「素浪人日記」

= 09年9/1 更新しました =

<2009年>

2009年 8月

8月12日

 

東京駅からそのまま講談社へ直行。「素浪人浪人心得」の新担当の村井浩氏とあう。
700枚を越える原稿なので、その処理に悩んでいる様子。前担当者の中本氏も同席。
なんとか1500円にしたいと村井氏はいっていた。そのためカットするところを模索中。8月20日までに返事するといっていたが、20過ぎてもなかった。電話はせず、待つことにした。苦闘中なのが分かる。出版不況だからという話はもういやだな。なんとしても頑張ってもらいたい。

8月8ー12日

 

淡路島。田中健と山口崇氏の合同コンサートをM氏が企画。
寿司、イタリア料理。90人分を用意する。これも淡路島への復興支援の一環である。神戸から10名ほどの人がやってくる。還暦ルーキーの古市プロもきていた。ゴルフもしたが、それはゴルフ日誌に書いてある。

新幹線でもどる車中で、トースポの原稿をかく。これはジャパネットたかたで15000円で買ったNECのLaVieを使って送ったが、買った当時は安いと喜んでいたが、2週間後に9800円で売りだしたことが判明。いくらなんでもひどいのではないかと質問状をだすことにした。

8月2日

 

朝飯後、武家屋敷や後藤新平の生家をみる。武家屋敷は式台つきの立派な玄関をそなえていて、正面からまっすぐには式台が見えないように敷石がおかれ、樹木が茂っている。
中庭との堺には塀がある。潜り戸を抜けて庭にでる。落ち着きのある庭園で、中の座敷も江戸の趣そのままに残っている。こういうものがさり気なく残されているところに文化を感じる。無粋な政治家には理解できない境地だろう。中国の共産党にいたってはゼンゼン理解できない深淵な世界だ。日本のよさと誠実にいきた江戸の人のこころを見る思いがした。

盛岡まで在来線でいく。バスで盛岡競馬場へ。無料バスである。
沿道にはもうゴザやビニールがしいてあって踊りのための場所取りをしている。6時から始まるので、競馬のあとの見物には丁度いい。
バブルの殿堂、そのなりの果てと貸した競馬場にはいる。2千人足らずの観客しかはいらないところへ、3万人分のハコモノを建てたのは地方競馬に群がった魑魅魍魎の虫どもだ。みんな死んだか、よいよいになっているはずだが、しぶとく生きのびているのもいるときく。この建物を建てるために盛岡競馬はすべての蓄えを吐きだし、さらに借金をのこした。儲けた建設会社は東京に逃げていった。日本長期銀行をハイエナ軍団に売った輩と同じだ。連中はアメリカ人の手先となり、ある幹部は2億円のチップをスイス銀行に振り込んでもらって大喜びしている。そのうちのひとりがまたぞろ、3行合併をもくろんで、国から金を奪おうと画策している。死刑にすべき連中だ。住友の西川もしかり。郵政銀行に逃げ込んだが、住銀時代に変額保険で老人たちを破滅させたひとりであることは間違いない。

盛岡競馬のC1級クラスの競馬は一生懸命走っている馬には可哀相だが迫力が中央の馬とはゼンゼン違う。もう、使役馬かサファリ動物園でライオンの餌になるのが目にみえている。無惨な世界だ。殺されるところを見たら、牛も馬も肉という肉は喰いたくなくなるだろう。
ここの建物の中にはレストランはなく、したがってビールも売っていない。外に建てられた掘っ建て小屋にいくしかない。そのうちのひとつにはテレビがないのでレースがみられない。つまり、酒を売れば馬鹿な客が八百長だと騒ぎ出すと競馬組合ではみているのである。競輪とおなじ発想である。ジュースを飲みながらギャンブルなどできるわけがない。客を小馬鹿にした発想が、競輪や地方競馬を破綻させるのである。競輪には県の幹部が多いに関わり合い、天下りというか、ドブ鼠くだりをして職についているが、こういう輩の月給が厩務員の待遇のひどさにつながるのである。
10レースの「フェアリーC」にキングヘイローの子、クインオブクインが出てきた。
中央組を迎えたマーキュリーカップでは大差の5着とさすがに苦戦したが、ここでは楽勝。ダートの1800を馬なりで勝って150万円を手に入れた。30日のビューチフル・ドリマーCが楽しみだ。ここには中央からタマノホットプレイやトーセンブライトが出走を予定している。
固い馬券だったが、2、3倍を手にして祭に向かう。
神社のあるところで降り、小雨の中、乱舞する浴衣姿の女を見ていた。新幹線の時間がきて、途中で引き上げざるを得なかったのは、さすらいの馬券術師らしくない。やはり、儲けが少なかったのか、それとも、雨の中で飲んだビールが肝硬変を刺激したの分からない。いづれにしろ、ぐったりしてはやてに乗った。

車中で買ったばかりのパソコンでトースポ用の原稿を書いて送る。このモバイルを使ったパソコンはテレビショッピングで買ったものでモバイル利用で15000円、ワードなどオフィス使用にプラス1万円の2万5千円で購入したものだ。毎月3千円ほどかかるが、さすらいのおっさんいは便利なしろもので、ゴルフのクラブが一本8万円もすることと比べると、先端頭脳がいかに、安くこき使われているか、悲しいまでに理解できいる。彼らが先行きに暗雲をみつめていることが分かる。

8月1日

 

「みずさわ北ホテル」にもどり、  快眠。しかし、それもすぐに破られる。6時前に目

覚ましがなる。起きて顔を洗う。6時半にFM放送、「グリーンジャケット」のディレ

クターから電話がはいる。タケ小山司会の生放送に出演。なんだか分からない内に終

わる。それからまた

眠る。

7時半に下におりて朝飯。スケバン刑事の3代目の大西なんとかという女優がいた。

すっぴんであるので分からなかったがあとからきて加藤君が教えてくれる。

 

8時に栗駒カントリークラブ。取材相手の三浦氏は72歳でかつては日本シニアのチャ

ンピォン。ラウンド後、インタビュー。加藤君はそのまま新幹線で東京へ帰る。

拙者は盛岡にいって「さんさ祭」をみるつもりだったが、ふらりと入った小料理屋の

酒がうまく、生ビールと酒、つまみ代でしめて1500円を払って店をでて歩き、水

沢祭をみる。そのさみしさに盛岡の「さんさ祭」の壮大華麗、「群舞鳴動」とくらべ

て、思わず涙する。見物客もおらず、テキやも出ていない。テキやのいない祭は健康

すぎて騒ぐ気にはなれない。テキやという、整理屋がいるからこそ、日本の祭は表向

きに喧嘩ですべて納まってきたのである。歩くうちに昨日はいった「紅亭」に明かり

が入っているのを見て、また入る。今日も牛乳を飲む爺さんがいて、テレビを見てい

た。

店を出て、しじみラーメンを食べる。妙な味だった。盛岡行きはあきらめて、北ホテ

ルに投宿。

2009年 7月

7月31日

 

