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【都幾川村・椚平の経塚】 -四万部寺への経典搬送伝説について-

越生の上谷のオオクスの奥に六万部と呼ばれる場所があり、そこに次のような伝承が残っている。「師の遺命により秩父で開山を志した幻通が、京都から十二万部の経文を取り寄せた。だが経文を運んだ一行も山間地ともなるとしだいに重くなり、とても全部の経文を運べなくなってしまった。そこで途中の峠に六万部の経文を埋めて塚を建てた。一行はさらに都幾川に向い、椚平村に二万部を埋めて経塚とし、残り四万部を寺に運びこんだ。その後、経文を埋めて開山した寺の名を四万部寺といい、その経塚のある場所を四万部山と呼んだという。」
四万部寺は秩父観音霊場一番の札所である。越生は近世まで秩父への入口であったから、そのような伝承があっても不思議ではない。しかし、凡そ秩父街道と呼ばれる道は、飯盛峠からブナ峠へと繋ぎ、芦ヶ久保へと向っている。秩父一番観音霊場四万部寺へと向うには、観音道と呼ばれる道を通るほうが直線的だ。だが、この道も岩殿観音から慈光寺、そして秩父観音霊場といった道筋で、近世になってから整備された感があるのは否めない。
そこで今回はこの教典搬送伝説のルートを辿り、中世以前に溯る道を探ってみたいと思う。まず大附に残る水境の鎌倉古道から続く道は、上殿川を渡り上谷の六万部峠を目指す。この六万部峠は上殿川の支流を溯り、上谷の大楠を巻いて行けばよい。峠にはちょっとした切り通しが設えられていて、そこから僅かに登った所には六万部塚が建立されている。(下段左)この六万部塚は明治十七年(1884)に梅園村初代村長が建立したもので、碑文には「此山の西部に三個の塚を築き、其の経六万部を納め、松柏を植えて後世の為記念の供養を修せり」と刻まれている。
そこからさらに西へと向かうと僅かばかりで広見の馬頭観音の辻へと至る(下段中央・文化四年1807)。この道は慈光道として知られているが、その一方でかまくらみちとの伝承も残っている。
さて、経塚伝説による搬送ルートの次のポイントは椚平村の経塚になるのだが、この広見越からはどのようなルートを辿ったのだろうか。宮尾根林道が今よりもう少し直線的なルートだったとすれば、まず西河原に下りてから椚平に向かったと考えるのが妥当だろう。
現状では広見の馬頭尊から西河原への道は一部藪とはなっているものの、近世までは往来の多かったと思われる古道が残っている。そして西河原から椚平へと繋ぎ、椚平入口の大木戸からは"すずの坂"から大沢の経塚、さらに大平から四方辻(ブナ峠)に繋ぐ。あるいはもう少し直線的に考えて、らんとう場から大野竹の谷、高篠峠(別名三本杉)、定峰谷へ向ったとみてもよい。いずれにせよ、それは近世の観音道の原形となったものかも知れない。定峰の谷を抜ければ、秩父観音霊場四万部寺(下段右)はもう目前である。 |
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