2004年3月23日開始
★ 一言 10月22日
西武鉄道株が本日づけで「監理ポスト」に指定された。この後上場廃止が決まれば「整理ポスト」に移され、ここで3ヶ月取り引きされた後、上場廃止となる。あとは個人の会社としてワンマンぶりを発揮していなさいとオーナーの堤義明に東京証券取引所が引導を渡したことになる。
これは堤義明の指図した、西武鉄道株の虚偽記載問題が原因になっているのだが、この監理ポスト入りについて説明すると、東証には、特定の大株主の株式保有比率が1年以上80%を越えた上場企業に対して、市場で株を売買できなくするルールがある。今回の場合にあてはめると、西武の親会社であるコクドなどのグループ企業の保有比率が80%を超えており、それでいて有価証券報告書に、コクドの保有比率を80%より少なく記載していた事実が発覚したということなのである。
80%もの株が特定の大株主に保有されてしまうと流通する浮動株が少なくなる。すると買い手が多くなるから、株価が正当な値段より高くなってしまう。これは一種の株価操作であるから、東証は上場を廃止してしまうのである。流通する株が少なければ、上場している意味などないから、出ていけ、ということになったのである。ニッポンもなかなかやる。ちなみに問題が表面化する10月13日の西武鉄道の終値は1081円。21日は511円である。
問題が大きくなったのは、この虚偽記載の状態を西武鉄道は1年どころか、30年の永きに渡って続けていたのである。実際の大株主はコクドグループであるのに、800人もの個人株主の名前を記載していたのである。個人名は西武の社員が主であったというが、それならば当然配当が株主に支払われていたわけだから、自分が西武鉄道の株主になっているのは分かるはずだ。それを黙っていたということは社員も同罪になる。暴君堤義明にただ唯々諾々とつかえており、堤は30年もの永きに渡って上場企業を私物化していたことになる。分かっていたこととはいえ、取引先の企業にも堤に正義を糺すことができなかった責任はある。企業はリーダーによってきまる。西武もコクドもこれで信用を失った。
ダイエーも西武も晩節を汚した情けないオーナーによってやがて名を消していくことになる。そう、西武球団も消える。日本シリーズでの観客数の少なさがそれを物語っている。ファンの支えがないのだ。
筆頭株主のコクドが株価下落につながる虚偽申告の事実を知らせずに、保有する西武鉄道株を関連企業に売り飛ばしことは、当然インサイダー取引になり、証券取引等監視委員会はなあなあな調査で最早終わらせることはできない。関東財務局も堤義明の刑事処罰を告発する用意をすべきである。
虚偽申告を公表したのが13日で、事実を告げずに、それ以前に市場ではなく、ワコール、アサヒなど20社に直接株を売りとばしたコクドは、今後株式売買契約の解約や購入代金の返還請求、さらに損害賠償請求を受けることになるだろう。堤義明の崩壊である。
私としてはなぜいままでこのぼんくらな企業家がマスコミでもてはやされるのか分からなかった。彼は親父から受け継いだ財産を適当にいじくって遊んでいただけであるし、派手な土地売買を来り返すだけで、日本国に企業税金をこれまで一銭も支払ったことがない。そんな会社は日本に必要がない。そしてその「総帥」が無用な者として抹殺されるのは当然の帰結なのである。この人は会社にとっていいことは何もしなかった。最後に企業家の腹黒さを露呈させ、その根性と品性がいやしいことを世間に知らしめたことが唯一の功績となった。いや、おめでとう。
★「青春と読書」9月号 全文掲載
※8/26に集英社から発売されます単行本『空の剣ー男谷精一郎の孤独』についての
エッセイです。
「空の剣」ができた
「青春と読書」という冊子は集英社の広告部が出している。
未来の読者に向けて、この本を推薦しますとアピールしているわけである。
そこでは露骨に広告をうたれるわけではなく、エッセイふうに味付けをされている。
