのに、こちらは相変わらずのおばさんペースの忘れ物やら記念写真やらで、運転手の西冨さんと武内さんをイライラさせる。 1日目でも書いたように、米軍基地ばかりがこんなにぎっしり続いていては嘉手納基地だろうが普天間基地だろうが、初めて見る私たちには区別がつかない。帰京後のぞいた辺野古のサイトでやっと違いがわかって少し納得した。つまり、米軍内部の差別が沖縄の基地問題解決に複雑な影響を与えているらしい。なんでも嘉手納基地に配属されるのはエリートで普天間はスラム出身者が多いのだそうだ。(参考サイト:http://diary5.cgiboy.com/2/henokonikki/index.cgi?y=2005&m=3#3) あまりにも天候が悪くて最初予定された安保の丘に行くのは無理ということで、大通りに面したアミューズメントビルの屋上から嘉手納基地を俯瞰する。風ですぐオチョコになってしまう傘はあきらめざるを得なかった。登山用の防水防寒ヤッケとズボンを着込んでフードを目深くかぶっていてもまだ寒い。武内さんは一目見ただけで、昨日見た何台のなんとか機が今日は見えないからもうイラクへ出発したらしいなどと言うけれども、目が悪い上そういった知識がまるでない私はポカンとするばかりである。ただのっぺりと広がる滑走路は無表情で、その周囲の芝生は緑が美しい。 「戦争前、あそこはうちの畑だったんですよ」 一通り説明を終えた武内さんが目の前の滑走路を指差して突然おじいさんの話を始めた。物心ついて以来酒びたりの祖父が大嫌いだったけれど、成長後ここに連れて来られ、そう教わったことが、現在のガイド・ボランティアを始めるきっかけの一つになったという。沖縄には一体何人の武内さんがいるだろう。50年以上も続く粘り強い反基地闘争はこういう人々によって下支えされている。武内さんの思いつめたような厳しい表情に初めて親しみを感じた。 見学の後屋内に戻ろうと手すり際から振り向いて数人のカメラマンに気づく。いかにも高価そうなカメラや三脚を風雨から守ろうと軒下に避難しているようだ。武内さんは近づいて、はるか遠くにみえる軍用機の機種や最近の基地内の動きなどを教えている。彼らはああやって写真を撮っては東京のマスコミなどに売るのだそうだ。そういう情報がイラク情勢を分析する材料になるという。そして武内さんの分析によれば、ここのところ沖縄の基地が比較的静かだという事実から、公式発表とは無関係にアメリカはイラクに軍をかなり増派していることがわかるのだそうだ。 エレベーターの中でそんな説明を受けていたらだれかが言った。 「この建物にはエレベーターがついていてよかったわね」 もちろん足弱の私をからかって言ったのだが、武内さんは真顔で答える。なんとこのビルも日本政府の補助金で建ったのだそうだ。週末、沖縄の若者たちは巨大な基地やいかめしい軍用機を見下ろしながらゲームセンターで楽しむ。武内さんに「どう思う?」なんて聞けはしない。 つい最近起こった沖縄国際大学の軍用ヘリコプター墜落現場を見る。私のマスコミから得た知識では、落ちた場所が大学キャンパス内部の空き地で当日はたまたま休日だったことから、ヘリコプター乗員を含め人的被害は皆無ということだった。ところが実際に現場に来てみると、そこはぎりぎり2車線しかない道路のすぐ脇で、敷地を区切るブロック塀と校舎の間に落ちた上、道路の反対側にはぎっしり民家が立ち並んでいる。その民家に住んでいる人々にとっては、玄関前に軍用ヘリコプターが落ちたのと同じなのである。 兵器の知識などまるでない私でも、もし積んでいた爆弾でも爆発したら一体どうなっていたかとぞっとしたが、米軍も(ぞっとしたかどうかは別として)同じことを考えたらしい。完全防護服を着た米兵がオレンジ色のカバーでくるんだ劣化ウラン弾らしきものを運ぶ写真が、大学自治会が発行した資料の中に載せられている。ほかの米兵は普通の軍服だから幸い放射能漏れはなかったようだけれど、証拠をすべて持ち去るまで大学は事実上米軍に占拠された状態だったらしい。大学責任者でさえ行動を制約され、日本の警察は抗議する住民を逮捕しようとしたというから、ホント、いつからこの国はアメリカの植民地になったのかと思う。 