短信 

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 ・ 短信40 2002/11/17

 何だか「いまどきの若いやつは」みたいな短信が続きました。何もそんなことが云いたい訳じゃありません。こうして芸自体が自然に少しずつ、変わっていくのでしょう。それが当たり前の、そして物すごく大切な進化の一部分ではないかと思います。私もすでに現代の音楽の音楽家であり、江戸時代の感性とは違った表現をし、違ったテンポで演奏をしていると思っております。でも、いつでも、古くを知ることは必要であり、少しでも自分の知らなかった時代とその時代の臭いを感じ取ることは、我々現代に生きる音楽家の全てがするべきことだと思います。 
 お陰様で短信も40回も続きました。つまらないお話しで申し訳なく思っておりますがまだまだ続く様なので宜しくお願い致します。

 ・ 短信39 2002/11/10

 私の師匠の様な想いで舞台を勤めてこられてきた方々は、そう多く無いと思います。私はそんな師匠に教えを授けられた人間としての誇りと感謝の気持ちでいっぱいで有ると同時に、今の自分の不甲斐なさに心身共に疲れ果てております。燃える様な想いと身体のギャップ。私は三味線が弾きたい。少しでも弾ける様になりたい。

 ・ 短信38 2002/11/06

 芸は、いや芸に限らず何事も真似から始まる、といわれています。確かにその通りだと思います。見よう見真似から次第次第に奥へ奥へと進んでいきます。でもいつまでもそれではいけないと思います。自分の個性と感性と、そして理性を現実の音楽として創造しなければならないのです。これは新曲に限らず、古典と言われている曲に対しても同じだと思います。演奏家がそうして演奏をしていけば、聴いて下さる方々に、きっと何かを差し出すことが出来、また演奏家自身もお客さまから何かを頂けるのではないでしょうか。今は亡き弥三郎師は私と家内が開催した前橋での初めての会の時、舞台挨拶をして下さいました。『私共は、この舞台の上で演奏致します。私共は、私共の想いをもって。皆さん方はそれをお聴きになって、こんなイメージが浮かびました、と。そして調度この舞台と皆さんとの真ん中へんに綺麗な花を咲かせたい。そう想って一生懸命演奏して参りたいと思っております』まだまだ駆け出しだった私共には勿体無い様なご挨拶でした。今でもそのお言葉を決して忘れない様に演奏家として生きて行きたいと思っております。

 ・ 短信37 2002/11/03

 今は亡き西垣勇蔵師の内弟子をさせて頂いた頃、自分が直接お稽古を受けていないで、他の方のお稽古を聴かせて頂きながら身に着けたことの、どれほどいっぱいあることか。教えて頂いて初めて解ることと、教えて頂かなくても感覚で覚えてゆく,感性に刷り込ませてゆくことの大切さ。私の師匠、杵屋弥三郎師も同様でした。イメージを、その曲のその場所のイメージを、自分の中に描くこと、持つこと。それを教えて下さいました。お食事を頂きながらもありました。車の中でも色々お教え頂きました。両師に共通するお教えは何かといえば想像力、そしてイメージです。それと丁寧さです。私の様な者が断定的に申しては、それこそ申し訳ないことですがそれが私の実感です。最近の若い方々にお稽古をしていてつくづく思うのですが、一つ一つ口で言わないと理解して貰えないことの多さです。言われなかった事は、教わらなかった事。どこかが違う様な気がします。

 ・ 短信36 2002/10/30

 私達の言う仕事って言いますのは日本舞踊のバックミュージック、所謂踊りの地方「じかた」です。最初のうちはいつもはじっこで弾いていたのですが、何年か経つと段々真ん中に近づいていきます。後輩が出来てくるからです。私は、その後輩達に優しく接した方だと思います。私自身そうして頂いたからも有りますが、何より嫌みったらしく言われた時は反発心しか生まれなかった思いがあったからです。師匠から教えて頂いたこと、先輩に教わったこと等を,飲んだり食べたりしながら後輩達に伝える。そんな場も必要な気がします。でも今の時代はそんな様子ではないようです。仕事が終われば『お疲れさーん。』さっさと家路に着きます。自分が三味線なり唄なり稽古しているか演奏している以外は何にも芸にとって意味の無い事、そんな考え方を多くの若い芸に携わる人達はしている様に思います。
 昔から芸は盗め、そう言われてきました。さあ、何時盗む。何処で盗む。何している時に盗む。今時の若い人達に盗むことを薦められるのは芸だけです。.そこいらへんをこれからの若い人達にも考えて欲しいと思います。