だから定価90円で売られている。
ただエッセイを書くのはその本を出した作家自身であるから、著者自ら作品を宣伝することになる。
堂々とおれの新作はすごいんだと書く豪傑というかエライ人というか、ま、そういう人もいるが、大抵はなんとなく照れくさそうである。完成までの苦労話を中心に書いて下さい、などと編集者からいわれたりするからなおさらである。
私の場合はその中間である。当惑もあり、喜びを伝えたい思いもある。ただこのエッセイが未知の読者を獲得する使命の一端を担っているのであれば、おそれおおいことでございます、といって引き下がるのが正しい作家の態度だろう。想定しうる読者の対象が茫漠とし過ぎていて、とてもじゃないが本を買ってもらえるだけの魅力ある話はできそうもない、からである。ものを書くということは、特定の誰かに語りかけることでもある。
そこでここでは特定の編集者である加藤潤さんを念頭に置いて書いていくことにする。
加藤さんは「空の道」を発表していた当時の「小説すばる」の編集長であり担当者でもあったから、エッセイの内容は当然、弁明、弁解、言い訳、そして感謝の念に終止するはずである。ただし書き方は加藤さんに直接語りかけるものではなく、なんとなく万人向きになっている。これも照れの一種といえなくもない。(いいから早く書きなさい)
「空の道」の第一回目の原稿が小説すばる誌上に発表されたのは96年の6月号である。
加藤さんに初めてお会いしたのはその一年くらい前だった。文芸担当の取締役をされていた川口俊夫氏の紹介だった。川口さんが編集長に新任されたばかりの加藤さんを、文壇一のゴルファーと対戦させてやる、といって千葉のゴルフ場まで引っ張り出したものだった。加藤さんは大船に住んでいたから東京湾を巡ってきたことになる。
最初加藤さんはなんとなく遠慮がちで、ゴルフを楽しんでいるようには見えなかった。ゴルフをあまり好きではないのかもしれないと私は思っていた。昼食時にビールを少し飲みながらとりとめのない話をした。ホールアウト後に本格的に飲み、そのうち時代小説の話になった。その頃私は「若様シリーズ」と銘打ったそれは楽しい時代小説をある月刊誌に書いていた。あれはあれで面白いんですが、といったあとで加藤さんは「実在した剣豪では誰が一番興味がありますか」と訊いてきた。
「中村一心斎と・・」
といったあとで私はチラと加藤さんを見た。彼は黙って頷いていた。私はちょっとためらった。どこまで話したらいいのかと思っていた。中村一心斎を主人公にした小説は「剣聖一心斎」と題して出版していたし、その第二弾ともいうべき連作も完成したばかりだった。その作品を加藤さんが読んでいるようには思えなかった。それまで話題に出なかったからである。それに女性漫画誌の編集をずっとしていた加藤さんが、どこまで時代物に精通しているか分からなかった。
「男谷精一郎という人なんですけどね」
多分知らないだろうと私は思いながらいった。男谷ですか、と彼は意外な反応を示した。それからこう訊いてきたのである。
「男谷精一郎だけを主人公にした小説がないのはどういうわけでしょう」
「まず資料がない。それは男谷が千葉周作などの町道場の主と違って幕臣だったからでしょう。自ら喧伝しないし、弟子にもさせなかった。だれとも他流試合を受けて三本の内一本は取らせたという伝説があります」
「直心影流の十三代当主で、最後は講武所の頭取を務めた人だったんですね」
これは相当な時代物通だと思った。傍らの川口氏はなんとなく味気ない顔をして聞いている。