前田高地というところで再び展望台からアメリカ軍の上陸地点を望む。鈍く光る海が、当時は真っ黒に見えるほどたくさんの戦艦がここを埋め尽くしたのだと幾ら説明されても、正直言ってあまりピンと来ない。さっき見たばかりの沖国大(武内さんはオキコクと言っていた。沖縄国立大学の略称)の焼け焦げた立ち木がまだ私の頭から出ていかないので、50年昔の出来事に共感できる余地がないのである。昨日のハードスケジュールもあって、黙々と、そしてヨチヨチとみんなの後をついて歩く。今日の予定は戦跡巡りなのに、私ってどうも過去を振り返るタイプじゃないのだ。ここは昔浦添城があったところで、他の高所にある施設と同じように戦時中は砦として激しい攻防戦を経験したという。 武内さんの説明でなるほどと思ったこと。太平洋戦争直前アメリカとの開戦が避けられないと見た日本軍部が戦術を考えた時、沖縄でアメリカ軍を食い止めるというのは最初から決まっていたのだという。一方、アメリカも日本を攻める時にはまず沖縄を占領して、それから北上していくというのが基本的な戦術だったという。つまり、両方とも沖縄を日米戦の最初の主戦場にするという点では一致していたわけである。武内さんの怒りはここにある。日米戦が一般に意識される何年も前から日本軍部は、こうした高台に惜しげもなく費用と資材を費やして頑丈なトーチカなどを構築し、戦争準備に余念がなかった。そんなに前から沖縄が危険になることがわかっていたならば、なぜ沖縄に住む老人や女性、子供などの非戦闘員をもっと早い時期に本土に避難させなかったのか。そうしていさえすれば、沖縄住民はあんなにまで悲惨な地獄を体験しないで済んだ。 武内さんの怒りと嘆きは本当に私の胸を打つ。涙腺の弱い私はそれだけで目の前がぼやけてくる。それなのに、オーストラリアの大学で得た知識が純粋に彼女に共感することを阻む。教官室でオーストラリア外交の科目担当の先生と話していた時、彼は私に日本人が自衛隊を正式な軍隊として認めない理由を説明するよう求めた。第二次大戦中の日本軍の非戦闘員に対する虐待の例として沖縄を挙げると、彼は困ったように咳払いした後言った。「戦争とはそういうものなんだ。我々だって戦術上必要になれば同じことをやったかもしれない」 ともあれ、武内さんが教えてくれた、私にとって新しい情報をもう一つ述べておこうと思う。沖縄戦があれほど悲惨になった別の理由として、米軍側の戦術ミスがあったのだそうだ。米軍上層部としては、南方戦線で予想外に苦戦しなければならなかったので沖縄戦に際してはそれ相応の覚悟があった。すべての軍事資源を沖縄沖にいったん集結し、それから一気に全力で攻撃する予定だったのだ。日本軍参謀本部と同じく、米国防総省も日米戦開戦前から沖縄戦の成否がこの戦争全体の勝敗を決すると見ていたからである。 一方、南太平洋戦線で苦戦した米兵たちは、その後沖縄を目指して北上する間抵抗らしい抵抗を受けることがほとんどなかったため、すっかり楽天的になってしまう。上陸戦の際軍服の下に水着を着ていた兵さえいたらしい。そんな現場の空気の中で、早い時期に到着した現場の指揮官の一人が上部の攻撃命令を待ちきれず自分の部下を率いて上陸してしまったために、統制のとれた効果的な攻撃ができなくなったのだという。 ずっと厳しい表情だった武内さんの顔が少し和らいで、京都県民の碑というのに私たちを導いた。沖縄を一口で言うと島の形をした基地で、あちこちに記念碑を散りばめ、基地と記念碑の隙間に住民たちが細々と生活しているように、部外者の私には見える。そんなにたくさん記念碑がある中から武内さんがわざわざ選んで案内してくれるのだから、何かよほど特別な趣向があるのだろうと思い人ごみを掻き分けて最前列に出た。 小さな潅木に囲まれた横長の御影石に刻まれた文章は、けれども、この地で京都出身の兵士たちが沖縄住民を巻き込みながら厳しく戦い、無残に散っていったことを悼む、ごくありふれたものだ。当惑して武内さんを振り返る。