 ・ 短信35 2002/10/26

 私の芸人生活の始まりは、先輩達に教わることばかりで始まりました。特別な生活ではありませんでした。私の初仕事は、大学の4年の時でした。娘道成寺と、鏡獅子を弾かせて頂きました。さんざん家でさらって、いざ舞台。それも念願の裃を付けての舞台でした。ところが、舞台の幕が上がっていざ弾きだしたら、全然弾けないんです。何、これ?て感じで。テンポがすごくゆっくりで、練習してきた曲とはまるで別の曲みたいに感じてしまいました。隣の人の左手が、上にいるかと思って、上に行くと、もう下の勘所を押さえていて、動きがバラバラで、お客様にも弾けてないのがバレバレでした。頭の中は真っ白で顔は真っ赤。先輩の唄の方から、「ねぇ、一の糸は弾かない方がいいよ」何故なら、一の糸の音は、低くて、目立つのです。そんな恥ずかしい思いをした初仕事でした。
 習うより慣れろと言いますが、天分のない私には大変なことの連続でしたが、皆に励まされながら「何、そんなことも知らないの」等と、先輩のきついお言葉も有りましたが仕事が終わると、先輩達がご馳走してくれました。いっぱいお酒も頂きました。そんな席で、昔の大先輩達の芸にまつわる、いろいろな事を教わりました。

 ・ 短信34 2002/10/20

 大きな美しいお庭を見ても、素晴らしいお座敷の床の間を眺めても、自分の記憶にないだけで、脳みその奥に、ああそうだった。いつか見たあの景色。あの座敷。あの床の間。私は頭が変なのかもしれない。でも確実に体験している。自分の中に、ふたつの血の流れを持つことは、努力して得られることではなく、とても恵まれたことだと感謝しております。一般市民の目線は必ず有るし、そしてまた、それとは違う目線。ところが私の意識は、人間みな同じ、平等なんだと云う主張で貫かれています。
私は、今を一生懸命生きてゆけば、きっと何かに当たり、きっとなにかを掴み、きっと何かを自分自身の中に得ることが、出来ると思っています。そうして無理せず、肩肘を張らず、尊大に成らず、そんな成長をしていけたらいいなと考えています。芸人の血を持たずに生まれた私にとっては、この世界は解らないことばかりでした。右も左も解らず、まごまごしていた私を、助けて下さったのは、今も東音会の先輩であり、私のかけがいのない友人である藤倉さんという方でした。この方との巡り合わせは、私の人生にとって、多大な影響を与えられた、とても有り難いことでした。

 ・ 短信33 2002/10/16

 何年かの住み込み生活の後また、家族が一緒に暮らせるようになるのですが一番上の兄だけは、新聞配達の住み込みをしながら、学校に通っていました。父は工場へ、母は家政婦を。前回書いた思い出は、この頃のことです。私は丁度小学校の4年の頃でした。母が家政婦として稼いできた370円を手に握って、米1升麦1キロをまず買い、余ったお金でおかずを買い毎日夕食を作る係りでした。苦しいともつまらないとも思わない毎日の生活でした。決して不満のある生活ではありませんでした。時がたって、私がこの芸の世界の仕事をするようになってから、この頃得た生活の知恵がとても役にたっているとつくづく思います。そしてまた不思議なことに、利左衛門、利助と繋がるブルジョアジーの血が嫌でも私の体の中の血液の中に、今なお流れていることを実感させられます。どんな所にお呼ばれされても、また、どんなに偉い方とお目に掛かっても、何の威圧感も、なんのおののきも、なんの卑少感も感じず、いつでも平常心でいられる自分に気付くのです。有り難いことだと思います

