随筆

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★「図書 エッセイ」(2006/5月号)より
「個人再生を夢見て」

 人はいくつになっても夢を語れるものなのだろうか。いや、いくつまでなら、夢を
語っても笑われることがないのだろうか。
 そういうことを58歳の誕生日の日に考えていた。おまえの夢のことなどだれも興
味がない、ときっとみんなからいわれることだろうなと思いながら、自分の夢は個人
再生をすることだなといいきかせていた。
 これは私が借金地獄に陥っているとか、闇金融業者から追いかけられているという
ことではなく、作家としての再生を夢見ているということなのである。
 私は自分が世間から忘れ去られた人間であるということが分かっていても「ま、いっ
か」で済ませてしまう楽天的な男なのだが、昨年一年間で書いた小説がわずか80枚
となると、これはさすがに悲惨な状況だなと思わざるを得ない。
 仕事をしないのは、酒を呑んでいる時間が長いからである。二日酔いで朝を迎え、
夕方までに二度昼寝をして、暗くなると小料理屋のカウンターで熱燗を呑んでいるの
だから身体から酒の抜ける暇がない。近くの医院で検査を受けたら、γGPTが1020
にもなっていて、これは久しく見たことのない数字だと医者からあきれられ、自分に
とっても最長不倒距離だといったら肝硬変にリーチがかかりますよたしなめられた。
 糖尿病なのでいつも身体がだるい。たまに固形物を口にすると、1時間ほど横になっ
てからでないと次ぎの行動がとれない。その行動にしたって新聞を読むことくらいの
ものなのだ。指が震えることもあり、爪を切るのに一苦労する。
 すべて酒が原因なのだが、これがやめられない。いきつけの小料理屋では私の名前
にちなんで「三千盛」という酒を仕入れてくれているのだが、5日間で4本が空にな
る。酔っぱらって家に帰ってくると妻と母が不安そうな顔で立っている。
 94歳の母に向かって、先立つ不幸をお許し下さいとは横着者の私でもいえないか
らコソコソと寝室のある二階に昇っていく。足がもつれて寝室までたどりつけず、踊
り場で眠ってしまったこともあった。
 仕事をしないのだから収入がない。企業のマトリックスに分類すれば、債務超過、
営業赤字の状態にある。個人秘書がついてきてくれるのは、彼女のボランティア精神
のあらわれである。
 そんなこんなで58歳の誕生日に再生を誓った。まず、60歳の誕生日までに小説
を3冊出す。エッセイを2冊。合計5冊。その内の1冊くらいは10万部を超えてく
れるだろう、とお気楽なことを夢想していた。ご機嫌になっていたのは、酒を呑んで
いたからである。
 生活費は、会社を上場させて大金持ちになった幻冬舎の見城徹に借りるか、株の売
買でひと山当てるかすればなんとかなる。そうだ、夢の3連単で100万馬券を当て
て見るのもいいかもしれない。
 そんなことを考えていい気分になった翌朝の膳には、ビール瓶が置かれていた。5
8歳までたどりついたお祝いに、と思ってグラスにビールを注いだ瞬間から、その日
一日が潰れることが確定される。
 ベッドに再び横になった私が夢見るのは、スコットランドをひとりで旅した5年前
のことである。その頃はまだ元気だった。旅をしようという気力があった。車を運転
して見知らぬ町に入り、ゴルフ場を訪ね、たまたま一緒になった人とゴルフをする。
 荒涼とした光景の続く北端をいき、一日の内に四季のあるスコットランドの気候の
洗礼を受け、くたくたになって小さなホテルにたどりつく。そこの主人が料理してく
れたローストビーフに舌鼓を打ち、スコッチを呑む。
 スコットランドにはどの町にもゴルフ場がある。排他的な名門クラブでない限り、
いついってもプレイをさせてくれる。あれは、ブロアというゴルフ場だった。夕方近
