大和言葉の数詞 (日本:その4)

先日「しろうと的考察」で形容詞か副詞か? (英語:その12)

”(なお東アジア=中国、韓国系は割と文法を理屈で考える傾向があるような気がしています。これもメチャメチャ主観的ですがこれまでの経験に基づく考察です)”

と書いたところ、博識の友人からメールが来ました。以下、青い色で書いてある部分はその友人のメールからの転載です。許可を頂いて掲載しています。

<1回目のメール>

標記の最新のコラムに英語の形容詞、副詞の微妙な問題がありましたが、その中に「東アジア=中国、韓国系は割と文法を理屈で考える傾向があるような気がしています」とありました。全く同感です。

日本語を学んでいる外国人の中で最も文法に拘り、理論的に先生を困らせるのは中国、韓国出身の生徒です。例えば、「ある」の否定形は「あらない」ではなく「ない」を使う(文語では「あらず」と言うが)と教えると、なぜ「あらない」ではいけないかと食い下がり、先生の無知を暴きにかかります。とにかく文法から入り、「普通はそうは言わない」は通用しません。先生はかなり理論武装し、うかつな発言をしない様に気を使います。要するに、その様に変化してきた由来や理由を説明しないと納得しません。日本人はこの様な知識に無関心で、変化の経緯を知りませんから議論で打ち負かされます。

一つ、問題を出します。あなたは日本語で1から100まで数えられますね。(最近、石原東京都知事がフランス語の優雅な20進法的な数え方を「数も数えられない言語は国際語として不適格」と発言し、仏語教師達の顰蹙を買っていますが)日本語では一個、二個と数えるが、ほかにひとつ、ふたつ、みっつとも言います。それではイチ、ニ、サン、シ・・ジュウ、ジュウイチ・・ニジュウ、サンジュウ・・ヒャクを大和言葉でひと、ふた、み・・と百まで数えてください。十一は?二十は?・・  
石原知事は知っているかどうか分りませんが、大和言葉に十一がない訳ではなく、日本人が忘れてしまっているだけですが、それを知らない日本語学校の先生は一気に信頼を失います。(回答は次回のメールにて)


うむむ。「ここに本がある」を否定形すれば「ここに本がない」になると思うので、「本があらない」、、、ではオカシイと思いますが理由は言えない。母語にしているとそんなもんですよね、感覚で使ってしまって。数字は年齢を言うはたち(二十歳)、みそじ(三十路)、よそじ(四十路)、etcがその名残が残っているのでは?と思いますが、百は不明ー。ちなみにこの方、外国人に日本語を教えるボランティアの資格を取得されたそうです。(やはり!それを通じてさらに日本語に対する強い興味と深い理解を持っていらっしゃるわけですね、と一人で納得)

さて、答えのメールが届きました(^^)

<2回目メール>

そうですね。日本語を教えると日本語について整理し直すことができます。その意味でも日本語研修を受けたかったのです。

〈回答〉
「ある」の活用で、あら(未然形)はあります。あらむ(推量の'む’)、あらず(否定の'ず’)等です。但し、「あらむ」は「あろう」に転化し、「あらず」は文語体には残っています。「あらない」は語呂が悪く、口語では形容詞の「ない」で足りるので、使われることがなかったと考えられます。

数詞については、結構ご存知で、感心しましたが、一応、おさらいの意味で、整理してみます。

1から10までは省略。
11(とおまりひと)、12(とおまりふた)・・・ (出典:枕の草紙・・だったと思います)
『十余り一』がつまった形。『とおあまりひと』が正しい表示でしょう。
このルールで111は『ももあまりとおあまりひと』だと思います。・・多分。

その他、今でも使われている例をあげて見ましょうか(貴女の回答ともダブリますが、)。

20(はた)   二十歳→はたち、二十日→はつか、
30(みそ)   三十路→みそじ、三十日→みそか(年の最後の三十日は大晦日(おおみそか))
         三十一文字→みそひともじ(五、七、五、七、七:和歌のこと)

その後は、よそ いそ むそ ななそ やそ ここのそ・・となる。

         西條八十→さいじょうやそ(詩人:「歌を忘れたカナリア」とか)
100(もも)  百田光治→ももたこうじ(あの力道山の本名)、百恵も・・

二百以降は(お)で、二百(ふたお )みお よお いお むお ななお やお ここのお ・・となる。
         八百屋→やおや
1000(ち)  千と千尋の・・(センとちひろ)
         百千の花 咲き乱れ (ももちのはな・・)

その後は、ふたち みち よち いち むち ななち やち ここのち・・です。

10000(よろず)  八百万の神々→やおよろずの・・

万(よろず)には「いっぱい」、「全部」という意味もありますから、大和言葉では上限ではないでしょうか。尤も、中国語はそこらへんは頑張るので、延々と続きますが、十、百、千、万、億、兆、京、垓・・・・最後は不可思議、無量大数でお終い。千無量大数の上の位はないのです。まあ、大宇宙にも「はて」がある様なので、数にも限りがあっても良いのかも知れません。


えー、そうなんですか。やおよろずのかみがみ(八百万の神々(ちゃんと一発で変換できますよ!))とは知っていましたが、(やお=八百)×(よろず=万)で八百万とは。そういえば八百屋(やおや)から考えれば「やお=八百」ってわかりそうなものだわ。

面白いのは外国にいるからこそこういうことが話しに上る、ということです。もちろん、日本に住んでいて日本語を教える仕事やボランティアをしていれば話は別ですが、どうも普段日常的に使うものに限って気に留めない傾向がありますね。母語ってあまりにも使うことが自然なので。たとえて言えば空気みたいなものですね。

そういえば、先日学校(ESL:英語)のテストで使った問題文(テストは返却後回収されるので手元に資料がないのですが)で、使用人口が1000万人未満(1億、ではなかったような。。。)の言語というのは滅び行く可能性が非常に高いそうです。一時期「日本も英語を国語にしよう」という議論が持ち上がったように記憶していますが、それって日本語を抹殺してもいいということなんでしょうか、それともそこまで真面目に考えずに言ってたってこと?言語が自然に変遷を遂げるのはやむをえないとしても、母語を捨てるなんて愚かな事だと思います。母国や母語、文化的な背景があってこそ、今の自分が成り立っているということを忘れては、国際人どころではないと思いますが。幸か不幸か日本人は英語が苦手な傾向があるので、日本人が皆英語ができるようになる前に、必要な人は日本語を習得してくれるような気も密かにしているのでした。海外での日本語習得熱というのは、日本で考える以上のものがあると思います。

(2005月8月20日記)

※上記はみん”の個人的経験に基づく素人的考察です。
間違い等はご指摘頂ければ修正します。


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