江戸ものの時代小説を書くために借りた恩方の家だったが、1年間、何も書けず、ついに撤退することにした。家賃が払えなくなったためである。しかし、家に移したものの、恩方からの荷物書籍はまだぜんぜん片づいていない。
西新宿、笹塚、赤坂、府中と転々とした、20年越しの荷物なのだから簡単ではないのは承知だったが、それにしてもまだこれほど残っていたとは。

7月26日に恩方と自宅の両方でだいたい整理したはずだったが、まいった。府中から恩方に運んだときは荷物を三分の一にしたのだが、本の多さは想像以上だった。家にある本を三箇所に分散することを頼んで、家をでる。姉夫婦と甥っ子まかせになる。
拙者は整理と力仕事は苦手なのである。

11時に家をでて、新宿にいく。京王デパートで古書展をやっている。目的の本はなかったが、なんとなく1万円ほど購入。それを秘書を呼んで渡す。
そのため、東京駅についたのが、2時35分という時間。40分にはやまびこ57号にのっていた。学研の加藤君と待ち合わせ。これが彼との最後の取材になる。パーゴルフの部長と編集長は拙者をはじめ、さまざまなリストラをフリーライターに敢行し、自分たちはいまだに居残ってえばっている。真っ先にリストラされるべきは彼らだろう。パーゴルフを単体の会社として独立させることを企んでいるが、うまくいくことはないだろう。そう簡単に上場して儲けようという企みが成功するものではない。人格失格で人が離れる。パーゴルフはいづれ吸収される運命にある。加藤君はどちらにいくかいまだに決心がつかない様子。拙者は学研に残ることをすすめる。

5時24分水沢江刺着。
さみしい町だった。武家屋敷を探して歩いていると料亭があった。ていうことは、芸者か小粋な仲居でもいて酌をしてくれるのかと思い玄関に入る。なんせ、今日で半年間の禁酒が解禁になる夜なのである。つらかったなあ。
ところが訪いをいれても誰も出てこない。となりに同じ経営者の「梅ふたり」という料理屋があったので入る。酒をおばさんに頼むと一合なのに徳利で出てきた。そのほか、肴が6品ほども出てくる。最後に飯。加藤君とふたりで合計5400円だった。
それにしても岩手誉れのうまさは腹の底にひびいた。
ここの店主はでてくるなり「みちつなさんですか」といきなり拙者の名を口にした。おおー、有名人と思っていると、なんでも拙者が37年前につとめた山の上ホテルに働いていたことがあるという。拙者とは入れ違いで入ったらしいが、よく知っているという。水沢地区を活発にしようという活動もしているらしい。もともとは田園地帯でうまい米どころでもあるのだが、先は見えない。

そこを出て、繁華街というかスナック街を散策する。拙者はカラオケのあるスナックやできの悪い女がいるスナックは敬遠している。それで小料理屋を探したのだが、ない。「駅」の高倉健さんみたいな気分で、倍賞千恵子のような女将がいる店はないかと歩いたのだが、ない。
それで「紅亭」というかろうじて小料理屋ぽいところのドアをあける。カウンターだけの店で3人の客がいた。拙者は入ると、ふたりは出ていった。あとで女将の同級生だときかされた。ということは女将は40歳半ばか。体格のある女で、肩も腰も拙者の3倍くらいある。それは誇張ではない。夫と別れて子供をひとりで育てるために、1年前から店をやりだしたということである。しかし、下半身の頑丈さが、可憐とはほど遠い現実を映し出していて同情まではいたらなかった。
ここでも酒を一合のむ。隣の老人は牛乳を飲んでいた。怪我をしたとかで酒が呑めないのだという。いい老人だった。

7月9日

 

朝6時起床。8時まで、なんやかんやしている。仕事はすすまない。どうも頭がすっきりしない。だるく、眠い。7時間寝ているのにこのだるさはなんだ。
朝飯後、またベッドにはいる。11時まで2時間ねる。昼から恩方にいくが、引っ越しのことは何も手がつかず。窓をあけ、風を送ってから、すぐに戻る。
遅い昼食後、また眠る。夕方、医者にいき、右肩にヘアルロン酸を打ってもらう。これで5回目なので保険はこれきり切れる。あとは全額自腹となる。
暗くなって風呂。アルコール度0%のキリンを飲み、本を読む内眠る。

午前2時に目が覚める。しかし、なんだかパッとしない。体が重い。一日の区切りが酒を断って以来なんだか曖昧になってきた。ぼんやり、時代小説のことを考えていた。

7月8日

 

アルバの東編集長が事務所にくる。編集長から、企画に移り、また編集長に戻ってきた。今度は経済誌を発刊しているプレジデント社が社主になることだし、安心して自分の雑誌つくりに専念できるだろう。
今日は、「プロゴルファー」のデジタル版出版についての話だったのだが、東氏の思わくは違っていたようで、原作の話が主になった。また、ひとつ、面白い展開になってきた。
体のだるささえとれれば、いくらでも仕事はできるのだが。

7月7日

 

朝飯後、チェックアウト。3万6千円なり。高すぎる。広田氏の友人の経営だというが、だまされた感じである。拙者はお大尽ではない。こういう取材は性に合わない。
小布施の町を歩き回る。2キロ四方の江戸時代の村である。
夕方になって、北斎の天井画を見に行く。客は拙者ひとり。300円を寺にはらう。福島政則の廟が背後にある寺である。天井画は鳳凰の絵が描かれている。すごい絵だった。魂が吸いこまれる。ひとりで畳に寝そべって北斎を眺めていた。86歳のときから4度きたという。ここで描いた絵が絶筆になったようだ。スポンサーがここにいたのであるな。

この村を江戸小説の舞台にする。天領を架空の藩にする。北信藩という藩にする。雁口山を文章で描写してみた。
「頂は一見すると険しい山の連なりのようだが、秋の眩い光の下で望むと、意外にたおやかな曲線が雲と空を背景に流れている。濃い緑の法被をまとった尼僧が、しどけない寝姿を見せているいるようでもある。旅人は栗饅頭を喰いながら、呆けたように山を眺めている」

夜、11時近くになって家にもどる。ひどく疲れた。どれくらい歩いただろうか。たぶん、2、3日は寝込むことになるだろう。パーゴルフの取材もあとひとりになった。

7月6日

 