くにいったら、もう客はいないのでひとりで回ってくれといわれてすぐスタートした。
 海につきでた草原のゴルフ場で、風がきつかった。空には厚い雲がかかり、遠くの
雲はどす黒くなって垂れ下がっていた。さびしいはずなのに何故かあたたかい雰囲気
に取り巻かれている。それは山羊たちの姿がコースに点在しているからだった。ティ
インググラウンドに佇んでコースを望むと、フェアウエイに山羊が何十頭と出ている。
草を食っているのもいれば、真ん中で座り込んでいるやつもいる。
 ボールを当ててしまっては可哀相なので、オーイ、打つぞーと声をかける。何頭か
はのそのそ動きだすが、全然無関心のやつもいる。それで山羊に当てないように神経
を集中させて、開いた隙間を狙ってティショットを打っていく。
 ボールはドローを描きながらフェアウエイに落ち、山羊の間を転がっていく。2打
目地点では山羊が私を待っていて、アドレスに入る私をじっと見ている。私の打った
ボールはグリーンをとらえてピンに寄っていく。
 ようしやったぞ、バーディチャンスだ、と私ははしゃぐ。しかし拍手は起こらない。
山羊どもはつまらない顔をしてゴルフバッグを担いで去っていく日本人を見送ってい
るのだ。
 ティインググラウンドに何頭もの山羊がいたホールもあった。そこでも私は快心の
ショットを打った。しかし何の声もかからない。見ているのは口のきけない山羊ども
なのだ。
 フェアウエイに向かいながら、寂寥感に襲われていることに私は気付く。いくら山
羊の目に取り巻かれていても、相手はゴルフの楽しさを丸で分かっていない家畜なの
だ。一緒になって喜んでくれることは決してない。
 ベッドに横たわり天井を眺めながら、しかし面白い体験だったと胸の内で呟いてい
る。パー3のコースではあわやホールインワンの好ショットが出て、グリーンを取り
囲んだ山羊の群を見ながら、思わず「入るなー」と叫んだことも思い出した。それで
ひとりでにやにやする。
 スコットランドではあちこちのカジノにも顔を出した。老人たちが多く、1ポンド、
2ポンドと少額の賭けで楽しんでいた。バーにいくと歳をとった女たちが、厚く化粧
したすさまじい顔で迎えてくれた。あたしの胸は1メートルもあるのといって、両手
で自分の胸をつかんでいた大柄な女もいた。リバプールの町で出会った女とは、ロン
ドンで再会を約束したものだった。
 ロンドンからパリに渡り、ドーヴィルに足を伸ばした。競馬場のある静かな町は8
月になると様相を一変した。世界のあらゆるところから金持ちが集まってきて、夏の
フランスを堪能していた。
 ここで出会った女におかしなやつがいた。あるときホテルのテラスからゴルフ場を
見下ろしていると、「ああ、あなたなのね」と声をかけてきた若い女がいた。
 「フロントでひとりで泊まっている日本人がいると聞いたからどんな人かと思って
いたの」
 女はそんなふうにいって私の隣に佇んだ。六本木に事務所のある広告代理店に働い
ているとかで、夏休みでパリに帰ってきたばかりだという。そんなことを話している
と、どこからか小太りの男が現れてきて、どこにいたんだ、ずっと捜していたんだと
目をぎょろぎょろさせていった。
 女はこの人は幼なじみで、パリからここまで運転してもらったの、と説明した。全
く昨日の夜中に突然ドーヴィルに行こうといいだすんだから参っちゃうよと男は文句
をいっていた。
 その日、そのふたりと連れだって海岸にいった。水着を持っていなかった女は、ブ
ラウスを脱ぎ、ブラジャーをはずして遠浅の海に向かった走り出した。私は男に、お
い、追いかけなくていいのかといった。逡巡のあと、彼女はいつもトラブルの元なん
だと呟いて、女の後を追いかけていった。しばらくして女は上機嫌で戻ってきて、ズ
ボンを穿いたまま海に飛び込んだ男は赤い目をしてふてくされていた。