男谷については森鴎外も資料を集めていたようだという話をしていると、ふいに加藤さんは私の顔をのぞきこむようにして、「男谷精一郎を主人公に小説を書きませんか」といった。はあ、それは是非やってみたいですね、と私は気楽に返事をした。私は男谷と違って、とかくいい加減なところがある男なのであるが、加藤さんはそれを御存じない。私はそれまでに何作もの連載小説を途中で放り投げてきているのである。その無責任さと根気のなさに自分自身ほとほと愛想が尽きて、何度も転職を考えたほどだった。無論、私を拾ってくれる会社などありはしなかった。酒の浸った頭でぼうっとフェアウエイを眺めていると、高橋さん、加藤をよろしく頼むよ、と川口氏がいった。これでまた編集者の、信頼を失う原因をつくってしまったかもしれないと私は思った。
私が男谷精一郎のことに興味を持ったのは三十代の初め頃だった。旅先の金沢で「日本の剣豪」という本を買ったのがきっかけだった。その中には七人の剣豪が紹介されていて、男谷精一郎もそのひとりだった。歴史学者で作家でもあった奈良本辰也氏が事実に基づいてその人となりを紹介していた。その本の巻頭口絵には男谷精一郎が四十九歳のときに描いたザクロ、紫陽花を背景に二羽の鶏が屹然と佇む画があった。静かで厳しく、遥かなものを感じさせられる画だった。
男谷精一郎の名が私の胸に鋭く突き刺さってきた。東京に戻った私はその頃まだ闊達として現役の作家であった父にその本を見せた。そして男谷について書かれた本が他にどれだけあるか訊いた。永く時代小説を書いてきた父は、読み手としても達者だった。一読した後父はあっさりといった。
「男谷についてはだいたいこんなものだ。どの本にも多分同じようなエピソードが書かれている。ここでは島田虎之助と立ち会ったことになっているが、本によっては相手が大石進のこともある」
私は大石進という名前を知らなかった。父は察して、ほら、五尺の長い竹刀で千葉周作や斉藤弥九郎の道場を荒し回ったあの大石だよ、と付け加えた。それから、男谷のことを書くのか、と訊いてきた。私はいやいやと曖昧に答えた。当時はまだ一遍の時代小説を書いていなかった。父はちょっとの間書棚を眺めていた。それから思い付いたように呟いた。
「君が書くんだったら青春時代の男谷を書いたらいい。男谷の家は大金持ちだったが、男谷精一郎は本妻の子ではなかった。それで親戚筋のところに養子に入った。あの時代、部屋住みの五十石から実力で三千石まで出世したのだからたいしたものだよ。十代の頃に平山行蔵の塾に入って鍛えられた成果だな」
私には「九月の空」という剣道少年を書いた作品がある。父はその主人公と重ねて男谷を語っているようだった。
父とそんな話をしてから十七年後に、私は加藤さんと会うことになる。
約束したものの私はなかなか執筆に取りかかることができなかった。それまで私の書いた時代小説は実在の人物を扱っていても、その内容はすべて創作だった。だが男谷精一郎に関してはある程度、資料にあたって書くことが必要だった。それにはまず、師の平山行蔵のことから調べる必要があった。私は歴史学者ではないので、資料にあたる方法を知らなかった。それに資料に頼って書くのは私の創作作法に反していた。
小説はフィクションであるから人物が生きてくるのである。作家の想像力で魂を吹き込むべきなのである。
ぐずぐずしている私に加藤さんは力ずくで押し込んできた。深川富岡八幡宮の祭りに連れ出したり、男谷精一郎の墓があるとされる増林寺に行ってみたり(ここにはなかった。今も精一郎の墓の在り処は不明である)、果てには精一郎の直系の子孫である男谷精一氏のところへ私を引っ張って行って、精一郎の遺品を手にとらせたりもした。かって口絵で見た鶏の画を現実に手にとってみた私は、心臓が凍り付く程緊張した。ここに精一郎がいると思った。
数日後、私は意を決して万年筆を手にした。主人公は十五歳の精一郎であった。
一回目の原稿は72枚だった。それは新聞の文芸時評にも取り上げられ、好調に出航したかのようにみえた。ところが二回目から不定期連作になり、枚数も三十枚未満で物語りが唐突に終わってしまうこともあった。サンフランシスコのホテルに滞在しながら、江戸から秩父まで旅をする精一郎の姿を書いたときは我ながら情けなかった。