彼女は、教室に張り出された自分の絵を見せびらかす小学生のような笑顔で碑文を読み上げた上で、文章の一部に私たちの注意を喚起した。 「京都だけはね、こういう言葉を入れてくれたんですよ」 「沖縄住民を巻き込みながら」ぼんやり繰り返す。 やっと武内さんは私がまるでポイントを掴んでいないことに気づいたらしい。苛立ったように声を高めた。 「ほかの碑には一切この言葉はないんですよ。自分たちの県出身の兵隊がどんなに勇ましかったかだけ書いて満足してる」 「東京も?」恐る恐る聞いた。 ワンテンポ遅れて武内さんは小さな声で言った。「東京はまだマシな方ですけど」 (うそなんだ。武内さんて優しい)ここはいわば記念碑団地みたいなものらしく、ほかにもさまざまな記念碑が立っている。読んでみると、なるほど、60年前にタイムスリップしたような文章が幾つもある。「バスに戻りましょう」武内さんの足が速くなった。 今回の旅行のハイライト、轟の壕(がま)はなんでもない道からちょっと入ったところに、意外なほどさりげなく用意されていた。ここであえて「用意されている」という言葉を使ったのにはわけがある。階段を下りて壕のとば口まで来た時、不謹慎かもしれないけれど、私は子供のころよく通った近所の小さな神社を思い出した。片隅には小さな祠のような場所があって、供え物を置くためらしい石の台があったり、千羽鶴がかかっていたりする。神社に千羽鶴はなかったけれど、なんとなく漂っている生活臭が私をそんな気持ちにさせたのだろう。 沖縄の壕は、第二次大戦中空襲を逃れるため世界中の他の都市で掘られた人工のいわゆる防空壕とは異なり、さんご礁の上にできた島が持つ無数にある自然の洞穴で、人々の生活環境の一部だったらしい。そこに人々は逃れ、恐ろしい時を過ごし、そして無残に死んでいった。つまり、数が多く、印象的な場所ではあっても、観光地でも記念的構築物でもないのである。したがって、チビチリ壕といえば私でも聞いたことのある悲劇の名所であるけれども、遺族たちは観光客の入壕を一切拒否しているという。そんな中でこの轟の壕は急な坂道に手すりを備え、石段を切って、当時人々が避難していた地の底まで私のような軟弱な者でも行けるように、極端に当時の環境を変えてしまわない範囲で工夫してあるのである。 それでも、最後のほとんど垂直に近い真っ暗な崖を降りなければならなくなった時、私は目的地(住民たちが最期を迎えた場所)に行くことを断念せざるを得なかった。悪天候のせいで足元が滑りやすいし、懐中電灯を忘れた上昨日の階段登りで膝が怪しくなっている私が万一怪我でもしたら、同行している皆さんにかける迷惑はとても冗談ではすまない。 急な坂道(と言うより、実態は周囲の壁に両手をついて体を支えなければ立っていることさえできない竪穴)の入り口にある小さな岩に腰を下ろして、皆の帰りを待ちながら当時を思う。頭の上に突き出た岩のおかげで雨に濡れることはない。当時は米軍に焼き払われてむき出しだったという周囲の岩肌も、今では木々や苔の美しい緑に覆われて、盛りだくさんのスケジュールや教えられる事実に疲れ果てた私の心をむしろ癒してくれる。愚かな自国の指導者や荒んだ米軍兵士たちのために理不尽に殺されなければならなかった人々とその遺族たちにとって、ここはどんなにか恨みと悲しみの凝縮された場所だろうに、60年後の同胞である自分が彼らの怨念を感じて総毛立つどころか、ある種居心地のよさを感じていることに気づいて突然落ち着かなくなった。なぜなんだ?私が鈍いから? バスに戻ってから隣席のKさんに感想を聞いたけれど黙ってうつむいたままである。悲しみに包まれた表情を見ては重ねて問い詰めることもできない。その日遅くなってからポツリと漏らした言葉が、どんな悲惨な写真よりも激しい言葉よりも、この鈍感な私に現実に起こったことのむごさを悟らせる。 「奥の方は結構平らだったんだけど、あの時の私たち全部入れても10人足らずでしょう。それでちょうどいいくらいの広さなのに本当に100人近くも入っていたんでしょうか?それに、武内さんが一度懐中電灯を消させたんで真っ暗な中にいなきゃならなくて、私たちみんなすごく怖かったのに、武内さんはこうしているととっても安心できるって言うんですよ。信じられます?あんなに暗くてじめじめしてて、しかもたくさんの人があそこで死んだわけでしょ?」 よくわからないけれど、人はあんまり悲しい時むしろその悲しみの真ん中にいる方が安心できるんじゃないかな。 (写真説明) 沖縄国立大ヘリ墜落跡:白壁にある焦げ跡の前に立つのは燃え尽きた大木。白い金網の手前5mには人家が立ち並ぶ。天井を突き抜けて巨大な部品が落ちてきたという。 |