 その男女は翌日パリに戻っていった。数日後にパリにいった私は連絡をとって女と
会い、夕食をとった。明日はロンドンに戻ると私がいうと、じゃああたしもロンドン
にいくと女がいった。
 しかし、待ち合わせの場所に女は現れなかった。夕食のあとでディスコに行こうと
いう女の誘いを断って私はホテルに戻ったのだ。女は夜通し踊り、そのままどこかで
沈没してしまったのだろう。女が約束を守るとは思えなかったが、汽車の発車する時
刻になっても女が現れなかったときは、ちょっと落胆したものだった。
 そういう様々な場面を思い出しているのが、私の夢の時間だった。そのような旅を
するにはまず体力をつける必要があった。家の階段を昇ることもできずにいる私には
遠い光景だった。
 昨年、スポーツジムの会員になった。少しは筋肉をつけなくてはゴルフもできなく
なると思って入会したのだ。だが、ボディコンバットという初心者マークの出ている
クラスに出た私は仰天した。ボディコンバットを、ボディコン・バットと聞き間違え
た私は、ボディコンのネーチャンがバットマンみたいに逆立ちでもするのだろう、と
酔った頭を振りつつ参加し、そこでキックボクシングを30分間みっちり仕込まれた
私は、へろへろになって家に戻り、それ以降一度もジムには顔を出すことなく、会費
だけを払い続けているという軟弱さなのだ。
 夢の出版、夢の旅を実現するには自己改革を決断して、身体を再生する必要がある。
だが、だれにでも簡単にできることが私にはできそうもないのだ。
 それでももしかしたら、この男にも根性が残っているのかもしれないと期待するも
のがある。それは陶芸家の河井寛次郎がいった言葉に激しいショックを受けたからで
ある。河井はこういっている。

 「この世は自分を見に来たところ。この世は自分を発見しに来たところ。新しい自
分が見たい。仕事する」

 私も新しい自分を見たい。夢を現実のものとする私自身を見たい。
 息子を見て笑顔を浮かべる母を見たい。それが親孝行というものだ。そう思うから
である。         


 

★「スーパーエイジ エッセイ」(2005/春号)より
「自分の身体と出会う」
 毎年、年末に御岳山で自分の身体に出会うことにしている。そこでは志を同じにす
る仲間が三十名ほど集い、冷たい空気を思いっ切り、身体いっぱい吸い込んで、その
年、ひたむきに支えてくれた肉体に感謝するのである。
 もっともその思いは各個人によって違うだろう。単純に健康回復を願ってこの集ま
りに参加する人もいるだろうし、将来をみすえて武道に役立てようとする人もいる。
私の場合は、自分の身体に一年に一度出会う場と認識している。
 これは「メビウス気流法」のセミナーで、坪井香譲という方が独自に開発した「気」
のボディアート、つまり身体術なのである。あえて広く宣伝することもしないし、通っ
てきている有名人を宣伝に使うこともしない。決して排他的ではなく、宗教臭いとこ
ろなどみじんもない、明るく風通しのいいセミナーなのであるが、非常に限られた人
だけにしか知られていない。みな、この会との出会いが偶然によるからだろう。
 私の場合もそうだった。十年ほど前、金沢の旅館で指圧を受けているとき、腰を始
め節々の痛みに耐えかねていると指圧師に話していると、その人が「気流法」という
呼吸法があるといいだしたのだ。といって、その人がセミナーに参加しているわけで
はなく、彼女はただ興味をもっているひとりに過ぎなかった。
 「深呼吸を繰り返しながら、身体の中の宇宙に出会うといことらしんです」
 年輩のその女性は気取った様子もなく、ぼんやりとした口調でそういった。格別目
立ったところのない人の口から、何気なく呟かれた宇宙という言葉に私は驚いた。
さらにその女性はこう続けた。
 「電話で様子を聞いただけなのだが、応対してくれた女性がとても感じがよかった。
