ところで。。。 2 

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2003/05/31 Sat 16:19     タイトルなんてつけられない(笑)  

「オフコースが好きだ」と人前で言えるようになったのはけっこう最近のことだ。長い間隠してきた。ヒトには言えないことが却って嬉しくもあった。時はさかのぼりまくって、私が中学1年か2年のこと。西城秀樹、という歌手が居た、あ、今でも居るのか? 別にナンの興味もなかったけど、『眠れぬ夜』という曲を唄っていて、それが私の人生を狂わせることになった、いや別に狂っちゃいませんが。誰にも内緒で原曲を聴き、当時の最新アルバムだった『We are』を誰にも内緒で買う。もちろんLPレコードですね。オフコースはマスコミには一切登場しなかった。ステージが見たい。『ぴあ』もなく、赤木屋プレイガイドだったけか? 誰にも内緒で始発列車で初めて買いに行く。中学2年のまじめな少女が始発列車に一人乗って、朝日が昇るのを車窓から見ながら行くわけですよ。もう感受性ガンガンね、今と違って(笑)。ところがオフコースは自分が想像してた以上に人気があり、売り場に着いた時は既にもう整理券とやらが配布し終わっており、チケットを手にすることはなく、そのまま来た道を帰って行った。こうして『We are』というツアーは見ることは叶わなかった。その悔しさより、入手できない程凄いんだ、という感動が勝った。それでも誰にも内緒。数年後、アルバム『over』が出た頃には発売されている全てのアルバムを集め終わり、当時の公式ファンクラブであるオフコースファミリーの会員となり、そのせいかどうかは忘れたけど、ツアー『over』のチケットを入手する。もちろん1枚ね。これが伝説の『1982.6.30』となることも知らずに。

私が観た、最初で最後の5人のオフコースのステージだった。高校3年だったか?定かじゃないし、調べるつもりもないので間違ってたらごめんなさい(笑)。ナマ小田を観る、観るったって武道館の1階だからちっちゃいんだけどね。真っ白な舞台に真っ白な5人が静かに燃える、という感じだった。今と違って小田さんは笑わない、笑顔の少しくらいはあったのかもしれないけど、全体として、唄うことが辛くて苦しくて堪らないという印象だった。ステージはもの凄い緊張感。バックの装置まで真っ白に染め上げ、そこへ例の『ひまわり』を映す。最後に天井から赤いバラがどさっと降る。当たり前と言えば当たり前だけど、あのステージは未だに別格。思い返すだけで胸が締めつけられるってやつですね。ステージ終了後、場内で観客が歌い出す『I Love You』、あの中で私も唄っていた。その後Yassさんがひっそりと脱退していった。そんなことは当時の私にはどうでもよかったと言ってもいい。オフコースの内部がどうなっており、小田和正がどんな人物であり、ということには大した興味もなかった。ただただその音楽が好きで好きでしょうがなかった。私にはオフコースはそういうものだった。

しばらく経って、4人のオフコースとしてステージに再登場した。その舞台のなんと拍子抜けしたことか。なんでなんだ? 当時は原因も分からずにただただ首を傾げるだけだった。私は本当に純粋なファンだったから。『The Best Year of My Life』というアルバムがどういう経緯で創られたか、知らずに聴く。なんだかチガウ。チガウけれどもそこは小田さんの力。けっきょく私はぐいぐいとまた新生(?)オフコースに引き込まれて行くのである。次のツアー『as close as possible』の頃にはダフ屋と交渉する術を覚え、それでも独り、誰にも言わずに大枚はたいて同じツアーに通うのである。あれは病気だったね。はたから見れば奇怪な行動だった。誰にも内緒、は正解だった、自分が狂っていくことが分かったから、最初から誰にも言わなかったのだろうか(笑)。それでも例えばメンバーにファンレターを書く、ゆかりの場所を訪ねる、といったことには一切興味がなく、オフコースの音楽そのものにしか興味がなかった。別に小田さんが嫌いなわけじゃもちろんないけどね。私は今も何の宗教も持たないけど、強いて言えば小田和正は私にとって紛う方なく『神』なんだろうね。神は人間じゃないから、プライバシーに興味も涌かないわけ。それから数年後、『STILL』というツアーでオフコースは終わる。