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| 第2日目-2(2005/1/14) |
バスの中で武内さんは時間をやたらに気にしている。これから行く予定のひめゆり平和祈念資料館は4時に閉館してしまうのだけれど、その前に私たちを白梅の塔に連れて行きたいのだそうだ。気をもむ武内さんに運転手の西冨さんはなぜか不機嫌で、どうも私たちを武内さんの計画どおり案内するのが不本意らしい。武内さんのようないわゆる平和運動家グループと、西冨さんが代表する「普通の住民」との微妙な関係を初めて実感した。 平和運動や反基地闘争でがんばっている人々からすれば、いやしくも日本人ならだれでも自分たちの活動に協力すべきだと思う一方、観光客相手の仕事で生活している西冨さんのような人にしてみれば、ことさら騒ぎ立てて沖縄の暗い現実に外部の人間の注意を引こうとする活動は歓迎できるものではない。さらには西冨派の人々にすれば、生活のためやむを得ず無関心を装っているだけで本当は一種の後ろめたさは常に感じているだろうに、まるで体制に媚を売って巨利を得ているような当てこすりを言われたら不愉快であるに違いない。 「白梅の塔」と「ひめゆりの塔」に見る「現実」が、いよいよ沖縄理解をむずかしくする。第一に、学徒兵という言葉がある。少なくとも私にとって学徒兵のイメージは、マスコミが第二次大戦に言及する時必ず示される、明治神宮外苑で整列して出征していく大学生たちにほかならない。年齢でいえば二十歳前後、どんなに若くても十八歳以上の、凛々しい若者が銃を担いで行進する姿である。(別に兵士を美化しているのではない。当時の人々は皆、老若男女を問わず現代の日本人たちより引き締まった利巧そうな表情をしているように感じる) ところが、沖縄の学徒兵という言葉で示される写真の顔は、どう見ても十四、五歳以下、学徒というよりは田圃のあぜ道で遊びほうけている方が似合いそうな、本当の子供たちである。こんな子供たちに守ってもらわなければならない国や国の指導者たち(天皇も含めて)って一体…。アフリカの誘拐された少年兵を思い出す。 まして、年齢こそ「学徒兵」より多少上とはいえ、少女たちを突然戦場に駆り出して、看護助手という名の下に自分たちを守らせる軍人たちの神経には、ほとほとあきれて言葉もない。たとえ本人たちが望んでも断るのが軍人たる者のプライドだろうに。イラン・イラク戦争の時、地雷処理のために軍隊が突撃する前に砂漠を歩かされたイラン女性たちを思う。(彼女たちが地雷を踏めばその後を行く兵士は安全というわけ。最初ラクダを使ったがラクダは「高価」なので次に男の子たちを使った。ところが、その数があまりにも多くて将来の兵士が減ってしまうことを心配、また体重が軽くて触れても爆発しない地雷が多かったため、結局成人女性を使うことになったという)当時のひめゆり隊も白梅隊もイランの彼女たちも、皆同じように「志願した」のだと「言われて」いる。 そして現在。前庭に美しい植え込みや花壇があって、館内には実物大だという壕の模型もある「ひめゆり平和祈念資料館」と、通りから引っ込んだところにひっそりとたたずむ「白梅の塔」(塔といってもやや大きめの石垣の上に立てた墓石というのが実態である)。ひめゆり隊は旧府立高等女学校に属し、白梅隊は私立の女学校の生徒たちだったせいばかりではない。ひめゆりは映画にもなってあまりにも有名だし、一種のエリート校で同窓生にそれなりに有力者が多くこうした事業の運営にも慣れている。