私も参加したいのだが、地理的に無理なので残念だ」
 東京に戻った私はさっそく教えられた気流法の会に連絡をとり、それから年に二、
三回、御岳山でのセミナーに参加するようになった。
 これは誰にでも出来る簡単な身体術で、むしろあまりに簡単すぎて、その本質を見
失ってしまうくらいである。では毎朝行う私の気流法を披露しよう。
 まず朝起きて顔を洗う。日常の中では当たり前の行為だが、キャンプにいったとき
に川の水で顔を洗うと、その日の自分に何か特別なことが起きるような、予感めいた
ときめきを抱くときがあるはずだ。
 私は家で顔を洗うとき、少年戻ったような、少しわくわくする期待を持ちながら、
その秘密めいた儀式をそっと行っている。それから床に座ってしばし黙想する。気持
ちが落ち着いたら座ったまま身体を前に伸ばす。元に戻すときには身体の隅々で細胞
が弾け出すような清新さを感じる。
 そして立ち上がる。さて、ここからが気流法の極意なのである。まず肘と肩をゆる
めながらゆっくりと両手を上げていく。ここで大切なことは、両手を上げる行為を自
ら意識するということなのだ。ただラジオ体操のように機会的にやるのではなく、い
ま自分の腕の筋肉が動いているな、酸素が胸に入ってきたなと感じることが極意を得
る第一歩なのである。
 ここであまり意識しすぎると身体がかえってこわばってしまうので、リラックスす
ることが肝要である。意識とリラックス。これが気流法の基本。
 次に上げた手をゆっくりおろしてくる。そのときも身体の内部とのつながりを意識
する。それを何回か繰り返す。ときには空気が頭から入ってくることもあり、また手
を上げるとき、足の裏から地中のエネルギーがはい上がってくるような感じをもつこ
ともある。
 私の会得した「毎朝身体と出会う」という極意はこれだけである。ね、簡単過ぎて
忘れてしまいそうでしょ。


★「図書」(2004/9月号)岩波書店より 
 「中上健次と会った夜」

 中上健次の名前は「日本語について」を書いた人として知っていた。「文芸首都」に発表されたその作品が、翌年、「作家賞」の優秀作に選ばれ、同人誌「作家」に転載された。私は名古屋が本部となっていた「作家」の同人ではなく毎月二百円払うだけの会友だったが、東京支部の会合には時折顔を出していた。
 ベトナム戦争に参戦する黒人の陸軍兵とアルバイトで付き合う学生の「ぼく」の心情を描いたその作品は、とても丁寧な筆つかいで書かれていた。同時にその背後にとてつもない凶暴さが潜んでいて、ジャンプする前のガマ蛙のようなふてぶてしさを感じた。
 それからまもなく私は二十七枚の短編を一晩で書き上げて「作家」に送った。同人でもない二十一歳の若造の、しかも「嘲笑った丸太ん棒」なんていうヘンテコな題の作品が載せられたのは、東京支部の支部長であった直木賞作家の藤井重夫の尽力のたまものであったが、自分に初めての小説を書かせた背景には、一つ年上の中上健次の存在があったような気がする。
 初めて会ったのは彼の作品を読んでから五年ほど経った昭和四十九年の秋だった。勤めていたスポーツ新聞社の同僚と新宿二丁目のスナックで飲んでいると、隅の席からおーい、こっちこいよ、と声がかかった。その二人が狭い空間で差し向いになって仲睦まじく飲んでいる姿はその前から目に入っていたが、私にはその二人に面識がなかった。それで知らん顔していると「おまえ高橋三千綱だろ、おれはS社の文芸担当だ」と編集者らしいひとりがいった。それでも動かずにいると、なおも呼び続ける。同僚が、おい挨拶だけでもしておいたほうがいいんじゃないか、といって押し出すので仕方なくそこにいった。その数カ月前に私は群像新人賞を受賞していたのだが、文壇的にはまったく無名で受賞第一作すら発表していなかった。だから私の顔を知っている編集者がいるということだけでも意外だった。