長野の須坂にいく。
新幹線で長野。そこから長野電鉄で須坂。長野カントリークラブの広田氏の取材。3時より6時まで。のち、夕食。
「一枡」という蔵を改造したホテルにとまる。広田氏の紹介。中はモダンで落ち着きがあり、本の数が100冊ほどもある。ちょっとした図書館。しかし、ここで一泊だけする意味があるのかと考える。
ここは葛飾北斎のゆかりの地、小布施の中心になる。須坂の隣。須坂は1万石の小藩だったが、ここは天領。雁口山がきれいに聳えている。遠くからは尖っているが、近くにくるとやさしく、三角の山肌は鳥の嘴のようだ。
ゆっくりした一夜だった。ここは江戸時代からの蔵もとなので、酒がうまいという。盃にいっぱいだけ口にする。どうという味ではなかった。
北斎の天井画があるという寺は閉まっていた。

2009年 6月

6月12日

 

「すばる」の小説の他にも、新たに高校生を主人公に小説を書き出す。週末は夕焼け小焼けの里の仕事場にこもって、幻冬舎の時代小説を書く。やはり、時代ものは考えているだけで面白い。過去なのに、未来が書けるからだろう。この面白さは、作家でなくては味わえないものだ。幸せである。

東海大学病院で採血検査。
2月始めに2000あったγーGPTはなんと161に下がっていた。肝臓が働いている証拠だ。肝硬変はなおらないと聞いていたので、これは朗報だった。赤十字の医者の「もうダメだ」という言葉を鵜呑みにしていたら、精神的にまいっていたはずだ。あの医者を首にしてよかった。中性脂肪は47.大阪で倒れて入院したときは1000を越えていたものだった。

肝硬変の数値をあらわすGOPは31だった。正常値は45以内なのでこれはもう健康人以上の数値だ。禁酒しただけでこれだけ数値がよくなるとは、いままでの乱行が想像できる。
禁酒はもうじき4ヶ月半になる。8月に淡路島にいく予定だが、その日まで禁酒すればまる6ヶ月になる。その日を楽しみにしよう。

6月10日

 

打ち合わせ。最初の打ち合わせの内容はこれまでの仕事に関することだと思っていたのだが、編集者の考えは違うようで、突然、ゴルフ劇画の原作をやってもらえないかと依頼される。前から考えていた物語があるので、なんとかなりそうだ、と返事をする。馬鹿なデキゴトにとらわれず、心を自由にしていると、いろいろな仕事が入ってくるものなのだなと実感する。

6月4日

 

某ゴルフ誌からノンフィックションをやってもらえないかと連絡が入る。パーゴルフの連載が終わることを聞きつけたそうで、いづれ話を聞くことにする。

2009年 5月

5月から6月にかけては色々と面白い出来事があった。
事細かく報告することはしないが、ときどきチェックをいれるひとがいるのでここで報告しておきたい。

まず、いつかも書いたが、700枚の原稿が脱稿した。これは講談社で出版するが小説ではない。
かつて、文芸に在籍していたO氏がいるときに約束したもので、当時文庫を統括していた女性部長とO氏がうまくいかず、その女性とは拙者もどういうわけか「インポッケト」時代から折り合いが悪く、O氏は文庫部長に拙者の時代ものの再文庫化を進言したのだが、却下されたことで怒りをつのらせていた。それからO氏は部署替えにあったのだが、それは拙者のせいではないかと憶測したものであった。女性部長は社内不倫が表面化して左遷されることになったが、もっと前にバレていれば、拙者の時代ものは、女性部長の反対にも会わず新たに講談社文庫で新装版が出たかも知れない。もっともこの若様シリーズは双葉社に拾われて、再文庫化だというのに今だに版を重ねている。それも小野氏が悔しがる原因である。
ともあれ、責任を少し感じた拙者はO氏にいわれて「男というもの」と入った感じのエッセイを書き出した。その間にO氏はいくつかの部署を転々とし、今は編集とは直接関係のない部署にいるが、拙者との約束だけは覚えていて、いまでも担当のような感じになっている。いや、担当ではないが、相談役の印象があった。いまは異動の時期でまだ出版日は未定だが、今年中には出るはずである。
ただ、約束の倍の分量になってしまったので、どういう処置をするか分からない。

5月31日

 

ダービー観戦。娘とダービールームにいく。
そこの部屋の名前がネオユニバースだった。しかし、横山典が乗る馬は必ず2、3着にやぶれるので、はずしたところ、きてしまった。馬はひとを選べないからな。これは横山を取り囲む、親族グループが力を発揮して優勝させたいい例になる。横山はいまだにホクトベガを騎乗ミスで殺した責任をとっていない。

5月28日

 

歌田氏と巨人ーソフトバンク戦を観戦。彼の自腹で切符を買ったそうだ。
なんとかいいものを書いて返さないとな。

5月27日

 

文春のゴルフコンペ。

5月24日

 

右肩の痛みをおしてシニア選手権の予選に出るが、90を打ってあえなく予選落ち。
しかし、89で通過したとあとで知って、地団駄を踏んだ。あきらめが早すぎた。

5月20日

 

学研パーゴルフの広瀬編集長がくる。編集長になって1年余。初めて挨拶にきたが、それが「倶楽部チャンピォン物語」の連載休載の通達だった。斬首人のようなこわい顔をしていた。学研は事業部制を敷くことになって、出版は学研パブリッシングになるそうだが、その一環としてまず拙者の連載を終わらせることになったという。これは部長の河上清も承知の上であるという。とにかく、彼らは礼儀、仁義知らずで、この10年間でつちかった拙者と学研との信頼関係をすべて踏みにじってしまった。これで学研でやる予定だった他の仕事もご破算にすることにした。

5月15日

 

氷見子の写真撮影。レオパレスのPR誌に連載している小品のカットに使われるはずである。
物語の中に登場するブルドッグは、オスでひどい顔の予定であったが、氷見子登場で、メスの可愛い犬に変わってしまった。

5月13日

 

右腕が痛くて上がらず、この日からヒアルロン酸を肩に打ってもらうことにした。

5月10日

 

隣のサッシの音にいったん4時半にめざめるが、すぐにまた寝て6時半におきる。
ティオフは9時50分。ゆっくりだ。朝飯を食って、9時10分にコースにいくと、駐車場がいっぱいで空いていない。従業員用の場所にとめる。
久し振りで森崎ご隠居とのプレイ。ご隠居は3週間ぶりのようだ。拙者は理事長はいの決勝戦以来だからやはり2週間ぶり。ずっと家にいたので、身体がなまっている。
ティショットはよかったがやはり170ヤードから80がいっぱいの飛距離。
アウトは52,インは46の98だった。30度近くあった。バテた。

「猫」の原稿を開く。12時に寝る態勢をつくる。多分5分ももたないで寝てしまうだろう。
明日は午後から恩方にいってみようと思う。時代ものの文献をあたる。来月出ようと思っていたが、8月一杯までねばってみようかという気分になっている。

5月9日

 