一方、白梅隊の出身母体である学校は戦中に公立に吸収されてしまったため、事業の母体となる組織のメンバーを集めること自体むずかしかったのだという。その上、戦場において軍人たちの彼女たちに対する扱いもかなり異なっていたらしい。白梅隊の隊員たちは軍が陣地を撤退する時傷病兵の「処理」に直接関与させられたため、自責の念から白梅隊に属していたという事実についてさえ、戦後長い間沈黙を守っていたのだという。 問題はさらに続く。戦後60年もたった現在でさえ、この二つのグループの間には目に見えない壁があって一緒に行動することはないのだという。私たち沖縄外の人間が当時従軍させられた少女たちはひめゆり隊だけのように思い込みがちなのは、こうした事情にも原因があるらしい。現在の私の目から見れば、(白梅隊よりは)「優遇」されたというひめゆり隊の経験だってずいぶん過酷だったのだから、少なくとも悲しみを共有することからでも始められないものかと思うのだけれど。 米須海岸で私は、戦争だけでなく時間というものの残酷さを思い知らされることになった。武内さんは体験者の語り部の言葉として、「ヤギみたいに殺された」という言葉を繰り返すけれど、意味がさっぱりわからない。彼女の表情を見れば詳しい説明を求めることなんかできないが、でも、その言葉の内実がわからなければ沖縄戦の内実もわからない。海岸で波に打ち上げられた珊瑚を拾う間も、バスに帰る道すがらも、考え続けた。ヤギはどうやって死ぬんだろう? きょとんとする私に彼女は何度も繰り返す。山の方から火炎放射器でこの浜まで追い詰められた住民たちの内、早い時期に海岸にたどり着いた者たちは海に迫った艦船からの大砲で狙い撃ちされ、遅れた者は山から迫る米兵の火炎放射器で焼き殺され、結局助かった者はほとんどいなかったと。これさえ言えばどんなに鈍感な私でもわかるだろうと言わんばかりに。 都会育ちの私には生きているヤギさえ子供のころ動物園で見たきりである。ヤギは…足が4本。米軍に追われた住民は四つんばいになって逃げた?誰だって必死で逃げれば時には四つんばいにもなるだろう。でも、四つ足はヤギだけではない。なぜわざわざヤギなんか持ち出すんだろう。もちろん、ヤギなんかわからなくても人々がどんなに残酷な運命をたどらなければならなかったか、理解するのは簡単である。でも、私が沖縄に来たのは戦争に巻き込まれた非戦闘員の残酷な運命を「理解」することではない。沖縄そのもの、それからあの時沖縄で何が起こったかを知りたいから来たのである。 話は変わるが、私の父は戦争には行かなかった。かわりに、防空団という組織で空襲から地域の住民たちを守る役目についていたそうだ。一族は当時皆東京東部、台東区と墨田区に住んでいたから、彼の受け持ち区域は隅田川にかかる橋、永代橋や両国橋のあたりだったらしい。3月10日の東京大空襲で見た風景を人間の形をした炭の山と表現していた。本来有機体の人間が木炭のようになって死んだという。考えてみれば、無惨な運命に見舞われたのは沖縄の人々だけではない。 たまたま東京は日本の首都で主な支配者階級の人々が住んでいたから、東京の住人を被害者と見る見方はあまり一般的ではないけれども、愚かな指導者を頂いた国民の受難はどこに住んでいても同じなのである。違うのは、東京の庶民は疎開できたのに沖縄住民は逃げ出すことができなかったことくらいだろうか。しかし、疎開でそんなに安全でまともな生活ができたわけでもないことは、私の母親の個人的な経験ばかりでなく学童疎開の思い出話を聞けばわかる。小さな島に閉じ込められたという意味では、東京も沖縄も同じだった。 攻撃した米兵たちの見る目も同じだったろう、たぶん。幾ら殺しても罪悪感を持つ必要のない、自分たち人間とは異なる何かを地上から片付けて地球をより価値のある場所にするという使命感からすれば、壕に逃げ込んだ人々に地上で火炎放射器を発射することも、上空から地上を逃げ惑う人々を狙い撃ちすることも、命じられた任務を達成するという意味では変わりがない。アメリカ人が特に狂信的だと言っているのではない。大東亜共栄圏を信じてそれを実現するために白人兵やアジア人を殺しまくった日本兵も、9月11日に自爆攻撃したイスラム教徒も、同じだと言いたいだけなのである。