 私が横に立つと、編集者はS社のMと名乗って名刺を差し出してきた。私は改めて自己紹介をして、もう一人の固太りの、なにもかもごつい感じの男を見た。おい、名乗ってやれよ、とM氏がいうとその男はふんぞり返って「おれ、ヴァレリィ」とのたまった。それまで彼の風貌から記憶が微かな刺激を受けていたので、それを試してみる気もあって、「そうですか。でも中上健次さんに似ていますね」といってみた。するといきなり彼の身体が崩れ、顔が照れ笑いで溢れた。そして「中上です」といって頭を下げた。座れよ、とM氏にいわれ、私は向かい合う二人の横顔を見る位置に座って飲み出した。
 その晩ふたりは連れ立って私のアパートにやってきた。誘ったわけではない。どこに住んでいるのかと訊かれ、沼袋だといったら、二人はそれではといってついてきたのである。一人は小平で、もう一人は千葉に住んでおり、タクシー代がもったいないといっていた。丁度三十年前のその一夜のことを私はなぜか鮮明に覚えている。
 アパートに戻ったのは午前二時だった。部屋は2Kで6畳間には布団がふた組敷かれていて、そのひとつに妻になる前の現在の妻が寝ていた。M氏は相当酩酊していて、部屋に入るなり、もう寝るといって背広とワイシャツを脱ぎ、ズボンを穿いたまま空いている寝床に潜り込んだ。鼾をかきだしたのはすぐあとだったが、その鼾の前に、明日は6時30に起こしてくれ、それから朝飯の代わりに冷や酒を2合用意しておいてくれ、といった。
 そのアパートには越してきて間がなく、とりあえず床板の4畳に机、書棚とソファーセットを入れていた。ソファーは向かい合わせひじ掛けで、周囲には段ボールが積まれていた。中上はテーブルを押し、その大きな身体をテーブルとソファの間に押し込んだ。そのソファに人が座ったのは初めてだった。とても膝を入れるだけのスペースがあるとは思えなかった。
 何を飲む、と訊いたらバーボンがあるかと訊きかえしてきた。バーボンはなかったので私たちはサントリーホワイトを水割りにして飲み出した。彼は部屋をぐるりと眺め、あれが机か、とぼそりといった。窓辺に木机があり、それは中学三年の時に生命保険の外務員をしている母が買ってくれたものだった。以来二十六歳のそのときまで使っていた(ちなみに今も仕事場に置かれている)。そう説明すると、そういうことは大事だな、と呟いた。それから群像新人賞の賞状に目をとめ、あの賞はおれもほしかったんだ、といった。そのとき彼が「日本語について」という作品で群像新人賞に応募したことを知った。最終選考で落ちたんだと淡々としていった。あれはおれも読んだよ、そういうと彼はびっくりした顔になった。どうしてだ、と少しどもった感じで訊いてきた。それで二十二歳まで私が「作家」の会友であったことを話した。
 「作家賞をとったのを読んだんだ。十万円の賞金をもらっただろ」
 「五万円だった。優秀作なので半分だった」
 「授賞式みたいのはあったのか?」
 「ああ、あった。名古屋までいったよ。そのあと飲んだんだが、からんでくるやつがいるんで、そんなにぐだぐだいうんだったら、他の同人雑誌に出たやつなんか賞の対象にしないで、自分達だけでやってろといったよ。喧嘩になりかけたな」
 「あの小説の主人公は純なふりしていたけど、内には相当な狂暴性を秘めていたな」
 「そりゃ読み違いだよ。狂暴性なんかじゃない。ものを書かせる欲求に狂暴性なんか入りこむ余地はないよ」
 そういうものかと思ったが思慮の浅い私は立ち止まらずにとことこと話をすすめた。今推理小説を書いているといったら、お前そんなことしていていいのか、と彼はあきれた面持ちでいった。「天真爛漫というかなんというか・・」と何ごとか呟いてから私の新人賞受賞作品の「退屈しのぎ」の話をしだした。彼は文芸賞の下読みをしていて、読み手としては一流だと自分でいった。
 「読んだ時、あ、こいつ引っ掛けやがったな、と思ったよ」