朝4時半に目がさめる。右肩が痛くて寝ていられない。
5時になって、タケ小山がDJをやっているラジオを聞く。いいテンポで話ていた。3時間の長丁場だがギャラはいくらもらえるのかな。大和証券だから渋いだろうな。なんせ、社員をクビ切っているくらいだから。
一寝入りしたが、すぐに目がさめた。ボーッとしている。

昼になって布田整形にいく、右肩が痛くてどうしょうもない。注射でもとおもったが、痛み止めは筋肉をはがしてからということで、ステロイド系の注射をしてもらう。週に1、2回打ってから、痛み止めにいくという。今日は正式の先生だったので説明がよくわかった。前回は息子だったので、まるで頼りなかった。

溜まっているビデオなどをみたり、女子レディスをみたりした。
5時過ぎに娘が帰ってきたので一緒にゴルフ練習場にいく。母のお古を使う気になったようだ。
拙者は9番アイアンを一回打ったら、右肩に激痛が走ったので、やめてコーチに徹する。スイングはいいのだが、左にゴロばかりいく。原因は打つときに余分な力が右に入ってしまうからだが、これがなかなか治らない。宮川氏に連絡をしたが出なかった。大事なときにいなくては困る。そんなことだからパッティングに苦しむのである。

母の日の前夜ということで久し振りに「味直」にいく。カウンターだけしか開いていなくて、それもすぐに埋まった。前菜からお通しと続くのだが、3人とも酒を飲まないので間が抜けた感じになった。刺身も飯なしでは食べられない。和食にはやはり日本酒が必要だ。
昨日の血糖値は124だったが、果たしてこれが続くのか。インシュリン注射も皮下に入ると痛い。針が短いのかもしれない。それでついおっくうになる。

明日はゴルフ。

5月8日

 

昼前に治療院にいく、肩はまだ痛いだけ。治療後また痛くなった。まっすぐにあがらない。これで集英社のゴルフができるのか。明後日の月例はどうするのか。

府中で映画をみる。新宿までいけばアカデミーの会員証を見せるだけで無料でみれるが、事務所に郵便もあったし、村上医院に薬も取りに行く必要があったので、府中にする。
何でもよかったのだが、時間的にインドを舞台にした、スラムドッグ・ミリオネアをみる。面白い設定だった。弟が2000万ルピーと初恋の女をものにし、兄は殺される。よくできた嵌め絵のようだが、そこに人気テレビ番組をからめて過去を描く手法がだれでも考えつくようでなかなかできない。文学界の新人賞受賞作を連想させた。こっちはイランが舞台だった。トースポに書いてみよう。

5月7日

 

昨日は12時まで起きていた。
8時まで2時間ほど「素浪人」をやっていたが夕食後はぐったりして、そのままビデオをみていた。
「素浪人」を読み直しているうちに、やはりやろうという気になって、9章まで書く。10章をやりだしたのは、4時頃から。終わったのが午前6時半だった。身体中がいたい。風呂に入る。こういうときは24時間湧いているのは楽だ。

やっと終わった。700枚。これから編集者と話し合ってどうするか決めるのだが、この長さでは出してもらえないだろう。前後半の2冊も無理だろうな。上下で出せるのなら、「素浪人はB型」そして、下巻は「素浪人のメリット」というタイトルになるだろうな。それが理想。別々の出版社で出す場合、前半は「B型の青春」という感じになる。もう。B型を全面に出していくしかない。編集者はみんなA型だけど。

朝飯後、2時間寝て、また「素浪人」の10章を見直す。終わって全てを事務所にメールする。講談社には夕方届くことになる。不況の上、講談社の出版は不調だから、スムーズにはいかないだろうが、ともあれ、倒れる前に脱稿できてよかった。

明日は映画にいこう。日曜日はゴルフ。「野良猫のニューヨーク」は月曜の朝から。
時代ものは夕方から再開することになる。すばるは20日までに終わらすのが理想だが、どうなるか。
窓を開いて、気分よくスタートするようにしよう。

2009年 3月

3月1日

 

もう三月だ。
「素浪人心得」は470枚を越えた。350の予定だったから、すごい量オーバーになった。しかも、まだ伸びる。「和三郎江戸修業」が遅れている。

皇居で江戸散歩の会。天守後、将軍の寝所とおぼしきあたりを散策。
掘の盛土よりわずか10メートルほどのところに寝所があるとは驚きだった。歩いてみなくてな分からない。御庭番と将軍はすごく接近して会話をしていたことになる。
ざっと4キロ歩いたことになる。疲労困憊。

2009年 2月

2月27日

 

村上医院。
血糖値のことを先生にいう。血糖値は翌変化するのだとわれる。検査用に採血してもらう。

2月25日

 

血糖値は135.安定しない。
一昨日と昨日の過ごし方の違いが数字になっているのだとしたら、休養の過ごし方に問題があるということになる。まあ、深く考えるのはよそう。

2時都庁。いったのは初めてだった。犯罪被害者の会主催の講演会。
2時間半。終わってすぐに家路につく。疲れた。外に出るとひどい疲れがでる。

高麗人参のエキスを薄めてのむ。

2月24日

 

血糖値は115.どうなっているんだ。やはり、気味が悪い。これでは正常値ではないか。ではこのだるさはどこから来ているのだろう。筋肉が落ちている。風呂場で驚くくらいだ。
肝硬変だと診断されてから、痩せる一方だ。診断だけで痩せるものなのか。
レオパレス用の原稿を書いた後、トースポをやる。柳川でどんこ船にのったことを書く。ひとり旅のよさを喧伝した。

2月22日

 

家で休養。外にでず。

2月21日

 

クラブウヒルビーのシティウオーキングに行くつもりだったが、だるいのでやめて、家で休養する。
夕方、空手道場にいく。かるく型だけをやる。

2月20日

 

血糖値を計ったら、111だった。こんないい数字は見たことがない。
しかし、何もしていないのにと、少々薄気味の悪い思いもする。

3時に新宿御苑にあるアーデント・ウィッシュという会社のスタジオにいく。「はいから万歳」というブロードキャスト向きの番組を製作している。ここで1時間、2回分の収録。一回が20分になる。
一回目は、3月6日の放送だったと思う。

2月18、19日

 

パーゴルフの取材で福岡へ。
野上英司さんの取材。ミッションヒルズのクラチャン。
弟の野上貴史さんも加わってくれる。ここは直方(のーがた)市にあり、話している内に終電がなくなり、バスで帰る。加藤氏とラーメン。

翌朝、柳川にいく。小雨。
昼前に着き、どんこ船にのる。堀端でおり、近くの飯屋で昼を食べる。魚屋の飯やだがうまくはなかった。ただ、いい人だった。
4時から阿久根氏を取材。柳川高校の社会科の先生でクラチャン。おわって食事にいくと、料理屋こそ違うが同じ材料のものが出てきて、途中で食えなくなった。もともと刺身はだめな上に2回続いてはダウン。鰻料理を夕食にと思っていたので、ちょっとはずされた感じ。
それに料理はみな熱燗向きだったので、悔しい思いもした。禁酒2週間。体重が随分減ってしまった。