 ・ 短信32 2002/10/12

音楽会はおろか映画さえ中々観に行けなかった、私の子供時代。今でも忘れられない良い思い出が有ります。新聞配達の住み込みをして学校に通っていた一番上の兄から、私が調度小学校から帰った頃電話がありました。『渋谷まで出ておいでよ。映画みせてあげる』飛び上がらんばかりに心が弾みました。小銭を貯めていた財布の様なものを開けてみたら、電車賃が全然足りないんです。困った私はいつも買い物をするパン屋さんまで、走っていきました。そしてお金を貸して貰って、渋谷まで行きました.『酋長ジェロニモ』。今でも忘れることの出来ない、嬉しくて、有りがたい暖かい思い出の一つです
私の五代前の三野村の先祖は利左衛門といい、江戸から明治に変わる時の三井財閥の大番頭していました。大変に大きなお屋敷にすんでいたブルジョアジーでした。私を生んでくれた父は四代目にあたり身体の弱い人でした。.まともな仕事も付けずお金のない家でした。私はそれでも幸せでした。貧乏でも夜になると、家族みんなで紅茶を飲みながら、色々な話をしました。やがてそれも何時の日か出来なくなり、家族がはなればなれに暮らすようになっていきました。長男と次男の兄は一間の下宿に、私の直ぐ上の兄は親戚の家に、そして私だけが父母と住み込みとして朝日生命で働くことになりました。それぞれの兄弟が複雑な想いをもって、青春と云える時期を、時代を過ごしました。

 ・ 短信31 2002/10/09

 広島に行ってきてから、特に思うのですが、平和と云う状態の大切さと、婦人や子供達、非力な者達に襲いかかる戦争という状態の酷さ、残酷さです。私は元来平和主義を主張してきましたが、そんなものではない,甘い甘いと痛感しました。たった一つの爆弾で、一瞬にして14万人の方々を即死させ結局20万人余の人々の命を奪った原爆。広島平和記念資料館で目にしたことだけでも驚くべき残酷さ。更に私が考えさせられたことは生き残った方々の、悲しみと罪悪感。何故罪悪感。ほとんどの人々が死んでしまったのに、自分達だけが生きていることの罪悪感。その罪悪感から今もまだ逃れることの出来ない多くの人々の、苦しみと悲しみ。一日中、たとえどれほど原爆ドームの所で立っていようとも音楽的な何ものも、決して浮かばないでしょう。そんな生易しい問題ではない。
 「今の日本人は平和ぼけしている」等と言う人達が最近目だって来た様に感じています。広島に行って、それは間違った方向に向かう可能性の高い考え方だと思いました。日本は、日清戦争、日露戦争、満州事変、そして太平洋戦争えと突き進みました。帝国憲法のもと、天皇の軍隊が存在した時期、それは日本がこうして、戦争に明け暮れていた時代ではなかったでしようか。戦争に負けて、国民主権の新憲法になって曲りなりにも、軍隊を持たないと宣言してから、日本は何十年もの間戦争をしないできたと思います。そうであったからこそ、文化、文明、経済も発展してきたと思います。戦争中は、私の師匠も兵隊として召集されましたし、残った方々は戦意高揚の為の音楽を作らされました。戦後57年間、日本は戦争をせず、世界の人々を一人も殺すことなくきました。「それは外国に守られていたからだ」等と云う方々も、目立って来ました、私はそんな方々に一言。16世紀に君主論を書いたマキャべリの言葉を。『外国の軍隊とは、これを招きいれた側に、必ず災いを与える。何故なら外国援軍が負けるとあなたは滅びるし勝てば勝ったで、あなたは外国援軍のとりこになるからである』なんだか今の日本のことを言われている様に聞こえませんか。
 一音楽家の芸人の私が、こんなことまで考えさせられた広島行きでした。

 ・ 短信30 2002/10/05

 私にとって、とても珍しい久しぶりの旅でした。それも重い重い旅でした。ヒロシマ。世界に発信するヒロシマ。外国人の方々も、結構来ていました。あとは、中学生の集団。彼らも、何かを感じてお帰りになったことでしょう。
 私は、とても疲れました。大きなものを背負って帰ってきた様です。私が考え、構想していたものは完全に崩壊しました。でも、新たなトッカカリを確かに感じております。この感じは、モチーフまで少し浮かんでいます。ヒロシマには再度行くことでしょう。このテーマはいずれまた、書くことにします。