 「引っ掛ける? 何を」
 「下読みの連中やら選考委員をだよ。わざとキワもののふりをして挑発していたからな」
 思い当たるふしのあった私はぶ然とするしかなかった。
 「それでは中上さんが下読みしたら、落されていたな」
 「A推薦で出したね」
 かんはつを入れずに彼はそういった。思いがけない返事にポーッツと茹だった気分でいるとさらに「これはという作品はすぐに分かるもんだよ、ああいう作品に下読みが出くわすことなんてめったにないよ」といった。私は全身が嬉し色で染まった。いいやつだと思った。この夜の記憶が色褪せないのは、そのときの中上の一宿一飯のお礼ともいえるお追従の所以である。
 私は彼の座っていたところから死覚になっている本棚の中から、買ったばかりの「十九歳の地図」を取り出して彼の前に置いた。
 「む」と彼は呻いた。これはよ、といって喘ぐように顎を回した。でも何もいわなかった。その作品が前年度の芥川賞候補になっていたことを私は本を買って初めて知った。あの「日本語について」の作者はもうそんな遥かなところまでいっていたのかと思っていた。
 「芥川賞の候補になっていたんだな」
 「ああ」
 「とれると思っていたかい?」
 「いや、全然。発表の当日どこにいるか知らせろと訊いてきたから家にいると答えておいたよ。忘れていた訳じゃないが、誘われたんで海に泳ぎにいっていたんだ。背中が日に焼けて痛くてな、それで裸になって夕飯食っていたら電話があった。残念なことに今回は、とか暗く沈んだ声でいっていたよ。ああ分かりましたといって電話切って飯食い続けた。どっちにしろいい気分じゃなかったな」
 候補にはされたが、受賞できるとは思えない理由があった、そのように私には聞こえたが、そのことについてはそれ以上中上は何もいわなかった。私は万年筆を取り出し、彼にサインをしてくれるように頼んだ。彼はまた照れくさそう頬を丸めた。
 「来年本が出る。送るよ。これから出る本はみんな送る」
 彼は肩を丸くすぼねてサインをしながらそういった。
 6時30分になってM氏を起こし、酒をだした。その少し前に目を覚ました将来の妻は、隣で寝ているのが見知らぬ男であるので相当驚いていた。そのびっくりした表情を張り付けたまま中上に挨拶をし、たまげた様子でデパートに出勤して行った。私は中上に少し寝るようにいった。なかなか頷かなかったが最後に分かったというようにM氏の寝ていた布団に仰向けになった。寝ていたのはわずか十分ほどだった。むっくりと起きてくると少し酒を飲み、出勤するM氏と一緒に出て行った。これからフォークリフトを動かすのだといっていた。大変だなというと、「肉体労働がおれには合うんだ」と少年のような目をして嬉しそうにいった。
 それから彼が芥川賞を受けるまでの一年間、申し合わせて会ってはよく飲んだ。飲み代を捻出するため、ある作家の全集を国分寺の古本屋に持ち込み、酷評された上に買い値を相当叩かれたとぐったりしていたこともあった。固い殻をぶち破るごとく、朝まで文学を語っていた中上の熱気が隣にあった。彼自身が文学だった。
 中上健次はそのあとずっと著作本を送ってきてくれた。彼が亡くなったあとはかすみ夫人が送ってくれた。それはいま私の本棚にあって、漂泊の夢を見ている。


★「オール讀物」(2001/11月号)より 
 「健康になりたい」

 世の欲ぼけの男、皺取りに腐心している女同様、私も健康でありたいと願っている。それも、死ぬ間際まで健康でありたいと夢想している。もっとも、その夢想に裸の若い女が現れることはないと確信している。友人の祖父が死の床で、一度でいいからあんな女としてみたい、と呟いて不帰の人となったが、それは欲望の範疇に入るもので、この際健康とは区別したい。私は性に対する欲は、あまりないのである。(もっとも、もそっと若い頃は、性のほうで私の傍らに寄り添ってきた)