戦場に投げ込まれた人間は、そう信じなければ生き延びる(あるいは、少なくとも自分を正当化する)ことができない。 要するに私が言いたいのは、非常時に人間は自分と異なる立場の人々を排除して小さく固まりがちだけれど、私たちにはその前にまず、戦争を起こしたがってウズウズしている社会の指導者たちを排除する義務があるように感じる。ちょうどごみを捨てる時生ごみと不燃ごみを分別する義務があるように。たとえ戦争を世界中から全部なくしたとしても、世の中にはまだ自然災害だの事故だのが次々と起こるのだから。 (写真説明) 摩文仁の丘の真実:米軍捕虜となった住民たちは、放置されていた遺体をできる限り集めてここに葬った。日本政府はここの遺骨を摩文仁の丘に合祀しようとしたが、人々の不信感は強く断わられてしまう。困った関係者は夜中にこっそりここの遺骨を掘り返して、遺族に無断で摩文仁の丘に移してしまったという。観光客は別として、遺族たちは今でもここに参詣している。(こんな政府だというのに、仲間割れしている場合じゃないと思うのだけれど) |
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| 第2日目-3(2005/1/14) |
頭の中で飛び跳ねるかわいいヤギのイメージをもてあましながら、私はバスで平和祈念公園に導かれる。ここのユニークさは、国籍や人種などどんな立場の違いにも関係なく沖縄戦の犠牲者すべての死を悼み、侵略戦争を反省する理想にある。中でも植民地化政策の最大の犠牲者であった朝鮮人たちのために、敷地内に一定の場所を与えて韓国人たちの自主的な意思による慰霊塔を建てることを許していると知って、私は幾分救われた気がした。そんな機会があるとは思えないけれど、オーストラリアで出会った韓国人留学生たちに再会しても、この話をすれば少しは肩身が広くなる。いつか雨もやんで明るくなった空の下、美しく設計された公園の小道をいそいそと進んだ。 慰霊塔の入り口には巨大な大理石の門柱が立っているのだけれど、その横向きに立った位置がなんとなく拒否的に見える。(あの人たち、まだ許してくれていない)武内さんが立ち止まった。 「この門柱、なんだか変でしょう?元々はこんなじゃなかったんですよ。ちゃんと正面を向いていたんです。ところが、その後設計変更があってこの慰霊塔の入り口の向きが90度変わったんです。それなのに国は一度立てた建造物の建て替え費用を一切出してくれないものだから、この門柱はなんだかまるで拗ねてるみたいにそっぽを向くことになっちゃって…」 (そうだったのか。よかった。日本政府の連中のわからず屋ぶりは今に始まったことではない。韓国の人たちだってその辺はわかってくれるだろう) 「それだけじゃないんですよ。この植え込みだって、最初は韓国の人たちがムクゲの木を植えたのに、それを全部引き抜いてこんなありふれた木を植えちゃって…。ほかも全部これだからって言うんですけど、ここは韓国の人たちのための場所なんですからねえ」 例によって武内さんの政府批判は一度始まるとなかなか止まらない。確かに、武内さんの話を聞く限り、日本政府は莫大な予算を使って敵を増やすことしかやっていないように見えるけれど。夕暮れ間近い園内は、場所柄もあって非常に静かである。韓国風の石造りの塔は、こちらの引け目のせいか、私たちを圧倒するように高くそびえていた。在日韓国人の人々が費用を持ち寄って建てたので、塔の正面が韓国の方向なのだそうだ。武内さんは慰安婦にされた韓国人女性やこの塔のために活動した韓国人たちとも会ったそうで、その話になるとさすがの彼女も複雑な表情になる。被害者が被害者に引け目を感じなければならないなんて不条理には違いない。 園内を歩いて平和の礎と平和祈念資料館に向かう。美しい理想と意匠を凝らしたデザインの施設。ここは第二次大戦を記念する地としての沖縄の精華と言ってもいい。延々と続く黒御影石の石碑には沖縄戦の死者の名前がわかる限り彫り込まれている。