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【弓立山男鹿岩】 -弓立山にまつわる伝説について-

都幾川村の弓立山伝説はすでに紹介したが、今回は都幾川村の桃木から弓立山を経て、梅の花咲く越生梅林へと向かう事にした。
JR明覚駅からほどない田中交差点から西平方面へ向かうと、左手の路傍に道標ともなる地蔵尊がまつられていて、その基部には「左 じこう山 ちちぶちか道 右 よりい道」と刻まれている。
旧道はここより桃木八幡神社(下段左)を経て慈光寺へと向かっていたのだ。本来ならばこの桃木から鎌倉古道を行き、水境から上谷、堂山と繋げば梅林まではわけはない。けれども、ちょっと弓立山を越えて大附集落を散策するのもけして悪くないと思う。
社伝によると桃木八幡神社は妙覚八ヶ村の総鎮守で、延暦24年(805)に創建され、建久4年(1193)に源頼朝が社領を寄進して祈願所としたという。この桃木八幡神社の裏手にはかつて御手洗池があり、その池で入水した布御前の祠が祀られている。そして、この布御前社から登山道が弓立山へと向かっているが、とっかかりはやや急な登坂となっている。
だが、民家の庭先から続く本来の道と合流すればいくぶん緩やかな道となる。弓立山は独立した山塊だが、桃木から見た山稜の突起を地元ではメジロ山と呼ぶそうだ。やがて足元が階段状になり、北東を望む場所に出ると、そこに男鹿岩(おがいわ)がある。
この岩は慈光七石の一つで、かつては都幾川の対岸に女鹿岩(めがいわ)を望むことができた。むかし男鹿岩には雄の大蛇が、女鹿岩には雌の大蛇が棲んでいたという。そして毎年7月7日の夕方になると、都幾川のほとりで出会い恋を結んでいた。ところがある年の夏、日照りが続いて女鹿岩の大蛇が姿を消してしまった。すると悲しんだ男鹿岩の大蛇は大粒の涙を流し、いずこともなく男鹿岩をさっていったという。
さて、男鹿岩から弓立山山頂(426m)はひと登りである。しかし、山頂には山頂標柱があるだけで、弓立山伝説を彷彿とさせる展望は無い。じつはこの山にも、その山名に纏わる伝説が残っている。
天慶8年(945)に武蔵国司・源經基が慈光寺の四囲境界を定めるため、龍神山で蟇目(ひきめ)の秘法をおこなった。經基が四方に放った矢は、北が小川町青山の“矢の口”、東が大字瀬戸の“矢崎”、南が越生の“矢崎山”、そして西が“矢所”に落ち、それ以降、この山は弓立山と呼ばれるようになったという。
ここから西に射はなされた矢は、“ズウズウ”と音を立てて地上すれすれに飛び、“振り矢”で向きをかえ、“曲り矢”で方向転換して“矢所”に落ちたという。その後、地面に突き刺さった矢は根が生えて篠やぶとなったとされている。(霊地・矢所は多武峯近くに今も現存する。)
じつは弓立山で弓を引いた源經基は平将門を追討をした人物で、大野の勝負平に残る将門伝説とも微妙にリンクしている。今では弓立山の結界はその殆どがゴルフ場になってはいるが、近頃は山頂の東南に見晴し台ができたおかげで、越生方面に矢が飛んでいったという矢碕山だけはよく見える。 |
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