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フランスは1981年に死刑を全面的に廃止しますが、その直接の契機となったのは死刑廃止を公約に掲げたミッテランによる政権の誕生です。 大統領に選ばれたミッテランはまず、かねてから死刑廃止活動の最前線で活躍していたバダンテール弁護士(後述)を法務大臣に任命します。さらに、公約であった死刑廃止法案を議会に提出、大統領就任から四ヶ月後に死刑廃止法案を含む一連の法案は議会で可決されました。 以下では、死刑存置の是非という問題が大統領選の争点になるに至った経過の概略を、世論に大きな影響を与えた2つの刑事裁判を中心に見ていきたいと思います。 1958年に成立した第四共和制下の憲法には、「死刑執行に対しては大統領のみが生死を決定する権限を有する」ことが定められました。つまり、大統領の恩赦という形で、死刑を無期に減刑することが可能になったのです。この影響もあり1950年代後半を境にフランスでは死刑判決の数も執行数も激減していきます。
そして、世論も60年代を通じて死刑の完全な廃止へとゆるやかにシフトしつつあったのです。 そのような時代状況の中、1971年に、強盗と殺人の罪でそれぞれ服役中の二人の囚人が、人質を取り刑務所に立てこもるという事件が起きました。更にこの二人(の内少なくとも一人)は人質二人を殺害していました。 この事件の影響は、上記の様に世論上、存置派が優位になったというだけで無く、死刑廃止派の姿勢に変化を迫るものでした。つまり、真に死刑の執行を停止するためには大統領の恩赦に頼るのではなく、刑法から死刑の文言を消去しなければならない、と。 そして、まさにこの点を争う形で77年の裁判が展開されます。事件の内容は未成年者を身代金目的で誘拐、殺害したというものですが、死刑相当のこの事案の弁護を担当したのが71年の裁判弁護を担当したバダンテール弁護士だったのです。 以後も、世論としては死刑存置派が多数を占めるという状況に変化はありませんでしたが、おもに国会議員の間で死刑制度廃止への流れが出来ていき、社会民主主義を掲げるミッテラン政権での死廃へと繋がっていくことになるのです。
日本において、死刑の是非についてアンケートを取ると存置派が賛成派を大きく上回る事は御存知の通りです。そしてこうした世論調査の結果が、政府が存置の立場を取る事の一つの根拠になっています。確かに民主主義の原則に従えば、こうした論理は最もかもしれません。しかし、フランスにおいても、死刑廃止が実現された1981年の時点において、死刑の廃止に反対する人が世論の約60パーセントを占めていました。つまり、いわば世論に逆行する形で死刑は廃止されたのであり、必ずしも世論の後押しがあって実現したわけではありません。また、廃止後も、世論において廃止に反対する人が賛成する人を上回る事は少なくないのです。こうした傾向は他のヨーロッパの国々も同様です。 死刑は被害者遺族の方々等の(部分的)感情的回復という機能を担ってきました。死刑を廃止するならばその機能代替的な措置が考えられなくてはならないと思います。この点に関して、ヨーロッパでは、宗教家が悔い改め(させ)た加害者と被害者のコミュニケーション機会をつくる等の活動をしているそうです。
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