そして始めてから四年後に十四章まで進み、最終章を残すばかりというときになって、ぱたりと書けなくなった。その理由のひとつは、私の小説を読むのを唯一の楽しみにしていてくれた男谷精一氏が八十九歳で亡くなったことにある。私は心のよりどころを失ったようになり、それから丸三年間筆を取ることがなくなった。
昨年の三月のある夜、ゴルフの練習していて急に胸が苦しくなった。立っていられず数分間蹲った。父も心筋梗塞で死んだことが脳裏をよぎった。やり残した仕事がひとつあった。
私はその夜加藤さんにメールを送った。原稿を完成させたらいまでも本にしてもらえるか、と書いたのである。彼からすぐに勿論ですという返事がきた。しかし、実際に最終章百三十枚が完成したのは、それから十四ヶ月後の晩春の明け方のことだった。
その日私のパソコンに加藤さんからメールが届いた。それはこういう文面だった。
「どうもありがとうございました。ラスト、素晴らしいと思いました。何より簡潔さ、躍動感、清々しさが一体となった気迫に満ちた文章に打たれました。この文章は精一郎そのもので、精一郎を描くには、こういう文章でなければならない、という意味で、完璧だと感じました。精一郎と作者が一体となっている、と言い換えていいかもしれません。母親の姿を見止める場面では、さすがに涙腺がゆるみました。長旅、本当にお疲れさまでした。加藤 拝」
こちらこそ、ありがとう。よく辛抱してくれました。ありがとう。
※青春と読書、掲載のエッセイ・本文では、加藤氏は本人の希望でK氏となっています。
全日空で沖縄入り。沖縄カジノ推進連絡協議会設立準備室の主催する特別シンポジウム「沖縄観光の未来を考える」講演のため。本来は室伏さんがやることになっていたが、筋肉痛で動けない為、急きょ代理講演をすることになったもの。空港からすぐに、パレット市民劇場にいく。昼飯は機内ですませた。全然見知らぬ人たちに囲まれる。この主催者の中心は國場幸一郎という國場建設の代表者である。いってまず琉球新報に掲載された広告をみて驚いた。一面に芥川作家、高橋三千綱氏、沖縄観光の未来を語ると書かれていてまるで拙者の個人講演会の様相を呈していた。シンポジウムにはほかに名桜大学の小濱哲氏ともうひと方は入るのだが、これでは観光とは関係なく拙者の講演会になっている。そのせいか観光とカジノの講演だと知らない人が多く来ていた。400人の会場で昼の2時だというのに満員で立ち見もでた。ここで拙者は沖縄にこそカジノが必要で、観光立国を目指すのなら、ただいまある空の海を利用するだけでは駄目で真剣にサービス業のあり方を研究、検討する必要がある。6000億円という毎年の国家援助は、国が沖縄に感じている弱味から出されているものでこれはもうすぐなくなる。それにこの援助は補助金と違い、簡単に半分に削られてしまう性格の国家援助なのだといったが、来ている人の多くは官僚か役人の関係者でどれだけ真剣に自立した観光県を考えているか疑問。沖縄には不幸な歴史があるが、それは死んで行った人のが犠牲となって現れている。
沖縄に入ってくるお金は他に基地保証として2300億円。地場産業は1000億円。観光では4500億円。それで132万人を支えている。もう公共事業もなくなる。基地手当てもなくなる。あとは観光しかない。いまが国にカジノ特別区を国に認めさせる最後のチャンスだということを話した。だが沖縄にカジノが必要かどうかきめるのは沖縄の人。それも観光で生きている人が中心になるべきだ。官僚や税金で給料をもらっている人たちに切実感はないだろう。やはり沖縄に国家援助をする必要はもう見出せない。中国のようにいつまでも補償を叫んでいるわけにはいかない。自分で食べる方法を見つけるしか無いのだ。
私個人の考えでは、たとえ沖縄にカジノ設立の免許が来ても、ラスベガスのように大きな建物をつくるべきではないとおもっている。ラスベガスには勝てないからだ。それに沖縄に来る旅費以下のお金でラスベガスにいける。勝てない理由のひとつにショウがある。ラスベガスには80の素晴らしいショウが毎日見れる。