最終便で帰る。羽田から加藤氏の家にいき、そこから彼が拙者の自宅まで送ってくれる。午前1時になった。

2月17日

 

大東流の木村達雄さんからメールが入る。
昨日の練習後、身体の調子が悪くなった人が何人か出たようで、それは肝硬変をもっている拙者のウイルスのせいではないか、といってきた人がいるという。日本ではC型肝炎から肝硬変になる率が高く、拙者の場合はアルコール性なので、ウイルスとは関係ないし周りでそんな症状の出た人はいないのだが、そういう人が出てきたのでは、もう道場にいくわけには行かない。場違いなやつが飛び込んできた、と思った人もいたのだろう。

この道場に医師がいて、肝硬変の人が運動をすると、食道静脈瘤が破裂して吐血することもあるので、大東流の合気武道はやめたほうがいいといってきてくれた人がいる。ゴルフもよくないという。八方塞がりとはこのことだ。

2月16日

 

8時に起きたが身体がだるく、重い。朝食をとってすぐに寝る。次に起きたのは11時半だった。
昨日は10時に寝たはずだからトータル15時間寝たことになる。ボーっとして何もできず。沖縄の健康ジュースを飲みながらぼんやりしていた。

夕方になって国分寺にでかける。「大東流合気武道」の木村達雄さんに合気をいれてもらうためにいった。合気で肝臓にカツをいれるためだ。木村さんはすごい上達していて、最早師範のレベルに到達している。大の男が触れるか触れないうちに子猫のように飛んでしまう光景は圧巻だが、大東流をしらない人には嘘にうつるだろうな。

拙者のセーターの袖に小指を入れただけで木村さんは拙者を何回となく転がす。その前に腰に合気をいれてくれたので、なんだがエネルギーがでていたせいか、だるさは飛んでいた。夜9時まで稽古を見学してひとりで帰る。木村さんの弟さんが教授をしている病院があるので紹介を受ける。

2月15日

 

血糖値156。

天気がいいので八王子カントリークラブまでいって練習する。
みんな久し振りだと驚いている。そういえば今年はここにきたのはまだ2回目だ。
M先生がいて一緒にどうかといわれるが、エネルギー不足なので遠慮する。

60発打ってから、ロブショットを50球、ランニングを同じ50球、パッティングを何回かやって帰る。
競馬で2000円プラス。

2月14日

 

パーゴルフ474回。家で休養してから、空手にいく。
汗をかいたが、すっかりばてた。いままではみんなでビールを飲みにいっていたが、こぶしも移転したので、大田氏もそのまま帰る。なんかさみしいな。

2月13日

 

昨日も自宅でトレーニングをしたのに今朝の血糖値は171!になっていた。高麗人参酒のせいだろうか、と考える。

府中の事務所に4時にいき、村上医院にいく。血糖値のことをM先生に伝えると、血糖値はよく変化するという。それにしても高すぎないか。

2月12日

 

安孫子素雄さんのナントカ賞受賞の祝賀会だが、だるくて歩くのが困難。家で休むことににする。原稿は書けず。
寝る前に「こぶし」のママからもらった朝鮮産の高麗人参酒を一口のむ。

2月11日

 

血糖値は137。痩せたのが自分でも如実にわかる。風呂にはいると鏡に映る胸にあばら骨が浮いている。胸がへこんでいる感じ。
いまになって思い出すと、丁度去年の今頃に肝硬変になったようだ。それまではぎりぎりで保っていた。ダムの決壊が去年の2月から4月にかけてだろう。酒が弱くなったし、翌日は起きあがれず、小刻みにざっと半日は寝ていた。あたまもボーッとしていて、正常な時間が少なくなるのを日々感じていた。いまは倦怠感に苛まされている。
とにかくだるい。以前も食後は横になっていたが、この頃は食後座っているだけで頭の血が下がるのを感じる。立ち上がると貧血症状が起きる。仕事をしようにも、集中力がでない。時代小説を書くために去年の6月に借りた恩方の家はまだ4回しかいっていない。今年はゼロだ。再び行かないまま死んでしまうのではないか、といういやな考えが頭をよぎる。遺書は書かないが、遺言状は3年前に書いてある。

「素浪人心得」を書く。418−422まで。

スクワット70回、腕立て50、ゴルフ素振り100回、散歩3300歩。

2月9日

 

当面は肝硬変との融和政策の日記になる。

一度肝硬変で壊れた肝細胞はもとへは修復できないとういう。
拙者の場合はウイルスではなく、肝硬変のなかでは13%のアルコール性肝炎からの悪化であるが、それでもアルコールをやめたからといってよくなるものではないらしい。
日本で一番多いのはC型肝炎からの肝硬変への進行で65%をしめる。それぞれ療法が違う。

昨日計った血糖値は161。禁酒1週間の結果だ。
昨年の10月27日の検査結果ですでに血小板が7万と半分に落ちており、肝硬変になっていたとみていい。代償期であったのだろうが、だるいといった肝炎と同じような症状だったので、酒を飲み続けていた。肝炎がいいわけないが、どこか舐めていた。

体重が1週間で1キロ半落ちた。最初は酒のカロリーが抜けたせいだと思っていた。
顔のむくみがなくなったせいもある。しかしこれは誤解のようで、拙者のように糖尿病をもっている患者が肝硬変になったらそれは合併症の症状がでることになる。
その特徴として、まずインシュリンが過剰に分泌されるらしい。これは通常の糖尿病患者とは反対の症状である。体重は激減する。それをダイエットの成功と勘違いする人もいるらしい。血糖値も空腹時には低くなる。だからといって血糖値が正常になったわけではない。インスリンに対する反応が悪い証拠であるという。
体重が落ちるのは、機能の低下した肝臓のかわりに、なんと筋肉がアンモニア処理をするのだという。そのため、アミノ酸が使われる。
肝臓はエネルギーの素となるブドウ糖をグリコーゲンとして蓄えている。つまり糖分のダムのような働きをしている。ここまでは一般教養だが、その先を考えなかった。
ブドウ糖が洩れて少なくなっている糖尿病患者にはどんな症状がでるのかということだ。
糖分を蓄えているダムがうまく働かなくなると、当然糖分が不足する。すると人を動かすエネルギーが足りなくなる。その結果、代わりに筋肉が壊されて、筋肉の持っていたアミノ酸を利用したり、脂肪を分解してエネルギーをつくり出す。そうするうちに筋肉は痩せ、体脂肪も減少する。体脂肪が少なくなったと検査にでていたが、それは脂肪を分解して、エネルギーをはき出させた結果なのだ。健康な人だったら、肝臓が働き、体脂肪を分解しなくていい。
拙者はまだまだ痩せるだろう。肝臓の働きが低下してブドウ糖をグリコーゲンとして蓄えていられないからだ。そのため今も筋肉が犠牲になっている。アミノ酸が補給され、タンパク質がエネルギーとして使われるようになるまでは筋肉は破壊されつづける。