 健康でありたいと願ってはいるが、健康になれない。なぜなら、不健康な生活しかしていないからである。こういう男を、馬鹿は死ななきゃ直らない、という。つまり、私は馬鹿、なのである。ただし、「ボクのことをおバカさんと呼んで」と化粧臭い女の間をいって回る気は、毛頭ない。
 どうして健康的な生活が送れないのか分からない。そこが馬鹿たる所以なのだが、そもそも健康を心がけている人を、えらいとも思ったことがないし、元気いっぱいでいつもはつらつとしている人を目のあたりにしても、羨ましいと感じたことがない。
 むしろ六十過ぎて生肉を頬張りながら、ぎとぎとした額に汗を浮かべて女の話をする男を馬鹿じゃねえかと軽蔑している。それが本人にとっては健康の証と思いこんでいるからだ。そういう輩は肝硬変か膵臓癌で死ぬ。
 ニューヨークではいまだにテロの影響が人々の表情に暗い影をおとしているが、それでも公園では老人たちがジョギングに励んでいる。若い頃からの友人が毎朝そんな老人たちに混じって走り込んでいて、彼らに負けないように頑張っているとメールをうってきた。それはマラソン大会にでも出場するつもりでいるからか、と疑問を呈したら、そこまでは考えていない、とにかく健康のためにやっている、とまともな答えが返ってきた。
 私としては、たとえ見栄でも、ニューヨークシティマラソンに参加するつもりでトレーニングしている、と書いてきてほしかったが、健康のためと知ってズッコケた気分になった。彼が日本にいるころは、よく朝まで飲んでいて、ふたりともきっと早死にするな、とろくでなし同盟の同志のつもりで慰め合ったものだ。その後私は胃を切って、順調に身体を壊していったが、アメリカに行った友人は途中で健康狂いのアメリカ人の感化を受けて、健康オタクに転向してしまった模様なのである。
 目的がスポーツの競技のためであれば、毎朝のジョギングもトレーニングとしては正しい使われ方であるのだが、健康のためというのでは、視界が狭くいじましいものになる。健康のためなどと考えて毎日決まった時間に走ることこそ、不健康な考えなのである。健康で生きることは結構なのだが、そのためだけになにかをするのは、いやおうなく肉体労働している人に対する冒涜ではないかとも思うのである。
 朝、顔を真っ赤に膨らませてジョギングしている人を目にするたびに、そんなことで無駄な体力使うくらいなら、ボランディアで新聞配達でもしろ、といいたくなる。給金は働く青少年の会に寄付すればよいのである。
 先日、成城付近を妙齢の女性を乗せて車で走っていると、ふと女性が呟いた。
「この川べりを、よくふたりでジョギングしているご夫婦がいたの。ご主人は俳優さんでハムのコマーシャルに出ていたわ。とても仲のよさそうなご夫婦だった。でもご主人が今年の始めに亡くなられてしまったの。それからしばらくして奥さんがおひとりで走っている姿を目にしたの。一生懸命走っているその姿を見たら涙が出て止まらなくなったわ」
 そのセンチメンタルでけなげな未亡人物語に対する私の反応はかくの如きものであった。
「そうか。しかしだな、ジョギングしても一銭にもなるまい。それならビラ配りでもしているほうがよい」
 女性は「へ?」と呟いてしばらくボー然としていたが、やがてジロリと私を睨むと、禁煙車である私の車の中で、それと知りながら煙草を取り出して火をつけた。煙草は健康にはよくない、といったが彼女はぶ然としたまま吸い続けた。無論私は彼女が肺ガンになろうが、歯に脂をつけて男に嫌われようが知ったことではなく、要は車内で煙草を吸ってほしくなかっただけなのだが、その繊細な私の思いは彼女には通じなかったようである。ちなみに私とその女の間には肉体関係はない。ただし下心は多少ある。無論この少しハシタナイ思いは健康とは何の関係もない。