 ・ 短信29 2002/10/01

 10月1日、今私は、広島にいます。真っ青な空。真夏のような空。広島の空と、風を身体で感じ、広島の57年前を少しでも体感しようと思って来ました。
 今回に限らず、まだ何回も通わなければならないと思います。ヒロシマ・ナガサキをテーマに、新曲を作るにあたり、これだけは自分で納得のいくまで繰り返さなければならないと考えています。どんな作品になるか。何もまだ出来ていません。広島・長崎の人々が、お聴きになっても、全国の、いや、世界の人々がお聴きになっても、何かを感じて頂ける作品にしようと思います。老若男女を問わず…。
 広島の原爆ドーム。側にある大きな鎮魂の碑。胸に突き上げてくるものの熱さを、どうしても抑えることが出来ませんでした。このヒロシマを、二度と再び繰り返させない為に、世界の何処にもこの悲劇を繰り返させない為に、私は音楽家として頑張らなければならないと思いました。その確信を得るまで、私の右手が動こうが、動くまいが、そんなことは、何が有っても関係なく、私はそこまで頑張り続けようと思っています。それが、少しでも良心の有る作曲家としての、大きな使命だと思うからです。原爆許すまじ。三度許すまじ。世界中の何処でも。あまりにも、ひどい!
 私は芸人であると同時に、一人の人間でありたい。それもまともな思考力の有る人間でありたい。私の息子達も含めて、全世界の若者に、健全な人間に育って欲しい。そして、お国の為などと言って、他人を殺すような人間になって欲しくない。窓辺から見る広島の夜は、東京より確実に美しかった。

 ・ 短信28 2002/09/28

 三味線でなければ駄目だなんて思いません。しかし、三味線音楽でも必ず訴えられると思っています。日本中の、いや世界中の楽器が、広島、長崎を告発して欲しいし、風化させないで欲しいと思います。
 吉永小百合さんのバックを弾いていた村冶佳織さんのギターは、詩の朗読とつかづはなれずとても良い感じでした。心から拍手を送りたい思いです。私はあの方のような能力はありませんが、朗読ではない作品として、この1〜2年の内に、私なりの心を爆発させて作品に仕上げたいと思っています。作詞家の方にも既にお願いしております。
 何故と思われるテーマでも、何かを聴いたぞと思って帰って頂けるように、頑張り続けるのが私です。テーマにタブーはないと、いつか書きましたが、戦争と平和、経済的苦しみ、これ等は、人間的生活を維持していく最低限の問題であり、決して政治的、思想的なプロパガンダではありません。平和でなければ、音楽など軍歌以外は演奏出来ません。経済的に苦しければ、音楽会にさえ行くことが出来ません。

 ・ 短信27 2002/09/25

 三味線の音は、特に私のしている長唄三味線は、音の延びの少ない楽器です。撥音楽器といいます。ですから、それが特徴であると同時に、楽器の組み合わせによっては、貧相な楽器に聴こえてしまいます。これは、三味線という楽器のあらがうことの出来ない大きな特質であります。 そこのところをクリアすると、色々な表情・心情を表現してくれますし、それはそれは大した楽器になります。
先日、私の親しくして頂いている仲間から、「何故三味線を使って広島のことを作曲したいのですか?」と質問されました。私は、この問の後ろには、三味線は、盆踊りとか、昔の吉原のにぎやかな風情とか、そういう表現が主流で、広島のように暗い残酷なイメージを表現するには、非常に難しくないか、という意味が込められていると思います。私は自分の楽器の無限の可能性を信じています。日本で現実に起きていること、日本で現実に起きたこと、日本人の喜びはもちろん、苦しみも、悲しみも、三味線で表現したい。そうでなければ、私には何の表現手段もない。そう思うのです。

 ・ 短信26 2002/09/21

 何もタブーを設けず、毎日のニュースで目にすることも、自分自身で怒りを感じたことも、感動したことも、それが社会的な怒りであり、感動であるならば、私の新曲の一つの素材になりえます。
 私達音楽家は、あまりにも浮世離れした、現実をあまり見ない方が多いということは、以前短信でも書きました。こんな大不況の中で、数多くの方に来て頂く為の努力さえも、あまりされていません。特に、政治的なかかわりの有ることだと、なるべく避けて通る、そんな風潮さえ有ります。
私は思うのですが、より良い楽しい社会、豊かな社会を作るために、政治はあるのであって、人々の幸せの為にこそ政治は行われなければいけないと、思います。それは、私達音楽家のすることと、少しも違わない、かけ離れた事ではないと思います。
 演奏会を催すにも、貧困な公的支援。高い消費税。
 音楽家も、社会の色々な出来事、方向にたいしても、きちんとした見識を持つ必要が有るし、また、そおならなければ、これからの音楽家とは、言えないと思います。  