糖尿病患者としては適度な運動。肝硬変では高タンパクと静養。矛盾しているようだが、それが現実だ。

食事は普通に食べている。植物性タンパクを多くとるようにしている。もともと脂肪分はとらないし肉もあまり食べないので食事に気を使うより、栄養状態をよくすることが先決だ。たくさん食べるべし。羨む人もいることだろうな。

東スポ、44回分。テーミス20。

2月4日

 

武蔵野赤十字病院でIという医師の診察を受ける。
1月14日に最初の診察を受け、その日採血をした結果で判断することになっていた。
10時半の予約だったので、10時にいく。早くきてくれと事務にいわれていた。しかし、診察を受けたのは11時40分。

入室するなり医師はジロリとこちらを見て、「もう肝硬変になっている。数字はみんな3桁でどうようもない。これはもうよくはならない。腹水も溜まりだしている。とにかく禁酒。次は胃カメラの検査をする」
といって説明用紙に「肝癌のリスクも高い」と書いたほか数行殴り書きしたメモをこちらに渡した。

そのあとで私の腹をさすった。
何かいってくれるのかと思ったが、ただ黙ったままむっとしていた。
それから廊下で待つようにといっただけ。そうだ、胃カメラの検査をするといったとき、それが何のための検査なのか何の説明もないままに、「検査同意書」にサインをして次にもってくるようにいっただけ。

患者に対して何の方向性もみせず、一切の質問も許さないという態度であった。
どのような生活態度ですごせばいいのか、安静にすべきなのか、散歩程度はすべきなのか、肝硬変は一度なったら肝細胞が破壊されてしまうというが、それを好転させる方法はあるのか、血小板が減少しているというが、これは治療で増やすことができるときいているが、そのような処置いずれとるべきなのか、といったことを質問したかったが、医師は「もういい」という態度であった。

村上彰先生から肝臓に関してはトップクラスの先生だと聞かされていたが、そういう人がそのまま患者にとっていい医師とはならない。医師にとっては何百人のうちのひとりかもしれないが、患者にとってはたったひとりの医師なのだ。
2時間待ってたった1分半の診察時間であった。医師会にたいしては腰が低いのかもしれないが、患者には傲慢な人である。いくら高名でも患者の支えになろうとしない医師は無用である。

帰り道で来月の診察を受ける気が失せていた。「このままではどんどん悪くなる」といって、メモ用紙に走り書きしたものを渡す医師にどのような信頼を置けばいいのか。
まるでゴミのように扱われた。屈辱だった。芥川賞作家だから特別にしろといっているのではない。患者の命はみんな平等だ。その患者をあたりまえに見下している態度が許せなかった。
麻生総理は「医者には変なやつがおおい」といって顰蹙を買ったが、あれは本音であり、ほとんどの医師に当たっている。それにしても、志を喪失した医師のなんと多いことか。孤島にいって医師になろうという人はもういないのだろうか。
少なくない治療代(といって何の治療も受けていないが)が、赤十字ではみんな無駄になった。そういえば日本赤十字の若手の医師(外科)のレベルも低かった。病院の名前で選んではいけない。

そんなこと考えた後で、いやな医者にも使い道があると思った。
村上先生はやさしいので、患者も甘えてしまうことがある。
採血の結果をみて「肝硬変になったら、どんな名医でも治せませんよ。とんかく一ヶ月間禁酒しなさい。肝臓の働きをみます」と何度もいわれていたが、禁酒はできなかった。
あの傲慢そのものの医師の罵声を受ければ、クソッという気になる。医師の診察を受けることはもうないだろうが、断酒して、自分でなおしてやろうという気になった。
このいきさつを、糖尿病学会発行の雑誌に書いてみよう。締め切りは2月末だった。
ほかにも発表するつもりでいる。

<2008年> 

2008年 9月

9月2日

 

今日、夕方の5時31分に母が亡くなった。96歳と8ヶ月。私と姉がみとった。
昼から呼吸が薄くなり、看護婦をよんだ。やがて、息絶えた。
その母のことを、9月12日発売の東京スポーツに書いているので、ここに転載したい。


 

 本日も楽天日和 23 〜「母親からのプレゼント」高橋三千綱

 先週、私の母が逝った。明治44年の生まれで、96歳という高齢だった。自宅で家族に看取られながら、眠るように死んでいった。トースポが丁寧な訃報を載せてくれたので、たくさんの方々から連絡を受けたが、以前より葬儀は家族葬でおこなうと決めていたので、供花は全てお断りして、親族15人だけが集まって葬式をした。僧侶も呼ばず、棺の中に収まった母にみなでお別れをし、そんな我々をスクリーンに映し出された生前の母が、唄をうたいながら見守ってくれていた。
 そうなのだ。私たちはいつだって母に見守られていた。私はあまり感心できる息子ではなかったが、母はいつでも笑顔を絶やさずに見つめてくれていた。いい母親であった。思い出はつきないが、最初に思い出すのは、11年前のことである。
 その夏、私はひと月ほどスコットランドを旅した。家に戻り、ぐったりしながらビールを飲んでいると、妻が風呂敷包みを手に、あのねえ、といって居間に入ってきた。その神妙な表情を見て、これはいよいよ離縁かな、と内心あわてたが、次にとった妻の行動には度肝をぬかされた。妻は風呂敷包みを開けると、札束を取り出して私の前に置いたのだ。3百万円あった。
 なんだこれは、と混乱したまま訊くと、妻は、おかあさんがくれたものだと静かに答えた。私が日本に戻る少し前に、母は勤めていた生命保険会社を退職し、退職金として1千万円もらったという。その内の3百万円を、世話になったお礼として息子に渡してやってほしいと妻は母から頼まれたということだった。母は妻と娘、姉の子供たちにも小遣いを与えていた。
 私はゲンナマを前に溜息をついていた。それは母の3度目の退職だった。母は父が友人の会社の連帯保証人になり、その会社が倒産して債権者に追われるようになると、自分から生命保険会社に勤めて働くようになった。42歳のときだった。最初の退職は52歳のときで、それは留学する息子の航空運賃代を捻出するためだった。2度目は一般退職で60歳だった。だが、家に引きこもることなく、そのまま会社に籍を置いて、外交員として働いた。そして85歳になって、引退を決意したのだ。
 関西弁を喋る保険屋のおばさんとして、母は出入りする会社の若手から人気があった。何度も結婚を世話し、そのたびに無関係な父まで仲人として結婚式に引っ張り出されていた。無名作家の妻として一生を過ごしてきた母だったが、友人や仲間には恵まれていた。最初に入院したのは、91歳のときだったが、母の病室は見舞客が絶えず、いつでも笑い声が廊下に響いていた。2ヶ月後、母は元気に退院してきて、友人たちとよく旅行に出かけていった。
 私が参議院選に立候補したのは01年のことだが、このときだけは泣いて反対した。家族が大変な思いをするというのだ。だが私の決意が変わらないと知ると、私の介添役として、89歳の母は東京、札幌、新潟、福岡、東京を1日間で回るという強行軍につきあってくれた。母が会場の舞台に立つと、私以上の拍手が起きた。
 ところで3百万円だが、私はそれで友人から中古のセルシオを買い受けた。丸11年たった今でも乗っている。母からのプレゼントは、それだけでなく、たくさん、たくさん私の胸の内で息づいている。