「解散します」という通知が届いた時の、まさに目の前がガラガラと崩れゆく思いを今も忘れない。私もファンクラブの1会員として、マスコミより早くその通知を受け取ったけど、誰も居ない実家の台所で、「ウソでしょう」と声に出して絵に描いたように壁伝いにスズルズルと腰を落としたのを思い出す。神、が居なくなる、想像してみてください。ツアー『STILL』ではそれまでに輪をかけて有り金はたき、ダフ屋と渡り合い、コンサートへ通うのである。当時は、5人のオフコースでなくても、続けてくれるのならなんでもいいと思った。今になって思えばまぁいろいろありますけど。そうして『STILL』の最終日がやってきた。もうヨノナカの終わりみたいな気になっちゃってるわけよ、多感なムスメとしては。重なるアンコールが終わり、灯りが点いても立ち上がる気力もないわけ。ホントに純だったね。今の私には何があろうとそんなことはあり得ない(笑)。放送が繰り返し流れ、観客が殆ど捌け、それでも私は独り立ち上がらない。最後に係員に直接、退場を促され、ようやく立ち上がった、その瞬間だった、かどうかは忘れたけど、どばーっと涙が突然流れ出した。そりゃもうすごい勢い。それまで泣いたことなんてなかったのに。自分でどうにも止められない涙、というのはあれが最初で最後のような気がする。武道館の場内のドアを出て、通路を歩き、戸外へ出る、門まで歩く、涙は止まらない、別にしゃくり上げてるわけでないし、外は暗いので、側にヒトが来ても私が泣いていることは分からなかった、はず。門をくぐって暗いお濠が見えた時、なんだかあそこに今すぐ飛び込んでもいいような気がした。もちろん具体的には何もしなかったけどね。下の方に黒い水が見えて、そう思った。けっきょく地下鉄の階段を下り、ホームに着くまでだらだら泣いていた。電車が入ってきた時、前方に、小田さんの投げたアレなんて言うの?タンバリンの枠しかないヤツ、あれを持ってる子が居たね。それだけなんだか妙に覚えてる。

こうして私の中でオフコースは幕を閉じた。と言うと、あ、アレなんだっけ、最後の東京ドーム、忘れちゃったよ、ヒドいな、それくらい私には意味を持たないステージだった。アレが最後でしょって言われるけど、あれはなくてもよかった。これはもう偏執的な見解なのでファンの方、ごめんなさいね(笑)。それから数年後、また転機(?)が訪れるわけです。4人のオフコースが解散してしばらく経ち小田さんは個人で活動を始める、公式ファンクラブも作り直される、それが今の『Far East Cafe』なんだけどね。そのファンクラブの会報が発行される前に、私は会社に営業の手紙を出した。当時はフリーでライターをやっていたのだけど、根本の目標は書きたいものを書く、ということなわけで、その時、長年どっぷりと浸かり続けてきたオフコースと、『書く』ことで関わりたいと強く思い立った。もうその時はオフコースは居なかったんだけどね。手紙を出したのを忘れた頃、平日の午前中にファーイーストの吉田さんから電話がかかってきた。広島の呉からかけてたとあとで聞いた。当時は携帯電話が1リットルの牛乳パックくらい大きく、まぁ大きさはこの際関係ないんだけど(笑)通信状態も良くなかったので非常に聞き取りにくく、狐につままれたような気がした。あれよあれという間に学研の『The Best Hit』という当時ゴロゴロあった音楽雑誌の一つに連載を始めることになった。