これからもわかり次第追加していく予定で、そのための場所も残してあるのだという。国籍もその死の理由、つまり戦闘員(加害者)であったか、非戦闘員(被害者)であったかも問わず、あの戦いで亡くなった人々をすべて「平等」に悼むために。 ところが、ここでもまた理想は現実に背かれた。死者たちをグループ分けして沖縄住民、当時の被植民地人、日本軍、アメリカ兵ごとにまとめて、石碑を並べてある。当然数から言えば沖縄住民が一番多いので一面の芝生の中央部分のほとんどは彼らの碑が占めている。一通り説明を聞いて、それなら日本軍関係者の石碑に連れて行ってほしいと頼むと、武内さんはあからさまに嫌な顔をして「どうしても見たいですか」と尋ねる。意味がわからなくて面食らっている私に彼女はまくし立てた。 「どうしてもって言うならお連れしますよ。ちょっと、かなり遠いですけど。あの辺です」 漠然と手を振る。その方向にはここにある石碑など何も見えず、ただこんもりとした木立ちだけが見える。 「特別なんですよ、あの人たちは」 「ここはみんな平等だって聞いたわよ。だから期待していたのに」 「名前を刻むってことについては平等なんです。だけど、それ以外は全然平等なんかじゃありません。あの人たち(日本軍関係者)の場所ときたら…」 「立派なの?ひどいの?」 私たちは一斉に声を挙げた。 「そりゃもう…。地位ごとに全部違うんですよ、きち〜んとね。将校たちの碑なんてまるで、まるで…」 「ちょっと待って。碑の形が違うわけ?」 「形も並べ方も全部。ここみたいに芝生の上にずらっと並べるようなことはしないの。どのくらい偉いか、見せつけたいんでしょうね」 「だけど、そんなに偉かったらどうしてあんなひどいことになったのよ」 武内さんは先に立って歩き出した。石畳のメインストリートを海に向かって進むと泉のようなモニュメントがある。仕掛けがあって、国賓や皇室、閣僚などが来た時だけ美しく光る噴水になるのだそうな。はあ、崇高な理想ねえ。 ここは崖の上にあって、米軍の上陸地点だったという海岸を眼下に見渡すことができる。一時明るかった空の色が再び鉛色になり風も強くなってきたのを映して白波の立つ海面も暗いのだが、それでもなお観光地沖縄にふさわしいみごとな景色である。観光旅行のバスガイドさんに連れられてぼんやり眺めていれば、だれだってこの施設の美しい建前しか目に入らないだろう。(メディア・リテラシー!) 今夜の宿はホテルなので、いったん部屋に荷物を置いてから再び玄関に集合し街に出る。傘がゆがむような強い雨の中、10人近い人数を受け入れてくれる居酒屋を探して歩き回る。東京の新宿や池袋にあるのと変わらない、雑居ビルの地下にある店がやっと見つかってほっとする。みんなくたびれてお腹もぺこぺこだった。まずはビールで乾杯、あとは泡盛で盛り上がる。(ダジャレじゃないです) 沖縄の真実。あの有名なラフティも作り手次第でずいぶん味が変わる。那覇空港に到着以来本当にたびたびラフティを食べたけれど、結局昨夜まーみなーで出されたものが一番おいしかった。サーターアンダギーも同じで、やはり家庭で手作りしたものが一番ということらしい。私たちのバスを運転してくれた西冨さんの奥さんが作って差し入れてくれたものは、あちこちの店で買って食べたのとは比べ物にならないほどおいしかった。ということは、幾らおいしい沖縄名物を食べても土産屋で買ったのでは同じ味を家族に持って帰ることはできないわけで…。う〜ん、本当に沖縄は複雑。 決して豪華ではないけれど快適なホテルで、明日に備えて、と言うより実のところ疲れ果てて、ふだんは寝つきの悪い私もあっという間に眠りに落ちた。 (写真説明) 平和の礎の碑面。混乱の中、たまたま現地に居合わせたばかりに命を落とした人々は名前がわからない。それでも亡くなったことだけは確かなので、出身地(字 鳥島)や続き柄(仲宗根ハルの夫:全滅した一家の新婚の夫は他の地区から来たばかりで、土地の人たちにまだ名前を覚えられていなかった)を残してある。 |
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