 

2008年 5月

 

5月は連休から始まったが、その前に3月4月のボケーッとした時間は何だったのかと反省するところから書き出すことにする。

仕事はせず、氷見子というブルドッグのメス犬は登場したものの、まだ頼りない感じで犬との付き合い方も分からず、映画を見に行くこともせず、ただぼんやり過ごしていた。それにビールをよく飲んでいた。
それを象徴するのが、3月28日の検査結果で、なんとγーGTPが3950も出た。
これは何かの間違いではなか、と4月に入って再検査したら、4013とさらに上昇していて、これは肝硬変の数値ではないか、と自ら深く沈み込んだ。
それでいっときは禁酒を決意したものの、2日間で終わってしまった。ふがいない男である。

ゴルフもまったく駄目になった。
こんな状態では、筋肉が落ちるばかりで、飛距離は160ヤードになった。

パーゴルフ新書「我が人生にゴルフあり。本日ベスト8となる」が発売されたが、こんなゴルフをしていては、著者として情けない限りである。

それに3月25日の集英社のコンペのあと、急激な寒気がして、「くわはら」でのお別れ会でも、ほとんど酒が呑めなかった。その晩から吐き気と下痢に襲われた。
一時間ごとに便所に立ち、死ぬほどの苦しみを味わった。
3日後に病院にいくと、ノロウイルスだろうといわれた。これは以前にもかかったことがある。
そのときは何が原因だかわからなかったが、今回はゴルフ場で食べた寿司が原因であろうと判断できた。普段は寿司など食べないのだが、昼飯を抜いたので、後のパーティのときつい食べてしまったのがよくなかった。一週間で3キロ痩せた。

4月20日には八王子カントリークラブで理事長杯の予選があったが、これもぶっちぎりの予選落ちとなった。100を叩いては、通るわけがない。

5月2日

 

5月2日は小雨の中、夕方から河口湖に向かった。
島田晴雄先生を囲むゴルフコンペの会の前夜祭がある。
道はすいていて、1時間20分ほどで冨士桜荘についた。二部屋つづきの部屋で9000円と安い。
前夜祭までの2時間を「素浪人心得」に費やす。

前夜祭では主催者の平林良仁氏、澤田秀雄氏、らも来ていて盛り上がった。幹事はいつものごとく村本豊彦である。この日はあまり酒を呑めなかった。すすまないのである。

5月3日

 

冨士桜カントリークラブ。小雨の中久し振りにクラブを持って練習をしたが、全く当たらない。とにかく当たらないのである。アプローチもやったがダフリばかりで練習にならない。
これもγーGPTのせいか。とにかく体の軸がみつからない。不安のままティグランドにいく。

同伴競技者はぱどの倉橋泰氏、税理士の奈良原肇氏、八十島正雄氏。
不安は的中して67歳の八十島氏に10ヤード以上おいていかれる。しかも白マークからやっているのに、2打で乗らない。アプローチも寄らず、4オン2パットの連続。前半は52。
倉橋氏がこんなミッチは見たことがないと驚くほどのていたらく。

昼はビールとワイン。
午後はさらに悪くなって、55を叩いた。107。生活もゴルフも全滅である。

シュンとしてファイブスター山荘にいく。
明日は拙者はゴルフはしないが、3日の夜に帰るのはいやなので、泊めてもらうことになった。
日本M&Aセンター社長の分林保弘氏が新たな持ち主になるという。分林氏と倉橋氏、イマジンの神蔵孝之氏、それに島田先生、航空評論の秀島一生氏らと歓談。
秀島氏はJALの元チーフパーサーで、現役時代のスッチーとの関わり合いの話が面白かった。
この人の話は小説になる。しかしポルノ小説になってしまうかもしれないな。

2時頃パソコンに向かっていると、先に寝ていた神蔵氏が起きてきて、それで酒を付き合うことになった。1時間ほどして寝る。

5月4日

 

6時半起床。みんなも出発の準備をしている。拙者はひとりだけ高速に向かう。まるで車の姿はなく、すいすいと1時間ほどで八王子につく。

家では氷見子が待っていた。2月26日にやってきたときの倍以上の体になっている。
お計りで計ると9キロあった。来たときは2キロ半くらいだったはずだ。もうブルドッグになっている。しかしメスなのでブル太郎と違って愛想がいい。店に連れて行くと通る人にじゃれついていく。しかし、拙者には媚びをふらない。飼い主には外では愛想を振り向かないと決めているのだ。

朝のビールをまず一杯のんで、再び寝る。昼は「こぶし」で野菜ラーメン。
息子の康裕君が今夜の空手検定のことをしきりに心配していた。彼とは空手仲間になった。
40歳の年の開きがある。

6時に会館にいく。最初に基本の型をやる。大田師範の教えはやさしく覚えやすい。
道場の空手とは違うので、教え方がやさしいのだ。
太鼓の今井さん、水上警察の吉原氏もきていたが、ふたりともまだ検定は受ける準備ができていない。22歳の中村君と康裕君、60歳の拙者がまず9級の検定をうける。
上段、中段2本、合わせの組み手。昨年の12月から始めたが、拙者はさぼりっぱなしだったので、少し焦る。しかし、年の功で落ち着いてできた。
3人とも、9級を合格。

大田さんの家族とボクシングジムをやっていた人たちが見学をする中で、8級の検定が始まった。
平安1段である。まず下段受けから始まるこの型を、康裕君とふたりで公園で何度か練習して、自分ではものにしたという確信があった。だが気合いを出すところで出し忘れた。しかし、気力があるということで、拙者は合格。ほかのふたりも合格して、3人で握手。
よくやったな、三千綱。

ラーメン「こぶし」で4人で乾杯。大田氏に感謝の夜であった。
今年中になんとか3級までいきたい。来週から平安2段の型を受ける。

5月5日

 

「素浪人心得」をやる。8枚書くだけですごく疲れた。一体、いつ終わるのだろう。

5月6日

 