小田さんは映画を撮りながらアルバムを創り、かつツアーをやるのだという。その3つが全て連携(?)しており、私は映画のシナリオの出来上がるところからアルバムの発表、ツアーの最終日までをフィクションを織り交ぜながらエッセー風のレポートを書いた。『神』だったところの小田和正を初めて『地上』で見ることになる。もしオフコースがまだあったら、私はそんなふうに近づこうとはしなかったと思う。映画の撮影現場で見る小田さんはあのオフコースの舞台に居た気難しそうな神経質そうな小田さんではなかったけど、それでも最近のごく砕けたイメージとはかけ離れた、やはり近寄りがたい雰囲気の人だった。シングルで発売されることになった『あなたを見つめて』をテープの段階で吉田さんのウォークマンを借りて耳にする。このときだけ、私はただの小田和正の音楽を愛するただのファンに帰った。オフコースの時とは明らかに違い、ボーカルが前面に出た、柔らかい曲だった。映画が出来上がると編集と平行してアルバムの作成がクライマックスに入り、ツアーの準備も始まる。撮影現場に続いてツアーも何度となく訪れたが、あと2回だけただのファンに帰ったことがあった。ステージのリハーサルを取材したときと、ツアー初日『風と君を待つだけ』を生で聴いた時だった。

最も小田さん本人に接近したのは講談社の『Vi Vi』という雑誌で取材をしたときで、これは数ページを割いたインタビューだった。紙面では割愛されたいろいろな話をした。なぜ割愛されたかというと、その殆どが雑談で、音楽とはなんの関係も無かったからだ(笑)。小田さんはかなりなお喋りであることをこの時初めて知る。私のほうはもちろん、自分が昔からオフコースにどっぷりと浸かっていたことなど一切口にしない。このあとも何度か対面することになるが、全てが終わるまでけっきょく私はサインを貰う、握手をする、ファンですと言ってみる、といった行動を全くとらなかった、なんでか? プライド?そんなものはない、目の前に居るのは本人なのだから。中学2年から思い続けてきたわたしのオフコースに対する『何か』を壊したくなかった。なんとも屈折した心理(笑)。1度だけ小田さんがファンとしての私にほほえみかけてくれたことがある。武道館追加公演に自分でチケットを取り、つまり取材抜きで一般席からただのファンとしてステージを観る前に、編集者と落ち合って小田さんを訪れたとき、そのことが話題にされ、小田さんが私に笑いかけたのだ。何と言われたのか言葉は覚えていない。とにかく『神』は、ただのファンであるところの私にほほえんだ。これは取材中に漏らすほほえみとはちがう種類の、ホンモノのほほえみなのだ(笑)。なんだ、小田さんは優しい人じゃないか、と思ったのをよく覚えている。ずいぶん斜に構えたファンだった。こうして一連の連載は終わった。

映画はコケたがアルバムとツアーはすばらしいものだった。夏がまた巡ってきて、初めて横浜スタジアムで行われたステージを最後に、私は小田さんと仕事で関わることを終える。文字通り怒濤の1年だった。もうライターなどといういかがわしい職業を捨てていいと思い、事実、その後徐々に私は業界から遠ざかった。以降また遠くから小田さんを眺め、音楽を聴くことになる。こうして、中学2年からオフコースが解散するまでと、小田さんに直接関わった1年間という、二つの大きな波が終わる。同時に、オフコースにあんなにも傾倒した自分はすっかり過去になっていた。その後、30歳を過ぎてから、ニフティサーブで知り合ったオフコースファンの仲間と知り合うことになる。肩の荷が下りた、というのもヘンな話だが、15年を過ぎてようやく同じファンと時間を共有できるようになった。人前で、オフコースが好きです、と言えるようになった。オフコースというバンドが既に伝説になったのと、小田さんが現世代へも浸透してきたから、ということもあるだろう。やがて小田さんは急速に若い世代もファンに取り込み、音楽人として成功し続け、新しい道を切り開いていく。同時に急速に親しみやすい人として、ファンと交流をするようになる。ステージは喋りと笑いの占める割合が多くなり、花道(!)を走る。はっきり言おう、途中までは面白かった。あれだけ高い所に居たはずの小田さんが駆け下り、笑い、語る。これからも間違いなく、私は小田さんが唄うことを辞めるまで、アルバムを買い、ステージを見続ける。けど、年月を経るにつれ、20年前の、あの硬質で隅々までぴっしりと構成されたステージが、遠いものとして、懐かしくて懐かしくて仕方ないのだ。あの緊迫感、文字通り胸のふるえる思い、というのはもう、どこにも、ない。まあそれこそが、人間、歳をとる、ということなんだけどね。

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