私が教師になった理由 

日本中がふわふわの夢を見ていた頃、私は神戸で女子大生をしていた。
四回生になって就職活動を始める頃には、その夢は終わりかけていると言われはじめてはいたが
まだまだ
「景気が悪くてイヤになっちゃうよね」なんて会話を交わすのがオシャレだと思っていた。
ひとつ上の先輩の世代は、内定式が北海道旅行だったり、
東京ディズニーランドに一日缶詰にされたり、
海外に連れ出されることだって珍しくなかったが、
そんな気狂いじみたお祭り騒ぎも、私たちの代からはなりをひそめていた。
そんな中、就職面接でセクハラまがいの質問をされながら、
私は初めて、まともに
『仕事』というものについて考えた。
根っから飽きっぽいので、毎日同じことをする仕事は性に合わない。
自分が好きなこと以外に情熱を傾けられるほど、社会性もない(爆)
強い立場にたって反論できない相手を苛めるこんなおぢさんたちの機嫌も取りたくない。
そんな私が、一生続けられること。それはたぶん、いちばん好きなことだけだろう。
やっぱり、文学以外は考えられない。
そして、その文学にずっと携われる、その頃の私がなり得た職業は、国語教師だけだった。

「(進学校に来てる)生徒なんか、全然(勉強の面で)先生に期待してないんだから
 どっちかって言うと生徒のケアとかして欲しいよ、俺は」
と、とある医者の卵に言われたことがある。
言いたいことはわかるんだけどさ。
私は保母さんになりたかったわけでも、
カウンセラーになりたかったわけでも、
そういう意味で教師になりたかったわけでも無いのだ。
文学が好きで、それに携わりたくて、文学を通して誰かと触れ合いたくて、
選んだ道なのである。
結局世間の大半の人は、彼のような意見なのかも知れない。
勉強は塾でも家庭教師でも間に合わせられる。
学校は子供のお守りをすればいいんだ、と思っているのかも知れない。
心のケアが大切なのはわかっている。
でも、私がすべきことは、
あくまでも
「文学」を通して彼らの生き方を豊かにすることだと思う。
そこから派生する心のケアをするのは当然だとは思うけど、
その本分を適当にしても子供の面倒をみろと言われるのは、納得できないのだ。

私の母校であり、最初の職場であった前任校は、なぁんにもしない学校だった。
県内で随一の進学校で、いわゆる進学実績もそこそこあがっているのだが、
それを伸ばすために学校としてなにか特別な取り組みをしているわけではない。
有志の教師が、あくまで個人的に補習をしたり添削指導をしたりするだけで、
上から追試しろだの、早朝テストしろだの、
お前の学級の目標偏差値は57だだのと途方もないことを言われる現任校とは全然趣が違う。
この間、学年主任が「S校(私の前任校)も公立も教師の意識が違う。
我々のような危機感が無い。所詮サラリーマン教師だ。」と言っていた。
ここで言う危機感とは、
「進学実績が上がらない→生徒数が減る→食いっぱぐれる」という危機感である。
私はこの三年間で150回くらいそういう危機感について聞かされた。
でも、そういう危機感でもって、教師の仕事をするのは果たして健全なのだろうか?
彼らの意識の中では
学校は企業であり、生徒は商品であり、目指すのは利益なのだ。
なにしろその学年主任は、去年、三年の理系クラスを担当していたのだが、
後期試験で地元国立大学の文系学部に5人ほど送り込んで、「これで面目が保てた」と言うような輩だし、
学年トップでずっと京大を希望していた生徒が
「東大を受けてくれるそうです」という報告が職員会議で成されるような学校なのだから。
学校は学校だし、生徒は生徒だし、目指すのは教育以外にはあり得ない。
少なくとも、私は食べていくためだけに教師になったのではない。
「サラリーマン教師」なんて言い回し自身が、サラリーマンと呼ばれる方々にとても失礼だと思うが、
もし、「サラリーを得るためだけに教師の仕事をやっている輩」を指すのなら、
彼らこそがよっぽどサラリーマン教師だと、私は思う。

私は、教員は聖職者だなんて全く思っていない。
ただ、多くの人間の、大切な時期にとても深く関わっていく可能性を持つ責任の重い仕事だとは思っているし、
その職務は果たしたいと思っている。
教師だからって、教えている生徒より上等な人間だなんてことも思っていない。
ただ、こと文学については、私の方が少しは知識も経験も深いはずだし、
その知識を通して彼らに必要なものを教えることは出来ると思っている。
「科学は問題を解決するが、文学は問題を提起する」と言ったロシアの文学者がいる。
意識しなければ、そこに問題は存在しない。
そして問題が感じられなければ、それを解決して改善していくことはできない。
文学はいかようにも私たちの生活を変えていける。
少しだけ、昨日より楽しく生きるために、
文学の魔法を生徒に教えて上げられたら、と思っている。