岩崎恵一氏のオーストラリアでの試合の模様をメールで確認してから、東スポ「楽天日和5」を書く。
阪本氏にすぐに送る。
好い風が吹いていたので、散歩にでかけ、「こぶし」に寄ってビールを飲む。もう初夏の日射しだ。道路が眩しい。
昔見た、夏の光を思い出しながら、飲むビールはうまかった。今日もγーGPTのことはわすれていた。

5月8日

 

光文社から6月中旬に発刊される「あの人がくる夜」の文庫あとがき兼解説を書く。
この小説は意図的に女の感性と情念にほんろうされる男たちのことを書いた短編集だが、最後の2篇は次のシリーズのために書いたのではないか、と思う。編集部とは打ち合わせをせずに勝手に書き出したもので、その後つづかず、そのためにこの作品集に入れられる形になった。拙者の怠慢、無計画性が読者を混乱させてしまうかもしれない。
後書きにはかきそびれたが、このタイトルは南米のどこかの国の唄にあったタイトルを使ったものだ。唄は聞いていない。

5月9日

 

講談社にいく。数年ぶりだ。そのため護国寺で出口を間違えた。
学芸の細谷部長、中本氏と「素浪人心得」の進展状況を説明したあと、「群像新人賞」のパーティに出る。これに出席するのは、自分が受賞した34年前とその後、村上春樹がとったときの1度だけ。ともかく30年振りなので、浦島太郎になった心境であった。出版部長の石坂や文芸局長の中島がいて、しばらくぶりに話す。石坂が群像の編集長になってから群像との付き合いが途絶えたが、いまだに理解できないことだった。石坂は出版ではずっと担当だったのだ。何か含むところがあるようだったが、聞きそびれた。ともあれ、群像に掲載されるような作品を書きたいものだと思った一夜だった。
二次会にさそわれるが、ひとりで帰る。飯田章氏らは出席した模様だ。山川健一が随分。ハイになっていたな。

5月12日

 

シティクラブ・オブ・東京で講演。といっても趣味の話であった。ノーギャラだったが、五万円車代としてくれたらしい。秘書にあげる。電車で帰る。

2008年 1月

1月5日

 

拙者の誕生日会が「くわはら」で開催される。姉夫婦甥姪もくる。総勢25名で狭い店内が一杯になる。みな常連で、わきあいあいの誕生会だった。
秀子さんから赤いセーターをもらう。そうか、世に言う還暦かと実感する。
ここまで生きられるとは、思わなかった。
34歳で胃をきったので、50歳までにはこの世とオサラバすると思っていたからなあ。

今夜も酔うが、好い酒だった。ブル太郎が死んで以来、初めておいしい酒を呑んだ。

1月11日

 

カリフォルニアのビル・オーエンから連絡が入り、ロジャー・キングが亡くなったという。62歳だった。
彼の招待でラスベガスで豪遊し、さらにニューヨークにいって、彼の誕生日会にいったのは12年前のことだった。彼が妻殺しの、OJシンプソンのスポンサーだったことは、ほとんど知られていない。弁護士費用もキングが支払ったのだ。豪快な男だった。死因は酒だ。

1月14日

 

横浜ベイシェラトンで講演会。
100人限定というのは、主催者が銀行で、3千万円以上の資産を持っている人というシバリがあるからだそうだ。
三原夫妻もきてくれた。講演会のあと三原氏のおごりで中華街で食事会。
三原氏は2月半ばから一月ほどスペインにいくそうだ。株のほうは開店休業で、日本株は全滅になるので、今は一切もっていないといっていた。

1月15日

 

「テーミス」の原稿を書く。
「素浪人心得」の2005年日記を改訂する。
書き込みが増えた。それにしても、気楽な日々を送っていたものだ。
わずか2年前なのに、隔世の感がある。

1月21日

 

東急エージェントの服部さんより連絡があり、永谷園の副社長を訪問する日を28日と決まったという。ブルドッグ愛好会仲間の明さんから、どんな話がでるのだろうか。
ブル太郎が死んで拙者が落ち込んでいると聞かされて憂慮しているという。申し訳ないことだ。

学研の島村から、初稿ゲラが出たと電話あり。タイトルがまだ決まっていないが、発売は3月半ばになるという。ゴルフの新書というのは新しいアイデアだが、売れるかな。

1月22日

 

不調。どうしょうもないので、点滴を打ってもらう。ずっと寝ている。
体重がとうとう60キロを切ってしまった。

小遣いがおぼつかなくなってきたので、村本豊彦に頼んで、100万円都合つけてもらう。
家人にはいっていない。苦しくなったのは、株で負けて、追証がきたからだ。
三原氏の忠告を聞いておけばよかったのだが、あとの祭だ。悲ぴー。

夜になって「こぶし」ラーメンにいって酒を呑む。
ラーメン屋で酒をのむのがこの頃の日課。今夜飲めたのも、点滴効果のせいだろう。

1月23日

 

「パーゴルフ」原稿。
ビジュアル著作権の平野氏から電話があり、文芸家協会とは別口で作家の権利を守るという話だった。姉からも去年からいわれていて、手紙ももらっていたが忘れていた。
どういうことか分からないが、検討する必要はあるだろうな。
三田誠広だったら詳しいから、聞いてみよう。

1月24日

 

昼、「こぶし」ラーメンにいってビール。そのあと「三千盛」を2合のんで、ラーメンで仕上げ。
家に戻るとねむくなり、そのまま寝てしまう。

事務所から連絡があり「宝島ワンダーネット」から会ってお話したいといってきているという。
コンテンツ事業部で、将来的には漫画、映画と多方面に広げる展開だという。
還暦呆け間近の拙者にできることだろうか。それとも脳を活性化するチャンスなのだろうかと、深夜、家で三千盛を飲みながら考える。

1月25日

 

飲み疲れで、一日中ベッド。

1月26日

 

ラーメン屋でビール。戻って、また、ベッド。起きて、夜になって、また飲みにでる。
いい人生だな。村本への借金はなんとかせなならないのだが、あいつは催促しないやつだから、しばらくほっておくことにしよう。
株の追証の件は家人が知って支払ってくれたから、借りた100万円は、まるまる小遣いになった。
いつまでもつかなー。

1月28日

 

永谷園に副社長の明氏を訪ねる。娘も同席させる。ブルドッグについて、深い考察をいただいた。
ブリーダーも紹介してもらった。ただ、その人を訪ねるかどうか、まだ、迷っている。
その後、東急エージェントの服部さんと新橋のそば屋で飲む。
離婚して石川から服部姓に戻ったのだが、まだ一月なので、どうしても石川さんと呼んでしまう。

1月30日

 

「素浪人心得」の素浪人の就職、の章を書く。
社会保険庁からの連絡で、拙者には今年から年間、5万8千円の厚生年金が入るという。年間である。たったそれだけだが、笑えるな。拙者が会社で働いたのは3年半。
それだけで厚生年金が入るのだから、日本はその日暮らしに向いている国だ。

 

 

 

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