 ・ 短信25 2002/09/14

 私が作曲したいテーマは、いっぱいあります。ただ、その中から三味線という楽器が必要で、その音色を含めた色々な面が充分に生かされるテーマを選ばなければいけません。
 私が今までに作ってきた曲はそれぞれにテーマのある曲でした。それは私が訴えたかったテーマでありながら、聴いて下さった方々の頭の中に、それぞれのイメージを作り出して頂ける様に作曲してきました。
 正確に言えば、世の中にテーマの無い曲はありません。問題は演奏家が何処までその曲の中に入り込み、その曲の本質的テーマを如何につかんで、イメージして演奏するか。それが如何に表現されるかで決まります。私の新曲に関して言えば、テーマの存在はその曲の生命です。

 ・ 短信24 2002/09/11

 私が音楽家であり、芸人であるのは、それ以前に人間であるからです。その、人間としての自分が、如何に考え、如何に見つめ、如何に生きるか。そこが一番大切なことだと思っています。私が音楽を作曲し、又、この様に自分の想いを文章にして発表できるのも、とても幸せなことです。このホームページを訪れて下さっている皆様に、私は本当に心から感謝申し上げます。
 世の中便利になって、これからもっともっと便利になっていくでしょう。私は地球上の全ての人間がこの便利さを享受できたら最高だと思っています。しかし、世の中を見渡せば、たった一回の食事にさえ困っている、とても多くの人々が、子供がいます。生活の為に、十何時間も働かされている子供達もたくさんいます。ひどすぎる事の、とても多い世界だと思っています。涙をおさえる事の出来ないような世界、いや、涙もかれてしまうような、生きることの意味さえも疑問に感じてしまうような、こんな現実の世界。私は世界から逃げないで、真正面から向き合い、そして、自分が持つことの出来たわずかな能力とも言えない能力を活かして、演奏し、作曲して参りたいと思っています。

 ・ 短信23 2002/09/07

 第207回長唄東音会演奏会にて、私の作曲した『かわいそうなゾウ』、お陰様で無事に演奏することが出来ました。一龍斎貞花師の熱演のお力も多大に頂戴し、お客様に少しは何かを訴えることが出来たと思っております。本番の舞台、何が起きるか予想できない、未知にあふれた舞台。それを作り上げた後の、たった今の感情でこの短信を書いております。気持ち的には、テンションの高い、気の高ぶりを、抑えることの出来ない今…。多くの方々から、お褒めの言葉を賜りました。その中で特別な嬉しいお言葉。小学生でしょう。小林君から頂いた言葉。「かわいそうなゾウを作った先生なの? すごく良かった。かわいそうだったね!」 この言葉は、作曲者を泣かせて、喜ばせる、私にとって最高の有難い言葉でした。又、頑張ろう。もっともっと、子供達にもわかる、そして大人の曲を作り続けようと思いました。今日は、有難うございました。

 ・ 短信22 2002/09/04

 先日朝日新聞に、雅楽師、東儀秀樹さんの記事が載っていました。東儀さんは私より11歳お若い方ですが、素敵な方だと思いました。雅楽1250年の歴史を踏まえてこう仰っています。「東大寺の大仏の前に立って、存在感に圧倒された。古代に生きた人たちの色彩美、様式美、宇宙観、そして千年を越える時間を、僕自身の中で凝縮して、新しい形を作り、表現したい」 そして更に「雅楽は当時、最新の音楽で、聴く側はワクワク感でいっぱいだったはず。人間ひとりの時間はたかだか数十年、古典は何世代も、紡がれ、磨かれてきた。いま古典と言われている音楽と、1250年後には古典に加わることになる音楽を、心ゆくまで楽しんでほしい」
 私がやっている音楽の歴史は、この雅楽のように長い歴史は持っていません。でも東儀さんの仰るように私も思います。人類の歴史をもっと遥か彼方から見つめ返して、そして今を感じ、未来を見据える音楽家であり、人間でありたいと思います。

 ・ 短信21 2002/08/31

 私を含めて、個々の演奏家が、もっともっと努力し、勉強し、演奏することの意味を、真剣に考えなければいけないと思います。そうしないと、演奏することがマンネリ化して、決して良い舞台は創造できないでしょう。そして、客席との交流も出来ないでしょう。ホール全体が一体となって揺らぐような演奏会、そんな演奏会を創造したいと、いつも心から思っています。