 私はアンチ健康派ではない。冒頭に述べたように健康になりたいと希求している。だが、健康のために運動をするということがイヤなのである。たとえば健康のために空手をしたい、という爺さんが空手道場に迷い込んできたら、競技会で勝つために練習している若者たちは、困惑するに違いない。他人が健康になるために、協力する義理はないのである。しかし爺さんが、世界シニア空手大会に出場する目的で入門してきたというのなら、若者たちは、喜んで爺さんの練習相手になるだろう。
 私のいう運動とは、つまり、そういうことなのである。健康のためという自分勝手な大義名分が不愉快なのである。だから私は健康のためにゴルフをしているという人とは、決して一緒にラウンドしない。それに彼らのゴルフは往々にして不遜で、他者に心を配りるということをしない。ゴルフも雑だ。そこには崇高なゴルフ道があるということを理解しない。私がゴルフをするのは歩くためではなく、世界のシニア大会に打って出て、日本人ここにありとその気概を示すためなのである。その底には、それを物語にして出版し、あわよくば一儲けしたいという下心が潜んでいないこともない。ただしこの下心も健康とは何の関係もない。
 そんなわけでゴルフをする日以外は、朝から風呂に入ってはビールを飲むお気楽な生活をしていた私にある日、鉄槌が下された。身体がだるく数日間起きあがれずにいた私は、さすがにこれは異常だと感じて病院に行ったのである。検査のつもりだったが、即日入院となった。血糖値が空腹時で三百を超え、このままでは合併症を引き起こすのは必定で、あと十年もたないと宣告されたのである。
 それで仕方なく入院したのだが、そう宣告した医者はその病院には週に一度だけ外来患者を診にくるだけで、入院したあとの担当医は、ややボケのきた老医師であった。
 糖尿病に関しては、実は医者のできることはあまりない。決定的に効く薬もないし、その気休めのような薬だって、製薬会社がたれる能書きを真に受けて患者に与えているのに過ぎない。その医者も血糖値その他の数字を見て、ではカロリーを一日千四百キロにしましょうと事務的にいうだけであった。私は抵抗した。
「カロリーを減らせば血糖値は下がるかもしれないが、それでは脳に栄養がいかず、私は馬鹿になる。同じ馬鹿でも性格ではなく脳がダメージを受けては小説が書けなくなる。カロリーは最低二千キロは必要だ」
 それに対して医者の答えは「それでは血糖値はさがらない」であった。あくまで数字にこだわるのである。私はいった。
「では、運動すればよい。運動でカロリーを消費すればよい」
 糖尿病の人は往々にして肥満気味であるが、食事を減らして体重を落としたところで、元気にはならない。なぜなら初めに落ちるのが、脂肪ではなく、筋肉だからである。十キロの体重が落ちたとして、脂肪分はその内の一キロ程度に過ぎない。脂肪を落とすのには、減量より、運動なのである。
 その病院にはジムがあり、入院中私は毎日三時間近くトレーニングをした。それもゴルフにいい効果を与えるためのトレーニングプログラムを、自分なりに工夫して作った。その結果一週間で血糖値が百二十まで下がった。個室料の差額ベッド代に頭を痛めていた私は、これからは自宅療養するといって意気揚々と退院してきた。ところが自制心を持つことほど大変なことはない。それがあったのならば私は今頃ベストセラー作家か検事正になっている。
 出てきてしまうのである、ビールが。心優しく臆病な家人は、朝風呂を浴びた夫がバスローブ姿でソファに腰を下ろすと、間髪をいれずに冷えたエビスビールをしずしずと運んできてしまうのである。家人に罪はなく、ましてビールにもない。しかし私は再び入院するハメになり、いまでは健康のためにはいやだが、とりあえず運動のために、NHKの集金人でもやろうかと考えている次第なのである。


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