それに沖縄にデイズニ−ランドを造る必要は無い。沖縄には自然と歴史を生かした独自のカジノをつくってほしい。いまはオーストリアから資金を得て、地元の建設会社がそれで生き残こりを賭けているようだが、それは危ない。大事なことは、巨大な箱をつくることではなく、カジノができたあとの運営と規律であるからだ。造ってあとはおしまいというゼネコン的な発想をしていると失敗するし、大きな廃虚が残るか、外資にみんな利益をもっていかれ、沖縄には肉体労働者の仕事しかないということになりかねない。それを監視するのが私たちカジノ学会の仕事である。
今回の講演会では、航空運賃はカジノ学会が負担し、現場でのホテル代、タクシー代もみんな私個人が払った。(のちホテル代とタクシー代は主催者から支払われると聞いた)。小濱教授などは広告から私は100万円の講演料をもらっていると信じていたが、それはない。ゼロである。いわばていよく利用された感じなのだが、それにしてもその後なんの挨拶も無く、礼状もこないのは主催者の腹の底が窺われるようで好い感じはしない。建設業者が主催者になるとこうなってしまうのだろう。やはり客に接している観光業者との一体感が必要である。
疲れたのでホテルを変えて宿泊を伸ばすことにした。「沖縄第一ホテル」に移動。沖縄の家の造り。落ち着く場所。小濱教授に誘われてある晩、バンバンというスナックにいった。ここでの時間が一番よかった。
<3/22>
日本の動脈硬化については救うべくもないが、そうしてしまった官僚どもでも、アフリカに散らばる汚職、賄賂の役人に較べればまだましという意見もある。ついに日本のキャリア連中は強盗の国の役人、ナイジェリアと比較されるほど卑しい人間になってしまった。
さらに悪いことには、この日本の官僚どもは、日本はナイジェリアと同じように石油産油国だと勘違いしているふしがある。いくら湯水のようにカネを特殊法人とその下の関係法人2万6千社につぎ込んでも、無尽蔵にカネは湧き出てくると思いこんでいる。
確かにカネはでてくる。国債がいくらでも出てくる。日本は世界最大の債権国ではあるが、国民からカネを借りてそうなっているだけで、実際は1000兆円近いカネを国民から借りている。ひとり1000万円だ。これを真面目に返してしまえば日本は破産する。
破産を避ける方法はひとつ。国債なんか返さず、「日本国民による日本国家への徳政令を発令する。本日をもって国債は紙くずとする」と総理が発表してしまえばいいのだ。それで国家予算の30%は他のことに有効につかえる。乱暴のようだがそうするしかない。しなければ日本は経済破綻する。国債を破棄しても外国からは文句をいわれることもない。日本国債の96%は日本人が買っているからだ。すべて国内のことで済んでしまうから、文句をいうやつはいない。ま、少しはいるか。でもほっておけばいい。
日本の国債を買っていた人は日本の政治家を信じていた人だ。それが裏切られてがっかりするだろうが、それは自業自得というものだ。国債を買っているのは公務員がほとんどだからだ。公務員が機関投資家や金融機関にカネを預けて国債を買っていた。郵貯が買っていた国債が紙切れになっても文句を言う筋合いではない。自由民主党に投票をしていた人たちはそれまで充分に恩恵を受けていたはずで、保護政策で豊かに暮らしていた農民も充分に元を取っている。買っていた国債が紙切れになったところで、一部の連中がうろたえるだけだ。
日本の経済をここまで悪化させてしまったのは自民党の代議士で、官僚が連れションをしてきたのは自明の理だ。アルカイダが議員会館と霞ヶ関、虎ノ門にミサイル打ち込んでも日本は一向に困らない。いや、そうなることを期待したい。官僚地帯を焼け野原にすることから日本の再生はあるからだ。すると小さな政府、サービス業に徹した官僚つくりに着手することができる。さっそく彼らに霞ヶ関の地図を送ることにしよう。